2007・2008年かばのしっぽ日記

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレってと、思う今日この頃であります。
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12月18日(木)
「ことば遊びアラカルト」
 小学館が私に「ことば遊びの本を書きませんか」と声をかけてくれたのは、今年の5月頃だったと思う。6月に京都で編集担当の方とお会いして本のイメージを話し合って、7月中に執筆して11月に出版という計画が立った。しかし私の原稿は最終的に9月末になった。
 ゲラ刷りが12月初めに送られてきた。送ってきたゲラ刷りを見ながら、上手に作るなあと感心した。売るための工夫が随所にされていて感心した。
 担当の編集者の方とはここ2年ほど前からのお付き合いである。「教育技術」という雑誌に書かないかという依頼からお付き合いが始まったのであるが、毎回私の送る原稿が編集でいきいきするのが分かる。これは「ことば遊び」の原稿だということもあるのだろうけど。
 私は楽しんで書いた。それを生かしつつ、カットと編集でさらにパワーアップして本にしてもらった。教育関係者でなくても読んでも、見ても、楽しい内容になっていると思う。
 そして小学館という大手出版社のブランド力のおかげで、800円という値段で売ってもらえるのもありがたいことである。
 ぜひ一度手にとって読んでいただきたいと思う。 
12月6日(土)
ガソリン110円!
 一月前に1g140円だと書いているから、この一ヶ月で30円下がったことになる。すぐに忘れてしまうが、最高に高かった時は180円ぐらいではなかっただろうか。原油価格が下がったからとか、円高で下がったからとか色々理由があるようだが、この1年間で値段が倍ぐらいの高騰があり、下落があった。一体どのくらいまで下がるのだろうと毎日ガソリンスタンドの前を通っている。相変わらずセルフとそうでない店との価格差は15円程度と、これは変わらない。
 原油価格が高騰しているからそれにともなって値上げしたはずの商品が値下がりしているようには思えない。
 食料品を中心に今年値が上がったが、これは下がると思えない。
 上がったり下がったりは、内閣支持率もそうであった。
 2008年は上下動の激しい年として記憶に残ることだろう。
11月27日(木)
京都紅葉
真っ盛りのようだ
 JRの「そうだ、京都行こう!」キャンペーンは毎年感心する。京都に住んでいる私でも行きたくなる。今年のポスターも実に良い。新幹線の中で見つけたのだが、思わず近づいて見入ってしまった。大原三千院だった。私も紅葉の時期に行ったことがあるが、あれほどでもない時期だったようであまり心動かなかった。
 最高の時期のポスターを見てしまったため、ぜひとも写真撮りたいと23日大原へ出かけた。昼過ぎにスクーターで自宅を出た。伏見街道を走ったのだが、大失敗。この時期東福寺のある伏見街道は歩行者天国なみの混雑ぶりである。普段の倍以上時間がかかって川端通りへ。清水寺へむかう五条通は混雑しているし四条三条はいつもの通り人がいっぱい。八瀬大原貴船鞍馬へ向かう叡山鉄道と京阪電車の中継駅「出町柳」は外の道路に人の列が長々と続いている。
 これは、えらいことになりそうだなと思ったのだが、引き返すのもどうかと思い走り続けた。叡山鉄道「一乗寺」駅や「修学院」駅は曼殊院や赤山禅院、修学院離宮、円光寺、詩仙堂などへ行く人の使う駅なのだが、白川通りを相当数の人が歩いている。ますますえらいことになってきたと思った。
 白川通りを花園橋から右折して大原へ向かう。八瀬の手前あたりからすでに渋滞している。大原まではまだ相当ある。私はまだ車の脇をすり抜けて走れるが、車は停まった状態である。それでもやっと三千院の近くまで辿り着いた。しかしバイクを置く場所がない。駐車場は満杯状態である。そうだ、古知谷から先に行こう!と大原小学校の方へ曲がった。これも大失敗。大原小学校を越えた辺りで、車が動かなくなっていた。もともと狭い道で、車二台が離合できるような道ではないところへ、滋賀県から来る車と京都から抜けようとする車で抜き差しならないのだ。 私は、早々に諦めて、Uターンした。その点スクーターはいくらビッグだと言っても楽だ。数回の切り返しで引き返すことができた。
 もう大原から抜け出すことにした。植物園ならまだ間に合いそうだったのでそちらにむかった。往復3時間の無駄足だった。
 この二日ほど通勤の帰りに五条通や七条通を通るのだが、堀川や烏丸あたりから動かない状態が続いている。私は植物園が紅葉しているのは見てきたが他は知らない。京都へ来られる方は相当覚悟をして来られた方がよさそうである。 
11月9日(日)
文楽鑑賞
 昨日大阪の国立文楽劇場へ人形浄瑠璃11月公演を見に行ってきました。
 文楽と人形浄瑠璃が同じものであることも知らなかったのですが、国立文楽劇場へ足を運ぶのもこれで6回目になります。これも大阪の大先輩のおかげです。
 今回見せていただいたのは、「靫猿」「恋娘昔喜八丈」「本朝二十四孝」と五世豊松清十郎襲名口上でした。
 靫猿は狂言の演目として聞いたことがありましたが文楽でも見せてもらいました。「靫(うつぼ)」というのは腰に着ける円筒形の矢を入れる入れ物のことだそうです。大名が猿回しの使っている猿が立派なことに目をつけて、その毛皮を靫に使いたいから、猿を四年ほど借り受けたいと無茶なことを言いだす話です。
 「恋娘昔黄八丈」では「黄八丈」という着物がどういうものか分かりました。鈴が森の刑場が出てくる話で、江戸が舞台のお話でした。江戸が舞台というのが多いのかどうか私はわからないのですが、私は初めてなので珍しいと思いました。実際にあった夫殺しの話を孝行娘の悲恋にして最後は大団円で締めくくるという「安心してみていられる」筋立てになっています。
 「本朝二十四孝」は武田勝頼上杉謙信という歴史上の人物を出すことで主人公の立場をまず固めた後に、八重垣姫の勝頼への恋慕が話の中心になって展開します。そして諏訪神社の狐の化身となる振りが見せ所となって大喝采で終わるという趣向でした。時代物と呼ばれるものの典型になる話だと思います。
 こういうことがおおよそ筋立てとしてあるということが分からないと、時に筋立てに無理を感じます。歴史物かなと思っていると、嘘ばっかりだと思ったりします。登場人物の言うセリフが「そんなやつおらんやろ!」と突っ込みたくなるような屁理屈に聞こえることもあります。要するに現代を生きる私たちにはリアリティに欠けていると感じることがあるのです。これは封建時代の道徳だからなのかなと私は思ったのですが、どうもそれだけではないように思います。話を盛り上げるための誇張が効き過ぎているという側面もあると思いました。作者のサービス精神が旺盛なのでしょう。
 しかしながら歌舞伎もそうですが、この人形浄瑠璃も贅沢な芸です。人形遣い、大夫(浄瑠璃の語り手)、三味線の三者が合わないことには成立しない芸です。あの方の語りがいいなあとか、あの方の三味線の音色が奥深いとか、あの人形遣いの方の姿勢が美しいとか何回か見ていると思うようになります。ありがたいことにいつ行っても自分の贔屓の方がたいてい出演しておられます。つまりオールスター総出演なのです。こういう芸能も珍しいと思います。それだけ大勢の方がおられないことには成り立たないのです。これにかかわる方々は運命共同体なのです。
 豊松清十郎襲名口上には、竹本住大夫(大夫)鶴澤寛治(三味線)吉田簑助(人形)というそれぞれの分野の人間国宝が並ばれたものでした。襲名口上の本物を見るのは落語以外では初めてです。歌舞伎はTVで見たことがあります。落語ではかなりくだけて笑いも誘う口上になりますが、文楽の口上は日本の様式美そのものでした。まず、舞台に居並ぶ方々の薄紫の裃姿の彩りからして華やかで見事でした。幕が開くと「うわあ、きれいやなあ」と思いました。そのあとの「本朝二十四孝」の八重垣姫を豊松清十郎が遣い、左を桐竹勘十郎が勤めるという豪華さでお祝いを演出していました。
 オールスター総出演で思い出しましたが、昔の東映の年末映画は片岡知恵蔵、市川歌右右衛門、中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介、大河内伝次郎などみんな出ている「忠臣蔵」でした。今はそういうことをプロデュースしても流行らないのでしょう。年末にみんなで力を合わせてするのは歌舞伎の京都南座顔見世と紅白歌合戦だけになったということですね。力をあわさなくても仕事がある世界の芸能分野の人はそれぞれを主張する余裕があるということかもしれません。    
11月4日(火)
たたなづく青垣
 「やまとは国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」
 これはヤマトタケルノミコト(倭健命・日本武尊)の辞世の句だそうである。大和の国は日本の中心で、幾重にも重なる山々は青い垣のようであり自然の要塞でもある。大和の国は誠に美しく麗しい心安まる場所である。私もあの美しい大和へ戻りたい…というような思いで歌われたものかと察する。
 わたしは、この大和が山々の連なりの中にあり、それが青垣のようだという形容の意味が分からなかった。私の知っている大和=奈良市は盆地で若草山から見た景色は青垣でも何でもなかったのでこの和歌を習った高校時代、そういう場所があるのかなぐらいに思っていた。しかしその時に考えたらよかったのだが、ヤマトタケル、景行天皇の時代に大和が奈良市のはずがない。、ヤマトタケルのいう大和はもっと南の天理桜井橿原明日香葛城、あるいは大和高原辺りのことかもしれない。
 先日曽爾高原へススキを見に出かけて、峠からはるか彼方を眺めたら、たたなづく青垣が見えた。曽爾高原は二回目なのだが前回は裾野で引き返して俯瞰したり遠望したりしなかった。今回は山の尾根づたいに登ったら確かに「たたなづく 青垣」を見ることができた。それがHPの写真である。確かに青垣が見えると思う。それも幾重にも色が変化して見える。確かに「やまとし うるわし」だなあと感心しながら眺めた。
10月30日(木)
ガソリンの値段
 齢を重ねると初めてのことはなかなか足が進まない。
 しばらく前からセルフサービスのガソリンスタンドが増えているが避けてきた。どうしたらいいのかと戸惑っている自分がいやなのである。ガソリン入れ損なってこぼして困っている図とか、お金の精算の仕方が分からず困っている図とか、後ろの車が苛ついて怒っている図とかが浮かんでくる。わずか数円のことならいいかと思ってきた。
 このところガソリンの値が急速に下がってきた。円高の影響なのだろう。私が入れているガソリンスタンドはセルフではなく、先週末154円で、すぐ近くのスタンドは157円であった。しかし行き帰りに見るセルフの店は142円という表示である。
 1gで15円も差が出ると、40gだと600円!になる。これは考えものだと思った。数円の違いなら我慢できたがこれだけ違うとセルフへ客は乗り換えるのではないだろうか。
 私も乗り換えることにした。
 セルフのスタンドでは親切に店員さんが教えてくれた。仕組みとして、プリぺードカード(1,2,3万円三種類)を買うとそれぞれのカードによってさらに2,3,4円ずつさらに値引きされる仕組みになっている。私は1万円のカードを買ったのだが、1g140円になった。ガソリンを入れる方法もそれほど難しいものでもなくご迷惑をかけることもなかった。
 これから人件費削減のためにますますセルフの店が増えることであろう。時代の流れの中でセルフでない店はどんな生き残り策を講じるのかなと思った。ガソリンスタンドの店員さんは職を失うことになるがこれも相当数になるのだろうなと思った。
8月9日(土)
ネコの寝床
 私のバイクは、家のガレージに入れてある。このガレージ少し地下室風で狭い。しかし、野外に比べたら雨風は十分防げるし、野良ネコにとっては快適なことだろう。
 ある朝のこと、私が乗ろうとバイクに近づくと、ネコがバイクから飛び降りて逃げていった。私はびっくりして、もう少しで低い天井で頭を打つところだった。
 何気なくバイクのシートを見ると、ネコの毛だらけである。あれ、ネコのヤツ、オレのバイクを寝床代わりにしてたのかと、毛をはらって、まあ仕方ないという気分で乗りかけた。
 すると、何と私のバイクのシートにヨダレの跡がついているではないか。バイクのシートはザラザラしているからひょっとしたら、舌をそのザラザラで研いでいるのかも知れない。いや、あの野良ネコは、よだれくりのネコなのかも知れない。汚いやっちゃなあと腹が立ってきた。
 それから、私はバイクにカバーを掛けるようになった。
 しかし、たまに忘れることがある。その時は、必ずネコの毛とヨダレの跡である。ある時は、魚の骨もいっしょにくっついていて、怒りは頂点に達した。どうしてやろうかと思ったが、どうしようもない。仕方なく、バイクのシートを洗っている。カバーをかけ忘れさえしなかったらイヤな気分にはならないのだからとあきらめている。
 私は犬もネコも飼ったことがない。
8月8日(金)
歯痛
 昨晩、左上下奥歯の痛みで寝られなかった。こんなことは初めてであった。あまり痛いので夜中おきだして冷やしたら、少しましになって寝ることができた。
 そう言えば1〜2週間前から左側の下の奥歯が冷たい水に滲みだした。神経が過敏になっているのかなぐらいに考えていたら、この痛さに発展してびっくりした。
 明日から旅行に出るので、これはお医者さんへ行かなければと慌てて行ってきた。
 レントゲン写真の結果、虫歯などにはなっていないと言うことであった。まず一安心。
 それでは、なぜ痛みが出たのかというと、加齢に伴って歯周病が進行し、歯茎が痩せてくるのだそうである。これは自覚がある。そのために、歯がぐらぐらしたり、滲みると言うことが起こるのだそうだ。歯茎が復活することはないそうだ。これを治療する方法は、二つ。一つは薬を塗布しそう言う症状を改善する歯磨き粉を使って様子を見ることらしい。もう一つは、歯に穴を開けて、神経を殺すと言う方法らしい。結局私は最初の方法をとることになった。神経を殺すと、歯が弱くなって歯の寿命が早く来るらしい。
 歯の健康は大切だと私も思っている。これからは食後の歯磨きを今まで以上にがんばることと、定期的な歯医者さんでの手入れを怠らないようにということになる。
8月2日(土)
ことば遊び
 ある出版社の方が「ことば遊び」を紹介する本を出さないかと言ってくださった。その方が私にその話をされたのは、このHPを見られたのがきっかけである。7月中に原稿を書き上げるという約束になっていて、11月には出版するということになっている。正直に言うとまだ5〜6割しか書けていない。
 私がことば遊びを自分のHPにのせておもしろがって更新していたのは、もう5年ほど前のことになる。それ以降、子どもの詩や作文、ことば遊び、国語教育などについては、ほとんど更新することがなくなった。いくつかの理由があるのだが、それよりもHPでとりあげて更新したいおもしろいことがあったからというのが最大の理由だろう。
 仕事のことでまとめたいことはたくさんあるのだが、「ことば遊び」のことや「子どもの詩や作文」についてはぜひともまとめて、このHPで紹介していきたいと思っている。まず手始めに夏休みに「ことば遊び」に手をつけてみようかと思っている。
 
5月26日(月)
円空さんを訪ねる旅
 円空さんを訪ねる旅も14になった。連休中に関市へ行ったのだが、それがなかなかまとめられなかった。まず、写真が撮れないので、絵を描く必要がある。調べられる範囲の下調べをする必要がある。それでやっとページを作り始めるのだが、時間がかかった。
 別に人に頼まれたわけでもなく、どうしてもしなければならないことでもない。特に人が期待しているというものでもない。まして世の中のためとか学問・研究が進むわけでもない。したくてやってることなのだから気楽なものなのだが。
 自分が円空さんを見たいと思った時に、その案内をしてくれる本やHPが少ないことに気づいたことがこのページを作るきっかけになったのだが、役に立つかな。
 他にも行きたいところはあるのだが、時間がないのでしばらく休憩する。とかなんとか言いながら、またどこかへ出かけているかも知れない。
3月23日(日)
閉塞感
 卒業式が21日(金)に行われた。「日の丸・君が代」が強制されるようになって以来卒業式は創意工夫のない儀式に戻った。「特徴ある学校」と言いながら強力な教育委員会の指導のために画一的な形式に戻った。戻ったというのは、明治時代に作られた卒業式のやり方に戻ったという意味である。
 「卒業式の主人公は子どもたちだ」というところから卒業式のあり方を考えるようになったのは、私の場合25年前に遡る。私のいた学校へフロア形式の卒業式を経験した方が転勤してこられた。その方が演壇を体育館の舞台からフロアへおろし、舞台には主人公である子どもを上げようという提案をしたのである。舞台にひな壇を作り卒業生の顔が見えるようにしたのである。このやり方に対して異論はなかった。みな積極的に賛成した。卒業式で歌う歌も自分たちが大切にしてきたことが表現できる歌にしようと選曲からみんなで知恵を出し合った。卒業式で子どもたちが言う「お別れの言葉」についても子どもたちの中から「お別れのことばを考える実行委員会」を組織して意見を集約するようにした。卒業式に対して意見のあるものは「儀式的行事部」という校務分掌に入って「あるべき卒業式の姿」について話し合った。
 卒業証書を手作り和紙で作ったこともあった。六年生の教師集団で話し合って今年の学年テーマを決めて、卒業式では胸をはって堂々と主張できる内容にしようと話し合った。つまり卒業式を単なるセレモニーとせず実質を伴った「最後の学びの場」「学びを確かめ羽ばたく場」ととらえようと考えたのである。
 「子どもを卒業式の主人公に」というのは、実はとても深い意味を持っていた。ことは卒業式当日のやり方にのみあるのではなく、そういうことを普段の学校生活の中で子どもたちこそが実感できるようなものにしようという私たちの意識改革でもあったのだ。当時学校は低学力問題、詰め込み教育、校内暴力などが問題になっており、学級崩壊もその兆しを見せていた。寂しさを抱えて学校へ来る子どもたちをどのように主人公にするのか、そう言う中から「卒業式のあり方」を考えていた。
 今、卒業式のあるべき姿を話し合う余地がない。「公務員としての立場の自覚」「信頼を損なう行為がないよう求める」という教育委員会の出す通達が、年々「日の丸・君が代」に対する態度の強制を強めるものになっていることを私たちは気づいている。それはあの法律が成立してからよけいに露骨になった。憲法に保証されている思想信条のや良心の自由は問題にもならない。人権侵害や自由のない国の問題は、決して外国の問題ではなく、私たち日本の問題だと思うのだが。
3月3日(月)
掲示板故障?
 掲示板に書き込みができません。理由は不明です。
 しかたないのでここに書きます。
 ちりあきちんさま
 わたしのHPは今年で6年目を迎えるのですが「京都落語地図」を作りたくて始めたようなものなのですがどなたもこのページへの感想を書かれたことがありませんでした。
 わたしのおもしろがっていることは理解してもらえないのだとあきらめておりました。
 米朝さんの『天狗裁き』は絶品ですね。
 鞍馬山は「青菜」「天狗さし」にも出てきますね。
 またお越し下さい。
2月9日(土)
大雪
 今日は年末から行けていないテニスへ行くつもりだった。昨年末から肘が痛かったのだが、正月に腰が痛くなりテニスなんてとんでもない状態になった。
 そのうちに土日に原稿を書いていたり、講演したり、文楽を楽しみに行ったり、野外学習が近づいてきて、「腰痛」を再発してはいけないと自粛したりしているうちに今日になってしまった。
 これだけ空くと、ちょっと気合いを入れないとテニスクラブの敷居が高くなる。それで昨晩から「ようし」と決めていた。で、朝起きてテニスのウエアを着て準備完了したら、何と大雪ではないか!?
 明日はどうなんだろう。まだ雪が積もっていて、たぶんテニスは無理だろう。でもこの雪はチャンスだ。明日は早く起きて、雪景色を撮りに行こう!さて、どこへ行こうかな。
2月8日(金)
自主研究発表会

 今日は勤務校の研究発表会であった。自主研究発表というのは名ばかりで、半強制的なものである。私はこの種の自校での公開授業を前任校からずっと引き受けてきている。授業を公開することは嫌いではない。授業を組み立てることは楽しいと思う。自分でも良いアイデアが思い浮かんだ時は快感である。昨日の授業もいくつか通勤途上で思い浮かんだアイデアや板書計画を立てていて「これ!」と思ったこともあって楽しめた。だからこの仕事を続けている。
 しかし、このあとの自主参加の一杯飲みは遠慮した。申し訳ないが、みんなで作り上げた研究発表であったという実感には程遠く、やりたい、やってよかった研究とはどう考えても思えないからだった。家でほっこりするほうがいいと思った。自主ということをこういう形でしか表せないことは不幸なことだが仕方がない。
 こういう発表をして、だれに利益があるのだろう。少なくともうちのクラスの子どもと私は準備に時間のかかった授業ができた。校長は「やった」という実績が認められるだろう。自主研究発表会と言う名前は素晴らしいが実質は違う。何を研究するのかについては、一方的な学校長の提案であり、ここしばらくの私たちを巡る状況から考えて意見を言っても徒労に終わることは目に見えていて、誰も何も言わないのである。研究主任がこの辺りの事情を十分承知していれば適当にやるのだが、どういうわけか大張り切りの人(動機は色々でしょうが)が教育委員会の研修会などで聞いてきた通り運営しようとしようものなら悲惨としか言えないものになる。子どもを自習させて授業を見に行くことや、授業までに何回もの会議が連続し多忙に拍車がかかる。
 京都市内各校を校長中心に「自主的に発表するやる気のある学校」に変えたと教育委員会は親向けに教育改革を誇らしげに言う。しかしそうだろうか?私の実感から言うと若い頃に本当にみんなで相談して自主的に研究領域を決めてやったことや、お互いに得意な領域を教え会って切磋琢磨したことの方が今に生きているし、楽しかった。学校作りという意識もその頃の方が高かった。今は…寂しいかぎりだ。
2月2日(土)
北野の天満さんへ
 姪が出産するというので、1月30日に誕生祝いの御守りを求めて北野の天神さんへ出かけた。その姪というのは、私の姉の長女である。姉は元気でエネルギッシュな人であったが、七年前に「がん」で他界している。姪が生まれた当時私はまだ大学生で、両家共に初孫で「赤ちゃん」誕生を大喜びしたものである。その姪が出産するというのだから、私も年をとったのだ。
 亡くなった私の姉は色々な場所へこの姪たちを連れて行ったようで、北野の天神さんの書き初め展だとか新聞社主催のものだとかに出かけ出品した話を思い出した。
 「そうだ!天神さんの御守りをもらってこよう」と思いついた。梅も咲いているかも知れないし…。結論から言うと、誕生祝いの御守りはなかった。安産祈願はあるが誕生祝いはなかった。今受験シーズンなので、早朝ではあったが、チラホラ受験生の団体がいた。そりゃ天神さんは学問の神様だから、そっちの方が専門で、、誕生祝いの御守りがないのかも知れない。
 「あの、誕生祝いの御守りはありませんか?」
と巫女さんに尋ねた。
「どのようなお願いですか?」
と、おっしゃったのだが、ぶっきらぼうで表情一つ変えないでおっしゃるものだから、ムッとした。(子どもが生まれて「どのような願い」ってそんなもん特殊なもんはないやろ)と心では思ったが
「そうですね。賢い、健康な子になってほしいということでしょうか。」
と申し上げたら、
「特別誕生祝いの御守りはありません。そういう願いなら普通の御守りと干支の御守りでしょうね」とのこと。それで、二ついただいてきた。
 ところで梅だが、もう咲き始めている。ロウバイの方も咲いているがもう盛りを越えたようだ。
 満開の梅も良いが、咲きかけの梅もまた良い。早朝の梅はまた格別である。前日の雨を受けほころびかけた蕾に雫が見えるのも良かった。雲の切れ間から日がこぼれて明るくなったり暗くなったりの中で楽しく写真も撮ってきた。
1月25日(木)
あと何年?
 最近続けてあったことである。久しぶりにあった二人の人から
「小宮山先生、あと何年ですか?」
と、尋ねられた。退職まで後何年かという質問である。続けて聞かれたものだから、
(ああそうか、退職が近いことを私の顔が表現しているのだな)
と自分の顔をしみじみと見てみることになった。
 去年までは聞かれたことがなかった。つい最近同窓会をしてくれた教え子が
「先生、ちっとも変わりませんね」
と言ってくれてたのを真に受けて気をよくしていたのだが…。
 私も今年の4月であと2年の教師生活となった。退職してからの自分の生活をどうするのか真剣に考えなければいけないなと最近思っている。もっと早い時から考えている人の方が多いのだろうに。私は呑気というか思慮が浅いというか全く考えてこなかった。
 私の年代のものは年金を65才からしか受け取れないそうだ。しかもその額も不確定で食べていけるのかどうかあやしいとか。ううん、困った困ったこまどり姉妹である。退職後、そして老後を生き生きと生きるためには何が必要なのか、第二の人生をどうするか、大きな問題である。
 こういうことに詳しい人に聞くことも大切だろう。
 何より、私自身が何がしたいのかをはっきりさせなくてはいけないだろうなあとボンヤリ考えている。 
1月20日(日)
秀次と秀吉
 木屋町三条南西角に瑞泉寺というお寺がある。ここは豊臣秀次の墓地のある寺である。前を何十回と通っているが中へ入ったことがなかった。
 それにつけても秀次という人は気の毒な人だ。近江八幡は秀次の城下町だったようで、その八幡堀は今も使われていて名君といわれているようだ。秀吉の姉の子であるという理由で二十歳前に大名になり、聚楽第の主になったものの秀頼が誕生するや、秀吉から疎んじられ、家臣団内の権力闘争に巻きこまれ、自腹を切らされたのである。本人はもとより、妻妾子ども一族全員三条河原で斬殺されたのである。叔父があまりにも巨大な権力を握ったためにその意を受けて栄華を極めそして必要なくなったら殺されたのであるから何とも哀れである。秀吉は惨いことをしたものだ。
 しかしながら、秀次は30そこそこで殺されたのだが、妻妾30名余は多すぎる。聚楽第の中にそんな大勢の妻妾を住まわせていたことが驚きだ。一族郎党三十数名が三条河原で大穴の中に放り込まれ、そこが殺生塚(摂政塚)と名付けられたという。秀次には猟奇殺人の罪状があったとか色好みであったとかの噂があるそうだが、どこまで本当のことなのか分からない。まあ、色好みはおじさん譲りで確かなことだったのだろう。
 もし秀次を斬殺していなかったら、少し歴史は違う展開をしたことであったろう。
1月4日(金)
腰痛
 いつのまにやら正月三が日が終わってしまい今日は学校へ。1月9日に予定されている野外学習保護者説明会のためのプリント作り。そして京都市北区の支部文集「北の子」の校正作業。そして年末にした会計(預り金や積立金…これがやっかいである)の訂正、とすることはいっぱいあって、本当は研究授業のための資料作りをしようと思っていたのにできないまま、帰ってきた。
 昨日妻の実家へ帰ってうだうだしゃべりながら食事をしていたら、腰をひねったみたいで自宅へ帰ってきたら腰痛が始まった。
 今朝起きたら少しましになったようなので学校へ行ったのだが、椅子に座って仕事をして立とうとすると、激しい痛みに襲われて、そうろそうろと伝い歩きしなければならなかった。これは、かなりヤバイ。明日奈良教育大学で講演をしなければいけない。腰痛のため行けませんというわけにはいかない。これはどうでも医者へ行かなければいけない。腰痛の時にいつもお世話になる整形外科へ電話したがどうもお休みのようだ。仕方がない、一番可能性のあるのは一番近くの総合病院である。
 幸い診てもらうことができた。一発注射を打ってもらったら何とか歪まずに歩けるぐらいまで回復すると思った。しかしそんな簡単にはいかなかった。
 まず問診があって、次にレントゲンを6枚撮ってもらった。それを持ってもう一度外科の先生の診察があった。若い頃から今まで「第五腰椎すべり症」と色々な医者に言われてきた。しかし今回の見立ては、第五腰椎はそれほどすべっていないというものであった。第三腰椎と第四腰椎の間の椎間板がすり減っており脊椎が湾曲しているというのである。私も自分のレントゲンを見ていたのだが、そう言われればそうかなと思った。もっと詳しく調べるためにはCTスキャンで神経の具合まで調べたほうがよいと言うことであった。「そこまでする必要はないが…」と言うことで、今日のところは、薬と湿布薬を出すということになった。持っているなら「コルセット」をするように言われた。一週間もすれば楽になるであろうということであった。何より安静が一番の良薬と言うことであった。
 大変冷静にお医者さんが診て下さったことがこれを書いていて分かってきたが、明日のことを考えて焦っている私にしたら、一発逆転の注射してほしかったと思ったのである。腰痛の注射は一発で効いた経験を何回か持っている私はそれを期待してしまうのだ。あの注射は何度もできないのだとも聞いた。ブロック注射だとか痲酔だとか聞いたように思うがはっきりとは分からない。
 明日まっすぐ歩けるようになっていますように。
伏見桃山城へ
行ってみませんか
 現在の伏見城キャッスルランドのある場所は「御花畠山荘」のあった場所だと言われています。その名にふさわしいような花の名所にしたらいいのになあと私は前から思っています。四季折々の花々が咲き競うような大庭園にしたらきっと名所になると思います。
 まず、桃山の名にふさわしいように桃の木をたくさん植える。秀吉の桜好きに合わせて桜並木を回廊のように植える。堀跡を復活してそこに花菖蒲や蓮を咲かせる。藤森に因んで数百メートルの藤棚を作る。伏見は椿の名所でもあるとのことですから椿を復活させる。そして紅葉の時期に合わせて紅葉を植える。
 その他ボタンなども咲かせたら、きっときれいでしょうね。北堀公園と運動公園そして桃山城全体をお花畑にするということ、どれくらいの予算でできるのかわかりませんが、伏見城跡を植物公園にというこの提案、京都市は真剣に考えてくれないかな。森林研究所と協力してできないのかなと、これまた素人の考えです。
11月3日(土)
狩野永徳展
ついでに
京都国立博物館
 国立京都博物館で狩野永徳展が行われている。
 キャッチフレーズがおもしろい。「信長さま秀吉さまご推奨!!」というのだ。博物館もなかなかやるなと思う。狩野派は、江戸時代も綿々と絵師の家の伝統を継いだ権力者御用達の家系だが、永徳は若くしてその才を認められた人物。ちょうど信長秀吉の時代に安土城・大阪城・聚楽第などに絵を描いたのだそうだ。今となってはそれらの作品は見られない。
 残された絵から永徳の画業を推し量るしかないのだが、わずかでもすごいものだと思った。
 洛中洛外図がやはりおもしろい。織田信長から上杉謙信に贈られたものだそうだ。
 このところ、京都博物館開催の特別展はいずれも大当たりで、時間待ちが当たり前になっている。いつものとおり、川端七条東北角のたばこ屋さんで前売り券を買って行ってきた。私は、10月20日(土)正午に行ったのだが、開催すぐだったためか思っていたほど混んでいなかった。でも3時過ぎには入場制限が行われていた。平常展会場で特別展のビデオが二カ所で上映されていた。これらもなかなか力作で、特別展会場だけで帰られるのはもったいないとおもう。
 ついでにだけれども、国立京都博物館は色々楽しめる。平常展も国宝重文のオンパレードである。仏像彫刻・仏画・陶磁器・書・古墳出土品・考古学の遺物などなど、見飽きない。
 庭も楽しめる。ロダンの「考える人」は有名だが、石仏他石造美術の優品がいくつもある。
 私は特に東庭園をおすすめしたい。東庭園は、韓国朝鮮の墓が再現されている。大阪のある方のコレクションが寄贈されたと言うことであるが、とにかくすごい!石人像が、お墓にあったものを戦時中に持って帰ってきたものだということは、聞いたことがあったが、韓国のお墓の全容を初めて京都博物館で知った。
9月3日(月)
耳鼻咽喉科
 みなさんは風邪を引かれたら何科へ行かれますか?
 私今まで内科へ行ってました。
 しかしながら、前回鼻の奥がいたくなりのどがくっつくほど痛んだ際に耳鼻咽喉科へ行って、その見事な治療ぶりに感心しました。その時鼻の奥が出血していたのですが、見事に治していただきました。
 内科へ行っても、問診されて聴診器で調べて、抗生物質と胃を守る薬をもらい、うがい薬とトローチもらって帰るだけでした。それで治るかと申しますと必ずしも治らないのです。何日も鼻と喉が痛いまま我慢しました。
 金曜日、何となく熱っぽくて鼻の奥と喉が痛いという風邪の症状を自覚しましたので、迷わず耳鼻咽喉科へ行きました。
 ありがたいことに、空いていました。すぐに診てもらえました。椅子に座るなり、お医者さんは、私にティシュを持たせました。???です。何に使うのかな?と思いました。
 続いて、私の申告する症状を聞かれて、さっそく鼻を大きく開けて、のぞき込み「ああ!」とおっしゃいました。「そんなに悪いの?」と思いました「鼻炎です」とおっしゃいました。そして次に、何か吸い取る物で吸い取られました。きっと鼻からゴミや鼻水などを吸い取られたのだと想像しました。そしてその次に左右の鼻の穴の奥深くガーゼを突っ込んだり、脱脂綿のついた棒みたいな物を突っ込んだり、また吸い込んだりを繰り返されました。その痛いの何の!!!私はやっと最初に渡されたティシュの使い道が分かりました。涙を拭くためだったのです。
 その荒療治(?普通の治療なのでしょうけど)が終わって、今度は喉でした。これはえづくことなく無事終わりました。ああよかったともう一度涙を拭きました。
 それで終わりかと思ったらまだあって、鼻と喉の吸入をしました。何れも初めての経験でむせながら、たくさんよだれや薬がこぼれて終了いたしました。(汚い話で恐縮です)
 それでお薬(抗生物質と胃薬)トローチとうがい薬それに鼻用の噴霧器型のお薬2種類もらって帰りました。これがよく効いたようで、金曜日ねる前にはほぼよくなっていました。何といっても病院でのあの痛い思いが効果を発揮したようです。
 私は子どもの時からの鼻炎で、治ったことがないのではないかと思います。私の行く耳鼻咽喉科のお医者さんは帰りに私の病状にあったプリントを下さいます。「副鼻腔炎」のプリントでした。鼻炎と副鼻腔炎を起こしているようです。
 今度行った時に、私がにおいをあまり感じない原因をしっかり聞いてこようと思っています。いただいた薬は最後まで使い切って炎症を抑えようと思っています。
 風邪の方は昨日日曜日まで引きずったのですが、今日学校へ行ったら治ってしまいました。ありがたいことです。
8月15日(水)
6年目
 HP『ぼちぼちいこか』も6年目に入りました。5年間で103500のカウント数になりました。
 今年は信州へ旅してきました。今楽しんで守屋貞治の石仏や万治の石仏や修那羅安宮神社神像仏像をまとめています。
 それにしても暑い毎日です。上高地や乗鞍の涼しさが羨ましいことです。そして温泉が羨ましい。今年入ってきた温泉のことも書いてみようと思います。
 お盆の休みの間本を読んだり資料をまとめたりしながら後数日を楽しく過ごそうと思っています。みなさまも楽しいお盆休みをお過ごし下さい。
8月5日(日)
フッ化物洗口
 「洗口」…口を洗う、要するにブクブクうがいをすることぐらいの意味である。
 「フッ化物洗口」…意識してこの言葉の意味を考えたのは十年前ぐらい前になる。私のいた学校が文部省(現文部科学省)の研究指定「歯と口の健康づくり」を受けたためである。私は研究主任であったので、どのようにしたものかとずいぶん迷ったことを思い出す。
 「なんで研究が『歯と口の健康作り』になるのか、もっとそれよりしたい研究がある」という疑問批判は当然のことであった。「歯と口の健康作り」のために各学年の発達段階に即した教育課程とプラン作りにそれほどの異論はなかった。また、それにそって授業を進め公開することも抵抗はなかった。
 一番の問題は日常の指導として「ブラッシング」と「フッ化物洗口」に取り組むかどうかであった。ブラッシングは給食後に行うことになった。今は食事後にブラッシングすることはそれほど抵抗はなくなっている。しかし当時は昼食後にまでブラッシングする神経質さを異常に思った。物を口に入れるたびに歯をみがくということは合理的かもしれないが、ひ弱な生活習慣を教えているようでいやだった。
 それより問題だったのは「フッ化物洗口」の方であった。私は研究主任だったのでその年の5月に指定を受けた学校の代表が集められる文部省主催の研修会に参加した。その時講演した人は、さかんに「フッ化物洗口」を勧めた。そして口汚く「フッ化物洗口」に疑問の意見を表明する人と団体を批判した。おそらくそれが文部省の考えなのだろうと言うことが察せられた。
 私は自分のいる学校で「フッ化物洗口」をすすめるかどうかを考えた。そして反対の人たちの意見を調べてみようと思った。反対派の人たちの意見はいくつかの理由があった。 
@斑状歯の心配
A骨肉腫の心配
Bガンに対する心配
Cダウン症との因果関係に対する不安
などであった。
 私は今もこの事に対して判断をするだけの材料も教養もない。
 しかし、「フッ化物洗口」がそれほど有効なら、どうしてそれ用の薬がだれでも使えるような状態で一般的に製薬会社から発売されないのかということが疑問であった。どうも歯科医師会も製薬会社も文部省も賛成のようである。なぜ学校で実験的に「フッ化物洗口」をしなければならないのか、私たちは人体実験的なこの「フッ化物洗口」はしないことにした。
 それから十年経った。相変わらず反対論者の反対は強いようだ。
 京都市は今年からすべての学校で、この「フッ化物洗口」を実施することにした。私の学校もこの秋から実施する旨のプリントが出された。「フッ化物洗口」説明会も開催された。歯科医師会発行のパンフも配布された。当然「フッ化物洗口」の効果が宣伝してある物であった。その後親に受けさせるかどうかをサインして提出させた。
 しかしである。なぜそのような手続きをするのかの説明がないのは、私は不十分だと思う。「フッ化物洗口」に対しては根強い反対意見があることを言わないのは、卑怯だと思う。
 私の学校の説明会では、学校歯科医さんが説明された。強力に「フッ化物洗口」推進を主張されなかった。「たぶん安全だろう」程度の消極的賛成だと私には聞こえた。その説明会に参加された保護者はわずか2人であった。
 私は、次のように質問し意見を述べた。
「先生、『フッ化物洗口』は本当に安全なのでしょうか。私は昨日インターネットで調べたらますます心配になりました。歯が白くなる斑状歯も心配だが、遺伝子にまで影響があるかもしれないとか、命にかかわるようなガンになるかもしれないとなると慎重にならざるを得ません。学校で『フッ化物溶液』を渡して「洗口」させるのは私たち教師です。もし後世「あれは間違いだった」というような事が明らかになった時、私たちはどう責任をとればいいのでしょうか。」
 私はこの仕事を拒否することができないだろう。そしてこのようにして現場に文部科学省や教育委員会の決断が押しつけられるのである。
 それにしてもなぜ子どものむし歯発生率は低下しており歯と口の健康に対する一般の意識が高まってきているにもかかわらず、半強制的に『フッ化物洗口』が強行されるのか理解できない。私はしたい人は町の薬局や医師に頼んですればよいと思う。なぜ学校でやらせるのか、学校が利用されているのではないかと思えてならない。ひょっとすると製薬会社と歯科医師会と行政がグルになっているのではないかという気さえしてきた。
 京都市の保護者のみなさん、インターネットで「フッ化物洗口」を検索して調べてほしい。そして我が子に受けさせるかどうかどうか慎重に判断してほしいと思う。
8月3日(金)
こわがり
 高知での研究会の帰り、徳島県の祖谷温泉に寄ってきた。大歩危小歩危という吉野川の景勝地があり、かずら橋がかかっているところである。
 かずら橋というのは、吉野川に架かっている橋で「かずら」というつるで編んだ橋だ。全長45mの橋で、木が渡してある。京都の仲間9名で旅行したのだが、私以外の男性は何の苦もなく渡っていった。私はこれは「ヤバイ」と思った。というのも数年前に奈良県十津川村にある「谷瀬の吊り橋」で足がふるえて途中で何とも奇妙な感覚に陥ったことが蘇ってきたからである。
 私は子どもの頃二階のある友だちの家の階段を降りてくる時お尻を付けないことには降りられなかった。川の欄干から下を見ると足が震えた。高いところは苦手でビルの高いところから下を覗くなんぞという所業をしたいとは決して思わない。高速道路を通っている時、立体交差している上を通っていると落ちるのではないかと不安になる時がある。高所恐怖症なのだろう。
 もう一つバランス感覚が悪いのではないかと思われるフシがある。先年自動二輪の免許を取りに行った時一本橋に苦労した。これはゆっくり狭い鉄の橋の上を走行するもので遠くを見ていれば大丈夫だと言われたのだが、フラフラして困った。今バイクを乗り回しているが、狭い場所を通り抜けるのは苦手だ。
 齢を重ねると子どもの頃に苦手だったものは復活するようだ。
 私は仕方なく渡るのをやめて引き返した。君子危うきに近寄らず。何とも情けないが、こわいものはこわい。女性たちからは「思わぬ弱点を見つけた」と言われてしまった。
8月2日(木)
日本作文の会高知大会
 7月27日〜29日まで高知で第56回全国作文教育研究大会が開催された。1300名を越える参加者で成功裏に大会が終了した。私は24回大会から毎年欠かさずこの研究大会に参加してきている。32回連続参加と言うことになる。この大会でレポートしたり司会したりしながら多くのことを学んできた。
 これを書きながら30年以上参加してきたのかと思うとちょっとした感慨がある。多分体調さえ良かったら教師生活を続ける間参加し続けることになるだろう。
 今や文部科学省の作った「学習指導要領」には「作文」という文字はない。「書くこと」はあるが、「作文」とか「綴方」という文字はない。「書くこと」でも「作文」でもどちらでもよいではないかというむきもあろうが、私は違うと思う。
 教科書から「作文」はなくなった。子どもたちが普段のくらしの中で経験したことの中で、このことを作文に書こうと思ったことを書き、そして教室で読み合う作文教育(生活綴方教育)は日本独自の教育方法として戦前からの伝統と歴史を持っている。
 私は日本の教室でもっともっと詩や作文がたくさん子どもたちから生まれ読み合われることが日本の教育をまともな姿にすると思っている。
 団塊の世代の教師の大量退職が始まっている。作文教育もこの世代の退職と共に灯が消えるのではないかという危機感を持っていたが、今年の大会には多くの若い人たちの参加があった。私は小学校中学年の作文教育入門講座を担当したのだが、100名を越える参加者で資料が不足し高校の教室は、ギュウギュウ詰めになった。参加してくださった方々にはご迷惑をおかけした。それでも教科書にもない作文教育を求めて参加してくださっている方々が大勢おられることに勇気をもらって帰ってきた。 
5月26日(土)
道長展・若冲展
 今京都で開催されている展覧会の中で私がぜひ行きたいと思った展覧会がこの二つです。
 一つは、国立京都博物館で開催中の「藤原道長展」です。これは道長自身の日記「御堂関白記」や同時代の人々の日記「小右記」など、その他彼が行った御嶽詣(金峯山参詣)の際に残した国宝「金銅経筒」をメインに展示してありました。京都博物館の常設展示場は、経筒の展示が充実しています。ですからそれを見慣れているものには「ナルホド」ぐらいにしか思わないコーナーもありますが、平安貴族の最高権威者で「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と豪語した道長という人とその時代の雰囲気が伝わる催しになっています。
 この展覧会に私が見たいと思っていた石仏が出ています。それは、今宮神社から出たという四方仏です。現在京都博物館蔵になっています。一番最後の部屋の一番最後にありました。
 宇治〜木幡辺りが藤原氏の別業が営まれ送葬の地であったというのは知っておりましたが、あらためて宇治と京都のつながりを想像しておりました。
 あまり人も多くなくてゆっくり見られました。

 さて、今ひとつの若冲展です。これは相国寺承天閣美術館で開催中です。
 10時開館だということでしたから、9時40分に着いたのですが、すでに開館されていて、入場制限が始まっているという大人気状態です。続々と人波が途切れることがないようです。
 「動植綵絵」30幅(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)が120年ぶりに里帰りして「釈迦三尊像」と一堂に会する!金閣寺の重文「大書院障壁画」五十面も見られる!となれば、若冲ファンはウキウキ状態です。
 
 それで、行ってみて感じたことです。「動植綵絵」が何とも鮮やかで豪華でエロチックでした。とりわけ「老松白鳳図」が息をのむほどのエロチシズムを感じる絵です。この絵の前から全く動かない人がおられました。画集を買って帰りました。UPで見るとよけいに凄さが分かります。これだけ細密に豪華に動物植物を描いた絵は見たことがないと思いました。
 若冲は江戸時代には高名な画家でしたが、明治時代に完全に忘れられました。
 「伊藤若冲」…WHO?の方もおられると思います。

 「深草石峰寺の秋」に書いたものをもう一度書いておきます。
 石峰寺にある若冲
プロデュースの石仏が何者かに倒され壊されているというニュースが昨日出ていました。何と言うことを…。
  
 伊藤若冲(1716〜1800)について
 錦小路の青物問屋に生まれ自ら「平安錦街居士」と称した。のち黄檗禅に興味を持ち、煎茶を修行の手段としたことで知られる売茶翁とも親しく、黄檗山万福寺20世伯c(はくじゅん)に参禅し、その師千呆(せんがい)の関係で石峰寺門前に住むようになったらしい。石峰寺の一大石仏群は石峰寺7代住職密山(みつさん)和尚の強力を得て、妹の真寂と二人でここに庵をむすび、6,7年かかってつくりあげたといわれている。
 画風は宗達・光琳派に属し、花鳥、とくに“鶏”を得意とした。中国の写生画の影響もうけているといわれている。
 相国寺の大興禅師のもとでも参禅し、無欲枯淡の人生を好んだ。その号“斗米庵(とべいあん)”というのは、米一斗で絵を描いたからだという。

*補足 
 2002年12月7日に聖母女学院の伏見学講座「伊藤若冲と石峰寺」を聴講してきた。講師は狩野博幸氏(京都国立博物館・京都文化財資料研究センター長)であった。最初に自己紹介で大学教授から博物館に移ったときのエピソードを楽しくされた。自己紹介の上手な方の話はおもしろい。
 いよいよ本題。伊藤若冲の経歴を簡単にメモした物を用意されていて編年でその足跡を辿られた。私が初めて知ったことがいくつかあった。
@若冲にとって相国寺の大典顕常というお坊さんが精神的パトロンであった。この大典さんは漢詩人であり、当時(18 世紀末)漢詩人というのは最高の美意識の体現者であった。この大典さんが荻生狙来ら江戸の漢詩人たち(古文辞  派・中国人の感性で詩を創作する)に対して反古文辞運動を起こしていた。この運動は反江戸運動であり上方文化運 動であった。この新しい漢詩運動は精神主義的なものを素直に表現するという側面と日本人の持っている感情を日本 人らしく表現するという側面を持っていた。精神主義的な物を画家として追求したのが曽我簫白であり、日本人らしさ  や写実主義を追求したのが若冲や応挙であった。
A若冲は決してお金に困って絵を描いたりするような人ではなく、実家は大きな商家(青物問屋)であり、絵の具も大変上等なものを使っている。
B若冲は無名な画家では決してない。当時高名な画家であった。
C売茶翁との出会いで彼はその生き方にあこがれをもちいくつもその肖像画を描いている。
D石峰寺の五百羅漢さんは若冲が下絵を描き石工にわたして彫らせたものである。(私はてっきり若冲が彫ったと思っていた)
E大典さんの書いたものによると若冲は、全く学問に興味がなく、歌舞音曲にも興味がなく、遊び女性にも興味をもっていないし商売もやる気がない人物であると書かれているらしい。
 お話をうかがったあとその作品をスライドでたくさん紹介された。若冲という人物おもしろいと思うし売茶翁という人物にも興味が湧いた。
3月17日(土)
子どもが使う
気になる言葉3
「ゆる気」
 「ゆる気」については以前書いたことがあったが、もう一度書いてみる。

 この言葉は「本気」の反意語として用いられている。
「ゆる気でたたいたからいたくない。」
「ぼくはゆる気やったから負けた。」
などと使われる。
 さて、この言葉は私が子どもの頃はなかった。本気もゆる気もなく、たいてい、本気の世界であったように思う。 いや、たぶん私たちも適当に本気とそうでない時を使い分けていたようだ。しかし、こういう言葉を使う必要がなかったからこの言葉もなかったのだ。
 本気かゆる気かは、他人からも判断される。他人から「本気だ」と思われたくない自分が、「ゆる気」なることばを生み出したのではないだろうか。自分としては「ゆる気」だったからダメだったわけで、この結果には満足していないぞという決意表明としてこの言葉の出番がありそうだ。この言葉に自尊感情を守ろうとしている現代の健気な子どものあわれさがあるように思う。
 「ゆる気」という言葉が使われる背景には「本気はカッコ悪い」ということを暗黙のうちに諒承している子どもたちの生活意識はないだろうか。ムキになって必死で一生懸命やることを小馬鹿にするところから「ゆる気」という言葉も使われているとしたら、子どもらしいと私たちが思ってきたことは、案外子どもたちには迷惑な押しつけになることも多いのではないかと考えた。学校は基本的に「本気」を追求する場所だ。「まじめ」に「明るく」「元気」で「精一杯」「素直」に「仲良く」学習し生活することが期待されている。たいていの学校や学級の目標はこういう言葉がちりばめられているのではないだろうか。
 しかし、今子どもの中に進行している価値観は案外こういう大人が期待することとは対立する形で根深く内面に入り込んでいるのではないだろうか。「ゆる気」という言葉は、そういう子どもからのシグナルなのかもしれない。
3月17日(土)
子どもの使う
気になる言葉2
「しくった」
 はじめ「ちくった」と言っているのかと思って、「誰のこと言ってるの?」と聞いたら、「しくった」と言っていると言うのだ。 どういう場面かというと、ドッジボールで相手を当てようとして失敗したときなどに使う。「しくじる」から変化したのかもしれない。そして、この言葉は、スポーツに限らず、何かうまくいかないときに用いられる。テストで間違っても「しくった」のである。
 私は、このことばを連発する現代の子どもの心理を考えてみる。彼らは、基本的に失敗をおそれている。そしてまた、失敗しないように期待されている。だからその期待に応えるためにがんばるのだが時に失敗もする。失敗したとき、まず自分から失敗を認めた方が相手から攻撃されないのだ。「オレは自分の失敗に気づいているぞ!。お前たち、オレの失敗を笑ったら許さないぞ!」というメッセージとして「しくった」の連発があるように思う。
3月10日(土)
子どもの使う
気になる言葉

「ムリ」
 子どもたちが使う言葉の中にいくつか気になる言葉がある。まず、「ムリ」という言葉である。
「Aちゃん、遊ぼう。」
「ムリ。」
「Bちゃん、これできる?」
「ムリ。」
のように使っている。この「ムリ」はまさしく私にはカタカナに聞こえてくる単語である。
 辞書で「無理」を引いてみると「@りくつに合わないことA押し切ることBするのが難しいこと」とある。
 子どもたちはBの意味で使っているようだ。
 しかしである。「するのが難しい」という場合は、何らかの理由があって「無理」なのである。子どもが使っているのは「拒否・拒絶」の意味合いが強い。あるいは「不可能」の意味を持たせて使っている場合が多い。
 これを言われた方は、次の言葉を失ってしまう。「なぜ?」を拒否して、「お前なんかと関わりたくない!」というメッセージ性をこの「ムリ」は醸し出している。つまり言葉の持つ伝達性を拒否し、人間関係を断ち切る言葉なのである。そういうことで言うと、「無理」ではない「ムリ」というカタカナの新しい言葉が生まれているのではないかと私は考えている。
 「無理が通れば、道理が引っ込む」というということわざがあるが、「ムリが通れば、友が引っ込む」ということわざが新しくできそうだと私は思うのだが。
2月5日(月)
当麻寺石光寺辺り
 2月3日(土)に奈良県葛城市にある当麻寺と石光寺へ行ってきた。石光寺は寒ボタンを見るためであり、当麻寺は白鳳天平藤原期の仏像や同じく建物などを見たいと思ったからである。
 一度行きたいと思いながらまだいったことがないところはたくさんあるが、当麻寺もその一つであった。
 石光寺(しゃっこうじ)は予想以上に花の美しいお寺であった。「石光寺の寒ぼたん」を見てほしい。広いお庭に寒ボタンをはじめ、梅・桜・椿・ロウバイ・寒アヤメなどが咲いていて一足早い春を感じた。今年は暖冬でどの花も1〜2週間早い開花だそうだ。
 この石光寺と当麻寺双方に中将姫伝説がある。
 当麻寺は古い伽藍がよく残っているお寺で、金堂と講堂は鎌倉時代のもの(重文)だが、三重塔(国宝)は東塔は白鳳時代、西塔は天平時代のものが残っている。梵鐘はおそらく日本最古のものであろうと推定されるもので国宝に指定されている。そして金堂内にある弥勒は、白鳳時代を代表するような仏像である。本堂内にある曼陀羅図や須弥壇も見事なものであった。
 当麻寺が東西二塔が揃っているのに薬師寺ほど有名でないのはなぜだろうかと考えながら境内を歩いた。閑散としていて、薬師寺の賑わいとは無縁であった。こういう国宝や重文がたくさんある寺院は維持管理するだけでも大変だろうと思う。交通の便が悪いことも影響しているのだろうが、もっと注目されても良いのにと思った。古代の伽藍配置が残る奈良の寺院は趣がある。
2月1日(木)
京都検定と

ジュニア京都検定
 昨日帰宅したら京都商工会議所から封書が届いていました。京都検定2・3級の合格通知でした。やっぱりうれしいものです。1月29日に発表ということでしたので、いつ着くのかなと思ってたのですが、1月31日に着きました。
 3級は97点で合格でした。
 5678名受験して2987名合格したそうで合格率53.3%だったそうです。昨年一昨年と比べると合格率が上がりました。
 2級は90点で合格でした。
 4021名受験して2041名合格で、合格率50.8%。2級も合格率が5割を越えました。2級も飛躍的に合格率が上がっています。
 合格率が上がった理由は、問題が簡単になったためか受験者のレベルが向上したのか、はたまた過去の問題が明らかになって受験勉強がしやすくなったためか。よく分かりませんが、とにかく私みたいに喜んでいる人が多いことはめでたいことです。
 これで1級を受ける資格ができました。今年12月には1級目指してみようかなと思っています。まあ、こんな風に自分を試して楽しんでいるぶんには「京都検定」も罪のないものです。

 しかし、京都の子どもたちが半ば強制的に受けさせられている「ジュニア京都検定」は大いに問題ありです。私は京都が大好きですが、子どもたちに強制的に京都を好きになってほしいとは思いません。「郷土愛」とか「愛国心」を強調した取組は押しつけがましいものです。テストとして子どもに受けさせたら、点数が一人歩きします。受けたい子が受けに行くシステムにぜひしてほしいものです。ほとんどの小学校で、授業時間を使って5・6年生が受験させられています。
 「ジュニア京都検定」本は不正確な記述や、天皇中心の記述が問題視されていますし、何より伏見区向島や淀などは地図にも載せられていません。伏見区の南部は京都ではないかのような扱いです。この地域に住む子どもたちはどういう思いでこの検定本を見るのでしょうか。ジュニア検定本(1000円)は4年生以上の児童全員に無料で配布されました。京都の企業の宣伝入りです。そして本文の中にその企業を絶賛する内容が盛り込まれています。
 京都に住む人間が京都を誇りに思ったり好きになったりする理由は様々であってよいのです。それを画一的なテキストを与えて、テストを受けて競争させ、テキストを読ませる動機や刺激にしようという安易な「ジュニア京都検定」の取組は、「京都検定」の成功に悪のりするものだと言えます
1月1日(月)
カバの乱獲
 2007年明けましておめでとうございます。
 「昨年末コンゴでカバが激減している」という記事を読みました。(朝日新聞)コンゴの保護区で数万頭いたのが今では600頭まで減っているというのです。そして絶滅危惧種に指定されたということでした。
 原因は…何と人間が乱獲して食べているというのです!?
 というのも、政情不安定で反政府軍のゲリラが食料にしているそうです。カバの歯は象牙と同じように売れるのだそうでそれも目的だそうです。そしてカバの肉を食べた人の話によると「やわらかくておいしい」のだそうです。かばの歯や象牙を買いに来るのは隣国ウガンダの商人だそうで、コンゴのカバ受難に見通しは立っていないというような内容でした。
 一昨年愛知で開催された地球博へ行った時にアフリカ各国の展示にカバがありました。土産物売り場にもたくさんのカバがいて、さすがはアフリカだと思ったのですが、安心していられないようです。
 象は象牙をとるために、サイはその角のために密漁されていることは有名でした。特に象牙に関して日本は大いに責任ありだということもこれまた有名な話。
 カバが絶滅するところまで乱獲されるのかどうか…遠い国の話でどこまで本当の話なのかよくわかりませんが悲観的なニュースでした。
 野生動物がこのような目に遭う時は人間も追いつめられているのだと思います。人間に余裕がある時は共生できるのでしょう。
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