長崎煉瓦洋館紀行(3)

東山手オランダ坂を歩く

 「雨がそぼ降るオランダ坂に〜♪」だったと思うのですが、春日八郎さんの歌う「長崎の人」でオランダ坂というのを知りました。
 長崎へ行ってから知ったのですが、江戸時代の長崎では、外国(西洋人)=オランダだったようです。外国人のことはオランダさんといったそうです。そりゃそうです。当時出島にはオランダ人しかいなかったのですから。
 上の写真はオランダ坂の一方の入り口です。石畳で急勾配の坂がここから始まっています。その入り口に煉瓦の塀と煉瓦の建物が見えます。ところが、この建物、表へ回ると普通の和風の店。期待してたものですから何かガッカリというか笑ってしまいました。
 で、この反対側のオランダ坂の入り口はこんな感じです。こちらがわは、海岸沿いだったようです。
 なぜこの坂がオランダ坂なのかというお話。私はオランダさんの住んでる洋館前をオランダさんが歩くからかなと思ったのですが、そうではなくて出島のオランダさんの相手をするために丸山の遊女が歩いて行く道だったからとか。はてどれが本当なのでしょうか。

東山手洋風住宅群と東山手十二番館(重文)

 下左の写真の洋風住宅群は、明治20年代に中国人が上海の賃貸住宅をイメージして作ったという七棟の住宅。東洋と西洋が入り交じった異文化洋風住宅なのです。現在は「東山手地区町並み保存センター」「地球館」「古写真資料館」「埋蔵資料館」などに利用されています。 
 この東山手のオランダ坂にはキリスト教新旧各派創立の私学がいくつもありました。海星学園、活水学院は今でもあります。明治末には他にも鎮西学院他6校のミッションスクールがこの坂道にあったそうです。東山手は「学園の丘」でもあったのです。
 下右の写真は現在旧居留地私学歴史資料館になってる東山手十二番館です。この建物は、明治元年(1868)頃の洋館で重要文化財。ロシア領事館、アメリカ領事館、メソジスト派の宣教師住宅として使用後現在の使われた後、現在は私学資料館になっているのです。

重文
旧長崎英国領事館

 明治41年(1908)英国技師ウィリアム・コーワン設計、後藤亀次郎施工完成。
 右が海岸側の建物、左は大浦バンドと反対側の道路に面した裏口。オランダ坂の入り口からすぐ大浦町にこの旧長崎英国領事館はあります。
 残念ながら中へは入れません。しばらく前まで野口弥太郎記念美術館だったようです。今は、よく分かりません。裏口の建物は何か事務所として使われているようです。
 市電に乗っていると、この建物が目に飛び込んできました。オッ!と思いました。ところが後で市電を降りて写真を撮りに行ったのですがうまく撮れません。庭木が手入れされてない。せっかくの重文が生きてない…何か腹が立ってきました。持ち主はどうも長崎市のようなのですが、何とかならんかと思います。煉瓦好きのおじさんは宝の持ち腐れだと憤慨した次第です。
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