木喰さんを訪ねる旅
(33)

木喰と京都
 京都府南丹市蔭涼寺薬師三尊   兵庫猪名川毘沙門堂自刻像 
 木喰行道(1718~1810)は、全国各地を巡り仏像や書画軸を残した江戸時代の廻国聖である。大正時代民芸運動を提唱した柳宗悦により発見評価され、一大ブームが興り現在に至っている。
 木喰が京都や伏見の町に足を踏み入れたことを本人が記録しているのは2回である。しかし、最晩年に南丹市八木町清源寺を訪れたときにも、越後の大工青柳與清と共に京都市内見物をしていると思われる。又若い頃のことは不明であるので、何度京都を訪ねたかは定かでない。
 木喰がどのように全国を歩き巡ったのかが分かる文字資料が「南無阿弥陀仏国々御宿帳」「御屋ど帳」それに「納経帳」の3冊である。木喰作の仏像があれば、勿論大きな証拠になるが、伏見はもちろん京都市内、京都府南部山城地域での発見はない。
 「南無阿弥陀仏国々御宿帳」「御屋ど帳」にはどこに泊まったかが書かれている。
 そして、どの寺社を巡っていたかが分かる資料が、木喰の「納経帳」である。
 六十六部と言われた者は主に一ノ宮を巡る廻国僧である。木喰が京都のどこを巡ったかを見ていくと木喰の納経帳には一ノ宮、国分寺、西国三十三ヶ所観音霊場は必ず巡っている。加えて所謂有名な神社仏閣はほぼ網羅していると言えよう。ただ、禅宗寺院、真宗、法華宗の寺院には関心がなかったようである。

①第1回来訪は京都市内有名社寺を参詣
(1787年70才天明7年三月朔日~十四日)

 木喰は、天明7年正月、伊勢から紀州和歌山を経て、二月には和泉に入る。さらに河内を経て、摂津国へ入り、大阪市内の寺社を訪れる。紀伊半島をぐるりと廻ったことになる。さらに歩を進め、淀川西岸を進み、2月24日山城に入る。長岡京から丹波亀岡へ向かい、京都市内を巡った後、比叡山を越えて近江へ入る。大津市内を巡り、石山寺から宇治川沿いに岩間寺を経て再び醍醐寺へ向かう。醍醐寺からは大和街道を宇治へ向かい、万福寺から、奈良へ足を向ける。東大寺には、3月14日に参っている。この時の旅は近畿各地を巡る旅であった。

①南無阿弥陀仏国々御宿帳天明七年
(1787年三月朔日~十四日・70才)

 「南無阿弥陀仏国々御宿帳」の、ヤマシロという記述から、丹波、山城の廻国の記述は始まる。
 ヤマシロ(山城)
一 廿四日ヨリ二十七日迄 ヲク海印寺ムラ キチザイヘ○(奥海印寺村吉左伊衛○)
一 廿八日 タンバアナウジ(丹波穴太寺)   ソスケ 三十(惣助 三十)
一 廿九日 ヤマシロヲフジムラ(山城王子村) ヨヒヤウヘ 廿文(与兵衛二十文)
一 三月朔日(三月) タンバコクブンジ コモリ キ(丹波国分寺 籠もり キ)
一 二日 ヤマシロノクニ ヲウサカヤ廿四文(山城国 大坂屋 廿四文)
      アタゴフモト モクヒョウヘ(愛宕山麓 木兵衛)
一 三日ヨリ 九日迄 コクフンジ十二文(国分寺)
一 十日 ヤマシロ クラマ ゴロザヘモン キ(山城 鞍馬 五郎左衛門キ)
一 十一日 ガウシャウ サカモトジウヘモン 廿四文(江州坂本次右エ門廿四文)
一 十二日 ヲナジク イシヤマ ヨウスケ 廿文(同じく(江州)石山 洋助廿文) 
一 十三日 ”イチノベ ジロヒヤウヘ○ 〃(江州の意か?)市辺 次郎兵衛 ○
*京都府城陽市市辺・・・大和街道沿い 江州は木喰の勘違い?
一 十四日 ヤマトナラヲワリヤゲンヒチ キ(大和奈良尾張屋源七 キ)
 
 二十日余りで、乙訓郡、丹波亀岡、京、大津近江、再び醍醐、宇治から南都大和へと駆け抜けている。この元気と健脚ぶりには恐れ入る。

③「南無阿弥陀仏国々御宿帳」の記述について

・基本的にカタカナ表記である。月日、金銭の表記は漢字を使っている。地名、寺院名を漢字表記ですることもある。( )内の漢字は私が推量したもので、木喰が書いたものではない。
・〇印は二か所についている。待遇が快適だったのか、好印象であったことは間違いないだろう。
・名前の後に「キ」という文字が出てくる。人物の後の「キ」は喜捨を受けたの意味なのかとも思ったが、金銭表示がないのに「キ」と書かれているものであり「喜捨」ではないだろう。
 「祈祷」の「キ」という説がある。宿主が特別に祈祷を依頼したのかもしれない。
 私は「忌」の意味かもしれないと思う。相当な数「キ」がある。
 「「木賃宿」の「キ」ではないかという説がある。宿記録であるから木賃宿の「キ」の可能性はある。木賃宿というのは、宿場のはずれにあり、自炊などのための木の代金を払えば泊まれる宿のことである。しかしいくら木賃宿が安いといっても廻国僧が毎晩利用するだろうか。ここではまだ少ないが、ほぼ連日「キ」と書かれている地方がある。
 おそらく木喰の旅は信心深い一般大衆に支えられて行われたのではないかと想像している。頼まれれば「祈祷」をしたり「先祖供養」の「回忌」をしたりしながらの旅だったのではないか。
・金銭表示が廿文から三十文されている。これは木喰が宿賃として支払ったのではなく「喜捨」を受けた金額であると思われる。どの町でも村でも泊めてもらった場所で喜捨を受けている。相当な速足で移動している木喰が、托鉢して回る余裕はなかったであろう。とすると、泊めてくれる場所や、喜捨をしてくれる人をどのように見つけたのだろう。

④木喰が参詣した寺社と宿泊した場所

「南無阿弥陀仏国々御宿帳」と「納経帳」を合わせると、木喰の参詣した社寺が明らかになる。

⑤廣福寺ってどこ? 

 ①木喰が受けた朱印 ②私が受けた方広寺現在の朱印 
日本大堂釈迦如来廣福寺」という名の寺(写真1)は、長年京都に住んでいるが、聞いたことがない。
 現在発行されている方広寺の朱印に「廣福殿」の文字がある(写真2)と聞き、朱印を戴き、お話しを聞かせてもらうことにした。
 方広寺は秀吉、秀頼によって建立再建された寺で、京都大仏の寺である。「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた梵鐘でも有名である。大仏は何度もの火災のため現存しない。木喰が訪問した頃には、三代目の19mの木造大仏で奈良の大仏より大きかった。また、大仏殿も奈良のものより大規模な大堂で人気の観光地となっていたらしい。
 天明七年三月六日、この日木喰は稲荷大社、廣福寺、三十三間堂、清水寺、八坂神社の五ヶ所を巡っている。伏見稲荷大社から伏見街道(大仏道)を北へ向かえば方広寺に出る。少し南には三十三間堂があり、さらに清水寺から八坂神社のコースは全く無理がない。
 木喰の納経帳にある「日本大堂」というのは当たっている。が、本尊名を記したと思われる「釈迦如来」は当たらない。大仏であるから「盧舎那仏」とすべきで、方広寺の住職はこの納経帳の寺はここではないとおっしゃった。方広寺が「廣福寺」と呼ばれたという話は聞いたことがないということであった。方広寺は「廣福殿方広寺」というのが正式名称で、「廣福殿」は山号らしい。住職は天台三門跡の一つである「妙法院」の塔頭の一つに釈迦如来を本尊とする廣福寺という寺があったのではないかと推測された。
 方広寺である可能性はあるが断定はできない。

⑥京都国分寺ってどこ?

 
京都国分寺があったと思われる場所 木喰納経帳京都国分寺 京都国分寺があったと思われる場所から竹田小 
 最初京都国分寺というのは丹波国分寺のことではないかと思った。
 丹波国分寺は現在無住で史跡として本堂などが残っている。護勇比丘によって1774年(安永2年)ごろ或いは宝暦年間(1751~1764)に再建されている。木喰の来訪時天明7年はまだ再建して日が浅い。国分寺の再興を目の辺りにして後の日向国分寺再興(1788)に影響を与えたかも知れない。
 亀岡の丹波国分寺に籠もり、祈祷ないし回忌「キ」も行った木喰が、京都国分寺と間違うはずがないと思い始めた。それに亀岡から京都市内を巡って歩くのは距離がありすぎて非能率である。
 もう一つの可能性は山城国分寺であるが、ここは京都府木津川市加茂町にある古代寺院跡であり、江戸時代にはすでに存在していない。またここから連日京都市内各地へ出かけて社寺を巡錫することは距離から考えてさらに不可能である。
 京都国分寺は「納経帳」と「南無阿弥陀仏国々御宿帳」両方に記載されている。しかしながら先の廣福寺同様私は寡聞にして聞いたことがない。歴史的に京都市内に国分寺があるはずがない。
 しかし、木喰は国分寺を拠点にして市内を巡っている。
一 三日ヨリ九日迄 国分寺コクフンジ 十二文
とあるように、この寺に7日間逗留して、京都市内巡錫の拠点にしている。

 都名所図絵、拾遺都名所図絵を調べてみたら、国分寺が出てきた。
 『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編である。天明(1787)年秋に刊行された、江戸時代を代表する京都案内本である。前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。その巻之四に国分寺について次のように記載されていた。
■国分寺(竹田里、高瀬川の西にあり。本尊阿弥陀菩薩は春日の作にして、立像三尺ばかりなり。聖武帝、六十余州毎に一寺を建立ありて、国分寺となづけたまふ。また南山城相楽郡に国分寺の旧跡あり。後世この所へ移したるか。またその頃光明皇后の御願にして、国毎に国分尼寺を建てて、女僧を住まわしむ。その旧跡なるか、いずれか分明ならず。今廻国の者、この所に来つて寄宿す)
(註)安楽寿院の東北三百メートル、竹田小学校の南の地(伏見区内畑町東北)を旧地とつたえる。明治七年(1874)廃寺となり、安楽寿院に合併さる。現在同院には国分寺の木額及びその旧仏と伝える宝冠阿弥陀座像(藤原)を安置する。
・九品寺(同村、国分寺の南にあり。)

 国分寺のあった場所は竹田小学校の南(京都市伏見区内畑町東北)だという。高瀬川がその東を流れている。そして決定的なのは「今廻国の者、この所に来つて寄宿す」という記述であろう。
 なんとまあ、自宅から歩いてもそう遠くない場所にあったとは・・・。
 さっそく行ってきた。竹田小学校の表門から南へ行くと、社があり、門のような神木が枯れてその間を注連縄で飾られている。さらに農家があって畑になっていた。農作業をしておられた方に尋ねたが、国分寺のことは知らないとおっしゃった。しかしその畑から、大きな石(礎石か)が出たことがあると聞いているとのことであった。安楽寿院との関係が深いようで、先程の注連縄なども安楽寿院から戴くのだそうである。
 高瀬川は角倉了以・素庵親子が京都と伏見の物流を盛んにするため、江戸時代初め物流目的で開削した運河である。今も木屋町二条には一の舟入の遺跡があり、その少し北側鴨川から水を引いている。ここで使われた船を高瀬舟と言い、森鴎外の小説でも有名である。
 木喰がこの高瀬舟に乗せてもらったかどうかは分からないが、伏見から、繁華な都各所へ行くのにもし使えていたとしたら、行きかえりとも助かったことであろう。廻国の者が集まっていた京都国分寺でそういう情報を得ていたかも知れない。
 この国分寺の後に「十二文」とあるのは何だろう。金額が他に比べて低い。誰か同宿のものから喜捨を受けたのだろうか。
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