長野の石仏5
高遠健福寺
高遠の石工守屋貞治の石仏2

 守屋貞治…モリヤサダジ。江戸時代、高遠は素晴らしい石工が輩出したようで、その石工たちは全国へ出稼ぎに出たようだ。その中でも守屋貞治の器量は群を抜いていたようで今もその石仏が大切に残されている。その数336体だそうである。貞治は晩年目が見えなくなったようで、自分の作仏の記録を書き留めたようだ。
 今から紹介する健福寺は、彼の故郷高遠にあるお寺である。高遠のバス停からすぐの高台にり、武田勝頼の母(名は不詳、NHK大河ドラマでは「由布姫」)の墓や後に高遠城城主になる保科氏の墓もある。
 この寺に貞治の石仏が、たくさんあった。そして貞治の顕彰碑も建てられており、説明板もあった。
 西国三十三カ所観音、六地蔵など私が確認した石仏43体であったが、説明板には五十余体とあった。
 貞治以外の高遠の石工の仕事もあった。
 私は貞治の石仏を訪ね歩いたが、どうもその姿が捉えきれないまま終わったなという思いがしている。木喰も円空もその強烈な個性溢れる造仏活動に圧倒される。しかし貞治はそうでもない。とにかく美しい。整っている。憤怒像であるべきはずの不動明王像でも恐くない。大聖不動明王はどちらかというと困惑しているような表情に見える。私の主観の問題であるが、貞治の石仏は良い意味でも悪い意味でも「職人技」なのではないかと思う。同じ仏を同じように彫ることができる名人なのではないだろうか。
健福寺西国33カ所観音覆屋と地蔵菩薩像

(1)西国三十三カ所観音

 西国三十三カ所の観音信仰は、長谷寺の徳道上人から始まったという。養老2(718)年病で倒れた上人に閻魔大王が「三十三カ所の観音霊場をつくり参拝を広めよ」とお告げをされたそうだ。その後花山天皇が政権争いに敗れ永延2(988)年那智山で修行の後西国観音霊場を巡拝した。花山法皇は西国三十三カ所巡りの中興の祖だそうである。
 その後現在のように巡礼コースがはっきりしたのは室町後期から江戸時代にかけてのことのようで、わざわざ「西国」とつくのは「板東」や「秩父」と区別するためである。
 江戸時代も後期になって伊勢神宮参拝、熊野三山参拝などの旅行ブームが庶民の間で起こると同時にこの西国三十三カ所も盛んになった。
 信州に「西国三十三カ所観音」の仏たちを貞治に作らせた願主たちは、遙か遠い西国に思いをはせたことであろう。
 家へ帰ってから、自分が撮ってきた写真と西国の寺の本尊を照合してみたが、私の撮り方が悪かったのが、うまく合わない。
 ○番の何というお寺の何観音なのかはっきりさせたかったができないことをお断りして紹介する。

(2)六地蔵堂と地蔵菩薩像

山門右手が六地蔵堂、左手が西国三十三カ所観音堂になっていて、山門に登る階段両側に揚柳観音像(弟子の作)と地蔵菩薩像が立っている。

延命地蔵大菩薩(貞治作) 六地蔵堂(貞治作) 揚柳観音像(弟子作)

(3)守屋貞治顕彰碑と石仏群説明板

高遠市指定文化財
健福寺の石仏群
江戸時代高遠からは、石切を職業とする石工が各地に出稼し、殊に山梨、静岡、神奈川、群馬などには優秀な作品を多く残している。この寺の六地蔵、西国三十三カ所観音、佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵尊、延命地蔵尊など五十余体の石仏は、高遠塩供出身の守屋貞治の作品である。その他高遠地方出身名工の作品が安置されわが国美術史上また産業史上重要なものである。
彫像の心

石仏師 守屋 貞治(さだじ)

夫(そ)より段々思ひ
しあんなぞ
めぐらし 色々
と 工夫をなし
誠に けふ(今日)の御勤(おつとめ)
而巳斗(のみばかり) 外(ほか)に
何と思い付事(つくこと)も
あらむこそ
唯(ただ)けふ晨(あした)を
勤(つとめ)けふの日行斗(いくばかり)
 
此の言葉は守屋貞治旅日記(守谷家蔵)
の中に記されている。
寄贈 創立七十周年記念
長野市 守谷商会
昭和六十年 十二月二十日
守屋貞治顕彰会建之

(4)聖観音像と佉羅陀山地蔵尊

 山門左手三十三カ所観音のおられる横にもう一カ所門があり、そこに聖観音像と佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵菩薩像がおられる。聖観音の方は太り気味でどうもいただけない。佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵菩薩座像の方は大きい。私が見た貞治仏の中でも群を抜いて大きい。なかなか迫力のあるお地蔵さまである。
聖観音座像 佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵菩薩座像

(5)願王地蔵尊

 貞治はよほど願王和尚に惚れ込んでいたのであろう。願王を地蔵菩薩に見立てて、ここ健福寺にも願王地蔵を作っている。

万治の石仏 修那羅安宮神社石仏石神群 安曇野道祖神
守屋貞治1諏訪温泉寺 守屋貞治2高遠健福寺 守屋貞治3高遠大聖不動 守屋貞治4駒ヶ根光前寺
京都から全国へ石仏巡り HPへもどる