生誕300年記念

木喰展

身延町なかとみ
現代工芸美術館

(山梨県南巨摩郡身延町西嶋345)
 
 NHKが「日曜美術館」でこの木喰展を取りあげ放送した。入館者も多かったと聞いた。
 左は美術館前にあったモニュメント。道の駅にも2種類あった。身延町は木喰さんで観光振興に繋げられないかという想いが伝わってくる。
 右は木喰展ですごろくワークシートがあって、問題に答えるといただける特製ファイル。このワークシートは、木喰さんの84年間(94年と本人は書いている)の足跡を双六風にしたもので、工夫してあった。
 ほどほどの入館者で、あちこち行きつ戻りつ、自分の好きな木喰さんと再会したり、初対面の木喰さんを、しっかり拝したりした。
 旅行から帰ってから、今回の木喰展のために作成された図録を読んでいる。なかなかおもしろい。展示仏のこと、身延町丸畑のこと、四国堂のこと、柳宗悦の木喰研究のことなど読み応えがある。それを紹介しようと思う。

 

(1)出品作品について

■第1期 三界無庵無仏木食行道時代
(1777~1793・4)

 木喰はその名乗りを三度変えている。その最初が「三界無仏無庵木食行道」である。木食と最初は「口偏」の「木喰」を使っていない。最初は普通名詞として木食戒を学んだ(受けた)行道であるという名乗りであったのであろうが、今では木喰と言えばこの人と言えるぐらい固有名詞化している。
 木喰戒というのは、「正式な仏教の戒律に含まれるわけではなく、口伝として継承されてきたようで、正確な内容は不明である。後人の見聞記に、木食行者は穀類や煮たものを食べない、単衣で重ね着しない等が伝えられている」(本展ガイド冊子より)
 行道という僧名は22才の時(元文4・1739)大山不動尊で古義真言宗の大徳の弟子になったときにつけられたものかも知れない。木食行道と連ねて書くところから見ると、宝暦12年(1762・45才)常陸の国羅漢寺の観海上人から木食戒を受けたときかも知れない。
 木喰が仏像を彫るようになったか。現在確認できるのは青森海傳寺の釈迦如来(安永7・1777)。この後の天一自在法門木食(喰)五行菩薩を名乗るのは寛政6年(1794)である。
 「三界無仏無庵」の意味であるが、人間が死後輪廻転生する世界が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)である。その六道を3つに分け下から、「欲界」「色界」「無色界」の三段階に別れているのが「三界」である。
 欲界は、淫欲と食欲があり、衆生、生きとし生けるものが住む世界である。六道の天の中にも色界がある。
 色界は、淫欲と食欲の2つの欲を離れた衆生が住む世界で、ここで言う「色」とは物質(目に見えるもの)のことで、欲や煩悩は無い世界で、純粋で清純な物質だけがある世界らしい。それでもここに住するものは物質や肉体の束縛からは逃れられないらしい。ということは食べなかったら死ぬし、肉体的衰えも感じると言うことになろうか。六道の中の天の下部に位置する。
 無色界は、物質世界から完全に離れていて、心の中に起こる「受・想・行・識」だけからなる世界。飲まず食わずで生きていけるし、いさかいも喧嘩もない世界ということになろうか。その最高の場所が有頂天らしい。六道の天の上部に位置する。
 「女三界に家なし」ということわざがある。女性蔑視、差別の時代のことわざである。封建時代の道徳で女性は三従(子どもの時は親に、嫁いでは夫に、老いては子どもに従え)という縛りの中で生きなければならないのであるから、どういう世界に生まれ変わろうと居場所はないという意味になる。
 木喰の言う三界無庵無仏はどういう意味であろう。無庵は何となく理解できる。定住して安穏とくらすのは行者のすることではないという自覚であろう。しかし無仏の意味がもう一つ不明瞭である。私は、仏の姿が見えない三界であるからこそ自分は木食行者として生きていくという決意と見たのだがどうか。神も仏もあるもんかという市井の人々に仏教者として為すべき事をやっていくという決意ではなかろうか。「三界無住無仏」は木喰の当時の世相に対する認識であり、生き方表明だと考える。
縛からは脱却してい
No,像名  像高(cm)  所在地  所蔵先  制作年  備考 
1,地蔵菩薩 36.5 山梨県韮崎市 個人 1786  法界定印 
2,観音菩薩 43.5 山梨県韮崎市 個人 1786   
3,普賢菩薩  111.4  長野県諏訪市郡富士見町 法隆寺十一面観音堂  1786  足元に象 
4,不動明王  29.2  山梨県笛吹市  山梨県立博物館  1789  九州での作 
5,秋葉大権現 60.0 東京都目黒区 日本民芸館 1789  九州での作 
(( I
(2)第二期 天一自在法門木食(木喰)五行菩薩Ⅰ
1793・4~1802)

 第二期「天一自在法門木食五行菩薩」の時期は、そのⅠとⅡに分けられる。
 木食は、九州宮崎国分寺で住職になり火事に遭いながらも再建を果たし寛政5(1793)から寛政6(1794)名乗りを「天一自在法門木食五行菩薩」に変える。
 十年に及んだ九州滞在であったが、九州を離れ、寛政9年(1797)4月山口に「心願日本千躰内」の墨書のある毘沙門天を残す。この頃千体祈願を意識したようである。「木喰五行菩薩」「木食五行菩薩」が併存するのがこの時期で、、中国、四国を巡行し、近畿を経て、愛知静岡で造像する。木喰仏を象徴する放射状頭光は、この時期の愛知県新城市の徳蔵寺の子安観音像以降のことになる。静岡で60体以上の像が残されている。
 故郷である山梨丸畑に戻った木喰は、永寿庵の五智如来を造像後、近在の人々から四国堂建立を依頼され、91体もの像を彫る。最初は多くの助力者がいたが、徐々に人が離れ失意の内に郷里を離れることになる。
 「天一自在法門」…天下一なのか天下に唯一なのかわからないが、自在法門は宗派に囚われない自在な立場で自分は活動しているという自負を表していると言えよう。五行は…布施・持戒・忍辱・精進・止観のことであり、実際の生活の中ですべて護りきったかどうかは不明だが、目ざしていたことは確かであろう。
 自身のことを「菩薩」だと言い切るのはどうだろう?他人がそう言うのならまだしも自分から名乗るというのは、よほどの自惚れ者か、詐欺師かと思われかねない名乗りである。
No,像名  像高cm  所在地  所蔵先  制作年  備考 
6,恵比寿 40.8 愛知県名古屋市 宝蔵院 1797  寛政9年4月12日 
7,子安観音 102.0 愛知県新城市 徳蔵寺 1800 円形頭光の最初 
8,十王像  60.5~62  静岡県浜松市 徳泉寺  1800  十王像は他三組 
9,葬頭河婆  60.5  静岡県浜松市  徳泉寺  1800  三途の川で死者の衣服を剥ぐ剥ぐ
10,毘沙門天 125.0 静岡県藤枝市 常楽院 1800  甲冑に身を固めた像
11,聖徳太子  112.5  静岡県藤枝市 光泰寺  1800  
12,吉祥天  95.0  静岡県焼津市 大日堂  1800 焼津市歴史民俗資料館  
13,不動明王  95.0  静岡県焼津市  大日堂  1800  焼津市歴史民俗資料館 
14,子安観音 96.0  静岡県藤枝市  梅林院  1800   
15,薬師如来  95.0  静岡県藤枝市  梅林院  1800   
16,日蓮上人  30.8  山梨県身延町  金龍寺  1800   
17,薬師如来  103.0  山梨県身延町  静仙薬師堂  1801   
18,自身像 75.5  東京都目黒区  日本民芸館  1801  四国堂像 
19,地蔵菩薩  70.0  東京都目黒区  日本民芸館  1801  四国堂像小宮山清三・柳 
20,弘法大師  54.5  山梨県笛吹市  山梨県立博物館  1801  四国堂像 
21,薬師如来  71.5  山梨県身延町  個人  1801  四国堂像
22,馬頭観音  72.1  山梨県身延町  個人  1801  四国堂像 
23,薬師如来  71.0  愛知県津島市 成信坊  1801  四国堂像
24,千手観音  72.5  山梨県笛吹市  山梨県立博物館  1801 四国堂像・個人
15,観音菩薩  73.0  大阪市浪速区  日本工芸館  1801  四国堂像 
26,千手観音  77.0   愛知県名古屋市 宝蔵院  1801  四国堂像 

(3)第三期 天一自在法門木食(木喰)五行菩薩Ⅱ
1802~1806)

 故郷丸畑で四国堂を造った木喰であるが、その後彼を後援する人々が離反し失意の中で、自身第4回目の廻国巡錫の旅へ向かう。85歳のことである。長野、群馬から新潟へ向かう。最初に訪れたのが前島の青柳家であった。生地で周囲から孤立していたとしか思えない木喰は、おそらく失意の内に、故郷丸畑を離れたのであろうが、新潟では心安らぐ扱いを受け、現存する木喰仏の中でも最高傑作の仏像群像を数カ所に残す。すでに85歳になんなんとするその生命力と精神力に驚く。青柳家の当主はその後、京都、兵庫県猪名川へと同行する。
 
新潟県長岡、柏崎、上越、南魚沼などに残された木喰仏は、質量共に素晴らしい。
No,像名  像高cm  所在地  所蔵先  制作年  備考 
27,薬師如来 42.0 長野県下諏訪町 諏訪湖博物館 1802
28-1,聖観菩薩音 85.0 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
  -2,十一面観音  92.0 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
  -3,如意輪観音  87.0 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
  -4,三面馬頭観音 90.0 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
  -5,千手観音 90.0 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
  -6,准観音 91.5 新潟県長岡市 寶生寺 1804 西国33所観音
29,秩父34所観音菩薩  70.8~
63.0
新潟県長岡市 前島金比羅堂 1804 34躰中10躰
30,自身像 79.6 新潟県長岡市 前島金比羅堂 1804
31,不動明王  91.0 新潟県上越市 圓蔵寺 1805
32,毘沙門天  95.0 新潟県上越市 圓蔵寺 1805
33,薬師如来  57.0 新潟県柏崎市 某所 1805
34,十二神将 52.0~
49.0
新潟県柏崎市 西光寺 1805 12躰
35,理源大師  53.0 新潟県南魚沼市 満願寺 1805
36,弘法大師  49.0 新潟県南魚沼市 満願寺 1805
37,如意輪観音菩薩  84.0 新潟県南魚沼市 大月観音堂 1805
38,不動明王  16.5 新潟県長岡市 個人 1806
39,金比羅大権現  18.2 長野県下諏訪町 諏訪湖博物館 1806頃

*ついでながら、この時期の『小栗山観音堂 』の諸像は外せないと私は思う。で、
(4)第四期 神通光明木喰明満仙人
(1806~1810)
 
 新潟で素晴らしい群像を方々で作像した木喰は、文化2年(1805)正月米寿(88歳)を祝って「八木版画」を各地の人々に配る。そして文化3年(1806)12月8日89歳で京都府南丹市八木町清源寺に現れる。訪問時の様子が記録に残っている。(京都丹波清源寺)八木町清源寺で釈迦如来と十六羅漢を造像し、すぐ近くの尼寺蔭凉寺に自身像、薬師三尊像及び大黒天像を残している。どの像もこれまた木喰らしい傑作の数々である。清源寺で釈迦如来を造像中、霊夢で阿弥陀三尊が現れ「神通光明明満仙人」の号と600歳の延寿を授かったというのだから驚く。『阿弥陀如来から仙人を名乗ってもよいと言われた』という夢をもし見たとしても、他の人に言うだろうか。今なら「こいつは頭がおかしい」と思われるに違いない。
 木喰は自らを菩薩と言い、仙人と号す。余程の自信があり信念があったと見た方がよいのか、自己顕示欲の強い人だったと見た方がよいのか、廻国巡錫を円滑に行うための方便と見た方が適切なのか正直なところ判断がつかない。
 京都南丹市八木町を去った木喰はその後、兵庫県猪名川町を訪ねる。
猪名川毘沙門堂)(猪名川東光寺)(猪名川天乳寺ここでも素晴らしい木喰仏群像を残している。90歳である。
 猪名川から長野に戻り、さらに文化5年(1808)91歳で山梨県甲府市教安寺に七観音(焼失)造像するが、その後の消息は不明。その2年後に現在山梨身延町丸畑微笑み館に残る資料の入った笈箱が甥によって丸畑に残されている。その中に「円寂 木喰五行明満仙人品位文化七年庚午六月初五日」という紙片が含まれている。
No,像名  像高cm  所在地  所蔵先  制作年  備考 
40,自身像 61.0 京都府南丹市 蔭凉寺 1807 「日本二千体のウチナリ」
41ー1,薬師如来 78.0 京都府南丹市 蔭凉寺 1807
  -2,日光菩薩  77.0 京都府南丹市 蔭凉寺 1807
  -3,月光菩薩  77.0 京都府南丹市 蔭凉寺 1807
42,白衣観音 36.5 新潟県長岡市 個人 1807 新潟青柳家所蔵
43,柿本人麿 48.0 東京都目黒区 日本民芸館 1807 兵庫県猪名川で作像
43,阿弥陀如来 112.0 長野県下諏訪市 慈雲寺 1807 木喰現存最後の像
(2)展覧会図録論文
 今回の木喰展へは その監修者である小島梯次全国木喰研究会評議員が同行案内下さった。会場でもそれぞれの像について説明をうかがった。帰ってから図録を見ながら、初めて拝観する像や再会する像について様々に思いを巡らせている。そしてこういう図録を作成するのは大変な苦労だろうなと想像している。今回の図録に掲載された論文の中で私が興味を持ったものや事について記してみる。
①「柳宗悦と山梨の木喰研究者たちー新発見の資料「覚書」「柳宗悦書簡」を中心に
森谷美保
 小宮山清三が柳宗悦に木喰仏を出会わせ、所蔵していた『地蔵菩薩像」を贈ったことから柳の関心が木喰にむかい大きな成果を上げたことは有名な話である。その後小宮山や地元の方々がどうかかわって、柳の研究が進んだのかを当時の手紙、葉書と覚書資料等が今回新発見として公開された。この論文はその解説である。
 木喰が笈箱に残した資料は大正時代当時伊藤瓶太郎氏が所有していた。柳はこの資料を一括借料か購入を希望していた。柳は四国堂にあった83体もの木喰像が大正8年((1919)にすべて売り払われて散逸したことの二の舞は避けたかったようだ。(四国堂にはもともと91体造像されたが、南澤村の方に内仏として与えられた)
 その仲介をしたのが地元の有力者であった石部惟三であり小宮山清三であったようだ。結論的には柳は一括借用に成功する。今回発見の借用「覚書」では六ヶ月間の約束であったようだ。
 しかし柳は大正13年(1924)7月3日~昭和3年5月19日(1928)まで足かけ5年間借りていたことが、今回の資料から分かる。柳はこの間伊藤瓶太郎及びその息子平厳に14通の葉書を出している。
 内容は、柳への協力に対する感謝であったり、自身の木喰研究論文が掲載されている雑誌送付したことのお知らせであったり、過去帳調査に対する質問状であったりである。
 借用後一年が経過した大正14年(1925)の手紙では、半年で返却する約束を履行しない柳に対して、伊藤氏側から督促が再度行われたことが分かる。その時に一部は返却されたようだ。その後も、相手の体の具合を見舞う内容や、中元の品を贈ったり、歌集を贈ったりしている。木喰の家系に関する質問が多い。
 この時の柳がどう考えていたのか不明だが、今のようなコピーやカメラ撮影がそう簡単でなかった時代、書き写すしか方法がなかったであろう。「四国堂心願鏡」「南無阿弥陀仏国々御宿帳」を手に入れた柳は、それを頼りに精力的に全国各地を調査して周り、1年間で350体の木喰仏を発見する。
 小宮山清三は「木喰五行上人研究会」を設立し、柳の研究費を支援したようである。この会の運営はほとんど小宮山が担ったとのことであり、私財を投じて行われたようだ。
微笑み館」で「木喰明満上人道歌抄」という小冊子があった。購入してきたのだが、この冊子は1926年発行で、編集兼発行人は小宮山清三であり、復刻発行者が伊藤平厳であった。
②「四国堂の仏」ー故郷に残された生涯最大の群像         近藤暁子
 最初に山梨県内に残っている木喰仏を年代毎に紹介されている。①「行道」を名乗った時期②「五行菩薩」を名乗り四国堂仏を造像した時期③「明満仙人」を名乗った最晩年の時期の三期としている。
 この論文ではとりわけ第二期の四国堂仏中の個人蔵の「子安観音」と「馬頭観音」二体について様式などを詳細に報告されている。
 後の新潟での群像との比較なども試みておられ、参考になった。「子安観音」の頭光の外苑部が欠失していること、背銘には「観音」と書かれており、木喰自身は子安観音と認識していなかったのではないかということ、子どもが瓢箪を持つ子安観音や自身像にも瓢箪が彫られることから、瓢箪の持つ意味については課題だと書いておられる。「馬頭観音」についての天衣や蓮台と框と衣との関連はこの後の新潟の諸像への過渡期として考えておられるようだ。

③木喰生誕地丸畑の石造物について              出月洋文 深沢広太
 この論文で、木喰在世当時の丸畑について想像できる資料を提供しておられることは大変おもしろかった。
 また、四国堂周辺にある石造物やマツコ堂についても興味を持って読ませていただいた。それらを列記してみる。
1,生誕地丸畑は、山中の集落である。が、江戸時代東西、南北に通じる往還道がいくつも通じており、結節点の古関には「口留番所」(これは初めて聞いた言葉)があり、意外に往来があり情報が流れた」らしい。
2,「雑穀や芋類で食いつなぐ他、薪炭や用材、和紙原料(楮・三椏)の供給」や、すず竹を使って箕や筵等の細工物の生産が盛んに行われており」「それを行商して歩くことが重要産業であった」。筆者の深沢氏が四国堂の案内をして下さったのだが、その時も江戸時代、林業が盛んで、鍬、鎌や鋤に使う木材部分を行商することも盛んだったとおっしゃっていた。①と②から、木喰が丸畑の農家の次男として生まれ育ち、江戸へと出るのは、こういう背景の中で「出よう」と決意したのであろうと想像できる。
3,四国堂北側を整地して石造物群が8つある。①~⑤は屋根のある建造物の下にある。昭和初め頃に伊藤家が整理したのではないかとのことである。
 内訳であるが次の通りである。
①寛延3年(1750)3月吉日 如意輪観音を彫り 板東・秩父・西国など観音霊場のが刻まれている。
②明和5年(1768)10月 馬頭観音が彫ってあり、
六兵衛(木喰の父親の名)他6名が刻まれている。
③享保亥己(4年・1719) 奉勧請下野国岩船地蔵像 年号がもう一つ享保10年(1725) 蓮座。
④明和4年(1767)12月 正面に「
奉納四国秩父西国甲州巡禮」 左側面に「施主伊藤六兵衛 右側面に「明和四丁亥稔 十二月日」
⑤正徳4年(1714)11月 184,4Cm正面に「南無阿弥陀仏」の文字と年号 その下に村役三方他7名の名が見える。村役の中に木喰の
祖父市左ェ門の名が見える。裏面、左右側面には観音、勢至、地蔵が彫られている。重量から見てこれは元々この場所から移動していないと思われるとのこと。蓮座。
⑥寛延3年(1750)2月吉日 奉修甲庚供養等 三猿のうちの二匹が彫られている。 上部には日輪、月輪 下部に5名連記 その中に六兵衛の名 礎石の上に蓮座。
⑦年代不詳  一面四臂の像正面青面金剛神? 左手に縄、右手に槍のようなものを持っている。表面に供養の文字。下には二匹の猿のような生き物が彫られている。 蓮座。
⑧寛延3年(1750)三月吉日 奉修甲庚供養等 三猿の間に6人の名。その中に六兵衛あり。②と同一人物とは言えないが同名の者が5名。上部に日輪、月輪。蓮座。
 これらの石造物から、木喰は全国の観音霊場巡礼をする祖父母や父親の元で育ったこと。伊藤家は村役であり、こういう石造物を造る中心にあったことなどが分かる。
 「庚申」を「申庚」と書き、「己亥」を「亥己」と干支逆にして書くのは、当時珍しいことではないらしい。

4,四国堂の廻国供養碑(74.5cm)
 書かれている文字は以下の通りである。写真は山梨身延町丸畑微笑み館・四国堂にある。
キリーク(阿弥陀) 天下和順 當村願主
ア(大日如来) 奉納大乗妙典日本廻国供養等
バク(釈迦) 日月清明 木喰五行(花押)
側面に 寛政十三年十月十五日
 木喰が四国堂の諸像を造り始めたのは3月であり、完成するのは11月である。木喰が88体仏彫り終える直前に、八宗兼学僧としての自負のもと、廻国修行満願を供養して建立したものである。こういう供養費を建立するのは、それまでに先祖がしてきたことだったのである。

5,マツコ堂の石造物
 このお堂を拝見したわけではない。木喰仏3体(弘法大師・千手観音・尊名不明一体)が保存されているらしい。写真で拝見する限り相当な傷み具合である。
 口碑によるとこのお堂のある場所は元々姥捨て山であり、「子を待つお堂」の意味らしい。孝行息子が親を捨てきれず食物を運び、母親が息子が来るのを待ったところからの由来らしい。現在「洞穴は見つからないが、雨露がしのげる程度の洞は容易に掘れる」場所だとか。
 ここにも文化11年(1814)の年号が入った伊藤市良右エ門とその妻が「西国・四国・板東・秩父」巡礼の供養塔がある。、もう一つ文政7年(1824)伊藤弥右エ門が「西国・板東・秩父・当国(甲斐)」巡礼供養塔である。この方々が木喰に縁のある方々なのか分からないが、廻国巡礼の旅をすることは綿々と受け継がれていたようだ。

 結論として、「
少年木喰が貧しさに耐えかねて出奔したという見方は賛同しかねる」と書いておられる。なるほどと感心して読んだ。
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