木喰さんを訪ねる旅(16) |
(1)三十五体の木喰仏
2017年6月25日(日)梅雨真っ只中、雨でした。小栗山観音堂、やっと訪問できた。前回新潟で木喰仏を拝観したときは、冬期閉堂中だった。
木喰仏を近代に入って評価した民芸研究家柳宗悦がここを訪れたのは大正12年(1924)10月12日。この時、小栗山出身の彫刻家H氏が案内したという。現在の上越線越後滝谷駅(旧六日町駅)から小栗山まで徒歩で向かったらしい。長岡市から小千谷市まで歩く?!さぞかし遠い道のりであったことであろう。
私はマイクロバスに乗せてもらって、峠辺りにある小栗山観音堂のすぐ下にある闘牛の飼育施設の前から数分歩いた。柳よりさらに昔の木喰は、高齢にもかかわらずここまで歩いてきて造像した。
ここに三十三観音、大黒天像及び行基菩薩像が残されている。昭和43年3月新潟県指定文化財になった。
(2)三尊(大黒天・如意輪観音・行基菩薩)
堂内の木喰仏が置かれている場所は、大きく3つの部屋に別れている。その真ん中にある3体は他の32体より大きい。主尊である如意輪観音(227.5m)はとりわけ大きい。木喰仏中、三番目の大きさである。(真福寺仁王2体の次)大黒天、行基菩薩像(1.22m)は同じ高さであり、大黒像は木喰大黒天像中最大である。木喰の行基菩薩像は以前三体あったが、現認できるのは、この一体だけである。
これは私の感想なのだが、この三尊一体感がない。まず、如意輪観音の顔がこわい。微笑仏でない。口の周りに左右二本ずつ、しわがある。年寄りに見える。寶正寺の如意輪観音や真福寺の梨木観音のあの微笑がないのである。「どうしゃはったん?木喰さん」という感じである。
行基菩薩像はいい顔しておられる。優しい微笑仏である。私は行基さんは痩せておられるイメージを持っている。どうしても近鉄奈良駅前の銅像から離れられない。こんな福よかな行基さんを想像したことがなかった。大黒さんは、もっと笑っておられてもいいのになと思う。
行基さんに合わせて微笑してほしい。とりあえずこの三体は、三尊形式だと思うのだが、バラバラだ。ほんまにどうしはったん?木喰さん。
どうして、この3体を大きくして三尊形式にしているのかなと思う。
この小栗観音堂は18世紀終わり頃、失火のため焼失したらしい。失火前の堂の本尊は行基作と伝わる像であったらしい。行基像があるのはそのためであろう。観音堂であるから本尊は観音様で、木喰得意の如意輪観音が彫られたと想像できる。
(3)右の部屋の三十三観音(16体)
(4)左の部屋の三十三観音(16体)
(5)33観音の内訳
とにかく、全体像を撮影できない。何とかしようと努力したが、この程度であった。照明の問題もあるし、前に引き戸があってその間からしか撮れない。中へ入ると全体が捉えられない。33体の内訳は以下のような説明があった。 |
西国三十三観音の内訳は、以下の通りである。(数字は観音霊場の番号)
@如意輪観音…6ヵ寺 @FLMQ27
A十一面観音…7ヵ寺 AGNPRS24・31・33
B千手観音…15ヵ寺 BCDEIKO・22・23・25・30・31・32
C不空羂観音…1ヵ寺 H
D准胝観音…1ヵ寺 J
F聖観音…4か寺 21・26・28・31
G馬頭観音…1ヶ寺 29
合計35ヵ寺になっているのは、31番札所長命寺(滋賀県近江八幡市)の観音様が「千手十一面聖観音」と名乗っておられるためである。
要するに、木喰も西国33ヵ所霊場のご本尊が何観音であったのかは知らなかったし、小栗山観音堂を再建しようとされた方々も、詳しくはなかったということではないか。西国三十三箇所ゆかりの石仏などには何番札所の何寺の何観音かが文字で彫ってあるものが多くあるが、木喰の彫るものは大らかなのか無知なのか、そういうことには無頓着だったのである。同じ江戸時代の高遠の石工守屋貞治(1765〜1832)は正確に彫っている。プロとアマの仕事の違いを見る思いがする。
(5)頭光前面の光明真言
種字や真言について読み下す能力がないので、小島梯次著「木喰仏入門」から引用する。説明を読んでも
「木喰仏の背面及び頭光前面に多くの梵字が書かれている。木喰仏に書かれている梵字で一番多いのは「光明真言」であり、その他「各種の種字と真言」である。
光明真言(オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ナウ マ カ ボ ダラ マ ニ ハン ドラ ヂンバ ラ ハラ バリ タ ヤ ウン ダ(休止音)」
光明真言は、像種に関係なくほとんどの木喰仏の、主として頭光の前面部に向かって左下かた時計回りに書かれている。
光明真言は、真言密教で唱える大日如来の真言であり、踊(よう)すれば一切の災厄から逃れ、福徳をもたらす等のご利益が得られるとする」
(6)心に残った観音様たち
十一面観音 | 十一面観音 | 聖観音 |
如意輪観音 | 十一面千手観音 | 馬頭観音 |
(6)背銘を読む
この2体の観音は左室一番下真ん中にあったもので2体とも如意輪観世音の名が記されている。 頭後背面中心部に観音菩薩の種字「サ」が書かれ、周囲右側に観音の真言「六字大明王陀羅尼」(「六字真言」または「観音六字」)「オン マ ニ ハン ドマ ウン」が書かれ、左側に「ハッ タ ソワ カ ダ」と書かれている。この真言は観音の慈悲を表し「ハッ タ」は「一切魔障を破戒」「ソ ワ カ ダ」は真言末尾に付ける慣用語。 さて、体部分に書かれている文字である。 「日本千タイノ内 天下和順 天一自在法門 如意輪観世音大士 八十六才(花押) 日月清明 木喰五行菩薩 享和三年八月朔日(ついたち)」 この読み方に自信はない。小島梯次著「木喰仏入門」と高橋実著「木喰仏を巡る旅」を参考にさせていただいた。 が、如意輪観世音の下に「大士」と読める字がは何だろう?もう一つ、右側一番右に百万壽の文字が見られる。左にはない。「百万壽」の文字は20体あまりに書かれているらしい。 |
(8)背銘の年号と日時
私が全ての木喰仏を裏向かせて確認したわけではないが、35体の木喰仏の背銘には次のような日時が書き込まれているらしい。
@本尊如意輪観音…享和三亥八月十五日
Aぎょう(行)基大菩薩…享和三亥八月廿四日
B大黒天…享和三亥八月廿四日
C他の三十二観音…享和三亥八月朔日(一日)
享和三年は西暦1803年であり、日時は八月一ヶ月に集中している。いくら木喰が早彫りだといっても一日で32体のはずがない。開眼した日なのか、彫り終えた日なのか不明である。木喰が小栗山に滞在したのは享和3年(1803)から4年(1804)にかけてである。享和4年は文化元年でもある。
(9)小栗山に残したもの(合計45点)
(高橋進氏作成資料より)
@小栗山観音堂の35体
A村人へ子安観音5体
B広井弥五左衛門像 阿弥陀如来像
C広神村真福寺の三面馬頭観音像(総高73cm)
D国立博物館蔵「自刻像」
E池の窪 広井正喜家に心願和歌集、六字名号、米寿自祝掛け軸
F木挽き五郎兵衛、銀杏用材の玉切りを手伝い十一面観音を贈られる
木喰はこの後訪問する広井弥五左衛門家で1年間滞在しこれらの像を彫ったらしい。