木喰さんを訪ねる旅

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私と木喰仏との出会い
 木喰仏を初めて訪ねたのは、2005年京都府南丹市八木町清源寺です。私は京都市内に住んでいますが、京都の北部(丹波や丹後)へ行くとき必ず八木町を通ります。その時京都縦貫道という道を通るのですが、八木町へ入ったら案内板は木喰仏なのです。へえ、八木町に木喰さんがあるのかなぐらいの意識しか持っていませんでした。
 清源寺で木喰作の十六羅漢他釈迦如来像など二十八体を拝観させていただきました。その日清源寺さんは法要をしておられて、拝観者は迷惑だったでしょうが中へ入れてくださいました。その独特の仏像を目の当たりにして円空とは違うおもししろさを感じました
 『微笑仏』と言われる木喰仏ですが確かにチャーミングでユーモアのある造像だなと思いました。その時いただいた「十六羅漢由来記」の読み下し文を読んでみました。

容貌は、顔色がなくやつれており、髭や髪の毛は雪のように真っ白でした。乱れた髪の毛は螺のように(かわにな…巻き貝でタケノコのような形)垂れています。身長は六尺(180cm)。壊色の衣を着て(これは広辞苑にもない色ですがたぶん形容しようがないほど酷い色の意と思われます)錫を持っていて、姿形の異様さはどうも言いようがないほどです。僧のようであって僧ではないし、俗人のようであって俗人でもない。変わり者か狂人が迷い込んで来たのではないかと疑いました。
 「あなたはどなたですか?」
と訪ねますと
「はい。私は、木食五行菩薩です。近頃思い立って京都へ参りました。そこであなたのお噂をお聞きしはるばる参りました」
と述べられました。』

 おもしろい人だなあと思いました。江戸時代に自由に日本各地を廻国して回り、自分を「菩薩」だといい、この寺で仏を彫りながら「仙人」になってしまうのですから。しかも年齢は何とこの時89才だというのですから驚きです。常人ではないと思いました。
 その後猪名川や滋賀県にある木喰仏を拝観させていただkじました。「木喰展」「円空・木喰展」でも出会ったのですが、木喰さんの多くおられる新潟ら山梨へ出かける機会がなく、以後お出会いすることはありませんでした。
 2013年12月に新潟県長岡市へ行く機会があって、新潟の木喰さんとの縁が結べました。それで、新たにこの木食Indexを作ろうと思いました。

木喰さんWHO?

@名前は?

 木喰さんは何度もその名乗りを変えておられます。
 まず、親につけてもらった名前から。これは不明なのです。姓は伊藤。親は六兵衛、兄は甚五右衛門、弟は治左衛門と分かっているのですが、肝心の本人が分からないのです。
 56才で日本廻国修行を発心。常陸の国で観海上人の弟子になり、木食戒を受て、「三界無庵無仏 木食行道」の僧名を受けます。
 76才で僧名を自ら「天一自在法門 木喰五行菩薩」と名乗ります。
 89才の時、清源寺で十六羅漢像を造刻中、「六百歳の延壽を授けられ「
神通光明明満仙人」を号せよ」と、阿弥陀三尊から夢のお告げがあったと言いその後はそれを名乗ります。
 木食戒を実践する聖は木食●●と言われます。今問題にしている方を「木食」ではなく「木喰」と書くのは本人がそう書いていることもありますし、他の木喰僧をと区別するためです。「木喰上人」という言い方もあるのですが、円空さん同様、新しい宗派をお作りになったわけでも、新しい教えを説かれたわけでもないと考えて、親しみも込めて「木喰さん」と呼ばせていただくことにします。
 

A出身地は?

 甲斐国東河内領古関丸畑(現山梨県南巨摩郡身延町古関前畑)と・『四国堂心願鏡』に書きのこし、何度も故郷を訪れました。今もその子孫がおられるそうです。

B木喰さんが残したものは?

@仏像及び神像
 2008年開催の「木喰展」(監修大久保憲次・小島梯次)図録によると全国で「717体」とあります。
 2009年開催の「円空・木喰展」(監修小島梯次)図録によると「712体」と減っています。
 この数の中には以前は確認できたが現在確認できない91体が含まれているので、
現在620体余がが現存していると考えてよいのではないでしょうか。これらの像の多くに墨書があり、尊名や製作年月日、木喰の名など確認できるものが多い。
A来歴・記録を記したもの
・『四国堂心願鏡』
・『南無阿弥陀仏国々御宿帳』

B自筆歌集(『こころのうたびと』(萩原光之論文・「木喰展」(監修大久保憲次・小島梯次図録所収より)
・『集堂帳』(1782・12・8)…最初の歌集 佐渡で作成 歌数22首
・『青表紙歌集』(1796・1・6)・…柳宗悦が命名。315首。長崎滞在中に編まれたが後年の追加作もある。
・『心眼』(1800・5)遠州(静岡)イロハ歌の各文字を初めにおいた歌48首を含む88首。
・『心眼集歌』…(1803閏1・12)…新潟長岡、青柳興清(清右衛門)滞在中編。観音経の終わり25文字を歌の初めにおいた25首。
・『四国堂心願鏡』…(1802・2・21)故郷甲州丸畑で四国堂建立時、その縁起及び自伝を添えた7首と、建立の献身した人々に5首の計12首が記されている。
・『懺悔経諸鏡』(1802・2・21)…教理を説いた稿本。加持祈祷の修法・呪文・真言などとともに10首。
・『木喰うきよ風りふわさん』(1803・3・10)…長岡青柳家で書かれた。廻国の八大願とともに14首。
・他、名号和歌(南無阿弥陀仏の各文字を歌の初めにおいた和歌)や和歌入り書画が各地に残されている

C書画
 「六字名号」「誓願文」「神号」「三社託宣」「由緒」など百数十点が現存する。(小島梯次論文「木喰の作品」「木喰展」(監修大久保憲次・小島梯次)図録所収より)
・「薬師如来像」「金剛界大日如来像」「阿弥陀如来」などの絵画がある。又、版木も残している。
・「利剣名号」「双鈎字」や『薬師』『阿弥陀』の部分だけ絵にした凝った書など

 まとめとして、小島さんが書いておられることを箇条書きする。
@木喰はかなり筆まめであった
A木喰の書は、手慣れた達筆
Bコンパスのようなものを使って円を描いており、几帳面な性格が浮かび上がる。
C仏像もそうであるが「木喰は丁寧、几帳面という自己のスタイルを貫いている」

C木喰さんの年齢?

 木喰さんが何時生まれたのか、これは一つの謎になっています。かなりの高齢時から廻国しはじめたのは間違いないのですが、その年齢を偽っていた時期があったのです。
 先ほども書いたように、木喰さんはメモ魔と言ってよいくらい几帳面に足跡を残しています。しかしある時期から生年が変化するのです。
 細かいことは省きますが、天明3年(1783年)〜寛政5年(1793)年までは享保13年(1728)生まれと読めるように書いていたのに、それ以後は享和3年(1738)年生まれと読めるように書いているらしいのです。
 どういうことでしょうか?どちらに信憑性があるのでしょうか。
 若く見られたいと思って最初は10歳若く言って、聖としての名声を高めるためには年齢が高い方がよいという判断でしょうか。
 より若いときの自称の生年を信じるか、晩年の自称の生年を信ずるか。
 小島さんは、「私は木喰仏の声価を高らしめている寛政6年以後の行跡を評価し、木喰自身が圧倒的多数に書いている『享保3年」生まれを中心に考えたい」と書いておられる。(小島梯次論文「木喰の作品と生涯」
「円空・木喰展」(監修小島梯次)図録より)
 ほとんどの書物やパンフレットが同じ立場で書かれていると思われますので、私も享保3年生まれということで書くことにします。
 どちらにしても、木喰さんは93年間(1719〜1810)もしくは83年の生涯を生きたことになります。江戸時代にこんな長命な方がおられたのだなと感心しますし、その晩年に廻国するというそのエネルギーに驚嘆します。

D木喰仏の発見・評価そして再発見

 木喰仏が評価を受け出したのは、大正時代末期民芸運動の柳宗悦がらのことであるようだ。(森谷美保論文『柳宗悦の木喰研究』(「木喰展」(監修大久保憲次・小島梯次図録所収より)木喰仏を表す言葉として代表的に今も使われる「微笑仏」と讃えたのも柳宗悦らしい。
 その後も木喰仏の発見研究は進んだのであろうが詳しいことはよく分からない。
 そして昭和に入り30年代前半からの円空ブームとともに、木喰も見直されるようになる。それは、今もそうで、木喰は円空とともに評価される運命にあるようだ。2008年東京国立博物館で開催された「対決 巨匠たちの日本美術展」でも「円空対木喰」が一つの対決として取り上げられた。
 「円空の名人にたいして木喰は達人ともいえる」これは五来重の評価である。五来重は柳宗悦のの木喰評価に対して批判的である。(「微笑仏 木喰の生涯」(1968淡交社刊・現在は『円空と木喰』として再編集されている)
 柳の「木喰観」は「歴史的考察が全く欠如」しており、「ディレッタンティズム(道楽主義)精神の反骨的なあらわれにすぎなかった」と批判しておられる。そして、これからの木喰研究は「柳宗悦をこえて、歴史的研究を加えた、客観性をもったものにならなければならない」と書いておられる。
 そして木喰仏の個性を2点に要約して挙げておられる。
@微笑仏であること
 「木喰仏は柳宗悦いらい微笑仏とよばれているが、これは彼の芸術の最大の個性である」
Aどぎつい人間性
 「新井白石が『神というも人ありてこそ』と表現した、人間こそ神をつくるものだという近世的ヒューマニズムの理念を、無学な木喰も無意識のうちに体得していた。すなわち木喰芸術は近世的時代精神の所産である。木喰の手を借りて微笑仏をつくったのは、柳宗悦のい『「神』ではなく「近世」だったのである」
 そして「木喰仏は礼拝するものではなくしたしむものである」と書く。 
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