木食さんを訪ねる旅 (29) 新潟佐渡市 加茂歌代 富月寺 |
2019年6月8日(土)~10日(日)佐渡にいた。全国木喰研究会主催「佐渡木食遺作見学ツアー」に参加した。私は佐渡は初めてである。佐渡富月寺歌代三十三観音
富月寺おしろい地蔵
(80cm)
この地蔵には言い伝えがある。全身におしろいが塗られているのだそうだ。それを塗ったのは両津の女郎さん達だという。毎年祭りになるとこの像が小祠堂から引き出され、遊女たちは普段使う自分のおしろいをこの像に塗って、願いが叶うように祈ったという。 背面下部に左のような文字がある。「両津町金澤屋」。 金澤屋はかって女郎屋さんだった。「行こか戻ろか戻ろか行こか ここが思案の両津橋」という両津甚句が伝わっているらしい。大きな花街だったのであろう。 小島梯次氏は、「社会の辛酸を舐めてきたであろう遊女達の心の拠り所となってきたこの像は、まさに権威と対極にある木食像の位置、木食像への信仰の有り様を象徴的に示している」と指摘しておられる。 |
なぜこの像が、富月寺にあるのかは分からないらしい。両津港から加茂歌代までそれほど距離があるわけではない。何か事情があって遷座したのであろう。背銘写真をしっかり撮れていないことに気づかず帰ってきた。上の金澤屋は離れていて、三種類の文字が書かれていた。右は中央の梵字を含む文字群(三行)…これは木食筆ではなかろうか。全体を見るために中央の写真を入れた。右は年号月日が入っている。願主が願い事を書いていると思われる。左にも同じように書かれているが不明。つまりこの像には、木食,、金澤屋、願主2名の文字が書かれていると思われる。
平沢にあった自刻像背銘と同じ文字が書かれているようだ。中央の真言は「地蔵」の真言ではないかと想像し書いた。 | 慈眼「目示」衆生 カ(地蔵種字)オン・カ・カ・カ・ビ・サンマ・エイ・ソバー ・カー(地蔵真言) 福集海無量 |
菜人愛郷 女人奉産 寿命長遠 穀米成熟 身魂具足 黎明智恵 神明加護 衆病悉除 財寶■溢 諸天菩■ |
私はこの像、本当に白粉だけでこんな風に白くなったのかなと思った。「木食さんの佐渡」を見ていると、清水寺の薬師如来と地蔵菩薩二体は前身に胡粉が塗られている。両津神社の天満宮にも塗料が見える。私はもともと白い塗料が塗られていたところにさらに白粉が加わったのではないかと思った。
もう一つ気になったのは顔に塗られている墨である。まぶたに黒目が入っている。口ひげも見苦しい。両方とも消せばもっと遊女に頼られたお地蔵さんになるのになあと思った。
木食さんと佐渡Ⅰ
(木食佐渡年表)
木食さんは、安永9年9月21日(1780・63歳)から、栃木県鹿沼市栃窪に5ヶ月滞在し、薬師堂と民家に、弟子の白道と薬師三尊、十二神将を残した。
天明元年(1781・64歳)信州長久保で白道と別れる。閏5月23日に出雲崎から、小木に渡る。
*閏五月というのは、太陰暦を修正するため同じ月を二回することで、この年は五月が二回あったようだ。安永10年は途中で改元され天明元年でもある。
天明二年(1781・65歳)最初の歌集「集堂集」を編む
天明三年(1792・66歳)新潟県佐渡市石名・清水寺奥院壇特山釈迦堂再建。書画軸の揮毫に手を染め百点を超える作を佐渡に残す。
天明四年(1783・67歳)同梅津に九品堂(現・木食堂)建立。初めての自刻像を彫る。佐渡で育てた仏弟子丹海に後事を託し、5月15日佐渡市水津から佐渡を出る。9月12日故郷丸畑へ帰る。
(「木喰仏入門」(小島梯次・2014・まつお出版))「木食」(2008年・東宝出版・大久保憲次)木食年譜より
なぜ、こんなに詳しく日付まで分かるのかというと、木食さんが「南無阿弥陀仏仏国御宿帳」という旅日記をつけ、納経帳や、扁額などにこまめに記録したからである。ここで、木喰ではなく口偏のない木食と書くのは、佐渡では木食と自称しているからである。年
木食さんと佐渡Ⅱ
(木食佐渡から始めたこと)
①北海道や栃窪での作仏は、弟子の白道主導で行われてきたが、佐渡以降木食独自の仏像 制 作が始まる。
②和歌を歌うようになり、歌集『集堂集』を残す。
③書画軸を大量に残すようになる。佐渡の特長。(佐渡に100点以上と言われているが四十点が 確認されている)
④仏像数である「木喰仏入門」(小島梯次・2014・まつお出版))では、現存数は24体、移出数16 体で、確認されるのは40体とある。
「木食」(2008年・東宝出版・大久保憲次)では、現存数24体、焼失数14体、不明像2体、移 出数1体、計41体とある。一番最近出版された「生誕300年木喰展図録」(2018年・小島梯次 監修・身延町なかとみ現代工芸美術館)でも現存数24体移出数16体とあるので、木食さんは佐 渡で40体余確認されるということになろうか。
⑤三界無住無仏の木食さんにしては、4年間というのは、後の10年の宮崎に次いで滞在年数が長 い。しかも最晩年の新潟訪問時(前島・小栗山・長岡・柏崎など)に、再度佐渡渡航を試みようとし ている。地震で小木港が使えないので2度断念しているが、佐渡へ渡ろうという強い意志があっ た。佐渡に愛着を感じていたのであろう。
⑥栃窪に続いて、佐渡二ヶ所(清水寺奥院壇特山釈迦堂・梅津に九品堂)で堂宇を建立している。
⑦初めての自刻像を彫っている。数安永
木食さんと佐渡Ⅲ
(なぜ佐渡へ)
2つの意見がある。
①廻国の一環。写経したお経を納経(一の宮、国分寺、有名寺社)し、納経帳に印を押してもらう。 布教活動。民衆に仏教を広め、その苦しみを除き、極楽往生の望を与えるためであった。仏像を 刻み、書画、和歌を書いて人に与え、人々の病気を治すことも、民衆教化の大切な手段であった 。
②佐渡独自の目的。浄土宗捨世派の木食弾誓が佐渡で修行したことを慕って佐渡へ渡った。木食 弾誓の足跡を辿るための来島であったと言う意見。彼自身木食行道を名乗る木食僧としての自 覚はあったであろうし、その祖である弾誓を敬っていたであろうことは想像に難くない。
②は「木食」(2008年・東宝出版・大久保憲次)や「木喰仏を巡る旅」(2011・高橋実著・新潟日 報事業所)で書かれている。
それに対して、佐渡の木喰研究家萩原光之氏は「木食さんの佐渡」(萩原光之・2008・アサヒ メディア)の中で、「結論を先に言えば、来島以前に弾誓のことは知っており、影響を受けていたで あろうが、弾誓と佐渡(壇特山)との結びつきについて知ったのは来島後ではないか」と指摘。根拠は、木食は来島後すぐに、弾誓の足跡を追っていないこと。小島梯次氏も同意見である。
木食さんと佐渡Ⅳ
(何も見ていないのと同然では)
私は今回佐渡の木食さんに2体しかお会いしていない。数多く残っているという書画軸も見ていない。かわりに「トキの森公園」と佐渡金山説明施設「キラリズム」という施設見学をした。
佐渡へは上陸したが、木食さんとの出会いは乏しかった。