木喰さんを訪ねる旅(17) (新潟県小千谷市) 小栗山某家阿弥陀如来像 |
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小栗山観音堂から、坂道を降りていくと民家が見えはじめた。よく分からないのだが、小栗山観音堂は峠の辺りにあるようで、道が三方に分かれる場所にある。二方には下がっていき、一方にはさらに上っていく道があるようだ。上っていく道を行くと中越地震で何度も報道された古志村があると聞いた。 その民家にある木喰仏を拝見することができた。 |
説明された方が、このお宅のご親戚であった。かなりの雨の中での説明で、色々名前が出てくることもあって、私の理解は相当いい加減である。したがって、これから書くこともそのつもりで読んでいただきたい。
今は畑になっているこの場所に「蔵」を建てて、木喰は作像したという説明であった。木喰堂からは200mぐらいであろうか。木喰を小栗山へ誘ったのは、当時長岡におられたこのお宅出身で破格の出世をした方だとのことであった。(根拠がどうなのかなと思った。伝承があるのだろうか?) この方が上前島の青柳家に逗留していた木喰を本尊のない観音堂再建のため小栗山へ来て作像するよう依頼したのではないかとのことであった。この時、「酒、そば、米」があると木喰を誘ったのではないかとその著作「木喰」(広井忠男著2017)で書いておられる。 木喰は、そういう誘惑に弱かったかどうか?酒もそばも好きそうだが、さすがに米三昧のくらしを望んだかどうかこれは「木喰」の名に反することになる。 |
阿弥陀如来像
(42cm)
茶色い塗料かニスで上塗りしたように光っている。お話では後年に金箔を貼られたそうである。その後剥がされたとのことであった。生成のままではありがたみに欠けると思われてのことであったのであろう。団子鼻で愛くるしい表情をした庶民的なお顔の阿弥陀さんである。
背銘はよく分からないが、施主の文字が読み取れる。このお宅の御主人の名が記されているものと思われる。
木喰が小栗山に一冬越えて滞在したのは、享和3年(1803)〜文化元年(1804)の足かけ2年である。この間に木喰が残したものは小島梯次著「木喰仏入門」によると以下の通りである。
@小栗山観音堂の35体
A自身像(東京国立博物館蔵「享和四子三月廿九日」銘)
B長岡市小国町真福寺「龍水図」(「五行菩薩文化元年甲子四月朔日古志郡小栗山ヨり真福寺ニ来タリ」の記述
C魚沼市広神真福寺三面馬頭観音「木主小栗山村弥五■エ門享和三亥十月十一日」銘
この阿弥陀像の背銘の日時が読めないのであるが、この像とA及びCはこのお宅で造像されたものかもしれない。
先の広井忠男著「木喰」(2017・日本海出版)によると、木喰が小栗山に残した遺作は52点に上るとある。それによると
@小栗山観音堂35体
A世話をした村人に彫り与えた5体
B六字名号掛軸3
C米寿自祝版画掛軸1
Dうきよ風流和讃
とあった。あれ45しかない。他にもあるのだろうか?