木喰さんを訪ねる旅(5)
微笑仏の寶生寺
(新潟長岡市白鳥町・рO258−46−4768)
質量共に代表的な木喰仏を所蔵する寺です。「微笑仏」という言葉は木喰さんを世に知らしめた柳宗悦が最初に木喰仏の賛辞に使ったらしいのですが、この寺の如意輪観音はそれを代表する像だと思います。この寺に残されている木喰仏は保存状態が素晴らしく大変美しいです。
木喰さんは、この寺に文化元年(1804)6月9日から7月13日まで滞在して観音像三十三体を刻みました。一日三体刻む日もありました。この寺の境内の大銀杏を見た木喰さんは、霊感を感じて当時の義天和尚西国三十三観音を彫りたいと懇願したと言います。彫り終えた木喰さんはこの後、前島の青柳家に戻り、青柳家で彫った自刻像を届けています。
(1)圧倒される木喰堂木喰仏
お堂に入れていただき圧倒されました。80cmを超える観音像が32体、そして自刻像が整然と並んでおられました。奥様が丁寧に説明してくださいました。いやあ、見事なものです。
@群像を残した木喰さん
木喰さんは、円空さんと違って一つの堂に群像を残しています。小千谷小栗山観音堂は三十三観音・上前島金比羅堂は秩父三十四観音でした。ここは、西国三十三観音です。ただし、現在は三十二体で、一体が欠損しています。そして清源寺は十六羅漢です。この後訪れた西光寺では十二神将でした。十王像を残している寺もあります。木喰さんはリクエストに応じて群像を彫ったのではないでしょうか。喜捨も集めたようです。それは施主やお寺などの注文があっての造像であったことを示しています。名もなき個人に仏像を与えるのではなく、職業仏師としての造像に近い側面が円空より強いようです。
木喰さんは、西国三十三カ所、四国八十八カ所は勿論、秩父や板東など各地の三十三カ所巡りに対する民衆の支持を肯定的に捉えていたようです。しかし円空さんはこれらを全く無視しています。この違いもおもしろいなと思います。これは時代の違いなのでしょうか。円空と木喰の聖として信ずる宗派の違いの問題なのでしょうか。
A木喰堂ができるまでのこと
@この群像はもともとこの寺の境内の白山神社観音堂に安置してありました。
A幕末に火災にあい、一時山門の楼上に置かれました。(入ってくるとき山門が見えなかったので「お寺の前にあった寺の名前を彫った石があったあたりに昔は山門があったのですか」と聞きましたら、「昔はもっと境内が広く、現在寺の前を通っている道よりさらに奥の離れた場所だった」とのことでした)
B昭和42年新潟県指定文化財に指定。
C昭和43年現在の木喰堂を建立し安置する。
B境内に残る銀杏の切り株
大きな銀杏の切り株です。 最初にお寺の奥さんが案内してくださったのがこの銀杏の切り株でした。この銀杏から三十三観音が彫られたとのことでした。 この時青柳興清が手伝ったらしいのですが、これだけの木を伐るにはもっと大勢の人が手助けする必要があったのではないかと思います。 こんなこと想像したことがなかったのですが、円空も木喰も木材をどのようにして調達していたのでしょうか。 円空は彫りやすい杉やヒノキなどの柔らかい木を好んだようです。木喰はケヤキや銀杏などの堅い木を好んで使ったようです。 特に高齢で、丸彫りの木喰は像を動かすのも大変だったのではないかと想像します。そんな木喰に青柳興清は加勢したのでしょう。 |
C微笑仏如意輪観音
いいお顔をしてほほえんでおられます。上品です。この如意輪観音の写真は左や右の写真のようにやや斜め下から撮ってあるようです。この角度も素敵ですが、まん中の写真のようにほぼ中央下からの微笑がいいなと思います。本当に楽しそうです。思わずこちらもつられて笑ってしまいそうです。頬の色が黒くなっているところも紅潮した娘さんのようで健康的です。
木喰さんは、眉に墨を入れ、口に紅をさしています。この像の場合は頭も黒く墨で彩色しています。
新潟には震災や津波・原発事故のいために故郷福島から避難生活を余儀なくされて来ておられる方が多くおられるそうです。そういう方がこの観音の笑顔に癒されておられるという話を聞きました。なるほどと思いました。
如意輪観音は六観音の一つで、六道の天上界を担当し、人々の苦をなくし、利益を与える観音様だそうです。
D自刻像(賓頭慮尊者)
これが西国三十三観音を彫り終えた後、青柳家で造りこの寺に届けた像です。 後背はありません。青柳家に残している奉納額には「賓頭慮尊者」と書いていますから、木喰はそのつもりなのでしょう。しかし、明らかにその後に残している像から察して自身を反映させて彫っていると思われます。寶生寺の他の観音像に比べますと小さいです。 さて、木喰は本当にこんな風貌だったのでしょうか。 木喰さんは同じ長岡の小国に「八木図」というものを残しています。八木の木を分解すると木と八になり自分が八十八歳米寿の時に「八木図」を版画にして有縁の人に配ったようです。文化2年((1805)正月朔日という日時の入ったその版画に自画像があります。 それは禿頭ですが、頭頂部や側頭部には手入れされていない毛が見えます。上半身は片肌脱いだ状態です。顎髭はこの像と同じですが、普段はこのような僧衣を着たいかにもお坊さん然とした風貌ではなかったのではないかと私は想像しています。こうありたいという自刻像なのではないかと思うのです。この満面の笑みもありたい姿なのではないかと思います。新潟へ来る前の故郷で辛い思いをしたようですから、新潟でいい人たちと出会いこの微笑に到達したのではないかと思うのですがどうでしょうか。 |
E三面馬頭観音と馬頭観音
西国三十三カ所で馬頭観音が本尊なのは、丹後の松尾寺。それしかないと私は記憶しているのですが、ここには2種類の馬頭観音がありました。木喰さんはそういうことにはアバウトだったようです。この像はどこの寺の何という本尊を彫っているということは思っていなかったのではないでしょうか。守屋貞治(1766〜1832)という石工が信州高遠にいました。信州や甲州にその石仏が残されています。木喰より少し時代が後の人ですが、この人も西国、板東などの三十三カ所観音像を彫っています。この人はどこの何観音を彫っているのかを明確にして彫っています。木喰は日本廻国はしていますが、西国三十三カ所は廻らなかったのではないかと思います。京や奈良の有名寺院へは立ち入らなかたのではないでしょうか。仁和寺にはお知り合いがあったようですが。
馬頭観音は観音像には珍しい憤怒像です。観音さんと言えばどちらかと言えば女性的で優しく導いてくださるというイメージですが、馬頭観音は例外です。馬頭明王という言い方もあるようですから、もともとは明王の中の一つだったのが観音の中に入ったようです。馬頭観音は六観音の一つで、大衆的には馴染みのある仏だったようです。人々の無智・煩悩を無くし、諸悪から救ってくださるのだそうで、六道の中では畜生道を担当されるとか。もちろん馬の守護神であり、馬以外の畜生類も守ってくださる観音様です。
この三面馬頭観音の三面のうち一面(向かって左)は明らかに笑っています。微笑仏木喰の面目躍如たるものがあります。頭は何でしょうか。逆立っているわけでもなく、まるでターバンみたいです。隣の馬頭観音もそうですが、首の周りのヒダヒダは何でしょうか?キリスト教の宣教師が着るような衣服に見えます。馬は極めてリアルです。
奥様は、他にも薬師観音と呼ばれて病に苦しむ人々に頼りにされた瓶を持った観音像のこと、子安観音、白衣観音などについてもお話し下さいました。寶生寺で6枚組の絵はがき(500円)を購入しました。
木喰さんを訪ねる旅(1) 京都丹波清源寺 |
木喰さんを訪ねる旅(2) 滋賀蒲生町竹田神社 |
木喰さんを訪ねる旅(3) 兵庫猪名川町 |
木喰さんを訪ねる旅(4) 新潟上前島金比羅堂 |
木喰さんを訪ねる旅(5) 新潟長岡寶生寺 |
木喰さんを訪ねる旅(6) 新潟柏崎西光寺 |
木喰さんのを訪ねる旅(7) 新潟長岡真福寺 |
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