両替町12丁目
昭和35年頃

左の写真は○地点から南を見たもの。
右の写真は○地点から北を見たもの。
私は昭和24年(1949)生まれである。京都市伏見区両替町12丁目で生まれ育った。
 最近伏見の辻堂のお地蔵さんを見て回った。桃山学区、住吉学区、板橋学区、南浜学区を散歩しながら歩いた。地蔵盆の時拝んだお地蔵さんはどんなお地蔵さんだったかと、両替町12丁目のお堂も拝ませていただいた。子どもの頃は鉄工所の北側にあったのだが、今は氷屋さんの向かいにある。
 私が住んでいた家は建て直されていて今はない。。しかしこの町内を歩いていると、子どもの頃の町並みが蘇る。そして当時の住人の顔が想い浮かんでくる。
 町内に、そして近辺にどんなお店があって、どんなくらしをしていたのかを思い出す。思い出すことを記すのも面白そうだなと思ってこのページを作ってみる。
 私が小学5年生頃、昭和35年(1960)年頃の話である。
 なにぶん、58年前を思い出している。間違い、勘違い、記憶の曖昧さがあるものと思う。厳密には昭和35年(1960)きっちりの記憶ではない。小学生頃の記憶と言うことでお許し願いたい。

(1)両替町12丁目付近店舗地図

 



・塩販売
寺・保育所
薬局
氷菓子製造
食料品
菓子屋
13

仕出し屋
歯科医

時計屋
②駄菓子屋 
 が北
*この地図には東西の通りの店が書き込めないので下に書きました。
    上板橋通り       
散髪屋
豆腐屋



















タバコ・切手

 
新町通り


新町12丁目
 
①電気屋1





花屋・新聞

呉服屋


④木屋
散髪屋

鉄工所

洋服仕立
化粧品屋
おかずや

お茶販売
乾物









12

お茶販売
⑧氷屋・炭屋
③病院




鉄工所

たこ焼き

メリヤス屋?

犬猫病院







米屋










*上板橋通りにあった店
案外多くの店がありました。
新町から両替町まで
■北側(西から)
・うどん屋
・銭湯(大正湯)
・雀荘
・文房具
・美容室
■南側(西から)
和菓子屋
⑥かまぼこ屋・製造

たばこ・切手
⑤貸本屋
①電気屋2
花屋

*丹波橋通りにあった店
京阪丹波橋駅から新町までほぼ店舗が続いていました。丹波橋商店街と言っていたと思います。本屋、写真店、酒屋、男子用洋品店薬局文具店、鶏肉店、履物店、家具店、などがありました。

*両替町11丁目公設市場
6軒ほどの店舗がありました。大将は野菜や果物を商っておられました。この公設市場の集客力がすごかった。
すいかの時期には求めるお客さんで溢れた。お菓子屋、肉屋、乾物屋、魚屋、八百屋、果物屋、ここへ行けばたいていのものが揃いました。

*私の家は赤字の店をよく利用していました。
     
   新町11丁目  タバコ屋
婦人服
パン屋

*公設市場



米屋

⑨菓子屋
クリーニング屋
大衆食堂

パチンコ

野菜食料品

食堂



11

 
荒物屋

肉屋
豆腐屋

雑貨屋
⑦たまご屋



染め物屋
提灯屋
花屋

①電気屋3

バー

菓子屋
    丹波橋通り        京阪・奈良電丹波橋駅へ→ 
 魚屋    銭湯滝の湯    化粧品店    
NO  名    前  思  い  出  す  こ  と  
 ①  3つの電気屋さん  ちょうどTVが各家庭に入った頃です。上板橋通りの10m離れない距離に電気屋さんが2軒出来ました。そして隣の町内にも。子ども心に大丈夫かなと?学校帰りに大相撲中継を見ることができました。人だかりが出来ていました。その時間帯になると。最初は電気屋さん②で見ていましたが、その後①でお世話になりました。TVだけでなく扇風機、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器など欲しいものがいっぱいあった時代でした。現在3つとも店はありません。 
 ②  駄菓子屋さん  近隣の町内の子どもが必ず集まる店でした。くじが目当てでした。5円持って行けば何か遊べて買えました。母親に「5円ちょうだい」とせがんだものです。ベタ焼きと言う名のお好み焼きがありました。具は天かすと紅ショウガとネギだけだったと思います。私は親から購入を禁止されていてあこがれていました。 
 ③ 病院  ここの病院の先生ご夫妻にはすごくお世話になりました。府立医大の外科部長からここで開業されました。後年、京都府医師会長をされました。母や姉は外科手術をしてもらいました。私は2年生の時に左腕を骨折しました。その時車に乗せてもらって府立医大のお知り合いの先生のところへ連れて行って下さいました。熱が出たらお世話になりました。現在建物だけが残っています。 
 ④ 木屋さん  家のおくどさんのたき付けなどを売っていました。子どもの頃ご飯を炊くのは竈でした。おかずは七輪を使ってました。ガスが何時家にひかれたのか覚えていないのですが、調理に手間がかかりました。燃料として木が大活躍でした。この木屋さんでは、機械を使ってイチゴを入れる箱を作ったりもしておられました。店の中にたくさんお木くずがありました。私が中学生になる頃に引っ越しされました。
 ⑤ 貸本屋さん  町内の方がお店を経営しておられました。漫画や雑誌本をレンタルしておられました。他にも本があったかどうか思い出せません。一冊5円とか10円だったように思うですが、比較的短期間の営業でした。
 ⑥ かまぼこ屋さん  学校帰りに毎日かならずこの店の前で立ち止まって、かまぼこが作られる過程を見学しておりました。飽きずに眺めていました。魚のすり身が板の上に載って並んでコンベアの上を流れていきました。おもしろかったなあ。 
 ⑦  たまご屋さん  両替町11丁目にあったたまご屋さん。たまごだけ売っておられました。狭い間口のお店でした。パック入りのたまごしか今は思い浮かびませんが、当時は一個いくらで売っていました。たまごは、貴重品であり高級品だったのです。病気の時の栄養がとれる薬扱いだったように思います。リンゴ箱に入ったもみがらの中にたまごが並んでいました。年配のおじさんが紙袋に入れてくれました。割れないか心配でした。 
  氷屋さん  氷を入れる冷蔵庫がありました。毎日午前中に氷屋さんが長方形の氷を各家庭へ届けてくれました。木製でブリキの内装がしてありました。上下二段で上に氷を入れ、下で冷やしたり保存するというやり方でした。縦70~80cm横50~60cmぐらいの大きさだったと思います。わりと長い間使用していました。電気冷蔵庫前の冷蔵庫でした。 
 ⑨   お菓子屋さん お菓子屋さんだけではないが、この頃は100gいくらで物を売っていた。必ず天井からぶら下げられた秤(はかり)があった。お菓子屋さんでは、上部がガラス張りで開閉が出来、内部はブリキが張ってある長方形の容れ物が並んでいた。「このおかき200g」という買い方をしていた。個装があたりまえの現在では想像つかないかもしれない。ブリキ缶に入った入荷したお菓子をその容器に入れ直し、見えるような売り方をしていた。乾物屋さんもこれがあったと思う。 
  両替町12丁目①
路地があった 
12丁目に現在あるお店は、氷・燃料店だけです。みな見事になくなり住宅街になったようです。こうしてみてみると20軒あまりのお店があったことが分かります。私の印象では、お店よりも職人さんや工場労働者の町だったという印象です。私が小学生の頃、児童数は50名以上でした。1学年に10名近くいたのです。まさに 団塊の世代の私たちはひしめきあって大きくなったのでした。町内にたくさん路地(ろうじ)がありました。狭い路地を入っていくと、真ん中に井戸があって、その周りに数軒の家がありました。今それもなくなりました。
  両替町12丁目②
子どもと遊び 
町内の路地の奥に少し空き地があって、ここでドッジボールを使って遊びました。キックベースボール、ドッジボールが主でした。ゴム跳びもしました。他には、地べたでビー玉(ラムネ)の遊び、釘さし、アスファルトで、メンコ、コマ回しをしました。ソフトボールをよくしました。場所は、三角公園(長岡児童公園)、桃山中学校、現呉竹養護学校(さんしょうと呼んでました。池にサンショウオがいたからだと思っていたのですが、三商かもしれません)。町内の男の子はみなこの遊びに参加していました。しかし私より2学年下の子ぐらいから町内の子が群れて遊ぶということがなくなりました。2学年下の子は4名になっていました。子どもの数が減ったのです。そして交通量の増大など、遊ぶ場所も、仲間もいなくなり町内の異年齢集団は希薄になりました。現在私自身も、よく遊んだ友だちも町外に出てだれも残っていません。
  両替町12丁目③
数分の買い物圏
買い物かご下げて、数分歩けばたいていのものが揃いました。食料品は11丁目の公設市場辺りへ行けば揃いました。よく見ていただくとあらゆる種類の店があります。ちょっと気の張る買い物は、同じ伏見区内の大手筋商店街へ、さらに京都市内の高島屋、大丸、丸物などのデパートへ行けばよかったのです。交通の便はとてもよいのです。
  両替町12丁目④
誇りだったこと 
その1…家のななめ向かいに長距離走の速いお兄さんがおられました。学区運動会マラソン大会で何年か連続優勝。運動場へ1位で帰ってくるお兄さん、かっこよかったなあ。その優勝花輪を持って町内までパレードが行われました。
その2…ここは、御香宮神社の氏子町内です。どの町内も花笠祭りに参加しました。12丁目にも花笠がありました。さらに両替町12丁目には「お獅子」がありました。この獅子は町内の大工さんがお作りになりました。もう20年ほど前に倉庫から見つかったとかで、祭りの頃飾られていました。
その3…ソフトボール大会で準優勝。私が5年生の時、住吉学区町内対抗大会で決勝まで進みました。先程も書きましたが、よくソフトボールをやっていた私たちは強かったのです。中学生・小学生の混合チームが条件でした。決勝戦の場所は伏見中学校運動場。残念ながら負けました。相手チームには監督がいました。ずっと面倒見ているお兄さんでした。私たちにはその時だけお願いした監督でした。すごく羨ましかったことを覚えています。
   両替町12丁目⑤
紙芝居と物売り
紙芝居のおじさんが定期的に来ました。おじさんにはエリア(縄張り)があったのでしょうか、両替町12丁目に来られるおじさんは、足の不自由な方で、松葉杖をついて来られました。かなり大きな荷物を持ってきておられました。紙芝居とお菓子などの荷物でした。2本立ての紙芝居でした。鞍馬天狗を見たように思うのですが。水あめが人気商品でした。5円でお菓子を買えば、紙芝居が見られるという営業のやり方でした。「ぬき」という遊び菓子が人気商品でした。他にも物売りの人が町内に来ました。 「富山の薬売り(1年一度に家に保管してある薬袋の常備藥を点検補充する)」「整髪料(ポマード)売り」「わらびもち売り(5円を投入し個数を決めるスマートボールが子どもに人気)」「いわし売り(とれとれのイワシだと言って天秤棒に荷を担いで売りに来た)」などがありました。
  両替町12丁目⑥
大掃除 
家の前に溝が流れていました。木の蓋でした。各家庭が負担していたように思います。この溝にもゴミや土が溜まります。溝掃除も含めて、年に2回(確か夏と大晦日ごろ)「大そうじ」という行事が行われました。町内のほとんどの家が一斉に畳を上げて家の前で畳をたたいてほこりを払いました。今考えると派手なことで、全家庭がほこりを飛ばすのですから効果はどうだったのでしょう。乳剤という消毒薬が活躍しました。購入だったか配布だったか覚えていないのですが、溝にも撒かれて、一面に匂いが充満しました。くみ取り式の便所、水たまり、溝、共同井戸…ネズミ、ハエ、蚊、ノミ、ゴキブリ等々害虫等の発生源は今よりも多岐にわたっていて、伝染病発生のリスクを考えての行事だったと思います。 
  両替町12丁目⑦
夕涼み
 
夏になると各家庭が、自宅前に床几を出しました。どの家の床几に座っても叱られず、夕食後も子どもは遊べました。大人はうちわ片手に歓談しながら涼をとっていました。蚊取り線香も焚かれました。大人が将棋に興じるのを子どもが観戦することもありました。TVを各家庭で楽しむようになり、こういう涼のとり方もなくなりました。家の前のそうじや水打ちもかならずやっていたように思います。車が耐えず通り抜けない時代の話です。 
  両替町12丁目⑧
火の用心 
夜7時だったか8時だったかから、子どもによる町内一周の夜回りがありました。拍子木を「チョン、チョン」と打ちながら「火の用心、戸締まり用心、マッチ一本火事のもと」と言いながら回りました。町内の真ん中あたりから、両替町通りを上板橋通りを西へ向かい、新町12丁目との境でもと来た道をもどり、両替町11丁目との境の道を西へ行き、もとの集合場所まで戻りました。これは子どもの役目で、町別児童会で話し合ってやっていました。どの町内も取り組んでいたように思います。いつごろ何がきっかけでやらなくなったのでしょうか。 
  両替町12丁目⑨
第二室戸台風 
1961年9月16日(土)午後関西を縦断したこの台風は、本当に怖かった。その2年前の1959年の伊勢湾台風が東海地方に甚大な被害(死者4,697名)を与えた。しかし京都では第二室戸台風(死者194名)の方が怖かった。小学校は午前中に休校になった。私の経験で言うと登校後に集団下校したのは初めてでこれ以後にもなかった。午前に四国高知の室戸岬に上陸した第二室戸台風(NANCY)午後1時には兵庫県西宮と尼崎の間に再上陸し全速力で日本海へ駆け抜けた。伏見住吉小学校門前は、道路一つ隔てて琵琶湖疏水が流れており、水門がある。大量の雨が降ると水門は閉められ水量を調節して新川から高瀬川へ流す。帰り道すでにゴーゴーと音を立て川は溢れていた。私は異常なハイテンションになっていた。家へ帰ると、父は会社から帰れず、母が恐怖のためかイライラしており、叱られっぱなしであった。台風が接近して来るのを肌で感じた。母に格子を押さえるように命じられた私は、無人になった通りをビュービュー異常な音を立てる風不気味だった。雨は降ってなかったっように思う。それが長い時間続いた。ヒューヒューと瓦がめくれて飛ぶ音、バシッと地面に叩きつけられて割れる音、カランカランカランカラン…バケツが転がる音。ガランガラン、ドン…看板が道を飛ばされ建物にぶつかる音。いつまで続くのだろうと不安が募った。3時過ぎだったと思うが、突然風はやみ、静かになった。空が晴れて、陽が差すのが見えた。しばらくして人が通りにあふれ出した。許可をもらって私も外へ出た。町内の子ども総出で、台風の傷跡探しが始まった。私の家も何枚か瓦が飛んでいた。夕方父も祖母も帰ってきた。家族みんな無事であった。 
 (2)楽しかった地蔵盆
子どもの頃お地蔵盆が楽しみでした。夏休みの最後の楽しみでした。
 今住んでいる町内でもお地蔵さんをお祀りする町内行事がありますが、地蔵盆とはいわず、「夏祭り」という名前に変わっています。宗教行事を町内が行うことに問題があるという意見もあり無難な名前になっています。また役員になると準備から当日の世話、後片付けなど実務負担が大きいということもあって、敬遠されがちです。
 私自身も子どもが大きくなってからは、疎遠になり役員の時だけお手伝いしているというのが現状です。町内行事そのものが煩わしいので自治会へも入会しない人が多くなっている現状ではお地蔵盆もいずれ無くなるのかもしれません。

(3)両替町12丁目の地蔵盆

 思いつくままに…。これは昭和35年(1960)頃の伏見区両替町12丁目の地蔵盆の記憶です。
地蔵盆をしていただく家へ行ってトランプなどのカードゲーム、集団室内ゲーム「パラリコさん」「・・56」など数字をいうゲーム・「お金落とし」などをして遊びました。普段は外で体を動かす遊びに興じていたので、新鮮な遊びだったのです。
お菓子をもらいました。お菓子を配布する時間が決まっていて、鉦を鳴らして知らせる役は子どもがしました。
子どもは自分の名前の書いてある提灯をかけてもらいました。
その年に生まれた子どもは、よだれかけをお地蔵さんに奉納しました。お地蔵さんの衣装替えでした。
町内によっては、地蔵盆にお地蔵さんの化粧が行われ、絵心のある人が色の塗り替えをしました。私の町内は、ある時期から急に色を塗ることになりました。絵の上手なお姉さんがされました。今住んでいる地域ではその風習はありません。
スイカ割りに大興奮しました。今から考えると、一文菓子屋さんのくじ引きと同じで、簡単に割れたらお金がかかるので、大人も割れないような演出をしていたのでしょう。しかし純粋な子どもは必死でやっていました。
一日目の夜は、「のど自慢」がありました。ただマイクがあるだけで緊張しました。たいてい恥ずかしげに子どもや大人が歌うのですが、感心したり笑ったりの連続。だれが歌上手かみんな知ってましたね。私は4年生の時に当時一番人気のあった「中田ダイマル・ラケット」の真似をして6年生の子と漫才をしました。近くの肉屋さんのコロッケをネタにした漫才でした。大受けで、その肉屋さんが大笑いしてくれたのを覚えています。
二日目の夜は、「ふごおろし」でした。これはくじ引きで、前の家の二階(中二階)から道路にかご(ふご)に入れた景品が降ろされるというものでした。大きな声で番号を言って何が当たるかワクワクしました。オモチャが当たらないかと楽しみにしていたら、ザルだったりして、まさに一喜一憂でした。
3日目に「数珠まわし」をしました。尼寺の尼僧がお経をあげてくださって、それに合わせて、大きな長い数珠を参加している子ども達が回すのです。一周すると節目があるので、その時はそれを拝むのです。 
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