長野の石仏1
万治の石仏
(下諏訪阿弥陀石仏)

 モアイの像ではありません。
 これは日本の阿弥陀仏なのです。
 諏訪大社下社春宮の近くにあります。
 何でも岡本太郎氏も絶賛したという阿弥陀仏なのです。
 初めて写真でこの阿弥陀さんを見た時、この奇抜なアイデアに驚きました。
 自然石の上に仏頭をはめ込むということ、そして日本人離れしたこの表情。
 稚拙なのか計算し尽くされているのか…まことに不思議な感覚になります。
下諏訪町が立てられた説明板がありました。
「万治の石仏と伝説」とあって、まずこの石仏に彫られている銘文が書かれていました。かいつまんで記すことにします。
南無阿弥陀仏 万治三年(1660)年11月1日
願主 明誉浄光心誉廣春
このすぐ近くにある諏訪大社下社春宮の大鳥居を作ろうと石工がこの石にのみを入れたところ、傷口から血が流れ出したため石工は恐れをなして仕事をやめた。その夜夢で「上原山(茅野市)に良い石材がある」とのお告げがあり石工はその通り大鳥居を完成させることができた。完成後この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。この地籍は古くからこの石仏に因んで下諏訪町字石仏というそうである。
 江戸時代…仏像彫刻の世界では木像も石仏も低い評価しか与えられていません。日本の仏像は鎌倉時代以降の室町・安土桃山・江戸と形式的な表現に陥り堕落したようにいわれています。おそらく宗門改めと新しい宗派を認めない幕府の政策がこの世界に於いても停滞をもたらし、新しい仏教文化を生み出すエネルギーを損ねたのであろうと思われます。また、大寺院での造仏活動がそれまでの時代に比して停滞したのではないでしょうか。鎌倉新仏教の教えの易行化は地蔵さんと阿弥陀さんばかりを大量に生み出す結果になったのではないかなどと私は考えています。
 しかしながら、どういうわけかそれまでの時代からみれば、「異端」としか言えないような仏像がこの江戸時代に彫られます。美濃国(岐阜県)出身の円空(1632〜1695)、甲斐の国(山梨県)の木喰明満(1718〜1810)、彼らの造仏活動はそれまでの仏像彫刻とは全く異質です。そしてその美濃と甲斐に挟まれた信州(長野県)に江戸時代を代表するような石仏があることを私が知ったのはつい最近のことです。これはどういうことなのでしょうか。
 江戸でもない上方でもないこの、岐阜・長野・山梨という日本のど真ん中で新しい仏像が彫られるというところに江戸時代の奥深さを見る思いがします。
 信州信濃諏訪伊那の(長野県)にある江戸時代の石仏群は異彩を放っています。
 私はその1番にこの「万治の石仏」をあげます。
 そして、2番目に修那羅安宮神社石仏石神群。
 3番目に安曇野が有名ですが道祖神。
 4番目に高遠の石工守屋貞治の石仏。
 この信州の石仏を求めて、2007年夏旅をしてきました。
万治の石仏 修那羅安宮神社石仏石神群 安曇野道祖神
守屋貞治1諏訪温泉寺 守屋貞治2高遠健福寺 守屋貞治3高遠大聖不動 守屋貞治4駒ヶ根光前寺
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