かばのしっぽ日記2009・2010

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレってと、思う今日この頃であります。
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12月17日(金)
大阪光のルネサンス
 
 大阪の「光のルネサンス」を見てきた。先月は御堂筋の銀杏並木が色づいているのを見て、今月はその銀杏が電飾で飾られているのを見た。市役所前にはシンデレラのカボチャの馬車があった。中之島公園や中央公会堂そして御堂筋も美しかった。クリスマスが近づいてきたなと思った。 
 12月14日(火)
京都検定1級と採用試験
 12月12日(日)に同志社大学新町校舎へ行ってきた。京都商工会議所主催の京都検定1級の試験を受けるためである。
 烏丸今出川で地下鉄を降りて地上へ出たら、大聖寺であった。ここは椿が美しいのだが、塀越しに見事な白いサザンカであった。今頃神光院もきれいだろうなと思った。 
 ここ2年続けて1級のテストに落ちている。1年目は準備不足であった。しかし昨年は実力不足の完敗であった。とにかく難しかった。80%の回答率でなければ合格しないのだが、ここ2年あと5%前後届かないことが続いている。ちなみに昨年の1級合格率は5%余。
 昨年並みの水準なら今年もおそらく駄目だろうと思って受験した。しかし今年は昨年よりは常識的な出題だなと思った。きっと今年は合格率が大幅に上昇するだろう。だからといって私が合格に自信があるかと言えばそうではない。何とも記憶力が低下しているのである。これはいかんともしがたく、憶えられない・思い出せないの連続で???が百ほどつくぐらい情けないことであった。今年も確かにテキストで読んだのに思い出せないことがあった。しかし年に1回こういうテキストを読み直して憶えなおしたり、整理したりの学習は『ぼけ防止』になるかもしれないなと思った。ようし毎年挑戦し続けてやろうと思った。
 合格発表は来年1月26日以降だそうだ。まあ、あまり期待せずに待つことにする。
 11月28日(日)に来年の京都市の講師の任用試験を受けてきた。問題は「LDやADHDなど特別支援を必要とする児童に対する教育についての見解と方法」を800字で答えるというものであった。私は昨年も受けたのだが、「学力向上に対する見解と方法」を800字で答えるというものであった。聞くところによると、その前は「教師の資質向上のために何が必要か」であったらしい。まあ、こういうことを800字で書くと言うことである。私は今年の問題はなかなか現代らしいよい問題だなと思った。この発表は今年中にあるとのことであった。
 11月15日(月)
「下流志向」と白鵬負ける!
 今日は朝起きたら小雨だった。
 13日(土)が休日参観日だったので今日は代休日で、スクーターに乗って神護寺から高山寺さらに常照皇寺から美山町へ行って紅葉の写真撮って温泉入って来るつもりだった。雨では仕方がないので、研究会の案内の手紙を送付することにした。思っていたより時間がかかって午前中それに没頭した。
 午後から出かけようかと思ったが、天気もよくないし本を読むことにした。
 今「下流志向」(内田樹著・講談社文庫)を読んでいる。副題が「学ばない子どもたち 働かない若者たち」である。生産労働者として社会との関係を始めるのではなく消費者として社会との関係を始める今の子どもたちは、学校での学びの価値を自分の不快貨幣(我慢してあげている)と等価交換しているのだという。不快感は家族生活の中で醸成されているのだという。父も母も子どももその不快感の表現の大きいものが家庭内で主導権を握っているのだそうだ。
 学校教育制度そのものはもともと「どうして教育をうけなければならないのか」という問いを想定していない。こういう問いを発したら絶句するしかないのだという。そして、世界には学びたくても学べない子が何億とおり、歴史的に見ても「なぜ教育を受けなければならないのか」などという子どもは希有な存在なのだということが分かっておらず、「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていないのだという。
 これは「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して「そのような問いがあるとは思っていませんでした」と答えるのが正解という問いだって世の中にはあることと同じだという。もし絶句しているだけで納得しない中学生がいたら、その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いする手もあると書いておられる。そして殺人に対しては自分が殺される側に立って物事を想像する力がないことを指摘しておられる。
 子どもの思いもよらない反応に戸惑っている大人にとって、なかなか面白い仮説を立てておられて読み手を惹き付ける。このあとどう話が展開するのか楽しみだ。
 それで5時過ぎたので、読書を中断して大相撲をTVで見ることにした。
 私は子どもの時から大相撲好きであった。小学生の時に将来の夢を聞かれて「お相撲さん」と答えていた。
11月6日(土)
TTの仕事 
 10月25日からフルタイムで働いている。
 3月に定年退職して4月から非常勤講師として週27時間1年生の「学びのパートナー」という仕事をしてきた。しかしお休みをとられた先生がおられて、そのピンチヒッターで常勤講師になった。今、3,4年生の算数のTT(ティームティーチング・教師二人体制)の一人として働くことになった。
 「非」がつくかつかないでどう違うのかとお思いになる方もおられることと思うが、常勤講師になると週40時間フルタイム勤務になる。研究会や研修会へ出席しなければならないし、委員会やクラブ活動も指導する。
 私は長年担任をし続けてきたが、自分がTT指導をしたことがなかった。かえってもう一人先生がおられたら何をしていただくかで戸惑うだろうなと思ってきた。
 4月からやっている「学びのパートナー」という仕事は担任の補助でTTの仕事のようなものだったのだが、あくまでもT2で、授業をするのは担任だ。
 今はT2として教室に入る場合と、クラスを2つに分けてT1として授業する場合とがあって、久しぶりに授業をしている。やっぱり授業をするのはおもしろい。学級担任は授業だけしていればよいわけでない。生徒指導も給食指導も清掃指導も保護者対応もすべてあるので大変だが、私は授業作りに専念すればよい。教材研究して掲示物やプリント類を作成しながら、他の先生たちもこのぐらい授業作りに時間がかけられたらいいのになと思う。楽しくおもしろいよくわかる授業は時間的な保障がないとなかなかできるものではない。
 私のような立場の教師はまず担任としっかり意思疎通することが大切だ。そして担任が仕事をスムーズに進められるように何をすべきか考えなければならない。
 それにしても、フルタイムで働くと疲れるようで、最近TV番組を見ながら寝てしまうことが増えた。体も頭も週27時間労働に慣れてしまっていたようだ。
  
0月9日(土)
きっと弘法も選んだだろう

 
 久しぶりにテニスラケットを買った。今使っているものは5年以上使っているもので相当塗装も剥げてきていた。ガットを張り替えてもらったら、何か部品が欠けているそうで、擦れて切れるかもしれないと言われた。そのガットがどうも切れそうな状態になっているので買うことにしたのである。
 プリンスというメーカーのラケットを愛用してきたので今回もそうすることにした。サンダー105はガットともで29,000円弱の値段であった。それを持ってレジへ行ったら、17,000円でおつりがくるような値段を請求された。?である。不必要なラケットを1割引きで下取りしてもらうことにしたのだが、それにしても間違っているのではないかと思った。せっかく安く言ってくれているのだから黙ってようかなとチラッと思ったが、やっぱり気が引けて
「1万円間違ってませんか?」
と聞いた。二人のレジ係の人は
「いえ、間違っていません」
とおっしゃった。
 すごく儲けたような気になってうれしくなった。しかしこうなるとなぜ安いのかが気になる。私の買ったラケットは旧型なのか、新モデルがもう少しで出るので安くなっているのかもしれない。私は自分で握って確かめて買ったので、これで何の支障もない。
 テニスをしておられる方の中には、ラケットやウェアーにお金をかけておられて、こういうことに敏感でよくご存じの方がおられる。対戦するときに、相手のラケットや出で立ちを見てどの程度の相手なのか値踏みすることもあるようだ。新しいラケットを持っていると、「○○ですね」とすぐに尋ねる人もいた。私は相手が何を持っていようが何を着てようが、全く分からない。
 私のテニス歴も20年近くになるが、色々のラケットを試したことがないのでその違いが分からない。ガットも色々種類があるがその違いが分からないので毎回迷う。
 書道家の榊莫山さんがお亡くなりになったそうだ。莫山さんは旅先などで色紙と筆を出されて「何か一筆」と頼まれることを嫌がられたそうである。「弘法は筆を選ばず」ではなかったのだそうだ。
 まあ、道を究める人はその道に通じている人なわけで、道具にこだわらないはずがないということだと思う。私のテニスはその程度の楽しみなのである。それで今日はその新しいラケットで楽しむ予定だったのだが生憎の雨で残念ながら使えない。
 
10月2日(土)
鯖寿司 
 御香宮は伏見九郷の総鎮守であり、今も伏見全町の総氏神です。その神幸祭は“伏見祭”と呼ばれ洛南随一の大祭です。私はその氏子町内で生まれましたので10月初旬のこの時季になりますと、ああ、祭りだなと思います。引っ越しして今は藤森神社の区域に住んでいますがそう思います。
 お祭りのごちそうと言えば鯖寿司、栗赤飯、巻きずしだと思うのですがどうでしょうか。中でも鯖寿司はなくてはならないものだったように記憶しています。祭りが近づくと祖母や母は鯖寿司を作っておりました。それがいつ頃からか作らなくなり寿司屋で注文するようになりました。きっと手間がかかるのだろうと想像しておりました。
 写真展をいっしょにしている方が、毎年鯖寿司を作って持ってきてくれます。「えっ!すごいなあ、作れるの!」と感心しました。そして私も作ってみようと思い昨年挑戦してみました。何とか作れるものです。竹の皮と塩鯖とご飯とすし酢を用意して鯖寿司用の箱形があれば何とかなります。
 今年も今から作ります。昨夜から鯖の小骨を毛抜きで抜いて(これが面倒かな)すし酢につけてあります。ご飯も炊けたので作ります。
 こんなことをしていますとちょっと祭り気分になって、久しぶりに神社へ出かけようかと思います。
9月29日(水)
1kg太った 
 この1ヶ月で1kg太った。そう言えばこのところズボンがきついと思っていた。久しぶりにあった親戚のものに「太ったな」と言われた。「そんなことはない」と言い張っていたのだが数字ではっきり出ては認めざるをえない。四国遍路をして確かに体重が減った。それに安心してしまったようだ。
 9月に入ってから根を詰めてしなければならないことが続いていた。プールへ通うことも出来なかった。
 ボテッとだらしない顔を鏡に映しながら「ヤセナクチャ」と決意しているがなかなかうまくいかない。まず1kg落として一ヶ月前の状態へ戻すことにしよう。 
8月12日(木)
めだかその後2 
 いったい何匹ぐらいのめだかが孵化したでしょうか。たぶん100以上だったと思います。青めだかや白めだかの稚魚がいっぱいいたのです。かわいくて毎日眺めていました。それを蓮鉢にまとめて入れていたら、6月の梅雨時分から日に日に数が減り始めました。理由が分かりません。雨が降りすぎてめだかが溢れ落ちたのかなとか、少し早く孵化したのが食べたのかなとか、考えましたが分かりませんでした。石臼の稚魚もその他の甕のものも徐々に数が減りました。
 最終的に青めだか3匹(2匹は3cm以上1匹は1cm)と白めだか3匹(2匹は2cm、1匹は1cm)黒めだか1匹(これ真っ黒です1cm)緋めだか1匹(白に緋がかかっている3cm)が残りました。
 バラバラに4つの甕や石臼の中にいたのですが、いっしょに入れることにしました。青めだかは十分成長しているのが2匹いるのですが雌雄がはっきりしないので2匹だけで飼うのもいかがかと思ったのです。
 昨日甕の水を換えました。カルキ抜きの薬を入れて天日にあてました。甕の中の水草(これはすごく増えます)を間引きました。甕の中にめだかを入れないとボウフラが涌きますので、ペットショップへ行って黒めだか(10匹540円)と緋めだか(10匹120円)を買ってきました。元気に大きく育ってまた孵化したらいいのになと思っています。
 めだかを飼うのもなかなか難しいものです。
 8月9日(月)
日作滋賀大会基調提案
 8月5日(木)〜7日(土)3日間滋賀県近江八幡市で第59回日本作文の会全国大会が開催された。全国から今年も大勢の方たちが集い、生活綴方(作文)教育を語り合った。
 この大会に私が初めて参加したのは教師になって3年目の夏であった。第24回(1975)岐阜市で行われた大会であった。それから35年間幸いなことに健康にも恵まれ一度も欠席することなく参加してきた。今までこの大会で私はたくさんレポートをしてきた。退職すればもうそれもできないから今回のレポートが私の最後のレポートになった。
 思い返すと、初めてのレポートは4年生の児童詩のレポートだった。新採用で3,4年と持ち上がった最初の仕事を話した。一生懸命お話ししたのだが、途中居眠りをしておられる方があちこちにおられることが発表席から見えた。
 33回(1984)京都大会開会集会では「現場からの報告」をした。42回(1993)高知大会では閉会集会で実践報告をした。49回(2000)京都大会は現地実行委委員長であった。
 それぞれ身に余る大役を引き受けてきたのだが、今年は高学年児童詩分科会レポート以外に、開会集会で基調提案もすることになった。これは今までの実践報告とは勝手が違った。今までは自分のしてきたことをどう話すかに集中すればよかったのだが、今回は俯瞰的に物事をとらえ、他の方のお仕事を引用しながら論理的に作文教育について語る必要があった。私が苦手なことの一つである。まず様々なものに目を通す必要があった。集中的に色々読んだ。約一ヶ月で準備をしなければならなかったのでまさに突貫工事であった。
 今までの私の準備ぶりとかなり違っただろうし、提案日に近づくにつれて緊張している様子が見えたのかもしれない。当日妻から「がんばっておいで」と励まされて苦笑してしまった。
 その提案も終わり、さあ四国八十八カ所へ出発!と思ったらお盆休みに入っている。阿波踊り間近の徳島は宿も確保できないであろう。バイクは点検したのだが、まだ荷物が作れていない。歯の治療のための通院も残っている。それに家の中の荷物の整理(特に本)をしなければならないなどがあって、いましばらく出発に時間が必要になっている。
 退職したことでもあるしこのHPで今までの自分のレポートや実践記録を読んでいただけるような場所を新設しようかと思っている。
7月22日(木)
明日から夏休み!
 
 今日まで仕事でした。明日から夏休み。私は非常勤講師ですから夏休み中は雇用が切れます。今日年休届けなどの整理をしてから帰ってきました。例年なら夏休み中の動向などの報告をしてきました。旅行届けなども書かなければならなかっのですが、今年はその必要がありませんでした。まあ、何という自由さでしょうか。
 ところで今朝通勤途中写真を撮ってきました。それがHPのハスの花です。しばらく前からあれ?ハスの花が咲いてるぞとその前を通過していたのですが、この2、3日前から急に花の数が増えてきました。やっぱり何事も旬の時季があるようです。これは写さなければと今日はカメラを持って早い目に出かけました。
 私はハスの花が好きでここ数年法金剛寺へ早朝出かけて写真を撮っています。しかし毎日見に行くわけではないので旬を感じることはありませんでした。新しい発見でした。
 新聞報道によると今年は梅雨が長かったのでハスの花の開花が遅いとか。京都法金剛寺、奈良菅原寺へ近いうちに出かけたくなりました。  
7月21日(水)
グキ! 
 今朝、めずらしく朝食は、おにぎりでした。うちはだいたいパンなのですがどういうわけか(実は食パンがきれただけのこと)おにぎりでした。おっ!めずらしいな、うまそう!と思いながら一番手前にあったおにぎりをパクッといったら
「グキ!」
という音!何とうめぼしの種をかんで歯が折れてしまったようです。それにしてもすごい衝撃でした。
「うわあ!歯(はあ)折れた!」
と叫びながら洗面所へ行って見たら、グラグラの右下六歳臼歯!そしてつめものの側面が折れて隙間ができていました。しかも痛みがありました。
 入れ歯!?と想像がいって、急にうわあかなわんなと思いました。とにかく歯医者さんへ行かなければと思いました。
 昼食のあと、舌で歯を触っていたら、詰め物がとれました。よく見たら金色をしていて、「ひょっとして、これ金歯?」と思い、歯医者さんへ持って行かなければとすごく大事なものを見つけた気分になってポケットに入れました。
 仕事が終わって、予約をして歯医者さんへ行きました。
 「どうしました?」
「はあ、うめぼしかんだら、歯が折れました」
と言って、看護婦さんから笑いをとりました。「こんなとこでうけてどうすんねん」と思いながらそれでも客観的には自分の境遇がかなり喜劇的であることは理解できます。
 そのあと、先生は抜くとはおっしゃらず、詰め物をして虫歯治療をすることを選択されました。私はよかったと一安心しました。
 ちなみに大事に持って行った金色をした詰め物は、何の役にも立たず「せっかく持ってきてもらったのですが…」と先生から返してもらいました。私も使い道がないので「すみませんが(、削った歯)といっしょに捨ててもらえませんか」とお願いすることにいたしました。 
 
 6月22日(火)
しんどかった!
 この春から時間に余裕があるので水泳をしている。やせようと思ったのである。
 私は二十年ほど前、ひどいぎっくり腰になった。その時何をしても効果がなかったのだが、水泳を勧められて1年間やってみたら、腰痛がましになった。さらに、体重が5kg落ちた。久しぶりにあった人は私が「がん」にでもなったのではないかと心配してくれた。
 水泳はまさしく一石二鳥の効果を発揮してくれたのである。
 今回は腰痛はないので、ダイエットが主な目的で始めた。4月中旬からおおよそ1週間に3回のペースで約1時間水の中を歩いたり泳いだりすることにした。私は泳ぎは下手である。自分でもちっとも進まないなと思う。だから必死で泳ぐのでダイエット効果が多分あったのであろう。今回もすぐに体重が落ちるだろうと期待したのであるが、2ヶ月経過して何の効果もなかった。体重は現状維持。そして水泳のし過ぎか腰が痛くなった。のりかかった舟だから今更止めることもできないからもう少し頑張ってみようかと思っていた。
 ところが、先週から今週にかけてこの10日間あまりで私の体重は3kg落ちた。いやしんどかった!私はお腹をこわしたのである。先々週の土曜運動会のあと、どうも冷たいものをとりすぎたことと、お腹を出して寝ていたことが原因のようである。先週は1日仕事を休んで、少しましになった。が、また土日は食べられないし(食欲がない)寝てばかりいた。寝ていればトイレに通うことも少なかったので楽だった。
 思わぬことで体重が落ちた!これは喜ぶべきことか悲しむべきことか…。
 昨日あたりからやっと気力が戻ってきた。病気中は本当に何もやる気が起こらずフラフラしていた。
 約3kgの病気によるダイエット効果…これは災い転じて福にしなければいけないなと今思っている。それにしても牛肉1kg買ったらかなりの量になる。それが3kg…ううん、一体どこの肉が減ったのだろう。
   
5月30日(日)
めだかその後
 
 この一ヶ月の間に青めだかが1匹減って7匹に。白めだかは3匹死んで同じく7匹に。緋めだかは2匹減って18匹。黒めだかは全滅して0匹に。
 カラス対策として、石臼や蓮鉢に網をしました。カラスは水の中に食パンや鶏の唐揚げの骨などを投げ込むのです。水を飲みに来るのか、カラスがくちばしを入れた後は油が浮いて、水が汚れて黒めだかは3匹死にました。7匹いた黒めだかを緋めだか(20匹)といっしょにしておいたら7匹ともいなくなりました。私は緋めだかが駆逐したのではないかと思っています。カラスなら緋めだかもやられるはずだと思うのですが、これは謎です。白めだかが死んで浮いているのは確認しましたが他は不明です。
 今日は水替えをしました。 
 というのはめだかの子どもが孵りはじめたのです。卵の付いたホテイアオイを成魚と別にしておいたら孵りはじめたのです。やはり水温が上がりはじめたら孵るようです。成魚のいる鉢でも孵りはじめたので、思い切って大きい鉢を子めだか用にしました。成魚の方が引っ越しは簡単だからです。
 青めだかは成魚ですが、白めだかと緋めだかはまだ子どもですから卵を産んでいないと思います。子青めだかは今日数えてみたら30数匹孵っています。きっとこれからも孵り続けるでしょうからまだ増えそうです。わずか数ミリの青めだかの子が元気に泳いでいるのもなかなかかわいいものです。 
5月5日(水)
めだか 
 青めだかが石臼の中で冬を越しました。何とか8匹残りました。そのうち2匹は黒めだかに先祖返りしたみたいでどうも黒にしか見えません。
 昨年末12月25日四国徳島の大谷焼の窯元へ行って睡蓮鉢を買ってきました。この春から使っています。
 4月4日、四国三十三カ所巡っているときに長浜近くの道の駅で古い「火鉢」を買いました。
 5月1日に信楽へ行きました。そしてまたまた睡蓮鉢を買ってきました。大谷焼に比べたら安いのでびっくりしました。大谷焼1鉢買う値段で、5鉢ぐらい買えそうな値段でした。
 というわけで、めだかが増えても大丈夫な体制ができたので、5月2日今度はめだかを買いに行きました。
 私がよく行く日曜大工センターで緋めだかや金魚を売っているのを思い出して行きましたが、入荷してないとかでコーナーそのものが無くなってました。店員さんに聞いたら、「めだかなら、隣のペットショップにありますよ」と親切に教えてくれました。隣にペットショップが開店したらしいのです。さっそく見に行きました。
 初めてペットショップに足を踏み込んだのですが、ビックリしました。下は犬など売ってたのですが、満員でした。二階に熱帯魚などのコーナーがありました。その一角に確かにめだかを売ってました。その前でアメリカザリガニを売ってました。アメリカザリガニを売る!?です。いや、しばらく前ならめだかもそうだったでしょう。
 私は緋めだかを買いに行ったのですが、オープニングセールで1匹9円でした。普段は20円らしいです。その横に青めだかと白めだかを売ってました。なんと1匹280円!私は家で泳いでいる青めだか全部で2,240円と計算してしまいました。緋めだかとの値段の違いにもびっくりしました。その日は緋めだかとホテイアオイ3つを買って帰りました。青めだかはお腹が大きくていっぱいたまごをくっつけて泳いでいるのでホテイアオイが必要なのです。
 5月3日、信楽で買った睡蓮鉢は黒で、買ったときに店の人が「白めだか入れたらきれいですよ」とおっしゃってました。それが見たいと思って白めだかを買いに行きました。このペットショップには他にも「オレンジ」と「楊貴妃」という金魚を売っていました。「オレンジ」は1匹380円、「楊貴妃」は1匹600円だそうです。「オレンジ」も「楊貴妃」も同じオレンジ色で私には緋めだかとどう違うのか見分けがつきません。
 昨日は気がつかなかったのですが、青めだかの横に黒めだかがオレンジ色のドジョウといっしょに売っていました。黒めだかは、1匹60円でした。これも買うことにしました。
 というわけで、私の家に今4種類のめだかがいます。
 
 今困っているのは、このめだかをねらっているのか、カラスが睡蓮鉢や石臼に食べ物を置いていったり、羽を浮かせていったり、水を汚していくのです。どうにかならないかと今頭悩ましています。

 ついでながら、めだかについて私が最近知ったこと。
 日本古来のめだかは黒めだかです。この黒めだか、日本各地で独自の進化を遂げているそうで、遺伝子的にも違うものになっているようです。ですから、飼えなくなったからと、ペットショップで買ったもの(どこのものか分からない)を川などに放流したら、生態系を破壊することになるそうです(遺伝子汚染)。ちなみに黒めだかは絶滅危惧種に認定されています。めだかそっくりな外来種「カダヤシ」との競争にまけたこと、川の護岸工事、農薬の影響などが原因のようです。
 緋めだかは江戸時代に日本で作り出されたものだそうです。この緋めだか養殖していて、ペット用肉食魚のえさにされているそうです。5年生の理科で学習するだけかと思ったら、そうでないようです。だから安いのか…とかわいそうになりました。
 めだかは繁殖力の強い魚なので、様々な生体実験にも利用されているようです。内臓がはっきり見える透明のめだかは、医学の世界でなどなど変異種が次々作られているようです。発光遺伝子をもつ「光るめだか」とか、背骨の曲がった金魚のような「だるま」という種類とか、人間の観賞用に次々変異種が作られ、またそれが商売になるようです。  
4月25日(日)
信じられない 
 金曜日のことです。
 前日の雨で水たまりがあちこちにありました。体育の授業準備を終えて、運動場から校舎へ戻ろうとした私は10段ほどのコンクリートの階段を一番とばしで上がりました。そして一番上へ行ったとき、バランスを崩しました。別に石に躓いたわけではありません。
 あれ?何か変な感じ…これはこけるのかな?そんなはずはない!こんなことでこけるわけがない。でも何かこけそう、足が出ない…などと考えているうちにストップモーションでコマ送りしているような感覚で前のめりに倒れました。
 そこは水たまり。手をついて右の耳あたりが水につかってしまいました。かろうじて地面と顔の激突は避けられたようです。
 これは、見られたかな?急いで立ち上がって、まず今までいっしょにいた運動場の真ん中のお二人の先生が見ているか確認しました。お二人は大きな音でもしたのでしょうか、私を見て「大丈夫ですか?」と声をかけてくれました。本当は全然大丈夫なことありませんでした。とりあえず、「大丈夫です」とこたえておきました。
 右手の肩から下は泥水でびしょびしょ砂だらけ、セーターもカッターシャツもシャツまでも。情けない限りです。手のひらは両手ともすり傷。特に左手からは出血しています。
 こういう倒れ方は今までないことでした。不思議な感覚でした。
 すぐに更衣室へ行って着替えました。できれば他の方に知られたくなかったのですが、血が止まらないので保健室で手当てしてもらいました。本当に情けないやら恥ずかしいやら。
 これはどういうことでしょうか。老化…それしか考えられません。加齢による体の変調をお医者さんに指摘されたことは今までもありましたが、日常生活のレベルでのこういう違和感は初めてでかなりショックでした。 
4月20日
満願成就
 3月31日から西国三十三カ所霊場巡りをはじめていましたが、4月18日無事に満願成就しました。今ページ作りが進行中です。今日、各お寺の朱印の写真を撮り終えてUPの準備ができました。その1は完成しました。その2その3を同時進行で進めます。こちらのページ作りも楽しみにしようと思っています。
 4月5日からは新しい勤務先で新しい仕事が始まるのでそれまでの5日間で何とかなるかなぐらいの軽い気持ちでした。全く西国霊場巡りの実情を知らないのうてんきなことでした。
 新聞社や旅行者などが催す霊場巡りツアーは1年がかりで12回ほどに分けて行うようです。全くそういうことも調べずに「行こう!」と考えているのですから。霊場巡りと言っても今まで行ったことのあるところが半分以上あるし…これも気楽に考えていた理由の一つです。
 退職して、再出発のきっかけを何にするかと考えて西国33カ所霊場巡りを選んだのだなと今になって思っています。
 バイクで出かけ夕刻が迫った場所でねぐらを探す…気に入った場所が見つかればしばらく逗留する…その土地土地の温泉や銭湯を巡る…たくさんの仏さんに出会う…写真を撮る…そういう旅がしたいと思ってきました。
 しかし退職したものの、次の仕事をすると決めたものですから、しばらくはこの夢も封印です。私の5日間の自由な時間はのんびりしたものではなく、とにかくどう巡ったらよいかという能率を考えるものにいつのまにかなっていました。第一番札所から三十三番まで順に巡れば、きっとなぜそういう順にしたのかの理由が分かったり、古道が想像できるかもしれないと思ったのですが、実際はやはり能率よくが優先しました。
 新しい仕事は、今までのように朝の7時半に家を出て夜の7時とか8時まで職場にいる必要がなく、午後1時半か2時半には職場を離れることが可能です。その時間を利用して京都近郊を巡り、遠いところは土日の休日に巡るという計画にしました。
 結果延べ日数16日で巡り終えました。
 考えてみると、学生の頃は時間はありましたが、お金がありませんでした。働きだしたらお金はありましたが、自由な時間が限られてきました。芭蕉や西行、円空や木喰や山頭火にあこがれるのは、彼らが自由に心の赴くままに旅をしているように見えることへのあこがれなのかもしれません。
 たぶんこれからも私は自由に旅をすることはできそうもないように思います。きっと、何日までには帰ってこなければいけないというような旅であろうと思います。旅にあこがれながらも、さみしくて寂しくてすぐに帰ってきそうに思います。
 西国三十三カ所霊場巡りが終わったので、次の目標は四国八十八カ所霊場巡りです。これはこの夏に実行しようかと思っています。バイクで2週間で巡れるかな…と考えています。8月に滋賀県近江八幡で行われる日本作文の会大会が終われば自由になるので、それから出発しようかと思っています。 
 4月2日(水)
退職
 3月30日(火)に離任式がありました。退職する者と新しい勤務校へかわる者が子どもたちや保護者に挨拶する式です。夜に送別会があってそれが終わって実質私は退職しました。
 私は幸い37年間大きなけがや病気をしませんでした。毎年担任を外れることなく続けて、2日以上の休みをとったのは全国教研のレポーターのために休んだ1回だけでした。一体何人を担任したのでしょうか。単純に30人ずつ担任したとしたらのべで1,170人になります。しかし2年続きで担任することが多かったですからきっと600人くらいでしょうか。いやもう少し多いかな…?
 「やっと終わったなあ」というのが実感です。
 「寂しい」とか「もっと教師をし続けたい」という気持ちにはなりません。「せいせいした」とか「晴れ晴れした気分」でもありません。
 やっぱり「やっと終わって自由になるな」というのが一番正確な気持ちです。

 ああ、これであれはしなくてすむなと思っていることです。

@私には全く意味のない、あるいはほとんど意味のない提出物(レポート・アンケートなど)を書かなくてもよくなること
 たとえば以下のようなものです。
 ・自己評価(教科指導・生活指導・学校運営への貢献そのプランと途中経過そして反省) ・自己研修計画 ・学力向上プラン(計画と途中経過と年間反省) ・学校評価 ・○○教育という名の授業案と反省(人権・外国人・男女平等・性教育・食育・英語教育・総合) ・週案(これはかろうじて書いてよかったと思うときもあるが毎週提出する負担は大きい) 

A 通知簿をつけなくてすむこと
 私は授業をするのは好きですし楽しいと思います。しかし、評定をして子どもと保護者に通知簿を渡すことはいつまでたっても苦痛でした。
 授業するときは全員分かるように、できるように願って授業します。しかし通知簿をつけるために段階を付けて子どもたちを評価するとき、どうしても全体の中でのその子の位置を考えざるをえませんでした。励ますために通知簿を利用したかったのですが、やっぱり輪切りにした通知簿しか作れなかったなと思っています。
 もう一ついやだったわけは、通知簿の評価項目がわけの分からないものだったからです。教師の私も何のことかと思う項目がズラーッと並んでいます。算数の「数学的な考え方」と「知識理解」は分かるとして「表現処理」って何のことか分かりますか?こういうわかりにくさは、まだ国・算・社・理はまだましで、図工、音楽、体育では不可分のことを無理矢理分けて評価しているとしか思えませんでした。これなら大昔の5段階評価の方がよっぽど親にも教師にもわかりやすいとよく思ったものでした。何より一時期学校に裁量権のあった通知簿が教育委員会のモデルに合わすことしかできなくなって学校に自由がなくなって教師が評価のありかたを真剣に考えなくなったことが致命的でした。

B謝ってばかりいなくてすむ
 「すみません」…親との関係がややこしくならないためには先に謝っておく方が無難です。親は結果を問題にすることが多いから結果が出ていないことについては「すみません」「申し訳ありません」なのです。やがて分かってもらえるときも来ると思う方がうまくいくように思います。
 「すみません。ご迷惑をおかけします」「どうもお騒がせしました」…公共交通手段を利用するとき乗客の方々みんなに声をかけていました。そして子どもたちが行儀よくいてくれるように指導もしなければなりませんでした。公共的なマナーは本来家庭でのしつけに関わることだと思いますが、遠足などで乗り合わせると批判の目は教師や学校に向きます。これも先に謝っておく方が無難でした。
 要するに、現状に棹さして自分の信念を主張することは疲れることです。そのまえにとにかく謝ってしまえ!ということです。
 自分のせいでもないことで「すみません」「申し訳ありません」を言っていると「ナンデヤネん!」と言いたくなります。卑屈になっているのではないかと思ってしまうときもあるのです。

 他にもしなくていいことがありますが、そういうことから自由になれます。
3月21日(月)
映画を見る
 
 久しぶりに映画を見に行ってきました。
 最近の映画館は一カ所に集中していて便利なのですが、ああいう形式になってからよけいに足が遠のいたようです。
 そういうことでいうと、しばらく前の映画を二本立ててやってくれる「祇園会館」は私の性に合っています。ちょっと興味あったけど見に行かなかった映画をやってくれるのです。
 祇園会館は「剣岳・点の記」と「火天の城」でした。いずれも昨年度封切られた日本映画です。
 「剣岳・点の記」は新田次郎原作なのですが、この原作も読んでいません。妻は読んでいて「おもしろい」と言っていたので見に行く気になったのですが、なかなかの力作だと思いました。何より映像が美しい。自然の過酷さも表現されていました。
 香川照之に存在感がありました。この人「龍馬伝」の岩崎弥太郎役もいいなあと思いますが剣岳のガイド役もよかったです。
 主人公の人物像(柴崎)が捉えきれませんでした。明治の男は寡黙であったとしても無表情に終始しました。役者のせいなのかどうかは分かりません。
 宮崎あおいがその妻の役で出演していました。NHKの篤姫役は今まで知らなかった人物だっただけに宮崎あおいが篤姫そのものでした。しかしながら今回の妻の役はどうでしょうか。笑顔が素敵なかわいい妻なのですが、現代のかわいさを演じる妻でした。宮崎あおいはかつらの似合う女優さんだと思いました。
 「火天の城」は凡作だと思いました。西田敏行は上手いと思いますが太りすぎと年齢からか動きにキレがない。その妻役の大竹しのぶも笑顔が素敵ですが結核患者の割に恰幅がよすぎます。この映画の最大の欠点はワクワクドキドキ感がないことです。たぶんこういうことになるだろうなという展開にしかならいことです。石工・大工・木こりという専門的な技術者間に通う互いを尊敬し合う情だとか、夫婦の信頼感を強調した日本人好みの人情映画の系譜を踏襲した凡作でした。 
3月20日(土)
卒業しました 
 わたしの最後の教え子たちの卒業式が昨日ありました。
 この子たちを3年間担任しました。3・4年生の時と6年生です。
 私は以前3,4,5,6年と引き続き担任した経験が2回あります。しかしその時は、五年生でクラス替えがあって、3分の1もしくは4分の1の子を4年間担任したのでした。
 今回はクラス替えのない単級の子どもたちでしたからクラス集団として3年間担任して卒業式を迎えることになりました。
 子どもたちが「よせがき」をしてくれました。手紙をたくさんくれました。そしてプレゼントを用意してくれていました。昨晩その一つひとつを見ながら楽しい時を過ごすことができました。
 何度も卒業生を送り出してきましたから、「よせがき」も「手紙」も「プレゼント」もそれ自体は珍しいことではないのですが、今回の子どもが書いてくれている文章にはある特徴がありました。私へのメッセージとして書かれていたのは、「小宮山先生の授業はおもしろかった」「楽しかった」「よくわかった」という内容でした。
 私はこういう風に総括的に評価される教師として最後を迎えられたことを幸せなことだと思っています。
 私の勤めている学校は「子どもたちはいい子たちだが、学力的に問題をかかえる子が多く、人数が少ないこともあり中学校進学後、人間関係に悩み不登校になりやすい子がいることが課題だ」と赴任時説明を受けました。
 「学力が低い」という評価はその地域の経済状況や親の経済状況によって左右されることが多く、私の赴任した学校の大半は「学力が低い」と言われていました。しかしながら学力が低いことを「親のせい」や「地域のせい」だけにすることは、教師としては易きに流れがちになります。「○○だから仕方がない」「これだけやっているのに成果が出ないのは○○だからだ」ということになりがちです。
 幸い私は学力形成に重要なポイントとなる中学年(3・4年)を担任することができました。そしてもう一つのポイントとなる6年生を担任することができました。私が立てた学力向上計画はある程度効果を上げたと言えます。私のクラスの子どもたちは、全国学力テストにおいても、京都市独自の教育課程テスト(1回)、ジョイントプログラムテスト(2回)においても平均点を相当高く上回る結果を示しました。
 もちろんこういうテスト結果だけが学力の全てではありません。
 しかし、学力向上が至上命令として文部科学省・教育委員会・行政側から教師攻撃の材料として使われている昨今、相手の土俵で圧勝することは、私には意味のあることでした。
 では、それはどういう計画であったのか、なぜこういう結果をもたらしたのかについてまとめる作業をしていこうと思っています。
 それを4月17日の京都市つづり方の会4月例会で、「卒業しました」というタイトルで実践報告します。もちろん作文や詩の話もします。
 今年の3月31日で私は退職です。もっと自由に話ができるかなと思っています。
2月21日(土)
ひげを伸ばす
 
 今年初めからあごひげをはやしています。
 評判は様々で「似合う」という人と「やめたらいいのに」という人と、大人はまあ半々です。
 わかったことは一月でひげは約1cm伸びると言うことです。
 「伸ばすの?」「なんでまたひげなんぞ?」という質問が困ります。それほど固い決意でやってることでもないからです。
 子どもの反応のいくつかを紹介します。
その1
 「先生、なんでひげ伸ばしてるの?」
 「そんなん聞かんとき、おしゃれやんか」
その2
 「先生、ひげのびてきたんか?」
(そんなもん急に伸びません)
その3
 「先生、やめといたら。前の方がよかったで」
その4
 伸びているのはわかっているけど何もなかったような顔をしている。
その5
 「先生、なんでひげ伸ばしてるの?」
 「男しかできひんからやんか。」
 「そうくるか」 
 2月14日(土)
鼻のレーザー手術
 2月も半分すぎてしまいました。
 耳の方は一月たってやっと元の状態に戻りました。突発性難聴ではなかったようで、鼻炎や副鼻腔炎から中耳炎を併発していたようです。一月かかりました。その治療は途中から中耳炎より鼻炎や副鼻腔炎の方に重点が移りました。
 子どもの頃よく耳鼻科へは通っていました。学校で耳鼻科の検診があるたびに「鼻炎」という紙をもらって医者で診察を受けるように言われました。ほぼ毎日医者に通いましたが完治することはなく、そのうちにそういう紙をもらっても「ああ、また」とオオカミ少年状態になっていました。
 大人になっても特に困ったこともなく過ごしてきました。
 しかしここ数年前から臭いがしなくなってきていました。梅の香りはもちろん、クチナシの花、チンチョウゲの花も感じません。あのむせかえるように感じるキンモクセイさえにおわないのですから悲しくなります。きっとにおいがしないと言うことは料理のおいしさも半減どころではなくなっていることでしょう。
 私の通っている耳鼻咽喉科に張り紙がありました。鼻炎を治す「レーザー治療を希望される方は…」というものでした。私は私のような症状の者にも効果があるものかどうか相談してみましたら、「8割の人に効果がある」とのこと。鼻炎や副鼻腔炎にならないと言うことは風邪をひきにくくなると言うことです。それににおいが復活したらいいなと思いました。いびきをかくことや無呼吸状態にもよい効果があるようなら一石二鳥三鳥です。
 私はそのレーザー治療を受けることにしました。
 2月2日に手術をしました。鼻の穴の周りの余分の肉を焼ききるという手術です。30分の麻酔の後、わずか十数分で手術は終わりました。全く痛くないことはないのですが特に痛いわけでもありません。出血もありませんでした。手術中「口で息をするように」言われました。「自分の肉が焼けるにおいがして気分が悪くなる人がいるから」だそうです。鼻の奥がやけど状態になっているのですからしばらくはきつく鼻をかんではいけないなどの注意がありました。
 手術から二週間ぐらいで完治するらしいので、もうすぐ完治になる予定です。
 今のところ特に臭覚が戻ったという感じはしません。鼻炎や副鼻腔炎はどうなのでしょうか。
 1月18日(月)
アスペルガー症候群
 「アスペルガー症候群」(2009・岡田尊司著・幻冬舎新書・800円)を読んだ。おもしろかった。今まで読んだこの手の本の中で一番納得できてびっくりすることも多々あった。「はじめにーアスペルガーを抜きにして現代は語れない」というところから始まる。
 歴史上の偉人や今の時代を切り開いている人々の中にこのアスペルガー症候群の人々が相当数おられることが明らかにされている。あの人も?えっ!この人も?と思った。
 今普通学級の担任をする時にADHDとかLDとかアスペルガー症候群についての知識や見識は不可欠である。実際の教室の仕事としては色々な要素が絡むので応用問題になるのであるが、少なくとも原則的に何をよりどころにするのかと言う点でいい本が出たなと思う。
 教育の仕事も教師と子どもの間に「情」があってこそだと私は思うのだが、そういうことの一番苦手な子どもたちとどう関係を切り結ぶのかというところにこの問題の大変さがある。
 薬指と人差し指の長さと脳の傾向との因果関係の話はびっくりする。身近な人で確かめるとかなり正確なようでおもしろかった。 
 1月6日(水)
耳が変?
 私は大きな病気をしたことがありません。手術・入院とは今までまあほぼ無縁と言ってもよいようです。しかし確実に加齢による老化の兆候は顕著になってきたと思います。2005年に両眼飛蚊症になり網膜剥離になりかけました。おそらく今の治療法が開発されていなかったら両眼失明であっただろうと思います。十年ほど前に膝に水がたまりがくがくになったことがありました。これも昔なら歩けなくなっていたかもしれません。腰痛だってそうです。一昔前なら私はすでに失明して歩行も困難な年寄りであったろうと思われます。そう思うと人生五十年というのは妥当なところかなと思います。私が六十になっても元気でいられるのは医学の進歩のおかげです。
 ところで加齢によると思われることがまた一つ加わりました。年末から耳が変なのです。山に登ったときのように右耳がぼーっとしたようになっています。気圧変化によるものの場合はあくびをすれば元に戻るのですが、あくびをしても戻りません。
 今日耳鼻咽喉科へ行ってきました。考えられる原因は二つだそうです。一つは鼓膜に炎症がみられるので中耳炎のためかもしれないということ。もう一つ考えられるのは突発性難聴の可能性だそうです。何でもこれはストレスとも関係があるようです。怖いことに、突発性難聴の場合は入院加療(点滴投与)が必要になるそうです。手遅れになると聞こえなくなるとか。
 今日飲み薬と耳浴用の点滴薬をもらってきました。これで今週中様子を見ることになりました。耳浴なんてことば初めて聞きました。要するに目薬を耳にするような感じで滴らせ10分間ほどそのままでいなさいということなのです。朝晩というのですが、夜はともかく朝の忙しいときに10分はかなわんなと思うのですが、聞こえなくなるよりはましなので頑張ろうかと思っています。
 知らない間に色々なお医者さんの診察券を持つことになっています。しょっちゅう行くわけではないけど、いつのまにやらあらゆる科の診察券を持っている状態です。
 私は健康な方だと思いますが、診察券の数を勘定するとそうでもないようで不安になります。 
12月30日(水)
私の旅の条件 
@温泉がある
A赤レンガ建築がある
Bやきものの窯がある
Cおいしいものがある
D興味ある伝統工芸品がある
E動物園にカバがいる
F円空や木喰に出会える
 いつものことですが、こういう条件がいくつか重なる場所がいいなと思って探します。今回は愛媛と徳島にしました。それで、私の思う条件と愛媛松山・徳島がどう関係するかを書いてみます。
@何と言っても道後温泉
A愛媛大洲と丸亀にあるようです(今回は足を伸ばせず)
B前から行きたかった大谷焼(徳島鳴門市)調べてわかった砥部焼(愛媛砥部町…松山からすぐ)
C香川の讃岐うどん(移動中に) 徳島ラーメン 瀬戸内海の魚
D徳島の藍染
Eとべ動物園に横浜の運河を泳いだカバがいる!
F愛媛県美術館で円空・木喰展開催中!
 これだけそろったら、松山徳島へなぜ来ないのかと叱られそうです。
 松山や道後温泉は今までも行ったことがあるのですが、松山城へ行ってみたくなりました。「坂の上の雲」がNHKのドラマになると聞いてこの夏ぐらいから司馬遼太郎の作品を読みました。なかなかおもしろい!あらためて明治時代の日本人を見直し、羨ましさを感じながら尊敬の念を持ちました。子規のことは今まで断片的に聞きかじっていましたが秋山兄弟のことは全く知りませんでした。
 松山城の公園内に愛媛美術館があり、そこで『円空・木喰展』というのもおもしろそうです。その松山の近くに砥部町があって、砥部焼ととべ動物園のカバ。もう今の私の興味をひくものたっぷりです。
 「えっ!また『円空・木喰展』行くの?」私の妻が美術館前で叫んでおりました。そりゃそうです。京都開催のときに3回も行っているのに何でまた愛媛まで来て見るのか?と言う疑問は当然です。しかし行ってみなかったらわからないものです。美術館が違うと並べ方やライトの当て方が違って円空さんも木喰さんも印象が違いました。
木喰さんの魅力を愛媛美術館はその並べ方で表現していました。もともと木喰さんは群像を残しています。それを上手に並べていました。円空さんも私は愛媛の勝ちだなと思いました。一体一体大切に扱われていました。そして四国に唯一ある円空さんと二体ある木喰さんをフューチャーしていました。KYOTOえき美術館は狭すぎるのです。私の知り合いの方の神社の狛犬は京都で窮屈そうでしたが、愛媛では堂々としていて私までうれしくなりました。それから私が問題視していた笑福亭晃瓶さんのあの音声ガイドはここでも貸し出されていました。本当に「テンショウコウタイシン」でいいのでしょうか?
 まあ、こういうお目当てのもの以外で行ってみたらよかった!と思える場所や人や物との出会いがあると旅はよけいに楽しくなります。
 今回の旅では、石鎚山が美しかったこと、徳島脇町(うだつの町で重要伝統的建造物保存地区)の町並みに感動したこと、大谷焼の窯元での話や買い物が楽しめたことが印象に残りました。この中のいくつかはいくつかのページにしてUPしようかと思っています。  
 11月27日(土)
今年の秋
 今年は紅葉を楽しみにしようと思っていましたが、機会を逸してしまったようです。新聞などの情報では「みごろ」とあるのですが美しいと思えないのです。それほど冷え込んだわけでもないしきっともっと美しくなるはずだと思っているうちに今日になりました。あともう一週あるのでどこかへ最後に行こうかやめようかと思っています。東福寺へ行った人は「きれいやったけど、枯れてるのもあって…」と言っていました。
 仕事の関係では今年も運動会、学芸会などの主要な行事がありました。
 今年は六年生を担任しているので運動会は組体操をしました。もう20年以上前に創作した「明日に向かって」を作りかえました。作った自分が言うのも何ですが、なかなかよくできたシナリオで、それに感心してしまいました。なんとおめでたいことでしょうか。
 学芸会も今年が最後です。これも脚本は毎年自分で書いてきました。今年は「龍神池の秘密」にしました。私は演出や監督は下手くそで、脚本を書くのが好きです。毎年苦しみながらも毎年お笑いのある脚本を書いてきました。子どもたちが脚本をもらって、笑いながら「おもしろい」と言ってくれることがやりがいで創ってきました。そして自分たちが演じて客席に笑いが起こることを楽しんできました。ちなみに去年は影絵劇「学校の七不思議」その前は「地獄極楽巡り」そしてその前が「京のわらべうた」。今年劇を見てくださった先生は「小宮山先生の脚本は昭和の吉本のにおいがした。大笑いした。」とほめてくださった?ような気がします。
 京都市は大文字駅伝というのをやっています。私は無理やり取組を強要するこの駅伝大会に反対してきました。駅伝を指導できる人の特別な人事が行われていることにも反対でした。
 私は今の学校へ行ってから4年間ずっと体育主任もしています。退職時の教員が体育主任をしているというのも珍しいのではないでしょうか。大方は若い教師がやるのです。体育主任という仕事は全校を動かすという経験を積むという点ではいい仕事で若い教師に向いているのです。何も男がする必要ないのですがなぜか男に回ってきます。男女平等ではないのです。大体今小学校は女性教員が7〜8割を占めていますから男の教員が少ないのです。私の学校も男性教員で担任しているのは私だけという状況が4年間続いているのです。
 体育主任を続けていて大文字駅伝予選会に役員で参加してきたのですが、私の学校の走りっぷりが何とも情けないのです。そりゃ児童数の多い学校は強いのです。私の支部には1学年150名になろうかという学校があり、50〜80名近い人数の学校が大半で、私の学校は20数名ですから勝てるわけがないので力も入らないのです。150名の中から8名の選手を選ぶのと20名から8名選ぶのではハンディがありすぎます。
 それを十分承知した上でもやはりわが校の走りっぷりが情けなさすぎるのです。8人でたすきをつなぐのですが、周回遅れで一周から一周半抜かされるのです。負けるのは仕方ないとしても、選手の全力が発揮できていると思えなかったのです。
 私は大文字駅伝そのものに反対ですが、私の学校の子どもが屈辱的な負け方をすることは許せないと思いました。このへんが私の浪花節です。
 昨年陸上部を立ち上げました。毎朝走ることにしました。私は勤務時間前に出勤して指導し始めました。今年私は6年生の担任になりました。今年の私が担任した子どもたちは全員陸上部に入部しました。
 その支部予選会が終わりました。結果私の子どもたちは13チーム中7位でした。昨年より順位を一つ下げましたが、昨年よりタイムは伸びました。一周抜かされることなく学校代表らしい駅伝予選会ができたと胸が張れます。そしてその経過を来週月曜日朝会で全校のみんなに報告します。フォトスタジオ3というソフトを使ってPCで写真と音楽や語り、子どもの作文などを入れたものを10分あまりにまとめたのです。
 それが終わればいよいよ冬休みに向かって学習のまとめに入ります。
 そして、私の教師生活もあと四ヶ月になります。
11月7日(土)
円空・木喰展
 
 いよいよ今日から「美術館えきKYOTO」(JR京都駅伊勢丹隣接)で開催される。
 資料も含めての200点らしい。今日は監修者でもある小島梯次氏の作品解説も行われる。
 埼玉など関東にある円空さんも何点も来ているようだ。木喰さんも楽しみだ。
 さっそく今日昼から出かけようと思う。
 10月27日(火)
王子動物園子カバ誕生
 10月25日(日)に神戸市立王子動物園へ行ってきた。新聞に子カバが誕生し、公開されていると書いてあった。
 午後1時過ぎに自宅を出たら、3時前に着いた。すぐカバ舎の前に行った。池の周りに人だかりができていた。私はそれから閉園時間の5時前までずっとカメラを構えて親子の様子を撮ったのだが、楽しかった。
 カバを見たときの感想の多くは「かば、でっか!」であるが、
「かわいい!」
「○○ちゃん、もう帰ろ。」
「いや、かばさん見る!」
「かばさんすき?
「すき。」
などという会話が交わされていた。
 閉園時間近くになると、池からあがってカバ舎の中で食事が始まった。
 王子動物園にはパンダがいる。パンダ舎の前には人を整理するためのロープが張ってあったが、誰も並んでいなかった。
 この日はカバが主役のようであった。
9月28日(月)
枚方宿
 東海道56番目の宿場町枚方へ行って来た。あれ?東海道は53次のはずなのに…と思われると思うが、実は大津から大津街道を通って伏見宿(54)へ、さらに淀宿(55)・枚方宿(56)・守口宿(57)と京街道を通って京橋へ、つまり江戸ー大坂を結ぶ東海道57宿があったというのである。東海道も江戸日本橋ー京三條大橋の53次の他にもう一種類あったことになる。
 枚方宿には鍵屋という旅籠跡が資料館になっている。シーボルトもここを通ったし、享保には象も通ったらしい。
 京阪枚方市駅でおりたら、東入口はエフエム局のスタジオや枚方市観光協会の部屋などがあって、観光で売り出そうとしていた。その中心がどうも宿場町ということらしい。「くらわんか舟」の「くらわんか」(食べませんかの乱暴な言い方)が色々使われていた。鍵屋で、くらわんか舟がどんなやりとりを客としていたかを具体的にジオラマで再現していた。あれをおもしろいと思うか、下品で失礼だと思うか、たぶん賛否両論になるなと思った。枚方市が宣伝する時扱いが難しそうだ、間違えばガラの悪い土地柄だったのだなと思われそうだ。
 落語で「三十石夢の通い路」という大ネタがある。ここに枚方宿が登場する。伏見から三十石舟が出るとき、船頭が船頭唄を歌うのであるが、この節回しは米朝や枝雀のものはメロディがしっかりしている。しかし今日聴いたものはもっと素朴であった。
9月23日(火)
青めだか2
 夏休みから飼い始めた青めだかは元気だ。そして殖えた。私は毎朝えさを与えるの日課にし、楽しみにしている。
 タマゴからかえって小さいのがちょこまかと泳いでいるのを見つけた時はうれしくて、何度も数えてみた。9匹まで数えられた。いや、まだ水草の下などにいそうだと思った。これは正確に数えたいと思った。
 それで、水もかなり汚れてきていたので、水換えをすることにした。めだか用の細かい目の網を買ってきて、勇んで水換えをし始めた。
 はじめからいたのが10匹。青めだかといっても色の濃いのや薄いのがいる。黒に近いのもいる。子めだかの方は5匹しか見つけられない。かなり慎重に作業は進めたのだが、逃がしてしまったようだ。がっかりしたが自業自得だから仕方がない。また産まれるだろうと期待しているのだが、その後産まれる気配はない。ホテイアオイと金魚藻を入れているのだが、こちらは順調に増え続けている。ホテイアオイは1〜3株になった。めだかは現在15匹である。困ったことは、人見知りするようになったように思う。思春期(?)を迎えているのだろうか。2回水換えをしたのだが、それで恐怖を与えたのだろうか。
 先日、植物園へ行って来た。薬草園の池の中にすごい数の黒めだかがいた。ちょっとすくって持って帰って飼いたくなったが、さすがにそれはいけない。緋めだか売ってるが黒めだかは売ってない。家が農業だという方が、田んぼになんぼでもいる…とおっしゃっていたのだが、羨ましい話だ。今まで何度も池の睡蓮など眺めていたのだが、めだかには全く興味が無く、いることにも気づいていなかった。人間の興味なんてこんなものなのだなと思う。
8月18日(火)
見事な百日紅
 今日から出勤している。毎日研修とか研究とか作業とか陸上クラブの指導があって、もう夏休みは終わった。夏休みが40日あったときと比べると今は、33日。
 最後の休みだった昨日バイクに乗って京都から東海道を東下りしてみた。大津、草津、石部、水口と東海道五十三次の53〜50まで行ってみた。途中二度ほど昔の東海道が分からなくなった。でもおおよそ東海道を走ることができた。昔の東海道は狭い道だがそれなりに東海道らしさを残しているなあと思った。迷いそうになったら、何となく臭いで東海道はこっちと呼んでくれそうな気配がするのだ。
 突然だが、水口小学校の校門の百日紅はすごかった。(HPの写真)
 ここへはヴォーリーズの図書館があるというので立ち寄ったのだが、いやはや感動した。二種二色の百日紅が校門を覆っている。図書館は校門の向かって左手にあるのだが、百日紅には申し訳ないが、見事に引き立て役になっている。どちらがどちらの引き立て役とは言えない。私は最初図書館の引き立て役が百日紅だと思ったが、百日紅の引き立て役が図書館とも言えるなと思った。この小学校は旧東海道沿いにあった。建物と花が似合っている。でも小学校の子どもたちは夏休み中で気づいていないかも知れない。もったいないなと思った。百日紅も相当太い幹で相当な樹齢を誇っていそうだった。
 水口から紫香楽の宮跡へ行き、さらに京都府宇治田原へ出て帰ってきた。途中茶畑の美しい様子も見たのだが、バイクを止めて写真を撮る気力が無くなっていた。
 車よりバイクは体力を消耗する。快適なのだが水分補給は気をつけなければと思った。
8月17日(月)
青めだか
 愛知県安城の道の駅でめだかを売っていた。日本にもともといるのが黒メダカで、その変異種で緋メダカがいると聞いたことがある。その二種類しか知らなかったのだが、売っていたのは白メダカと青メダカだった。
 え?そんなメダカいるの?と思ってよく見た。この白メダカ、確かに白い。透明感のある白さだ。青メダカの方も確かに青い。真っ青ではない。白に近いような黒みもかかったような青さで透明感がある。
 青メダカを買ってきた。今玄関の石臼の中にいる。
 気のせいかこの青メダカ人見知りしない。のぞき込んでいると近づいてくるように思う。
 そうなるとかわいいものでエサをやりたくなって買いに行った。ペット用品を売るコーナーの一角にメダカのエサを売っていた。「メダカの喜ぶ水」とか「水草を増やさない薬」とか色々ある。圧倒的に犬や猫用の品物がある中で、メダカも存在している。案外メダカファンは多いのかも知れない。私は三軒ぐらいの店を見たのだが、メダカ用の水草とか、メダカ用の大きな鉢とかもあっておもしろかった。
 もう一つ日曜大工センターをはしごしたわけがある。野鳥を呼びよせるためのグッズがあると本にあったので見に行ったのだが、無かった。インコ用のかごや関連グッズがあった。野鳥は飼えないから当然なのだが、これはもう少し調べてみようと思う。
8月6日(金)
益川教授にインタビュー
 昨年度ノーベル物理学賞を受賞された益川敏秀博士にインタビューする機会が5月末にあった。「作文と教育」8月号(本の泉社発行)の企画である。
 京都産業大学の益川先生の研究室でお会いした。何しろお相手がお相手だし、雑誌の企画でもあるので失敗が許されないという緊張感があった。いくつか質問をさせていただいたのだが、丁寧にお答え下さった。この日記では雑誌には載らなかったことで私が印象に残っていることを中心に書いておこうと思う。
 私はまず私のクラスの子どもたちに益川先生は何を発見されて受賞されたのか説明したいと思っているのだが、教えて欲しいとお願いした。
 私がなぜこういうことを聞いたのかというと、正直なところ新聞の説明を読んでもちんぷんかんぷんで子どもたちに説明できなかったからである。私が子どもの時の担任の先生は故湯川秀樹博士の中間子理論を何とか私たちに説明しようとしてくれた。湯川博士の受賞年と私たちの誕生年が同じだったからという理由もあったと思う。私は日本の学者の中に世界をリードするような方がおられることを誇りに思ったことを記憶している。何しろ戦後十数年しかたっておらず「アメリカ」の圧倒的な圧迫感とあこがれが支配していた時代で、私は古橋の活躍は覚えがないが、力道山がアメリカの悪者レスラーをやっつけるのを狂喜乱舞しながらテレビに釘付けになった世代である。知の部分で世界をリードする日本人の存在はどれだけ当時の日本の子どもを励ましたか知れないと私は思っている。
 脱線したが、益川先生は即座にこうおっしゃった。「無理ですね。」私流に理解したところによると、現在の科学の進歩はめざましく小学生に簡単に説明できるようなレベルではないと言うことのようだ。博士の研究を理解しようと思えばそれ相応の基礎的な学問の裏付けが必要になるということである。だから結論としては、分かりたいと思えば、今の勉強をしっかりしなさいということになるようだ。中学校までに学習することは19世紀までの科学らしい。
 ノーベル賞受賞後に息子さんに申し訳ないとおっしゃったという話も印象に残った。息子さんも研究者だとおっしゃっていたのだが、同じ世界に生きる研究者同士、父親がノーベル賞学者であることのプレッシャーを息子さんは受けるであろうと懸念されてのことであったようだ。
 英語は漢文のように読んでいるとおっしゃっていた。益川先生は自分は行間を読むのが得意だともおっしゃっていた。論文の中にある書き手の心理を読むのがどうも得意であるらしい。おそらく書き手が自信を持って書いているのか、いや他の方法や結論もあるかなと迷っているなどが判断できるということのようであった。益川先生は英語が苦手と宣伝されているが、話すことについてはその通りかもしれないが、その語学力は卓越しておられるようだ。これからの子どもは話す聞くことを中心に英語を楽しみながらつきあえばよいとおっしゃっていた。
 今日は8月6日だが、戦争と平和の問題についても積極的にお話ししてくださった。先生は戦争についてはだれでも論理的に話することができると思っているとおっしゃった。しかし聞いてもらう方からすれば体験をベースに語る方が安心してもらえるのではないかと思っておられる。敗戦時五歳であった自分が戦争を体験として話せる最後の年代だと自覚してこれまでもこれからも発言しようと思っておられるようだ。私がオバマ大統領のプラハでの発言に希望を見ていると言ったら、「それはまだ分からない」とおっしゃった。アメリカの軍需産業との関係でオバマは話しているはずで、彼の真意がどこにあるのかは軽々に判断できないとおっしゃっていた。
 日本の子どもや教師にぜひメッセージをとお願いしたら、大学受験の複雑さに労力を割くことの無駄について語られた後、教師に時間的な余裕を与えることの大切さを語られた。インタビュー前半で、自分が研究者として「憧れとロマン」を大切にされてきた経緯を話されたのだが、日本の子どもが人や学問に「あこがれ」を持って「楽しく」学習することを強調された。
 インタビューが終わって「みなさんのために私ができることがあればお手伝いしますよ」とおっしゃってくださった。
 「作文と教育」8月号を読んでくださるとうれしい。781円+税である。  
  
6月13日(土)
映画「小三治」
 もう二週間前のことになるが、久しぶりに映画を見に行ってきた。「小三治」というドキュメンタリー映画である。みなみ館という東寺の近くにある映画館でやっていた。いつから映画館へ行ってないだろうかと思うぐらい久しぶりである。料金を見ていたら、60歳以上はシニア料金で千円であった。今年六十のおじいさんとしてはうれしいかぎりなのだが、本当に入れるのか、何か言われるのではないかと思って(実は言われたいのかも知れない…本当に六十歳ですか?などと)免許証を用意しながら入場した。
 小三治…小さんの弟子である。談志の弟弟子にあたる。私はよくは知らない。バイクを趣味にしていること、マクラの話が抜群におもしろくそれが文庫本になっていて読んだことがあること、今は知らないがしばらく前には共産党の赤旗まつり毎年連続して出演する硬骨漢であることなど断片的なことしかしらない。落語家のことを知らないと言うのは直接間接に噺を聞いたことがなく評価する資料がないと言う意味である。
 小三治は映画の中で「自分は落語家に向いてない」という意味のことを言っていた。なぜそう思うのかを話すのだが、どこかでそんなことないよ小三治さんと言いたくなる。それは、小三治の人間としての魅力なのだろう。ずいぶんシャイな方だなというのも伝わってくる。  鈴本演芸場でピアノ伴奏で歌うということをする。その時、小三治が師匠から弟子に変わる。この表情がいい。
 弟子が真打ちになる。名前を「三三」と書いて、「さんざ」。これは二つ目の名だそうで真打ちになったら真打ちにふさわしい名に変えることが多い中でその名を変えなかった。
「何故変えなかったのか?」
「変える必要がないと思った」
「かっこいいですよね」と質問が進む。(確かこうだった。間違ってたら申し訳ない)
すると小三治がこういう趣旨のことを言う。
「もしその名前がかっこいいとしたら、名前がかっこいいのではなくて、この男(三三)がそれだけのことをしてきたのだろう。くそみたいな奴が名乗ればくそみたいな名になる。」
 その通り!である。名前が人を作るのが伝統芸能芸術の世界だという風潮の中で落語家小三治の健在ぶりが際立っていた。
 それにしてもこの映画もうどこへ行っても見られない。惜しいなと思う。
6月9日(火)
写真展準備
 仲間とする写真展がいよいよこの土日に迫ってきた。昨日は日曜参観日の代休日でお休みだったのでその準備をした。ああでもないこうでもないと一日かけて写真を選び印刷して展示できる状態になった。今日はその題などを入れて完成させなければいけない。
 13日の土曜日は会場に行けないので、水曜日に友人に作品展示などをお願いする段取りになっている。
 もしよかったら、写真展ぜひお越しを。掲示板に書いたことをここにもコピーしておきます。

写真展をします。
私の友人たちとの写真展です。
私の息子は「ジャイアン写真展」だと申します。
下手くそな歌を自覚せずに
「お前たち来るのだろうな!?」と知りあいに脅しをかけて開催している
ジャイアンのコンサートみたいなものだと申します。
あんまり上手いこと言うので反論できません。
ああ、私以外の方たちは上手です、写真。
と言いながら自分が一番いい写真撮ってるとどこかで思っているという
何とも美しい友情に溢れた写真展です。
よろしかったら、ぜひ。

場所 京町屋 古武(今出川大宮上ル100m 西陣中央小北)
日時 2009・6・13(土)AM10〜PM5
          14(日)AM10〜PM4
*私は13日会場にいませんが14日はおります。
6月8日(月)
頭が下がって上がらない
 6月6日(土)近畿作文の会大会が奈良教育大学で行われた。今年20回目の大会である。開催県奈良のみなさんは、新型インフルエンザの影響を心配されて一時は中止を覚悟されたが、何とか開催できた。120名余りの方が集まってくださった。
 私は中学年の分科会に出たのだが、滋賀と兵庫のレポートであった。滋賀のレポートはパワー溢れる若々しい実践でインパクトがあった。兵庫の仕事は作文教育の本質を肩肘張らず静かに語る内容で含蓄にとんでいた。私は助言で最後にまとめの話をさせてもらった。私の言いたいことは言えたと思う。
 午後から全体会が行われた。「今、なぜ生活綴方が大切か」というシンポジュームでは、大阪と京都そしてゲストの長崎から登壇者がレポートした。私はレポート聞きながら、近畿の綴方の実践は原則を大事にしながら確実に今の子どもを捉えた核心に迫る仕事が進んでいることに希望を持った。
 講演はNHKのドキュメンタリーなどにも取り上げられた著名な方であった。小学校教師を退職された後現在は大学教授をされており、全国各地で講演をされたり、執筆されたりしておられるそうだ。私はこの方の著作は一番最近のもの一冊しか読んでいない。現在連載中の雑誌を読んでいる。この方は教師相手に授業をするという形式で講演されることも多いようで、私が読んだ本もそういう形式になっている。この方は授業と子どもの生活を結びつけながら自己表現を目指しておられた。その姿勢もその中から生まれる作品も並大抵のものではないことは十分読みとれる。話しぶりも自信に充ち満ちており、随所に私たち生活綴方実践家を挑発する発言を感じた。今回の講演にも新聞記者や七十数回この方の講演を追いかけている人を連れてこられた。いや、彼らが勝手に付いてきているのだが。追っかけがいる講演者なのである。
 私はこの方の話し方が気になった。「この中に、○○について、知っている人はいるか?」と何度も尋ねられた。次にその説明が入り、批評がくるという展開なのだが、このやり方に違和感を持った。私はこの方の著作を読んでいたので、この方の質問されたことの中には知っていることもあった。しかし「知っています!あなたの著作にありました」と答えたら失礼だろうと思って黙っていた。本人が意識しているかどうか分からないが、聞いている方はバカにされているような気になる。最後には、「知らないから、あなたの講演を聞いているんじゃないか」とか、「知らなかって、悪うございましたね」と悪態をつきたくなった。
 この講演者は、時間ぎりぎりで会場に来られた。だから、午前中の分科会で何が話されていたか、全体会のシンポジウムでどんな実践が語られたかをご存じない。幸せなのか不幸なのかと思う。いや不幸だと思う。
 今回は誠に気の毒であった。シンポジウムの近畿の二人のレポートは誠実で確実に参加者の心を捉えていた。その後に話すのは実は最高に難しかったのだ。
 「頭が下がって上がらない」講演であった。しかし下げた頭の下の顔がどういう表情であったか、講演者は想像した方がよい。
5月4日(月)
今年六十のおじいさん
 私は今日誕生日で六十歳になり還暦を迎えることとなった。先日そういえば「船頭さん」という歌で「今年六十のおじいさん」という歌詞があったなあと思い出すことがあった。
 六十歳はおじいさんなのだ。その年に自分もなった…信じられない思いがする。息子や娘がお祝いをしてくれるという。うれしいことである。
 しかし自分はおじいさんでは決してないとどこかで思っている。これもまたよしだと思う。
 ところで、この「今年六十のおじいさん」という「船頭さん」という童謡は、昭和16年に発表された曲なのだそうだ。作詞武内俊子さん 作曲河村光陽さん だそうだ。
 昭和16年と言えば戦意高揚の歌ばかりの時代、この歌もそのために作られたようである。六十歳のおじいさんでも戦争のために頑張っているのだから、君たちもガンバレという歌だったようで、最初の歌詞は左のものである。
 しかし戦後その歌詞が変わり右のものになった。
 
村の渡しの 船頭さんは
 今年六十の おじいさん
 年はとっても お船をこぐときは
 元気いっぱい 櫓がしなる
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
 
 雨の降る日も 岸から岸へ
 ぬれて船こぐ おじいさん
 今日も渡しで お馬が通る
 あれは戦地へ 行くお馬
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
 
 村の御用や お国の御用
 みんな急ぎの 人ばかり
 西へ東へ 船頭さんは
 休むひまなく 船をこぐ
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
村の渡しの 船頭さんは
 今年六十の おじいさん
 年はとっても お船をこぐ時は
 元気いっぱい 櫓がしなる
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 雨の降る日も 岸から岸へ
 ぬれて船こぐ お爺さん
 今朝もかわいい 仔馬(こんま)を二匹
 向う牧場へ 乗せてった
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 川はきらきら さざなみ小波(こなみ)
 渡す にこにこ お爺さん
 みんな にこにこ ゆれゆれ渡る
 どうもご苦労さんと いって渡る
 それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
 この船頭さん、戦前は積極的にお国のために働く方であったのだが、戦後は何とも好々爺になって「いやし系」のおじいさんになっている。
 私もまた「いやし系」のおじいさんの方がいいなと思っている。いや、おじいさんではまだなかった。
4月12日(日)
文楽4月公演鑑賞
 大阪の国立文楽劇場へ人形浄瑠璃文楽4月公演へ行ってきました。
 今年は国立文楽劇場25周年だそうで、「寿式三番叟」と「義経千本桜」が演じられました。 「義経千本桜」は通し狂言で第一部二部とも見たら全部見る機会だったのですが、疲れるだろうと思って第一部の「寿式三番叟」と「義経千本桜」の初段と二段目を見てきました。
 「寿式三番叟」開場時やめでたい新春に上演される作品で25年前柿落の時にも手擦りにかけられたと書いてありました。上演したことを手擦りにかけると言うようです。「寿式三番叟」は、浄瑠璃に人間国宝綱大夫さん他6名の方、三味線にも人間国宝鶴澤清治さん他6名が登場されました。これだけの方が並ばれただけで圧巻で華やかでした。そして人形は、千歳を襲名されたばかりの豊松清十郎、翁を吉田和生、三番叟を桐竹勘十郎、吉田玉女お二方。今一番充実している方々が遣われました。
 勘十郎、玉女二人が三番叟を使われたのですが、はじめは二つの人形は同じ衣装で同じ振りをしますので、二人の技量が比べられるように感じました。勘十郎の人形の方が大きな振りで首の動きも体の動きもスムースで、勘十郎の方が技量的に高いのだなと思いました。しかしよく見ますと、頭が違います。検非違使で三番叟を遣う玉女、又平で遣う勘十郎という違いがありました。途中疲れて踊りを休んでいる勘十郎の人形に、玉女の人形が絡むという場面があり、二つの人形の人柄が描かれます。おもしろいちょっとユーモラスな面を見せる勘十郎の人形と生真面目な玉女の人形。その違いを躍りでも表現しているのだということが分かってその後の二人の振り付けの違いを楽しみながら観ました。これを二人が変えて演じてもきっとまたおもしろい人形ぶりになるのだろうなと思いました。
 「義経千本桜」は竹田出雲他三人の合作で、文楽の狂言の中でも有名なものの一つだと思います。頼朝に会うため鎌倉へ会いに行くが追い返された義経が、京を追われた後、吉野までの間の物語です。が、歴史的事実とはかけ離れた作品です。能や歌舞伎などをふまえさらに奇想天外な筋立てにした娯楽作です。義経を狙うのは、鎌倉の頼朝と北条時政、さらに壇ノ浦で滅びたはずの平家一門(実は死んでいなかったという設定)、さらに後白河院などの朝廷方の悪い公郷まで登場します。
 義経が主人公かというと、そうでもなくて、私の見た二段目では渡海屋銀平(実は平知盛)が主人公です。何と安徳天皇は実は女の子であったという設定です。
 話の展開にも不自然なところが方々で出てきます。例えば、劇中義経主従は僅かな人数で京を逃げたはずなのに、尼崎の大物の沖で、平家の残党である知盛軍と合戦をします。
 義経という人物に対しても、今の私たちの感覚からいうと共感できないものを感じます。初段の堀川御所の段は、妻と愛人の静を同じ御所内で仲良く住まわせています。そして、自分が兄の頼朝に謀反の嫌疑をかけられている一番の理由が妻が平家の出自であること(実は平時平の養女ではなく頼朝の家来の川越三郎の娘という設定)であるので、そのことを憂えた妻が自害するのを黙って見過ごすというお寒い男として描かれています。その横には静かがいるので、余計に義経のええ加減さが出ていると私は思ってしまいました。
 それにつけても、どんでん返しというか何というか、実はこの人はアレだったばっかりです。そして、策略合戦で、はじめから見抜いていてわざとひっかかったふりをしていたのだの連発です。
 「それはないやろ!」とか「そんなやつおらんやろ!」とか「そんなあほな!」と何カ所も思うところが出てきます。正直私も文楽を見始めた時は、それが気になって仕方ありませんでした。リアリティに欠けること甚だしいにも程があると思いました。
 しかしながら、それでも観に行きたくなるのは、筋立てを越えた娯楽性にあるのではないかと思います。文楽を観たことのない方には何の興味もない話ですが、文楽というのは本当に豪華で非日常の芸です。見終わった後、毎回「いやあ、堪能しました。ありがとうございました」と言いたくなる芸です。
   
2月9日(火)
落語家の本3冊
 立川談春「赤めだか」と立川談四楼「一回こっくり」を読んだ。
 「赤めだか」(立川談春)は談春をTV「情熱大陸」で取り上げていたのを見たことと、鶴瓶が「あれはいい」と誉めていたのを聞いたからである。談四楼の本は知り合いの方が「いいよ」と貸してくれたので読んだ。2冊ともなかなかおもしろかった。お薦めである。
 私は残念ながら東京落語にそれほど興味を持たずにいる。子どもの頃テレビは東京落語しかやってなかった。にもかかわらず東京落語に親近感を覚えていない。
 談志の「芝浜」にあこがれたと二人とも書いている。「芝浜」は円生のテープで聞いたことがある。円生の「芝浜」をそれほどの感動もなく聴いた。
 談春や談四楼が、談志に憧れる理由がわからない。落語界の革命児、鬼才だと談志のことを褒めそやす人々が大勢いることは知っている。
 談志が二十年ほど前に京都会館第一ホールで独演会をしたことがあった。その5日ほど前に
「落語が好きならチケットがあるけどいる?」
と言う人があって、
「だれ?」
と聞いたら、談志だった。
「行く!行く!」
と言ってすごく期待して出かけた。ガラガラだった。気の毒なぐらいガラガラだった。3割も入ってなかったのではないだろうか。なぜタダでチケットが手に入ったのかやっとわかった。主催者はタダにしても何とか客席を埋める必要があったのだろう。私のようにタダで入っている客も相当数いたであろうから本当に談志を聞きたくて身銭切って入っている客は珍しかったかもしれない。その頃京都会館で行われるイベントのチケットを何回かだだでもらったことがある。タダでもらうチケットの時はたいていガラガラだった。
 京都会館第一ホールは2300人ぐらい入る。そこにポツリポツリとしか人がいないのだから惨めだった。出て来るなり談志は愚痴り始めた。客の入りが悪いこと、大体落語を本当に分かる人間なんてどれくらいいるのか疑問だということ、さげの粋さを分かりもしない客相手に何で自分のような名人が話さなければならないのかなどとネチネチと話した。
 気分が悪くなった。
 その頃、米朝や枝雀の落語会を初め手当たり次第京都で開催される落語会に足を運んでいた私は、その鼻持ちならない傲慢さに辟易した。要するに私は入り口で談志の毒気に食あたりしたというのとなのだろう。客を楽しませるのが噺家だと上方落語家を見て思っていた私は楽しめなかった。その時談志が落語をしたのかどうかも覚えていない。
 きっと談志の落語をたくさん聴いたらその良さも分かるのだろうが、その入り口で帰ってきたものだから評価できないでいる。
 この二人の弟子は談志の異常で理不尽な師匠ぶりに何とかついて行こうとする。この二冊の本に出てくる談志は、私が京都会館で感じたあの談志と同じだ。尊大で無茶苦茶で陰湿だ。もちろん二人とも談志を尊敬している。その上で赤裸々に師匠談志のことを書いている。二人とも談志を肯定した上で書いているのだろうが、ここまで理不尽なことを押しつけられる師匠になぜついていくのだろうと思う。それが芸人さんの世界なのかなと思うが…。
 それに比べて桂米団治の本「子米朝」の気楽なこと。四代目襲名はまことにめでたいことだと私も思っている。米団治の本には一門への気遣い、上方落語協会の実力者への配慮が充ち満ちている。「子米朝」は八方美人で、饒舌で、育ちがよくて、人柄のよい、偉大な落語家を父に持つ二代目落語家そのものが表現されている。
 きっといい人なのだろう。四代目、これからが大変ですね…と私は同情した。人の良い人が必ずしもおもしろい落語家になるとは限らない。人間と人生の機微を描く落語という芸にどういう資質が必要になるのか、きっとこれから4代目の苦悩が始まるのだろうなと思った。