木喰さんを訪ねる旅(22) 円空さんを訪ねる旅(112) 宝蔵院 (名古屋市中川区伏屋) |
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宝蔵院には、円空さんも木喰さんもおられます。木喰も円空も所蔵されているといえば、下呂の温泉寺を思い出しますが、お二人とも訪問時に造像したということではないようです。 名古屋市内に円空さんは多くありますが、木喰さんは珍しいです。 木喰さんの仏像2体。軸一本。円空さんの観音菩薩一体を拝観させていただきました。 |
(1)千手観音
(77.0cm)
背銘や像の特徴から四国堂仏(木喰がふるさとである現山梨県南巨摩郡身延町古関前畑に造った四国堂にあった仏像)であることが明らかです。 先にUPした津島市成信坊の薬師如来の背銘と大変よく似ています。 千手観音にしては手の数が少ない。4本です。頭に十一面ありますから十一面観音と呼んでもおかしくない。十一面千手観音でもいいかな。 やさしいお顔でいい体格しておられると思います。 いつも通り光明真言が頭光周囲に墨書されています。 頭の後ろには中央に観音の種字「サ」。周囲には観音の真言である「六字大明王陀羅尼」(オン マ ニ ハン ドマ ウン」に真言の末尾につける「ソワ カ」が書かれているとのことです。(小島梯次講師の資料より) 「オン」は中央一番上、「マ」は左上、「ニ」は右上、「ハン」は右中央、「ドマ」が左中央「ウン」が右下。そして左下が「ソワ」で下が「カ」。左回りとか右回りに順々に書くのではないようです。 体部と座に書かれている文字です。7行。 右から ・日本千タイノ内 ・聖朝安穏増寶壽 ・百万歳 ・千手観音太士 木喰 ・天一自在法門 八十四才 ・天下安楽興正法 五行(花押) ・寛政十三年酉九月廿三日ニ 2月に享保に改元されているのですが、9月になっても前の寛政を使っています。江戸時代の元号って緩やかだったようです。 |
この仏像の台座左右にこの像の由来に関わる記述が見えます。 写真左は左側面の墨書。内容は「昭和20年7月6日本尊の阿弥陀三尊が空襲で焼失したので、戦後復興に当たり旧本堂脇壇善光寺如来を主尊にして新たに本尊阿弥陀如来並びに眷属と定めその内の一体として、この像を迎え奉った」と書かれている。 写真右側面の墨書にも以下のような記述がある。「昭和23年12月18日無量光寺□尊 第廿世龍彦」。 1945年7月6日に空襲があった地域は千葉と甲府。翌7日には静岡で空襲。(ウィキペディア情報)いずれも千人以上がお亡くなりになったりケガされたりしたようだ。千葉か甲府あるいは静岡で無量光寺という名の寺がある場所がないか調べられないだろうか。名古屋ではなさそうである。 |
(2)恵比寿
((40.8cm)
愛嬌のある像である。左手に徳利を持っているのだが、徳利の口から先は鯛で、大きな鯛がお腹へ広がっている。えびすさんが鯛を持って、右手には椀を持っている。酒好きの木喰らしいえべっさんである。えべっさんは耳が遠いという。京都の恵比寿神社でもえべっさんに良く聞こえるように神社の板塀を叩いて願い事をする。このえびすさんの耳は強調されている。
黒い色が塗られている。底面も真っ黒であった。酒好きの像で
背面に文字が書かれている。私は上手く写真が撮れなかったが、このように書かれているらしい。
・寛政九巳四月十二日
・聖朝安穏増寶珠
・「キリーク」(阿弥陀如来種字)西之宮大神宮
・天下安楽興正法
寛政9年は1797年、木喰80才である。4月8日足かけ10年及んだ九州滞在にけりをつけ日向国分寺出立。鉄輪温泉滞在後6月には山口県下関に入る。さて、この像はいったいどこで彫られたものであろうか。
(3)天満大自在天神軸
最近ご住職が手に入れられた軸のようである。
木喰さんは書も自信があったようでこのようなレタリングのような書を書いている。「南無阿弥陀仏」と書いてあるものが多いように思うのですが、天神さんを書く時もあるのだなと思いました。天満は大阪の天神さん。もともと京都の北野天満宮が天満宮のもとだと思うのだが、わざわざ天満としているのは意図があることなのであろう。
軸に書かれている文字。
右…三界無庵無仏
中央…天満大自在天神
左…木食行道(花押)
この名乗りは、56才の時の木喰最初の名乗りで、76才で僧名を自ら「天一自在法門 木喰五行菩薩」と名乗るまでのものです。ということはこの書は木喰前期のものと考えられる。50代後半~70代前半を前期というのがすごい。
(4)円空作観音菩薩
(38。0cm)
この円空仏がどのような経過でこの寺にあるのか聞きそびれた。磐座の上に蓮座、その上に蓮の蕾を持って座しておられる観音菩薩。背面の文字や梵字が不鮮明でよくわからない。三行書かれているようなので、大日如来三種真言が書かれていると想像した。円空後期の特徴を表しているようだが。気の毒に顔も摩滅しています。