伏見の椿2

伏見唐津(植物園にて)
伏見の椿第2弾!
今日は鳥羽街道沿いと伊達街道沿いの椿です。

2004・3・13

(1)城南宮の椿
(中島鳥羽離宮町7)

 昨年末に行った時の椿は「京都のツバキ」にあります。その時はわずか3種類しか咲いていなかったのですが、今日はたくさん見頃の椿がありました。「枝垂梅と椿 春の山まつり」が2月18日〜3月18日まで開催されています。
 城南宮へはこの散り落ちたツバキの写真が撮れたらいいなと思って出かけました。苔が美しくてヤブツバキがたくさんあるところとなりますと限られます。こういう写真が難しいことがよく分かりました。かなり遠いところに散り落ちたツバキはあってうまく撮れなくてこの程度でした。城南宮のヤブツバキは城南椿という名前が付けられていてかなりの数でした。この神苑拝観料は400円なのですが、木の前に名前の書いてある木札がつけられています。椿の名前がよく分かります。
では、今日城南宮で美しく咲いていた椿たちです。
紅孔雀 天ヶ下 初嵐
加茂本阿弥 日光

(2)恋塚寺の椿
(下鳥羽城ノ越町)

 丹波橋通りと鳥羽街道(大坂街道・千本通り)が交わるところ(国道1号を少し西)を北へ行きますと、恋塚寺はあります。恋塚寺という名前のお寺は二つあります。一つはこの下鳥羽の恋塚寺。もう一つは上鳥羽にある浄禅寺。上鳥羽の浄禅寺は「京都六地蔵巡り」で紹介している鳥羽地蔵が祀られているお寺です。
 両方のお寺共に次のような伝承を持っています。
 時は平安時代末期。北面の武士遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、袈裟御前の母衣川を脅して思いを遂げようと画策します。袈裟御前は母親への孝養と夫への貞節の板挟みになります。そこで、盛遠に夫を殺して欲しいと頼みます。盛遠は夜陰に乗じて忍び込み寝ている渡の首をかきます。しかしその首は袈裟御前のものでした。袈裟御前は夫に代わって首をはねられたのです。盛遠は自分の行いの罪深さを知り、仏門に入り「文覚上人」となります。その文覚上人開基と伝わるのがこのお寺です。すぐ近くに「赤池」という地名があります。この地名は盛遠が首を洗った時に池が赤く染まったからその地名になったとのことです。
  しかし盛遠と袈裟御前のこの話は実際にあったことではないようです。
 この恋塚寺に何種類も椿が咲いています。特に入り口の門近くに咲く椿が綺麗でした。

恋塚寺にあった袈裟御前の墓や説明の石碑を紹介します。

恋塚寺門 袈裟御前宝篋印塔(室町時代のもの)
 恋塚寺の茅葺きの門前にあった恋塚寺の碑を見ていて思ったのですが、このお寺は江戸時代(元禄時代)には「こいおかでら」と呼ばれていたのではないでしょうか。多分そうだと思います。
(と、私はこれを書いた当時思ったのですが、2012・3・2下のようなメールが届きました。これを読んで下さった方からいただいたものです。)
 戀塚寺の石碑の側面のかな書きは、「こひ都可てら」と書かれているのではないでしょうか。
 「都」または「徒」のくずし字は「御」のくずしとよく似てはいますが、「つ」とするほうが、石碑側面の読みとしてふさわしいと思うのですが。 
 「御」だと思いこんでいたのですが、「都」のくずし字とは…。思ってもいませんでした。この指摘の方のご意見の方が自然だと思います。でも記念に当初のまま記しておきます。
@正面 A左右横面 B裏面「元禄」銘
@正面には「戀塚寺」の漢字が彫られています。恋の旧字は調べてみる価値のあるおもしろそうな字ですね。
A左右の横面にその読み方があります。「こひ御可てら」とあります。読み方は「こいおかてら」でしょう。この「おか」はおそらく「墳墓」の意だと思います。つまり袈裟御前の墳墓のある寺ということなのでしょう。
A元禄十二年卯年7月廿五日と施主小笹忠次郎とあります。
*戀…この字「心」と「れん」(ひかれる・からむ)とを合わせて、ふたりの心が引き合って絡む、つまり「こい」をあらわすそうです。「れん」は糸と糸が言葉でつながっています。つまり「恋」というのは、言葉で二人の糸が絡んで心動くということでしょうか。恋には言葉がやはり大きな役割を果たしているということを表している字ですね。
 椿より他のことの紹介が多くなりました。「盛遠と袈裟御前」のことはいつか「伏見ぶらぶら」の中にと思ってたのですが、今わかることをこういう形でまとめておきます。この話はいつ頃からあるの?とか、文覚上人という人物は?とか、一体渡辺渡はその後どうしたの?とかもっと知りたいと思っています。

(3)月の桂増田家椿垣

『京椿』(京都書院・1991・水野克比古)の解説の中で日本ツバキ協会顧問の渡邊武さんが書かれたものでこの一節がすごく気になって見に行くことにしました。
「伏見旧鳥羽街道の下鳥羽の酒造家、増田家玄関前の椿垣が水野さんの目に止まった。これは京椿の再認識を提唱して、今日のブームの原動力となった先代増田徳兵衛氏が、桃山の椿園の名木の種子を播いて、門前を飾られたのがこんなに成育したものである」、
増田酒造は「月の桂」という濁り酒を造っておられる伏見の酒造会社の中でもユニークな会社です。恋塚寺の前の道を(つまり鳥羽街道を)丹波橋通りを越えて南へ少し行きますとあります。

この椿垣の椿紹介です。

ここから私の住んでいる桃山へ戻ることにします。

(4)清涼院の椿
(桃山五郎太町)

「伏見の椿」に下のように書きました。
(森林総合研究所の椿のあとに)この上板橋通りをさらに東へ行きますと清涼院という尼寺があります。ここはヤブツバキで垣根が作られています。私が小学生だったころ(40年以上前)このヤブツバキは見事なものでした。藤城小学校が開校され北堀公園が整備されてから清涼院も駐車場が作られ見事な椿の垣根の花数が少なくなったようです。清涼院は「伏見の道しるべ」でも紹介しています。
やっぱり気になるので行くことにしました。
竹藪に「ヤブツバキ」が咲いていました。大きな木です。竹ととても似合います。
清涼院の庭や垣根(全部椿ですが、花はあまり咲いてません)など椿の木がたくさんあります。
スギゴケと椿もよく似合ってます。小学生の時にここで椿の落ちているのの中から美しいのをたくさん拾って家へ持って帰ったら母親が、「椿はゲンが悪い」と言いました。「なんで?」と尋ねますと「首からポトンと落ちるやろ」とのこと。「きれいな花やのに」と思ったことを覚えています。
清涼院の中に前から良いなあと思っている石仏があります。たぶん釈迦如来かな、大日如来だと思います。その石仏の後ろにも椿がありました。
私のお気に入りの石仏は、この一体です。

(5)海寶寺の椿
(桃山町最上正宗)

このお寺は伊達街道沿いにあります。伊達街道は、京都教育大学の南門を西に行ったところから始まり、桓武天皇柏原陵を通り桃山高校の東側へと通じています。伊達そして正宗とくれば、仙台城主あの独眼流政宗のことと関係がありそうだと想像がつきます。この海寶寺のあるところは伊達政宗の屋敷があったところのようです。
海寶寺には政宗ゆかりの「木斛(もっこく)」があります。
またこのお寺には伊藤若冲の「群鶏図」の襖絵があったそうですが、現在は京都国立博物館にあるそうです。黄檗宗のお寺で、大丸百貨店の初代下村彦右衛門とのつながりもあるようです。
普茶料理を食べることが出来るお寺としても有名です。
山門 本堂 伊達政宗ゆかりの木斛(もっこく)
この伊達街道は狭い通りなのですが、とりわけこの海寶寺の前が一番狭く車が離合しにくいのです。最近このお寺のすぐ横にあった「大丸百貨店女子寮」が取り壊され、住宅に代わりました。
ここは昭和30年代ぐらいまであった「伏見七福神巡り」のお寺でもありました。「布袋さん」だったと思います。
椿はそのころからありました。垣根がずっと椿で囲まれています。今日あらためて椿を見たのですが、五色散椿の古い木がありました。清涼院同様前はもっとたくさん椿が咲いていたように記憶しています。
五色散椿 垣根の椿 山門入ってすぐ左の椿の木
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