長崎煉瓦洋館紀行(1)

左から順に大浦天主堂・旧羅典神学校・大司教館
 長崎の街は、車での観光はお勧めでないようです。明日香みたいに自転車で…これも不向きなようです。長崎では自転車は、坂が多すぎて足手まといになるのです。狭い坂道を歩くのが長崎観光の楽しみ方だと私も感じました。
 路面電車がなつかしくおすすめです。本数が多く、しかもどこまで乗っても100円という低料金。
 長崎ではブラブラ散歩することを「さるく」というらしいです。私も路面電車使って煉瓦洋館巡りでさるいてみました。

南山手煉瓦洋館巡り

 長崎駅から大浦天主堂下電停で下車。築町で電車を乗り継ぎました。100円です。なんかうれしい。

(1)レイク商会跡

 まず、レイク商会跡から見に行くことにしました。駅から一番近いからです。煉瓦造り三階建ての建物…と「さるくコースマップ3」にありました。何か哀れを誘う建築物です。何とか活用法もあるだろうにと思いました。

(2)大浦バンド(海岸通り)の二つの重要文化財

 レイク商会跡の建物から海に向かって歩いて行きます。左へ折れるとグラバー邸や大浦天主堂へ行く道なのですが観光客の流れに逆らうことにしました。大きな道に出ました。明治時代にはここまで海が迫っていたようです。(上の写真)そこに煉瓦建築洋館が建ち並んでいたのです。
 長崎べっ甲記念館と香港上海銀行は10mほど離れていますがこのバンドの景観を今に残している貴重な建物です。二つとも改装が行われ重文に指定されています。
 上の写真真ん中が香港上海銀行長崎支店。右が長崎ホテル。そして左がウォーカー商会の建物。この写真には写っていませんがその左に税関があったということになります。明治37年(1904)竣工の香港上海銀行長崎支店とその右側にあった長崎ホテル(1898竣工)は大浦バンドの景観を代表していたのです。
長崎べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所) 香港上海銀行長崎支店記念館
明治31年(1898)、煉瓦造り平屋建、正面左右に三角破風(ペデュメント)が特徴。当時の税関建築を今に伝える建物。
長崎市歴史民俗資料館分館として利用されてきた。平成2年に重文に指定。平成10年(1998)〜13年(2001)年まで半解体修理実施。平成14年から長崎べっ甲工芸記念館として使用。
明治37年(1904)竣工。煉瓦造。下田菊太郎設計。1Fはアーチのアーケード。2,3Fはギリシャ建築風コリント式の石造り洋館。昭和6年(1931)銀行閉鎖。その後梅香崎警察署、大浦警察署を経て、長崎市歴史民俗資料館に。平成3(1991)年から修理に取りかかり、7年(1995)装飾なども蘇り、平成8年(1996)記念館として開館。

(3)寶製鋼株式会社

 大浦バンドの道をさらに南へ進んでいきますと、寶製鋼株式会社の建物に着きました。長方形の倉庫のような建物の上に屋根がついています。下の写真の会社ロゴのある辺りの窓や入り口の模様はやや意匠的に見応えがあります。
 寶製鋼の煉瓦は明治35年(1902)の建築。長崎市景観賞を受賞しているそうです。煉瓦造り二階建ての工場です。
 ロバート・N・ウォーカーは伊木力のみかんや飯盛の生姜に目をつけ、兄のウィルソンと協力して「バンザイ・エアレイテッド・ウォーター・ファクトリー」を設立し明治37年(1904)に「バンザイサイダー」や「バンザイレモネード」などの清涼飲料水の製造をここでここで始めたようです。
 この建物のすぐ横に、須加五々道美術館がありました。ここはもともとロシア人の商人が住んでいた木造洋館だそうです。須加五々道というのは画家の名前のようです。日本画家だそうですが初めて聞く名前で、めずらしい名前だと思いました。建物はそれほどめずらしくもないものです。
 長崎の洋館は、純粋の洋館ではなく日本人が建てた西洋風建築なのです。それが神戸や横浜との違いだそうです。京都にある龍谷大学大宮学舎は、明治期の日本人による洋風建築なのですが味のある建物です。何となくしっくり日本の景色に落ち着くのは日本人が建てたからかもしれません。

(4)ドンドン坂

 この道はいいですね。左は下から坂を見上げた時に撮りました。朝靄の中で石畳の坂道が伸びています。しばらく歩いて振り返ったら海が見えました。それもまた新鮮です。どちらも美しいのです。坂のある港町、落ち着いた煉瓦塀が似合う町長崎。名前の由来は雨が降った時にドンドン音を立てて流れるからだそうです。この坂道沿いに美しい洋館がありますが、みな個人宅ですので写真は遠慮しました。

(5)マリア園(清心修道院教会)

 ドンドン坂を上りきった所に目ざすマリア園の建物がありました。長崎市内の煉瓦で一番見たかったのがこの教会でした。私は「れんが・街ものがたり」(駿台曜曜社・絵と文・安田泰幸・1999)という本でこの建物を知りました。
 私が訪れた時、ちょうど朝の準備をしている様子が建物から伝わってきました。ここは幼稚園と養護施設を併設した修道院教会のようです。中へ入って写真を撮りたかったのですが、遠慮しました。少し見える銅葺きの屋根や飾り窓、階によって変化を見せる窓や煙突風の飾り塔屋も少しのぞいています。
住所   長崎市南山手町12−17
設計   センネツ
竣工   明治31年(1898)
構造   煉瓦造
撮影年月日  2008年10月4日

(6)杠葉病院(旧レスナー邸)

 明治中期に建てられた洋風住宅だそうで、レスナーというオーストリア国籍のユダヤ人の住宅だったようです。レスナーは貿易、雑貨商を営みながらオークション業で莫大な財をなしたそうです。居留地から本国へ帰る外国人の家財道具や収集品をオークションにかけたようで、長崎の骨董商が集まったとか。明治16年に来日し大正9年60歳で亡くなったようです。
 この建物の見どころは、玄関に敷き詰められているタイルの美しさらしいのですが見損ないました。それにしても美しい洋館です。窓の模様そして白と黒のコントラストが美しいと思います。現在は病院の事務所として使用されているようでした。伝統的建造物の指定を受けているようです。
 南山手の煉瓦、洋館のすごいところは、歩いていたらいたるところにあるところです。それでいて、神戸北野地区のように観光客相手に金をむしり取ろうという魂胆が見えないのは品性を感じます。
 すぐ近くにグラバー邸があるのですが、それはそれで、その他はその他…という棲み分けというか役割分担というかができています。
 駆け足で観光する人は、グラバー邸と大浦天主堂とオランダ坂で十分でしょう。ゆっくりできる人は、坂道をゆっくり歩けるのが長崎の魅力です。

(7)大浦天主堂・旧羅典神学校・大司教館

日本26聖殉教者大浦天主堂(国宝)

 江戸時代末、日本が日米修交通商条約を締結したことで、この辺り一帯が外国人居留地になりました。洋館や煉瓦造りの建物が残るのはそのためです。その時に外国人居留民のために建てられた教会がこの大浦天主堂です。外国人たちはこの教会の名前を日本26聖殉教者大浦天主堂と名づけました。豊臣秀吉によって処刑された、ペドロ神父、パウロ三木ら26人の殉教者を顕彰するためです。
住所   長崎市南山手町5−3
設計   フェレ神父指導
施工   小山秀之進
竣工   元治元年(1864)竣工 明治12年改造
構造   煉瓦造
撮影年月日  2008年10月4日
大浦天主堂についての説明
 この天主堂は、パリー外国宣教会神父ベルナルド・タデオ・プチジャン神父によって、1864年12月29日建立されたローマカトリック教会である。
 天主堂は、日本26聖殉教者たちが、1597年2月5日十字架にはりつけられて処刑された聖地西坂に向けて建てられた。
 当時、日本の知牧であったモンセニョール・シラールは、1865年2月5日フランス領事をはじめ、フランスロシア イギリス オランダの艦長らのひきいる水兵12名ずつの見守る中で、新聖堂を荘厳に祝別し、日本26聖殉教者天主堂と命名した。
 同年3月13日、大浦大里村に住む旧キリスト教徒の信者たちの子孫が拝観に訪れ、聖堂内の聖母子像を眺めて、ひそかに“わたしもあなたたちと同じ信仰をもつものです”とプチジャン神父に打ち明け、日本カトリック教会の再興の場となった。
 日本政府は、日本の洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として1933年1月23日国宝に指定した。
 1945年8月9日、原子爆弾投下による被害を受けたので、カトリック長崎教会は日本政府の援助を受け、5ヶ年で修復工事を完了した。
カトリック長崎大司教区
 私は、長崎駅近くのホテルに泊まっていました。すぐ近くに西坂の日本二十六聖人殉教地と記念館がありましたので、行ってきました。夜に見る二十六聖人は信仰の深さを感じさせました。
 右の弥勒菩薩像は潜伏キリシタンの方が江戸時代からイエス像として護ってこられたもので、もともとは三国時代の朝鮮のものだそうです。京都広隆寺の国宝第一号弥勒菩薩像そっくりでビックリしました。
 二十六聖人は京都から堺そして長崎へと移送され十字架にかけられました。秀吉の名もこの聖人たちとともに迫害者人殺しとして残ります。
 私は京都へ帰ってから遠藤周作さんの『沈黙』を読みました。信仰の自由とか良心の自由について考えました。迫害を受け続ける主人公にイエス(あのかた)が沈黙しているのはなぜかと問う場面が印象的でした。日本国憲法で保障されている基本的人権の中の一つである信仰の自由を私たちが今享受できているのは、歴史上の多くの命の上に成り立っているのだなと改めて気づいたことでした。
 私は、このプチジャン神父と浦上大里村の潜伏キリシタンの方々の出会いを教会の説明テープで感動的に聞かせていただきました。「ワレラノムネアナタノムネトオナジ、マリアサマハドコ?」浦上大里村の人たちは勇気をふりしぼって天主堂を訪ね神父に声をかけたことでしょう。
 が、その後のことでまた考えさせられました。その後プチジャン神父も布教に努力されたようで彼ら浦上の信者以外にも外海、五島などの潜伏キリシタンたちが天主堂を訪れたようです。信者は増え続けたようです。
 しかしこの天主堂は居留民のためのものであって、キリシタン禁止はまだ生きていたのです。彼らは長崎奉行の知るところとなり、捕縛され拷問を受けます。
 明治維新政府は幕府のキリシタン禁止政策を引き継ぎました。木戸孝允は、浦上の信者たちを西日本各藩に分散させ、筆舌に尽くしがたい陰惨で卑劣な拷問を加えて「浦上四番崩れ」というキリシタン大弾圧を行うのです。その時配流された者の数3394名、うち662名が命を落としたと伝えられています。
 明治政府の要人たちは、もともと尊皇攘夷運動をしてきた人たちで、神道の国教化を主張し「廃仏毀釈」を行って仏教すら葬ろうとしたのですから、キリスト教を認めるなどと言うことは論外だったのでしょう。しかし、不平等条約改正のために欧米へ使節として赴いた人たちは、欧米各国のこの問題に対する批判が強く条約改正の障害になっていることが分かり、とうとう明治7年(1873)キリスト教禁制の高札を外し、信徒を釈放したのです。
 この話、外圧で政策を変えざるをえなくなるという話で、今のことではないの?と皮肉ってみたくなる話です。

旧羅典神学校(重文)

 この建物は、邦人司祭養成のための施設です。
 木造煉瓦造です。そして国指定重要文化財です。
 明治8年(1875)キリスト教解禁すぐに建てられました。
 ド・ロ神父という方の設計です。この方はその後黒崎・出津地区の主任司祭となります。今も外海の大野教会や出津(しつ)教会はこのかたの設計施工された教会として残っています。また後々日本人棟梁で教会建築を多数手がけた鉄川与助はこの神父の薫陶を受けました。私は五島列島や長崎県各地にあるこの教会建築を見て回りたいと願っていますが、いつのことになるでしょうか。

 この建物は現在長崎のキリシタン資料館のような役割をしています。明治時代初頭のキリスト教布教に使った版画を始め江戸時代250年間かくれキリシタンとして潜伏して信仰を続けられた方々の資料なども集められています。
 この資料館にある資料はどれも『迫害』ということばと裏腹の関係にあるなと思いながら見せていただきました。
 その中で、キリスト教の教えを伝えるための地獄図がありました。こういう図は仏教にもあって様々な地獄絵を描いています。この教えを信じなかったらこうなるぞと脅すわけです。これはおそらく方便として使われるのでしょうけど、何か人間の弱さにつけ込んだ方法のようであれ?キリスト教お前もかという事を思いました。地獄絵に慣れ親しんできた日本人にはこの版画が有効だったのでしょうか。
 その中で長崎で司祭として布教に勤め、母国ポーランドでナチスドイツのために飢餓収容所で殺害された方のパネルは引き込まれて読みました。

長崎大司教館

当初は司祭館として建てられたそうです。
ド・ロ神父と鉄川与助が共同して設計したそうです。
1915年(大正4)竣工。木造煉瓦造です。ベランダが設けられています。
 ところで上の写真ですが、左の写真は左側面です。そして真ん中は丁度真ん中で撮ったもの。そして右から撮ったのが右の写真です。  建物右側は煉瓦の切妻になっていて、左側は寄棟造りというおもしろい建物です。きつい傾斜地に建てられているので右は四階建てで、左は平屋のような入り口になっています。そして真ん中の写真で見ると二階建てで天井部屋でもありそうな建物に見えます。一体この建物内部はどうなっているのでしょうか。この建物を建てた二人の設計者はなかなかおもしろい建物を建てたなと思いました。
 ところで、鉄川与助さんのお孫さんがおじいちゃんのことを書いたHPを作っておられます。興味ある方にはお勧めです。
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