坂本の石仏巡り

2004・8・7(土)撮影
2004・8・10(火)作成

 鵜川阿弥陀48体石仏のうち13体が坂本の慈眼堂にあると知ってこれはぜひ会いに行きたいと思いました。そして西教寺には戦国時代末期の25菩薩があることも分かりました。これはもう一度(以前「比叡山修験道」の時に行きました)坂本へと言うわけで行って来ました。  

(1)西教寺の石仏

重要文化財本堂
 西教寺は文明15年(1483)年真盛上人が入寺されてから堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。
もともと聖徳太子の創建で、良源・恵心僧都や恵鎮なども関係されたお寺だそうです。
 失礼な事ながら私は真盛上人を存じ上げておりませんでした。真盛豆という和菓子を作る和菓子屋さんがあるのですが関係あるのでしょうか。現在全国に四百あまりある末寺の頂点に立つ天台真盛宗の総本山です。真盛上人は紀貫之の一族で14歳で出家、19才から二十年間比叡山山中に籠り、日課六万辺の称名念仏を修められたそうです。
 元亀2年(1570)の織田信長の叡山焼き討ちの時は災禍を被ったそうですが、明智光秀、紀州徳川家の手で再興され、天正18年(1590)京都法勝寺を合併し円戒弘通の道場となっています。

(ア)二十五菩薩来迎像

阿弥陀三尊

本堂の右手に二十五菩薩が昔あった場所があります。この並びに明智光秀とその一族の墓があります。
本物の二十五菩薩は本堂の本坊側に並んでおられました。よく見ると不動明王と毘沙門天も参加しておられるようなのですが。

現二十五菩薩来迎像 明智光秀一族の墓(塔)
安土桃山時代に亡くなった愛娘のために造立供養した富田民部という方の子を想う心が今に伝わっていることがすごいと思います。不憫だったのでしょうね、富田さん。

(イ)天文の六地蔵菩薩立像

この六地蔵さんは墓地の入り口におられます。笏谷石でできています。この六地蔵さん裏面に「天文12(1550)年庚戍6月24日」の刻銘がありさらに一体ずつ刻文が書かれています。たとえば「金剛願 三界万霊平等利益」など6種類の願文が刻まれています。それによると生きているうちに仏事を先に行うもの(逆修)衆生の平穏を願うものなど様々で、多くの信者の願いで造立されたことが想像されます。この六地蔵の美術品としての価値はもちろん室町末の信仰のありようを表すものとして貴重な仏たちです。

(2)千体地蔵尊

 西教寺から少し南へ行き西に道をとると「山の辺の道」という日吉大社へ行く道になります。その途中に千体地蔵尊があります。この辺りは八講堂というものがあったそうで、比叡山の僧たちが論議を行った場所のようです。この石仏たちはその庶民が造ったものだろうということでした。近くの田畑から発見されたものをここに集めたとか。ひときわ大きい右の石仏は鎌倉時代の阿弥陀石仏で、101cmあります。

(3)生源寺の供養石仏

 このお寺で坂本について思い出したことがありました。それは、織田信長の「叡山焼き討ち」です。坂本の町もこの時灰燼に帰したということ思い出しました。生源寺にその供養のためのお地蔵さんが祀られていました。帰りに延暦寺駅からケーブルに乗っていたら坂本駅近くの供養のお地蔵さんが祀られている場所で織田信長の「焼き討ち」のことが解説されました。坂本側ではどうも織田信長の評判が悪そうです。今回行けなかったのですが、西教寺というお寺は明智光秀ゆかりのお寺だとかで明智光秀の評価は高そうです。京都の八瀬のケーブルでは確か織田信長に触れることはなかったなあと思いながら、滋賀県側と京都側では違うのだなと思いました。(この説明は「比叡山修験道」に元々書いたものを坂本の石仏をまとめるためにここへ移しました)

この看板の早勢は「総勢」の間違いではないかと思ったのですが…。

(4)子育て地蔵と野仏

このお地蔵様のいわれ読んでおもしろいなあと思いました。眞盛上人という方がこのお地蔵様だというのですからすごいことです。西教寺や最澄がこのお話しに関係していることが坂本らしいです。

この地蔵前にちょっと魅力的な顔をしたお地蔵さん群を見つけました。

(5)慈眼堂

天海は何と行っても天台宗にとって比叡山延暦寺を再興した大恩人です。この慈眼堂と滋賀院門跡そして日吉東照宮がエリアとしてかたまってありました。坂本の中でこのエリアは天海と徳川家の力を誇示していると感じる場所でした。

(ア)慈眼堂阿弥陀13体阿弥陀石仏

「鵜川48体阿弥陀石仏」のうち13体は確かにこのお寺にありました。鵜川のように13体かためてあるのではなく横一列一体ずつ離して置かれていました。その前には桓武天皇・天海など天台座主の供養塔がありました。下の説明読むと天海自らここへ運ばせたようです。

(6)滋賀院門跡

(1)滋賀院門跡と石垣

 坂本は石垣(穴太衆積みというそうです)の美しい町です。日吉神社から滋賀院門跡へ続く道は落ち着いた美しい石垣道が続きます。ちょうど桜も咲いていて美しい景色です。滋賀院門跡へは入りませんでした。どういうところなのかよく分かりませんが立派な勅使門があり、小堀遠州ゆかりの庭があるという案内がありました。
 滋賀院門跡のすぐ南に天台宗務庁がありました。これは現代的な建物で立派です。(この説明も「比叡山修験道」に元々書いたものを坂本の石仏をまとめるためにここへ移しました)
 滋賀院門跡は元和元年(1615)天海が後陽成天皇から京都御所の高閣をもらって移築させ、後水尾天皇天皇から滋賀院の号を賜ったお寺だそうです。明治になってから火事で焼けて現在の建築は延暦寺のものを移築し再建したものだそうです。
 昔延暦寺の僧は一生を山で過ごしたそうですが、江戸時代初めごろから高齢になると天台座主に願い出て里に住むように変わったそうです。そのお寺を「里坊」というそうで、坂本に多いときは90ヶ寺あったそうで現在は50ヶ寺だそうです。
 

(2)円山応挙の「遊ぶ仔犬」

 滋賀院門跡は丁寧な解説をしていただけるお寺です。私一人しか参観者がいなかったのですが、お一人の方が説明について下さいました。デジカメを持っていたら「どうぞ自由に写真を撮ってください」とおっしゃてくださいました。何人も説明される方がおられるようです。
 私は犬がこわいので、あまりかわいいと思ったことがありません。でもこの屏風に描かれた犬は確かに可愛いと思いました。江戸時代にもこんな可愛い犬がいたのですね。保存状態があまりよくなかった屏風を丁寧に表装しなおしたものでした。

(3)小堀遠州の庭

小堀遠州は伏見奉行をした人であり作庭家として有名な方ですが西教寺にも「伝小堀遠州作の庭」がありました。坂本にも縁があったのでしょう。

(4)天海の鎧

こういうものが残っているのが天海らしいと思います。

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