臼杵の石仏
満月寺…いい名前です。このお寺は国宝臼杵石仏前の大きな広場の向こう側に(方角が分からない)見えるお寺です。「臼杵石仏」へは、1997年ですから7年前に行ったことがあります。そのとき、その広場になっているところを工事しておられました。私は向こうに満月寺があることは、全く気がついていませんでした。
今回なぜ気がついたかと申しますと、古園石仏の案内テープを聞いていたら、満月寺のことを案内しておられたからです。これはおもしろそうだと思い立ち寄ってきました。満月寺を訪ねる方は少ないのではないでしょうか。
下の写真、右の二人は真名野長者とその妻玉津姫です。左は蓮城法師です。この三人が臼杵石仏の造立に関係がある伝説上の人物と言うことになります。
石像そのものは室町時代のもののようです。
三重町内山観音・蓮城寺に伝わる話
真名野長者は、子どものころに父母を亡くし孤児になったところを豊後の国三重郷の炭焼又五郎に拾われ養われます。又五郎死後、跡を継いで炭焼又五郎を名乗ります。 そのころ都に玉津姫という、顔にアザのある縁遠い娘がおりました。三輪大神に願いをかけると、「豊後の国三重の炭焼又五郎と夫婦になれば長者になろう」というお告げをします。 姫は密かに都を離れ三重を訪ね又五郎に会います。玉津姫の話に、自分一人でも暮らしかねている又五郎は躊躇します。そこで姫は黄金を渡して米を買って来るように言います。しばらくして又五郎は手ぶらで帰ってきて、「池のかもを捕るために黄金を投げたが逃げられた」と言います。姫が黄金の価値を語ると、「あんな石なら炭焼きがまのまわりにいっぱいある」とのこと。二人で見に行くと本当にその通り。また、姫は近くの黄金のわき出る「金亀ケ淵」で顔を洗うとアザがとれます。二人は結婚して、黄金を集め長者となり、真名野長者と呼ばれます。 この二人に娘般若姫が生まれます。この娘美人に育ちその名声は都や中国にまで伝わります。欽明天皇は姫を皇子(後の用明天皇)の妃にと願います。使いを使わしますが、長者は一人娘だというので断ります。皇子は姫恋しさのため豊後へ忍び来て、長者の屋敷に住み込み、牛飼いの仕事を任されます。この仕事を見事にこなし、長者に認められ、身分を明かした皇子は姫との結婚を許されます。 やがて姫は身ごもります。皇子は都へ呼び返されます。皇子は生まれる子が男ならいっしょに都へ連れてくるように、女なら長者の跡継ぎにせよと言い、一足先に都へ帰ります。生まれたのは女の子で玉絵姫と名付けられます。般若姫は一人都へ上りますが、途中周防(山口県)の沖で船が難破して多数家来が亡くなります。それを悲しみ自分も海に身を投げ亡くなります。 娘の死を悲しんだ真名野長者は、娘の供養のために黄金を中国天台山に寄進し、お返しに蓮城法師がやってきて、臼杵の深田に満月寺をい建て、石仏群を彫りました。 |
平安時代後期(12世紀)の作だろうと言う臼杵石仏と6世紀中期の欽明天皇や用明天皇では時代がずれすぎています。歴史としての事実としては、問題にならないところもあるようですが、なかなかおもしろい話だと思いました。
この仁王さんなかなかおもしろいのです。膝から下が土に埋もれています。摩滅して…というような生やさしい状態の風化ではなくて、鼻などはほとんど欠けている状態です。病気回復のため削られたというのですから分からないものです。でもそれが味になるのですから分からないものです。基壇附近の発掘調査で鎌倉末から室町初期のものと判断されています。国指定特別史跡。
重要文化財です。凝灰岩製。周囲の発掘調査のとき出てきた土器瓦などから、鎌倉末期(14世紀)につくられたことが明らかになっています。
臼杵市指定有形文化財。正和4年(1315)銘のある五重塔です。日秀という坊さんが造ったことが印されています。
大分臼杵磨崖仏 | ||||
ホキ石仏群 (ホキ第二群石仏) |
堂ケ迫石仏群 (ホキ第一群石仏) |
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