木喰さんを訪ねる旅(4)
上前島金毘羅堂の“流れ木喰”
(新潟県長岡市上前島町・連絡先:0258−23ー1685)

 2013年12月7日(土)新潟作文の会の研究会が長岡市で行われました。私も参加しました。せっかく長岡へ行くのなら翌日8日(日)に木喰さんを拝観して帰ろうと思いそういう話をしたら、作文の会のA会長とM事務局長もご同行下さることになりました。A会長は長岡市内、M事務局長は柏崎市内の先生です。AさんもMさんも地元の方ですが、木喰さんについては今までそれほど興味を持たれたことがなかったようで、今回初めて木喰さんと出会われるということでした。
 残念ながら小栗山木喰観音堂は、冬期に入っていて拝観が出来ないということでした。でも前日までに寶生寺と西光寺には電話を入れて下さっていてOKがとれていました。車も出してくださり、ご案内いただきました。本当にありがたいことでした。
 どういうコースで巡るかは決まっていませんでした。Mさんが、長岡地域振興局と柏崎市産業振興部観光交流課が発行している2種類のパンフを用意して下さっていました。これに連絡先が書かれていて重宝しました。
 当日地理不案内な私は@上前島金毘羅堂、A寶生寺 B真福寺へ行けたらと思っていると言いました。地図を見ながらまだ予約が取れていない上前島金毘羅堂の青柳さんに電話を入れて下さいました。時刻は8時20分頃。すると今日は法事で出かけるので9時10分までなら何とかなるという返事。私たちは急いで上前島金毘羅堂へ向かいました。
 今にも泣き出しそうな空模様ですが、降ってはいませんでした。天気予報では雪でしたが結局この日は雨も雪も降らずに木喰さん巡りが出来ました。
 
 ナビで検索しながら行ったのですが、金毘羅堂の近くでわからなくなりました。運転しておられたAさんは、車を止めて見ず知らずの民家へ聞きに行って下さいました。その民家の方も親切な方でわざわざ外まで出てきて教えて下さいました。上の写真の金毘羅堂前に停車しました。Aさんは青柳さん宅も聞いて下さっていたようで、急いで青柳さん宅へ来訪を告げに行って下さいました。時刻は8時50分。約束の9時10分まであと僅かです。
 法事用の黒のネクタイ姿の青柳さんが、金毘羅堂へ来られてカギを開けて中へ入れて下さいました。
 上段中央に金毘羅大権現像。下段中央に木喰自刻像がおられ、秩父三十四観音像が左右におられます。
 

(1)“流れ木喰”と木喰自刻像

 青柳さんが、自刻像を裏返して見せて下さいました。裏は刳り抜かれています。そして前面はすり減ってしまって、顔も胸前にあわされた衣も、座している足も平らになっています。なぜこんなにすり減ってしまったのか、それについて青柳さんが語って下さいました。
 この木喰さんは、子ども達がソリ代わりにして遊んだのだそうです。裏の刳り貫きは、乗るのに都合がよかったことでしょう。前面が下になりますから当然、顔も何もかも消えてしまったと言うことです。新潟長岡の冬は長いでしょうから、冬の間のいい遊び道具だったことでしょう。そう言えば、この像だけ色が違います。
 他の観音像もすり減っていますが、木喰さんに比べたらましです。他の像は夏に金毘羅堂の前を流れる浄土川の「水遊び」で「浮き」に使われたのだそうです。「川まで引きずっていって水の中へ放り込んで遊んでいた」とのことでした。「いつ頃までそういう遊びをしておられたのですか、青柳さんも遊ばれたのですか」と尋ねましたが、「遊んだ」とも「遊んでない」ともおっしゃいませんでした。
 きっと冬に頻繁にソリにされた自刻像が一番木の色が鮮明なのはつい最近まで遊ばれていたのではないかと想像しました。
 これは金比羅堂に張ってあったポスターに書いてあったことで興味を持って読ませてもらったことです。青柳さんのおっしゃったことだそうです。
「仏像を川に流してしまっても、下流の村から必ず届けられ、一つも欠けていません。それで、“流れ木喰”の異名も付きました。お堂でやんちゃに遊んでも怪我をする子どもはいませんでした。木喰仏が見守ってくれていたのでしょう」
 この像には後背が付いています。何で読んだのか、この像が初めて自刻像に後背をつけたものだとか。この頃自身を木喰五行菩薩を自称していますから自分に後背をつけてもよいと判断したのでしょう。。ところが寶生寺の自刻像には後背がありません。まだ迷っていたのでしょうか。私はこのあと仙人を名乗った後の京都八木町の清源寺や猪名川東光寺や天乳寺の自刻像を先に見ていますので、木喰の場合自刻像に後背があるのが当たり前だと思っていたのですが、必ずしもそうではないようです。このお堂の諸像の銘は当然ですが、消えてなくなってしまっています。

(2)なぜ金毘羅堂なのか?

(1)やっぱりすり減っていおられます
 これがこのお堂の主の金毘羅大権現像です。
 分かりにくいかもしれませんがこの像もどうやら浮き輪にされたようで、相当すり減ってます。これを神仏を恐れない不届きな所業と大人が子ども達を叱らなかったのが大らかというか何というか。遊んだ子ども達も木喰仏が現在のような扱いを受けるようになっていることは想像もできなかったことでしょう。

(2)青柳家で彫られた像が他にも
 この金毘羅堂の36体以外にも青柳家で彫られた像があります。この後訪ねることが出来た真福寺には色鮮やかな「金比羅大権現像」がありました。真福寺の「金比羅大権現像」は青柳家で造られたことが明らかになっています。というのは、青柳家には木喰の奉納額も残されていて、その中の一枚に「又外ニ薬師金比羅賓頭慮尊者此三体ハ外へ行」と書かれており日付も「八月十三日」とあるところから、間違いないようです。ちなみに、後で行く寶生寺の自刻像も青柳家で造られ運ばれているそうである。こうなると、青柳家のご先祖と木喰はどういう関係であったのかが気になってきます。
(3)なぜ四国の金毘羅さん?
 同行して下さっていたお二人に、「新潟では金比羅信仰が盛んなのですか?」と伺ったのですが「いや、聞いたことがない」とのことでした。私は「北前船の影響かな」と思っていました。木喰さん自身はは故郷(甲斐国東河内領古関丸畑)に「四国堂」というお堂を建て、第3回廻国の時には10ヶ月間四国を巡錫しており、金比羅宮には天明年間に二度参拝しています。真言宗の僧である木喰は弘法大師を敬い四国八十八カ所を巡ったのだと思うのですが、でも長岡のこの地になぜ金比羅さんなのかと思いました。
 後で訪れる柏崎の西光寺で「木喰仏を巡る旅」(高橋実著・新潟日報事業社刊・2011)を購入しました。それによると、前島は信濃川右岸にあるのだそうで、「前島には渡しがあって何人かの渡し守がいた」と書いてありました。航海安全の神は日本最長の信濃川河岸でも信仰されたようです。

(3)木喰さんと青柳家

 青柳さんは時間がないにもかかわらず丁寧に私たちに応対して下さいました。
 終わりがけに「うちには他にも木喰さんに関係する色んなものが残されている」とおっしゃいました。今、青柳さんのご都合がよくて、私がもっと下調べして訪問していたらもう少し色々なことが聞けたのにと思っています。
 帰ってから、私が持っている本を調べてみたら、ここ最近行われて、私も行った二つの木喰展(「生誕290年 木喰 庶民信仰の微笑仏」展(2008)と「円空・木喰」展(2009)は、青柳さんの協力がなかったら資料部門は相当薄っぺらいものになったであろうことが予想できました。
 参考にした本は下記の3冊です。
@「生誕290年 木喰 庶民信仰の微笑仏」展図録(監修大久保憲次・小島梯次・2008)
A「円空・木喰」展図録(小島梯次監修・2009)
B「木喰仏を巡る旅」(大久保憲次監修 高橋実著・新潟日報事業社刊・2011)
 この三冊で調べただけでも6点以上の木喰研究上資料的価値の高いものが残されているようです。
 木喰さんはデザイナー、あるいはレタリングの名手としても非凡な才を持っておられたようです。

(1)青柳家を訪ねた木喰

 @の「木喰さんが深い仏縁を契った地を巡る」(大久保憲次)から引用します。
「雪道に足を取られながら三国峠を越え、彼が再度の越後入りを果たしたのは既に年の暮れ(享和2年)、吹雪の三国街道を北上し、何者かに誘われるように長岡の青柳家の軒下に立つ。当主は篤信の人と伝えられた清右衛門、大工職を生業としていた。快く旅僧を迎え入れ、同家を年宿とした木喰は、雪解けを待って、小栗山を皮切りに越後における絢爛たる造像の膜を切って落とすのである」

(2)作業場を青柳家が準備した

 同じく@の金毘羅堂の木喰仏についての作品解説にあったものを引用します。書かれたのは大久保憲次氏です。
「青柳家では、木喰の寝所に天井を張り、庭の里柿を支柱にして作業場を建て、何十貫もの喜捨を集め、信濃川対岸上流の浦から、鳥さえ避けて飛んだという銀杏の老樹を御衣木として運び入れ、木喰がすぐに鑿を入れるまでにして木喰を迎えた、という」

(3)木喰さんに同道したご先祖

 青柳家に文化4年(1807)3月11日という年号の入ったものがあります。この文化4年3月11日は木喰さんが丹波にいた時期で、この文化4年に造られた多くの像の背銘に「カセイ興清(加勢興清)」の文字があり、青柳興清(ご先祖)が越後から京都へ同道していたことが分かります。きっと造仏するためには木を適当な大きさに伐ったりする必要があったでしょうから、老齢期に入った木喰さんは「加勢」してもらってありがたかったことだろうと思います。
 又、享和3年(1803)閏正月18日という年号が入ったものもあり、これが越後路の最初の年号だそうです。木喰さんは「享和2年(1802)佐渡再訪のため三国峠を越え、青柳家に草鞋を脱いだ」とBに書いてあります。さらに「ここを活動拠点として越後各地に出かけて造仏活動を行った」「36体を32日間での作であるか驚嘆すべき速刻の例証であろう」「文化4年下諏訪で興清(清右衛門)と別れる」そして別れたときに現在青柳家に残る品々を「形見として与えた」だから、興清は4年の長きにわたって木喰さんと行動をともにしたことになります。その間働き手を失っていた青柳家は家が傷んでいたと言います。
 同書にこの「金比羅堂もかつては青柳家のものであったが現在は青柳家から村の管理に移された」とありました。
 青柳興清はなぜそれほどまで木喰さんに惚れ込んだのかと思います。木喰の生涯の中でも最高の理解者の一人であったことは間違いないでしょう。

9時10分からご予定のあった青柳さんに感謝して次の訪問地同じ長岡市にある寶生寺に向かうことにしました。
木喰さんを訪ねる旅(1)
京都丹波清源寺
 
 木喰さんを訪ねる旅(2)
滋賀蒲生町竹田神社
木喰さんを訪ねる旅(3
兵庫猪名川町
木喰さんを訪ねる旅(4)
新潟上前島金毘羅堂
 
木喰さんを訪ねる旅(5)
新潟長岡寶生寺
 
木喰さんを訪ねる旅(6
新潟柏崎西光寺
 
木喰さんのを訪ねる旅(7)
新潟長岡真福寺  
     
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