木喰さんを訪ねる旅(7)
仁王像の真福寺
(新潟県長岡市小国町・рO258−95−2173)

 「あれと違うかな」車の中から小高い丘の上にお寺の屋根が見えてきました。
 「ここは、以前は山城のあった場所だったようで、周りを堀で囲まれていたようです」とお話し下さいました。渋海川が四百年前は直ぐ下を流れていたそうで、自然の要塞としての構えを持った立地に真福寺はあるようです。
  奥様が優しい笑顔で私たちを迎えてくださいました。すぐに本堂へ向かいました。
「今日は、何の日かご存知ですか?」
とおっしゃいました。12月8日でした。「分かりません」と答えると、「今日はジョウドウエです」とおっしゃいました。どういう漢字を書くのかも分かりませんでした。「お釈迦様に関係する日が年間三回あります。お生まれになった四月八日の灌仏会(花祭)、お亡くなりになった二月十五日の涅槃会、そして今日十二月八日は成道会といって、お釈迦様が悟りを開かれた(降魔成道)日です。午前中はみなさんお集まり下さって成道会していたのです」とおっしゃっていました。
 真福寺は、曹洞宗の名刹で、明治時代永平寺六十三世(大本山貫首)を勤められた魯山琢宗禅師もここで修行されたというお寺です。
 写真のように本堂の前の木もすっかり冬支度が出来ていました。豪雪地帯で、この庭ももうすぐ雪に覆われ、私たちが行った日が木喰さんを見せていただく最後のチャンスの日だったようです。

(1)金毘羅大権現像(50.0cm)

 「真福寺の縁起と木喰仏」というパンフをいただきました。真福寺はセキュリティが行き届いていました。金毘羅像もガラスかプラスチック版越しで警報装置もありました。薄暗くて、写真を撮るのは難しかったのですが、カメラ内蔵のストロボをたいて、やっと撮ったのが下の写真です。
 まず、本堂におられるこの金毘羅大権現像です。
 私は右手は髪の毛を持っておられるように見えたのですが、頭巾を被っておられるようにも見えます。左手には数珠をもっておられます。カッと目を見開き口元を引き締めて素足で岩座に座っておられます。この岩座は、もたれて座れるようになっていて、椅子のようです。
 この像は前島青柳家で造られたことが明らかになっています。
 像の背銘写真が「木喰展」図録(2008)にあります。
 私が読める文字を右から書きます。
 頭の裏面に種字バク(釈迦)があります。

■■(日本か?)千タイノ内予り
天下和順
金毘大権現
                  八十七才 (花押)
日月清順            木喰
享和四子八月十三日 天一自在法門
              五行菩薩
 上前島金毘羅堂のページでも書いたのですが、この像は青柳家で造られたことが「八月十三日」という日付で明らかになっています。享和四年(1804)は二月までで、改元されその後は文化元年だそうですから本当は文化と書くべきなのでしょうが、木喰は知らなかったのか間違ったのか。
 種字の釈迦はこの寺が曹洞宗だったことと関係あるのでしょうか。「羅」の文字が抜けています。
 木喰さんの願は木像彫像千体と二千体両方あるそうですが、ここには千体と書かれています。
 金毘羅大権現像四体は新潟にだけあるそうで他にはないそうです。(円空・木喰展図録」解説より」(2009)奥様は、前を流れる渋海川に船頭さんがいて江戸時代は舟に乗せて荷物を運ぶことが主流であったから金毘羅像なのではないかとおっしゃっていました。 

 (2)梨ノ木観音(立木観音)

 本堂の裏手はさらに高くなっていて、そこに観音堂があり、梨ノ木観音はそこにおられました。奥様は、傘を車内に置いてきた私たち三人に傘を用意して下さいました。雨が少し降っていたのです。
 「真福寺の縁起と木喰仏」というパンフと「木喰仏を巡る旅」(高橋実著・新潟日報事業社刊2011)に書かれていたことを参考にこの観音さまについて書いてみます。
 この像は、製作は享和四年(1804)です。木喰さんはこの寺では後で取り上げる仁王像二体だけを造像されたようです。
 木喰さんは仁王像を造った後、太郎丸村の庄屋上坂庄助宅を訪れ、庭前の梨ノ木に霊意を感じ立ち木この像を彫りました。後にこの木が枯死したので観音像を切り取り、明治41年(1908)にここに観音堂を建て、安置されたそうです。
 奥様のお話です。
「この像を見に来られた方でその美しさに魅せられてずっと半日見ておられた方がおられました」
「この像を撮影に見えたが、本堂から延長コードをひいて、ライトを当てて撮影しておられた。大変でした」
 このお堂、木立に囲まれた場所で、時刻は正午頃なのですが天候が悪く、開けっ放しにしても暗いので、何がなにやら見えないのです。ライトなど何の用意もしていない上に、お堂内が暗く、しかも金毘羅像と同じセキュリティのためにガラスかプラスティックの壁が前面にあり、写真撮影には全く適してない条件でした。
「目が慣れてきたら見えてきますよ」
と言っていただいたのですが、何となくこの辺りが顔かなと思う方にカメラを向けストロボ撮影したうちの一枚がこれです。
 外にあったこともあるでしょうし、観音堂でロウソクや線香を焚かれてたためでしょうか黒く煤などがついていて、お像全体が黒ずんでいるようです。しかし、口の朱が残っていて、その微笑が際だっています。
 私がストロボをたくたびに、同行のお二人が、「ああ!」と感嘆の声を上げられるのですが、私にはさっぱりで、撮った写真を見て、ああそうか、こういう感じなのかと思いました。このお像は、写真を撮らなくても懐中電灯などのライトを用意してそのお姿を見せていただく方がよいように思います。
 奥様がお話し下さったことで心に残ったお話がありました。この右の写真の鐘のことでした。こんなお話でした。
 「この鐘は檀家のおばあさんが寄進されたもので、その方がまだ若い頃にご主人と富山県の(鋳物で有名な)高岡へ行って購入されものです。ご主人が先立たれ、ご自身も健康に自信がなくなったので、施設に入られることになり、この鐘を寄進されました。八月九日は観音さまの縁日で、この観音堂で法要中この鐘を鳴らしたときに、私の携帯電話の呼び出し音が突然鳴り、出たら、そのお婆さんがお亡くなりになったという知らせでした。おばあさんが知らせたのでしょうね。」
  

(3)仁王像

 共に一木の欅の上下であり、隣村諏訪白山神社の社木です。
 いずれも僅か十日間で仕上げたのです。
 像の背に上人自筆で記されてあります。
           製作 享和四年五月二日着手(西暦一八〇四年)(「真福寺の縁起と木喰仏」より)
 左側・阿像 
(欅 2m44cm 525kg)
 右側・吽像 
(欅 2m43cm 375kg)
 観音堂から、本堂の横を通って、仁王像のある山門へ向かいました。山門は本堂のある場所から階段で相当数あり、さらに階段が続いて下の道へ続いているようでした。その途中、いくつも石仏に雪囲いがしてありました。
「雪が降って全て雪の中に入ってしまうので、京都のお寺みたいな庭はつくれない」「雪の間は重機で雪をどけないと車を出せない」「春になって石仏の首から上がなくなっていることがある。重機がどこに石仏があるか分からずに除雪をしていてとばしたり、石仏の首の割れ目に水分が入って氷になって膨張してとれたりする」
 日本海側で育ったある人が「冬に汽車に乗って京都へ来たとき、その明るさにびっくりした」とおっしゃっていたのを思い出しました。雪国には私が想像できない生活があるようです。
 この山門で写真を撮ろうと工夫したのですが、全くだめでした。上の二枚はその中で少しマシな二枚です。もう冬支度が終わっていて板囲いがされていました。暗いのです。仁王像の前には枡形の板がはまっていて、その間からレンズを入れてみたのですが、暗くてやはり、ストロボが必要でした。しかしストロボはその木枠の後ろですから影が映り込み、写真にならないのです。特に吽像は悲惨で上のようなピンぼけ写真を撮るのが精一杯でした。阿像も右側に黒い影が見えると思います。
 この仁王さん、この付近で火事があったとき、うちわであおいで、火の粉が来ないように寺を護ったという言い伝えがあるそうです。そういうことをされそうな気のよさそうなお顔をしておられます。仁王さんならその剛力で火を消したとかいう伝説にならないところが木喰作の仁王らしいと思います。
 先に紹介した「木喰仏を巡る旅」には「小国の生んだ幕末から明治にかけての力士伊勢の海、両国の二人はこの力士像に願掛けをしたといわれる」と書いてありました。
 この仁王像をある「木喰展」にお出しになられたことがあるそうです。その重量大きさからしてさぞかし大変だったことであろうとが想像できます。仁王像の傷みのことなど考慮されてもうお出しになることはないとおっしゃっていました。
 この石段下には柳宗悦の「木喰五行菩薩安置の霊場」という碑があることを後から知りました。  
 私が悪戦苦闘しながら写真を撮っていたら、奥様が「ちょっと」と言って庫裡の方へ戻られました。しばらくして戻ってこられました。梨ノ木観音の大きく写った写真をとりに行ってくださっていたのでした。最後私たちの車が出発するのを最後まで見送って下さいました。
 最初に電話をかけ直していただいたところから、最後まで本当に親切にお心遣いいただき、丁寧にご案内いただきました。感謝して合掌。
 

(4)信仰の中に生きる木喰仏と彫刻について
(パンフ「真福寺の縁起と木喰仏」より)

 これ等の仏像を目のあたりにして、上人の偉人にして非凡人であると共に、腕力抜群である事も窺い知る事が出来るのであります。つむじ毛の刀跡の如きは神技とでも言えましょうか、まさに霊力の権化であり、枯木に等しい八十七才の肉体にどのようにしてあの気力、腕力が宿されていたものか。寺の本堂に毎夜左手に線香、右手に鑿をふるう姿に、助手大工、吉兵衛が忍び見れば、「吉兵衛に不非や!」と凛たる一声を放つ上人の行動を巡る数々の逸話等がございます。
 その形は荒けずりではあっても、いずれの仏像も何故か人の心に語りかけるように頬笑みかけていられます。それは厳しくまろやかな上人の人間性が、明らかに曲線の美となり「微笑仏」となって現れたものであります。以上の仏像は唯鑑賞するだけではなく、上人の大衆のためのお心を汲み、我々の信仰の対象として御参り下さいますよう、心からお願いいたします。
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