長崎煉瓦洋館紀行(4)
1945年8月9日午前11時2分…。アメリカ、広島に続き人類史上二度目の原爆「ファットマン」長崎に投下。
1945年12月末までで、死者73,884人、負傷者74,909人と推定。当時の長崎市の人口24万人。
原爆落下中心地公園と長崎原爆資料館
浦上天主堂遺壁 爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28年)から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914年(大正3年)に献堂式を挙げるにいたった。そして、1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊された。 東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はサベリオと使徒である。しかし雨風にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現状のまま内部及び表面の補強を行った。 長崎市は原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。 2001(平成13年)3月 長崎市 (原爆資料館) |
2008年10月4日(日)市電松山町電停下車。原爆落下中心地公園へ。下の川沿いにある。雨が降っている。この下の川へ降りていく階段に公園の下に埋まっているものが見えるようにしてある場所(被爆当時の地層)があった。お茶碗や生活道具が見える。この公園の下に今も無数の生活の断片が残されてる。
下の川は細い川である。この川に水を求めて人が集まりそして息絶えられたのだという。
長崎原爆資料館は、川向こうにあった。1996年(平成8年)に開館した。9時過ぎであったがほとんど人がいない。ゆっくり見せていただいた。
被爆体験の語りを映像とともに聞けるコーナーがあった。私は城山小学校で教師をしておられた女性のお話を聞いたが、途中から涙がこぼれた。
広島の原爆資料館は何度か訪ねたことがあるが、長崎は初めてである。925点の展示は心を動かされる。
1945年8月9日、小倉上空の天候が悪かったので第2目標であった長崎に投下したのだそうだ。京都もまた原爆投下の候補地であった。
現在地球上に核弾頭は26000発。威力も広島長崎で使用された原爆の数百倍のものから数分の一のものまで色々あり、発射方法や射程距離によって様々なタイプがあるそうである。旧ソ連・ロシアが15000、アメリカが10000、フランス348,イギリス195,中国145と資料に書かれてた。その他「核不拡散条約」に加盟していないイスラエル、インド、パキスタンはすでに保有しているようだし、北朝鮮の核も問題になっている。
広島長崎の資料館を訪れ核廃絶への強いメッセージを世界に発することから仕事を始める日本の総理大臣はなぜいないのだろう。アメリカ新大統領のオバマ氏は日本へ来たら、まず広島長崎を訪れて世界平和に対するメッセージを世界に発信してほしいものだ…などと考えたのだが。
浦上天主堂
原爆資料館を出て、浦上天主堂へ向かった。平和公園の横を歩いている。
浦上の天主堂では日曜礼拝をしておられた。たくさんの車が出入りしていた。私はキリスト教のミサを初めて見た。大きな天主堂に大勢の信者の方々が頭にベールをかぶり賛美歌を歌っておられた。大変美しいオルガンと歌声である。
神父さんの顔は見えない…ぐらい遙か彼方が祭壇である。この神父さん、外国人なのだろうか、日本語をしゃべっているのだが、外国訛のような日本語である。こういう日本語を聞くとちょっとイライラする。流暢に日本語を話したらいいのにと思う。ここは日本なのだから。日本人神父ならなおのことである。それともこういう訛をありがたがる信徒が多いのだろうか。
京都のホテルでの姪の結婚式は洋式でチャペルであったのだが、この時の神父さんも外国人であった。「ナヤメルトキモ…」などという舌足らずな日本語を有り難がっているとしか私には思えなかったのだが、今回も同じように思った。私のへそが曲がっているのだろうか。
江戸時代キリスト教弾圧の象徴的存在だった庄屋屋敷跡地にこの天主堂がある。
爆心地から500mにあるこの天主堂は原爆でほぼ全壊した。昭和34年(1959)コンクリートで再建。昭和56年(1981)ローマ法王ヨハネ・パウロ2世訪日を機に外壁を煉瓦タイルで改装した。
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼 (前略) 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、天主堂はほとんど破壊され、その後かろうじて残っていた堂壁や鐘楼も崩れ落ち、一部堂壁だけが残った。崩れ落ちた鐘楼の一つ(重量50トン)が現在もこの地に原爆被害の跡をとどめて眠っている。 爆心地に近い当地区は、17世紀初頭に始まるキリシタン禁令の時代からカトリック信徒の多いところであり、原子爆弾はこのカトリック信徒の聖地にさく裂し、約12000人の信徒のうち、約8500名が犠牲となった。 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。 |
如己堂と永井隆博士
煉瓦とは何の関係もありませんが、ぜひここを訪ねたいと思いました。長崎のあちこちで永井隆の名前を見ました。私は初めて聞く名前でした。
「長崎の鐘」という藤山一郎さんの歌があります。「こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさに…♪」「召されて妻は天国へ…♪」という歌でした。この歌は永井隆さんのことを歌ったものだと初めて知りました。
永井隆博士は島根県松江出身。長崎名誉市民第一号。長崎大学医学部の教授で放射線の専門家。妻は江戸時代から続く潜伏キリシタンの帳方の末裔。博士自身も洗礼を受け信者に。レントゲン撮影で被爆されていたからでしょうか、白血病で余命3年の宣告を受けておられたようです。
そして、長崎大学で仕事中に被爆。頭に重傷を負いながらもすぐに救護活動を献身的に行われました。自宅は破壊され、妻は爆死。その後も救護医療活動を継続されましたが、病に倒れます。病床で執筆されたり絵を描かれ、「長崎の鐘」「この子を残して」などがベストセラーになったという方です。博士のために浦上の人たちが建てた小さな家が「如己堂」で、帳方(潜伏キリシタンのリーダー)屋敷跡が永井隆記念館になっています。
如己(にょこ)…自分のことのようにという意味のようです。人のことを自分のことのように想う…ということでしょうか。こういう境地になることが理想でしょう。
如己堂 | 帳方屋敷跡の石碑と銘板 |
平和公園
長崎刑務所浦上刑務支所跡
平和公園のある場所の一角に「長崎刑務所浦上刑務支所」がありました。
爆心地から約200mの刑務支所は瞬時に倒壊し、受刑者未決囚、看守とその家族134人全員が死亡しました。その中には中国人朝鮮人45名も含まれていました。赤煉瓦の獄舎の基礎部分と外壁が残されていました。
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