木喰さんを訪ねる旅(12)
南丹市蔭凉寺
(京都府南丹市八木町)
八木町には、清源寺の他にもう一カ寺木喰さんがおられる寺があることを知り、ぜひにと思い何度か電話をかけたり、実際に出かけたりしたのですが、拝観叶いませんでした。「木喰展」や「円空・木喰展」では拝見していたのですが、同じ京都に住んでいるのですから、ぜひ現地でと思ってきました。2016年の全国木喰会の見学ツアーに参加して、やっとご縁が結べました。
清源寺の直ぐ近くにあるこの寺は、木喰さんが来られた頃も今も尼寺です。
木喰さんは、清源寺で十六羅漢を彫っている最中の文化4年(1807・90歳)正月から2月にかけて、蔭凉寺の5体の像を彫っています。内訳は、@薬師三尊像 A明満仙人自刻像 B日ノ出大黒天です。
「花と詩と微笑の郷 八木」という小冊子をいただきました。その中にこんな事が書かれていました。「木喰上人は羅漢を彫刻するかたわら病人へ、いわば癒しのための加持をしたといいます。それは霊験もあらたかで、信者も大勢集まるようになりました。そうして蔭凉寺の庵主さんとも親しくなった木喰上人は、この尼寺のために永遠の女性像である「薬師三尊」を残すことになったのです」
書かれた方のご想像なのでしょうが、この蔭涼寺に好意を持ったであろうことは想像できます。
では、蔭凉寺の「永遠の女性像」を拝見しましょう。
(1)薬師三尊
月光佛(77cm) 二月十七日 |
薬師如来(78cm) 二月十二日 |
日光佛(77cm) 二月十六日 |
確かにべっぴんさんの薬師如来です。丸い髷、垂髪は女性を表現していると思われますし、何よりにこやかな優しい顔つきが女性を感じさせます。持っておられる薬壺、太陽、月もおしとやかな持ち方です。如来さんを女性として彫るというところに木喰さんの自由さを感じます。尼寺で、女性で病に苦しむ人たちに向けたメッセージなのだろうと思いました。
これらの背銘は、尊名と制作月日以外は同じです。薬師如来の背銘を紹介します。
日本千タイノ内 作
天下和順 神通光明
バイ(薬師如来の種字) 薬師如来 明満仙人(花押)
日月清明
文化四卯歳二月十二日ニ 九十才
猪名川と違い、カセイ大工青柳與清の文字がありません。
(2)明満仙人自身像(蔵)
明満仙人自身像が正しいのでしょうが、「蔵」と書いています。前にもそう言う例がありました。 「木喰五行菩薩」時代には自身像は13年間で9体。「明満仙人」になってからは4ヶ月で5体彫っています。自分が「菩薩」だと名乗るのもなかなかの自信だと思いますが、「仙人」は相当なものです。しかも自身を拝せということですから、どえらい自意識です。 この像は明満仙人の名乗り後初の作です。 背銘に書かれていることです。 日本二千体ノ内ナリ 作 天下和順 父母 神通光明 (ナウ)明満仙人自身蔵 明満仙人 日月清明 菩提ノタメ 九十才(花押) 文化四卯正月八日ニ 注目点は「日本二千体ノ内」と書いていること。今まで千体ノ内と書いていたのを二千にしています。これの前の日付を持つ像は、清源寺の釈迦如来の前年十二月廿四日。これをもって、釈迦如来が千体目。蔭凉寺の自身像が千一体目ということになります。しかしながら、その後の猪名川でも千体ノ内と書かれているものが多く、正確かどうか?です。正確に自分が彫った数を数えていたかどうか疑問です。 |
(3)日ノ出大黒天
(81cm)
木喰さんは、生涯を通して大黒さんを彫り続けたようです。各種観音菩薩が圧倒的に多いのですが、、薬師如来に次いで、阿弥陀如来と同じ数37体を彫っています。(小島梯次論文「木喰の作品」より「木喰 庶民信仰の微笑佛」(2008)から) 木喰さんは、彫ってほしいと依頼された神仏を彫るという点で、プロの仏師に近い活動をしていたのではないかと思います。大黒天は福神であり人気があったのでしょう。 蔭凉寺の庵主さんに、ぜひにと頼まれたのかもしれません。 猪名川で個人宅に残した「大黒天神西宮大神宮」は大黒天とえびす神が一木に彫られている珍しいものです。この像は米俵の上の自身が持つ袋の上に大黒天が立っています。そして大黒天の頭の後ろには後背のような日輪がある。したがって、日ノ出大黒天なのだなと納得した。 |