生誕300年記念 木喰さんを訪ねる旅(24) 木喰さんの故郷 身延町丸畑訪問 (山梨県南巨摩郡身延町丸畑) ①木喰の里「微笑館」 ②木喰生家・永寿庵 ③四国堂 |
一度は訪ねてみたい木喰さんの生誕地でした。②木喰生家・永寿庵は、五智如来が祀られていましたので、別ページで先に紹介しましたのでそれをご覧ください。
丸畑は、想像通りの山の中の村でした。現在地というのは「道の駅しもべ」です。
(1)丸畑というところ
「道の駅・しもべ」から丸畑へ入るバスがあるようですが、マイクロタクシーで行きました。10名余りでタクシーに乗ったのですが、途中の道はかなり狭く、上から車が来て離合することがないように願いながら進みました。「微笑み館・生家、四国堂」などへ向かう道は、丸畑口(?)バス停ガソリンスタンドのある場所で、一度方向転換して山道へと入っていく道です。十数分で生家のある場所につきました。2グループに分かれての行動で、私はまず生家を訪問しました。
(2)木喰の里・微笑館
その後、徒歩で上り道を10分少しかかって「木喰の里 微笑館」に行きました。ちょうど山道の頂上なのか峠なのか高い場所にあります。ここは撮影禁止で、中には全国各地の木喰仏のレプリカ中心に展示がありました。 この「微笑館」に納められているもので特筆すべきものは、最晩年に甥が甲府で出逢った木喰から預かった「笈箱」に入っていた自筆のこれらの資料は木喰研究の「根本資料」と言うべきものです。 ①万人講…表紙に安永2年(1773)の年号。木喰が初めて最初の巡錫をした年である。及び「相州大住郡田中村片町」の文字がある。木喰が師に出逢った大山不動の参詣口、現在の神奈川県伊勢原市片町にあたる。ここには145名の寄進者の名前や額が書かれており、15両以上の喜捨を受けていまする。現在のお金に換算すると150万を超えるとのこと。この時の巡錫は4年にわたり、関東東北を巡っています。 ②四国堂心願鏡…木喰の前半生が書かれており、四国堂建立の経過が詳しく書かれており、和歌が添えられている。 ③南無阿弥陀仏国々御宿帳…安永9(1780)北海道を去る年から天明11年(1672)途中飛ばして、寛政11年(1799)~12(1800)年の旅の記録。宿泊場所、寄進者、巡錫経路など、旅のありさまがわかる貴重な資料。 ④青表紙歌集…木喰歌集の中で一番歌の数が多く315首。寛政8年(1796)の年号が入っており、この頃木喰は長崎にいた。余白に寛政8年以後11年(1799)のものもあります。 ⑤紙位牌…「円寂木喰五行明満聖人品位 文化7(1810・93才)庚午年 六月初七日」と書かれています。 他にも甥が丸畑へ持って帰ってきた「笈」に中に入っていたものがあるようで、右の「微笑み館」の収蔵館資料を見ると、他にも多くの資料があることが分かる。 「木喰研究」はこの資料から本格化した。 |
(3)四国堂
四国堂のために91体彫られたらしい。四国88箇所霊場の仏に自身像と大黒天、弘法大師の3体があったという。その内8体は南沢村の三軒の家へ与えられた。しかし大正8年に「種々の事情?」からずべて移座された。
木喰仏は民芸運動を興す柳宗悦によって評価され、世に知られるようになる。大正13年以後のことである。
柳は、大正13年(1924)1月9日山梨県池田村(現甲府市)の小宮山清三宅で初めて木喰仏に出逢う。このあと小宮山から1月16日に「地蔵菩薩像」(現日本民芸館蔵)を送られた。彼の木喰に対する興味はどんどん昂進し、小宮山ら山梨の人達を介して、情報を得、6月に丸畑を訪れ、木喰の子孫から「笈」に入った書物、まだ残っていた四国堂仏、永寿庵五智如来、山神像他5体、南沢村内仏5体も発見する。とりわけ自叙伝や廻国の記録を手に入れた柳は、その後そこに書かれた木喰の足跡を頼りに、日本各地を訪ね、わすか1年の間に350体の木喰仏を発見した。
柳が木喰研究に没頭するのは2年間ほどなのだが、その間の新聞雑誌への投稿などで日本各地で「騒動」とも呼べるような大ブームが引き起こされることになった。
新潟「小千谷市小栗山小栗山観音堂36体」・「前島金比羅堂の秩父36体」・「長岡市寶生寺の33体」・「京都南丹市清源寺22体」など群像を彫った木喰さんであるが、この故郷丸畑四国堂の91体は、さぞかし壮観であっただろう。
現在四国堂仏は40体ほどが知られている。今回の身延町なかとみ現代工芸美術館の展覧会ではその内の「自身像・日本民藝館」「地蔵菩薩・日本民藝館)」「弘法大師・山梨県立博物館」「薬師如来・個人蔵」「馬頭観音・個人蔵」「薬師如来・津島市成信坊」「千手観音・山梨県立博物館寄託」「観音菩薩・大阪・日本工芸館」「千手菩薩・名古屋市宝蔵院」計8点が出品された。
一度残っている四国堂の全木喰仏を並べて拝観できたらすごいだろうなと想像してみる。
(4)現在の四国堂内とその周辺
子安観音 おそらく四国堂仏だったのでしょうが、長年外に出されたままだったのかひどい状態になって気の毒な限りです。手の衣の間に子どもを抱えているようで、感じから見ると子安観音像のような気がしますが、確かなことは言えません。しかしまた何でこのようにと思います。 |
木喰の廻国供養塔 (74.5cm) 「木喰展」の冊子に「木喰生誕地丸畑の石造物について」という解説文を出目洋文、深沢広太お二人が書いておられる。それによるとこの石には以下のことが彫られている。左から キリーク(阿弥陀) 天下和順 當村願主 ア(大日如来) 奉納大乗妙典日本廻国供養等 バク(釈迦) 日月清明 木喰五行(花押) 側面に 寛政十三年十月十五日 |
先程の論文の中に近くにある「マツコ堂」というお堂にあと3体の木喰仏があると書いてあり、その写真があります。そのお姿も相当痛んでいます。千手菩薩と弘法大師ともう一体は不明のようです。この論文中に供養塔や他の石造物、木喰の時代のくらしなどについても触れてあり、そのことについては「木喰展」のページで紹介します。
また木喰白眉の山の神像も近くにあるようなのですが今回は見ることができませんでした。もう少し調べて行っていたらお尋ねできたのですが、残念。
(5)もう一体の木喰仏は?
虚空蔵菩薩として仏壇に多くの小像と奉られていたのですが、どうも木喰らしくないと思います。半天を羽織っているようでこういう衣文はないと思いますし、手の動きもどうなっているのでしょうか。背面の頭光光背の梵字はおたまじゃくしみたいです。背中にドラえもんのポケットみたいなのもおかしいと思います。これは木喰仏から外された方がいいように思いました。文化三年と言う文字も見られますが、1806年92才のことで、最晩年山梨に足跡が残っているだけに困った像だなと思いながら見させてもらいました。