門司港レトロ地区を歩く1

門司港駅

 1914年(大正3年)門司駅として開業。1942年(昭和17年)関門トンネルが開通するとその名前を旧大里駅に譲り門司港駅と改称。左右対称のネオルネッサンス様式。全国の駅舎の中で最初に重要文化財に指定されました。
 門司港駅は郷愁を駆り立てられる駅です。昭和10年頃の駅というのはこういうものだったのだろうなという姿を今に残しています。門司港駅そのものが博物館です。

関門連絡船通路跡

 私は一度もこの駅へ来たことがありませんでした。にもかかわらず、以前に来たことがあるようななつかしさを感じました。特に、この連絡船通路を通ったことがあるように思いました。左は駅から桟橋へ降りていくところ。右は桟橋から駅のホームや改札へ向かう階段です。この階段を上ったことがあるように思いました。そんなはずはないのですが…。
『関門連絡船の生涯』(駅にあったパネル)より
 本州と九州を結ぶ輸送機関として、明治34年5月に発足した関門連絡船は、およそ半世紀にわたってその使命を果たした。
 最盛期の昭和16年には、下関丸、長水丸、豊山丸などの新鋭船を擁して、1日平均53往復して、年間約880万人(1日2万4千人)を輸送する活況を呈した。
 しかし、昭和17年関門海峡トンネルが開通、同19年にはトンネルが複線化され、さらに33年の関門国道トンネル開通により、昭和38年(1964)には利用客わずか40万人に減少した。
 これらの時代の流れと世の中の変遷により、関門連絡船はそれまでの本州九州を結ぶ輸送の幹線動脈としての使命を失い、ついに昭和39年10月31日午後10時40分門司桟橋発の最終便を最後に、その63年にわたる栄光の歴史を閉じた。
 この通路は、当時、駅から桟橋までの約100mを結んだものである。

旧監視孔

 この連絡船通路の壁に小さい覗き窓「監視孔」が空けられています。上の写真左の壁に白いものが映っている場所。「軍が設置させた渡航者の監視所」…ということは、朝鮮・中国人渡航者を監視するのが目的であったことが察せられます。下の説明の『戦時下の不審者』が軍にとっては中国人や朝鮮人であったという事実が、『大東亜共栄圏』そのものの内部矛盾を露呈していると私は思うのです。
〈旧監視孔)
詳細は不明ですが、ここは戦争末期、軍の命令で設置された渡航者の監視所跡です。
門司港は、外国航路寄港地の為、関門連絡船の通路は、戦時下の不審者を監視する絶好の場所でした。
監視孔は反対側にもあり、内部が分かりにく構造で、横に入り口を塞いだ跡があります。

幸運の手水鉢と真鍮板張り円柱

 大正3年開業当時からあるものが下の写真のもの。
 その一『幸運の手水鉢』…大正3年建設当時からあり、戦時中の貴金属供出からもまぬがれ現在も鋳造時の形のまま、長寿を誇っています。
 その二「駅入り口円柱」…駅入り口左右2本の円柱。これも供出を免れたようです。
 この手水鉢は門司港駅トイレにあるものです。このトイレには日本初の水洗便所というのもありました。今の水先便所とはイメージが違います。和式便器の下を水が流れているというものだったようです。
 ところでこの手水鉢に「幸運の」名前を冠した人は誰でしょうか。いつ頃から「幸運の手水鉢」と呼ばれるようになったのでしょうか。
 門司港駅は戦争を挟んで繁栄と衰退を経験した駅ですからこういう名前がぴったりです。
幸運の手水鉢 駅入り口真鍮ばりの円柱

私、夜も門司港レトロ地区へ出かけました。夜景はなかなかのものでした。それは、次のページへ続く。

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