かばのしっぽ日記2013・14

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。 
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレってと、思う今日この頃であります。
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2月30日(火)
年末に思う
 
 2014年が終わる。スーパーが年末商戦に入っていることを感じる。新聞に入るチラシでも感じるが、客も多く正月用の品物が溢れている。
 「おせちもいいけど、カレーもね」というコマーシャルが話題になったのはもう十年以上前のことだったと思うが、今年はピザの会社がそれを使って「おせちもカレーもいいけど」と宣伝している。元旦から営業しているらしい。なんか美味そうだなと思って見ている。
 福袋商戦もすっかり定番だ。福袋で集客しお金を落としてもらう作戦、なかなか考えてある。在庫一掃効果もありそうだ。
 TVは特番のオンパレードである。こんな早くから通常の番組が終了して特番が目白押しという状態だったかなと思いながら見ている。ボクシングの世界戦は今年は30日にもやっている。漫才特集はお正月の定番だったと思うのだが、年末早くから始まっている。
 それにしても物価は消費税増税分3%以上に上がっていないだろうか。お店の値札は消費税を上乗せする前の値段を大きく表記して、その下に括弧書きで実際の売価を書いている。少しでも安く感じさせようというのか、消費税は店の責任ではありませんとでも言いたいのか、どこもこの表記である。増税前はコイン1枚とか紙幣一枚で買える値段設定したり、一桁落とすために980円とか9800円という設定の品物が多かったが、すっかり無くなった。よくデフレマインド云々と如何にも悪いことのように言われているが、物価が上がらず安定していることの方が消費者にはありがたい。インフレでどんどん物価が上昇することを歓迎している人の方が多数なのだろうか、本当に。そんなことを考える年末である。
12月26日(金)
8kg減量
 
 この一年間で体重を8kg落とすことが出来た。73kgから65kgのダイエットに成功したことになる。
 私の身長は168cm。二十代前半は56kgであった。それが徐々に増加して昨年の今頃は73kgにまで増えていた。お腹は出てくるし内臓脂肪が問題なのは明らかで、「肥満傾向」というのがここ数年の健康診断の結論であった。何度か体重を落とそうと試みたが長続きしなかった。一度水泳をしたらすごい効果があったことがあって、体重を落とすことぐらい簡単だと思いこんでいた。しかしここ数年水泳にも取り組んでみたがそれほど効果はなかった。ランニングもしてみたが、大体長い距離走ることは大嫌いでこれも長続きしない。
 何が体重を減らすことに効果があったかを自己分析してみると…。
@通勤をバイクからJRに変え、帰りは歩く。(一日一万歩余り)
A昼食の量を減らす。
B間食(おやつ)を減らす。特にTV見ながら夜に食べるのを我慢する。
C体重計に1日1回は乗ってチェックする。
 この4つが効果を発揮したようである。
 正確に書くと、8kgの減量は8ヶ月で達成していた。一番体重が少ないときは64kgであった。10月ぐらいからそれ以上は落ちなくなって現在65kgを前後している。夏から秋にかけてテニスをして帰ってくると体重が2kg近く落ちていた。しかしさすがに冬になると1kgも落ちない。今体重計に乗ると64kgから66kgを行ったり来たり。
 通勤する必要がなくなって歩くことがなくなった。代わり出かけるときに自転車を使用したり徒歩をなるべく取り入れるようにしている。今テニスがおもしろいので一週間に2回はプレーするようにしている。
 体を動かし新陳代謝を活発にすること、食べ物の量と質を考えること、絶えず体重がコントロールできているかチェックすること。これぐらいしか思い浮かばない。
 気をつけないとすぐにリバウンドすることは今までの経験で分かっているので、さらに減量する気持ちが必要だ。来年3月までに63kgまで落とすことを目標に生活してみようと思う。
12月20日(土)
自然災害と原発事故
 
 今年の冬は暖冬だと思っていたが急に豪雪で寒くなってきた。北海道、東北、新潟など豪雪地帯の事故のニュースが流れている。四国徳島で雪害があったのには驚いた。自然は想像も出来ないことをする。
 大雨による水害、台風被害、山崩れ地滑り被害、火山噴火被害。
 今年も自然災害の数々であった。日本の国土はどこで何が起こっても不思議でないぐらい様々な危険性と隣り合わせである。
 火山があることは決して悪いことばかりではない。おかげで温泉を楽しめるし景観を楽しめ、観光にも役立つ。台風だって日本の治水に役立っていると言える。私たち人間は大自然の恩恵に感謝しながら常に畏れを持つことが大切なのであろう。日本の場合その畏敬の念を神を敬うという行為で表してきたのだと思う。
 と考えると、地震が多発する日本で原発をベース電源にするというのは如何にも愚かに思える。神を恐れぬ所業だとも言えよう。原発を再稼働しなかったら電気料金が上がると世論操作し、太陽光発電の買い取り制度を見直すのだそうだ。福島原発事故直後、電力会社のあり方論議があった。電気を生み出す会社と送電する会社を分離するという論議はどこへ行ったのだろう。福島原発被害の保障を東京電力は勿論、それを支えていた銀行や株主にも応分にということもうやむやになった。だれも責任をとらず税金が投入されている。結局大企業や大銀行のために色々制度はいじるが、最後は国民の負担になるのだ。
 自然災害は仕方ないかもしれない。でも原発事故は自然災害ではない。明らかに推進した人たちの責任で起こされたのである。
 
 12月3日(木)
総選挙予想報道
 今朝の朝刊にはもう選挙結果世論調査の結果が速報されている。私の読んだ新聞は2万件の電話調査の結果だとあった。
 「何で今選挙しなければならないのか分からない」「政権与党に有利な条件がそろっている今しかないからの選挙だ」「長期政権への足がかりの為の選挙だ」と言われながらも政権与党の圧勝というのがその結果だという。
 私のお知り合いの方にマスコミから電話がかかってきたと聞いた。電話は録音されたもので、解答はナンバーボタンを押すらしい。私は又一人ひとりに丁寧に聞き取る作業はなかなか大変だろうと思っていたが、なるほどそうかと思った。
 サンプル数が2万件ならかなり正確な予想が立てられると言うことなのであろう。今までのマスコミの予想は概ね正確だ。この選挙予想の結果公表はどのくらい影響するのだろうか。優勢に進めている陣営は「ひきしめ」にかかるだろう。後塵を配している陣営は追い込みのあの手この手を考えることであろう。
 問題は主権者である投票者への影響である。「だれがやっても変わらない」と思っている人がいる。「負ける候補者へ入れるのはいや」という人もいる。「私の一票が動向を変えるとも思えない」と思う人がいてもおかしくない。一強多弱では「野党が棲み分け」したくらいでは圧倒的な地盤や看板経済力のある政権与党に勝てない。相手陣営の準備が整わないうちに闘いを挑んできているのであるからこれは「弱いものたたき解散」だ。「好き勝ってやりたい解散」とも言える。
 もう結果の予想がつくのだから有権者はさらに冷めるのではないかと私は思う。結局「福島はコントロールされている」と公言した首相は「原発再稼働」を進め「集団的自衛権行使」「大企業優遇税制」「TPP参加」「辺野古への基地移転」、さらに「憲法(9条)を変える」国づくりへ「自信」と「世論」を味方にイニシアティブ発揮することになるのだろう。
 今朝も冷たい雨が降り続けている。
   
11月22日(土)
石の上にも三年
 
 何事も努力と辛抱が肝心だ。3年継続すれば何とかなるものだというような意味なのだろうと思う。
 そう言えば、中学校、高校は3年ずつだ。小学校も大きく低学年中学年で分けると3年ずつである。学問に限らずあらゆる技術を伴う仕事・運動・芸能・工芸・芸術に「石の上にも3年」が当てはまることを先人は経験的に知っていたのであろう。
 若い頃は3年を意識したことがなかった。おもしろいと思って一生懸命していれば何とかなると思ってきた。でもあと何年やれるかなと思いながら最近始めた英語や仏像彫刻はひとまず3年頑張ってみようかと思っている。基礎や基本の修得に3年は必要だと思うのだが、3年は長そうだ。テニスはやる機会を増やした。今まで基本が中途半端なまま楽しんできたのであるが、もう少し上手になりたいと思う。
 3年経って何の進歩がなかっても、「大器晩成」という言葉も用意されている。若い人には。
 11月18日(火)
夕刊を読みながら
 夕刊に近畿地方の紅葉情報が掲載される。今日からほとんどの場所が「見頃」になった。今年は見頃になるのが早いように思うのだがどうだろう。急に気温が低くなったので紅葉が進んだのかな。
 まだどこにも行っていないので選んで出かけようかと思う。
 高倉健さんがお亡くなりになったというニュースが載っている。私は「幸せの黄色いハンカチ」が印象深い。この映画は共演者も監督も素晴らしかった。高倉健という人が活かされているなと思った。同僚の中に、学生時代「三嶋亭」(京都寺町の老舗のすき焼き屋さん)で食事中の高倉健さんに「勉強、頑張ってください」と声をかけてもらったという人がいた。何ともうらやましいことだと思って聞いた。学生時代にあの有名な三嶋亭ですき焼き食べに行ったというこの人も凄いと私は思ったものった。
11月7日(金)
公衆電話
 
 奈良県立美術館でビデオを見ていたら、携帯の呼び出しがあった。しまった携帯切るのを忘れていたとあわてて出したら、ちょうどバッテリー切れで、だれからかかってきたかだけ分かった。急いでかけ直さねければと、受付へ行って「公衆電話ありますか」と聞いたら「ない」とのこと、「この近くでありますか」と聞いたら「さあ?」とおっしゃる。北隣にNHKがあり、南隣に奈良県議会と県庁がある。
 急いで県庁へ行って探したが見つけられない。仕方ない。飛鳥美人の服を着ておられる受付の方に聞いたら、地下一階のエレベーター前にあるとのこと。確かに一台だけあった。急いで10円玉を探すが100円玉しかない。これ、おつり出るのかなと思った。その時(確かまだ使えるテレフォンカードが財布にある)ことを思い出した。それを差し込んでから気づいた。相手の携帯番号が分からない。どうしようもない。
 つくづく思ったが、携帯電話(スマートフォン)中心で今や公衆電話はないも同然。電話番号も携帯で管理している。
11月7日(金)
奈良へ
 
 久しぶりにスクーターで出かけた。
 奈良市内に入ってから大渋滞であった。平日にもかかわらず東大寺、興福寺、国立博物館周辺の駐車場はすべて満車だった。スクーターを置くのに困った。しばらく探して、奈良町に大型バイクの駐車場があるのを思い出してそこに置くことにした。たまたま興福寺の駐車場前を通って「置けますか」と聞いたら「お参りですか」と聞かれた。「いいえ観光です」とも言えず「はい」と答えると、「1時間以内ならいいですよ」とのこと。ちょうど北円堂の特別開扉にも興味があったので「運慶の仏」に逢いに行くことにした。
 興福寺の仏像では阿修羅像が有名だが、他にもたくさん国宝重文指定された仏像がある。阿修羅がある国宝館と東金堂の仏像はいつでも見せていただけるが、南円堂と北円堂の仏像は特別開扉の時にしか見られない。
 北円堂には運慶作の国宝弥勒如来像と無着・世親像がある。前に開扉されたときに見せていただいた時はそれほど弥勒如来像は心に残らなかったが昨日は美しい仏様だなとしみじみ拝ませてもらった。無着世親像は見る度に印象が異なる。初めて写真で世親像を見たとき花菱アチャコそっくりだと思った。今世親像は弥勒如来の向かって右後方に立っておられる。やや視線を右下に向けておられるのだが、その視線がまっすぐになる位置に立って「あっ!」と声を出しそうになった。この位置がよい。何とも優しい眼差しなのだ。慈悲深いというのはこういう眼差しなのだろう。無着像は団子鼻が気になって未だに「あっ!」と思ったことはない。
 北円堂の国宝四天王像は平安時代の作でもともと大安寺にあったという。それほど大きな像ではない。多聞天が大目玉をむいているのが何ともユーモラスである。私は広目天の表情が好きだ。残念だが四天王像の傷みがひどい。指先がなくなっているものが多い。磐座や邪鬼も腐食が進んでいるところが気になる。
 正倉院展はそれほど並ばなくても入れた。何と言っても余裕のある広さの会場だからだろう。どの部屋のどの文物の前にも二重三重の人垣が出来ている。みなさん熱心に全て見落とすまいとしておられるように見える。私は最近博物館や美術館で見るとき並ばずに人垣の後ろから大まかに見て、興味のあるものだけ丁寧に行ったり来たり近づいたり離れたりして見るようにしている。
 大古事記展はおもしろい。大安万呂の墓誌や石上大神宮の七枝刀など目玉になるものもある。私は三輪神社近くの禁足地から出土したという子持ち勾玉に興味を持った。稗田阿礼とか本居宣長のこと真福寺本他の古事記写本などの展示ばかりなのかなと思っていたが、古事記を素材にした浮世絵や近現代絵画なども展示されていた。登場人物別の展示(イザナギ・イザナミ・アマテラス・スサノオノミコト・カンヤマトイワレヒコ・ヤマトタケルノミコトなど相当工夫しておられることが分かった。最後にはゲームまであった。
11月6日(木)
近くの秋期特別展 
 京都では秋期の特別拝観が始まった。普段見られない寺院の内部に入る事が出来る。
 滋賀では、三井寺で智証大師円珍生誕1200年を記念した行事が行われている。三井寺では西国三十三カ所の一つ観音堂の秘仏如意輪観音などが公開されている。そのすぐ近くの
大津市歴史美術館では「三井寺 仏像の美」展が行われている。
 奈良では国立奈良博物館で正倉院展と県立美術館で
大古事記展と近畿各地で様々なイベントが行われている。
 どこへいこうかと迷う。
  
 10月24日(金)
京のいざない展後期
 高山寺展はますます出足快調のようだ。先週火曜日に行った。高山寺は紅葉の時分か新緑の頃に神護寺や西明寺とともに訪れるのがよい。石水亭の軒先に座らせてもらってぼんやり時間を過ごすのがよい。
 それにしても寺宝の多さにびっくりした。今まで何度か行ったことがあったが「鳥獣人物戯画」や樹上に座しておられる「明恵上人像」「犬の置物」「童子像」以外は印象にない。
 高山寺は明恵上人のお寺で、ご自身の文書や蒐集されたり残された品々があまりに多くてびっくりした。
 鳥獣人物戯画は流石である。あんな簡単なタッチで下絵もないのに筆で描くのがすごい。私は比較的早く入場したので入場に10分。鳥獣人物戯画前で15分並んだ。
 昨日(10月23日)は後期の通常展を見るために出かけた。陶磁器や考古の3Fは入れ替えしていないようだった。2Fの仏教画は浄土絵画から密教絵画に変わっていた。絵巻も飢餓草紙や病草紙から粉川寺縁起絵巻や法然上人伝になっている。伝頼朝像などの肖像画はすっかりなくなっていて、豊臣秀吉の陣羽織や肖像画鶴松の遺品、ポルトガル副使の書簡などが見られる。海北友松や狩野永徳、雪舟の屏風絵、それに長谷川等伯の枯木猿猴図が見られる。
 一階は仏像がある。平安鎌倉時代の仏像の比較をするというねらいがあるようだ。何と言っても大阪河内長野の金剛寺の大日如来と不動明王が圧倒的な大きさで保存状態もよい。私はこれで四回目なのだが、スケッチしてみたくなった。図録には収録されていないので「スケッチしてもよいか」と聞いたら、「よい」とのことであったので、今日は小さいスケッチブックを持ってきた。果たして立ってスケッチできるのか心配したが、何とかなることが分かった。
 今、仏さんの足と握り手を彫る稽古をしているのだが、両方ともなかなか上手くいかない。とりわけ指先が難しい。爪に挑戦する度に無茶苦茶になり、どんどん小さくなってしまう。色々な仏さんの指先を注意して見た。なるほど大きい像も小さい像もしなやかで爪まできちんと彫ってある。特に指作を丁寧に描いてきた。またスケッチしに行こうと思う。
 それにしても年間パスを重宝している。
10月22日(水)
弘法さん
 
 久しぶりに弘法さんに出かけた。弘法さんは東寺で毎月21日に行われる市のことである。北野の天神さんと並ぶ京都最大の伝統ある市である。現職で働いていた頃は21日が土曜日か日曜日でもない限り出かけられなかった。
 相変わらずの人出で、東寺のエリアに入ったら、九条通から店が始まり、相当広い境内も人で埋め尽くされていた。
 骨董品、植木及び花々、工具類、古着、陶芸品、食料品等々種類も店舗数も相当なものだ。出展している店も関西一円から集まってくるようだ。
 私は自分が最近勾玉づくりをおもしろがっているので自然石の勾玉がないか探していたこともあるのだが、パワーストーンやトンボ玉を使ったnecklaceや腕輪(念珠)を売っている店が目についた。英語のヒヤリングしながら歩いていたら自分が作ったネックレスを落としてしまった。残念。でも又作ればいいかとあきらめた。
 もう一つ気づいたのだが、中国語が氾濫していることである。特に骨董品の店で次々買っているのは日本語が不十分な中国の方たちである。私が見たのは三人連れの人たちがそれぞれ大きな紙袋を両手に持ってあちこちの店で買い物をしておられた。そんなたくさん買ってどうするのだろうと素朴に思った。ある若い女性は硯や墨、木彫りの小さい装飾品など三点を九千円で購入しておられた。この人たちも富裕層なのだろうか?展示されている品をよく見たら、もともと中国の品ではないかと思われるような仏像や土人形などもある。弘法さんで安く買って帰ってお土産にしたり商売に使ったりするのかな。
 西洋人も多い。美しい柄の布や古着、骨董品の掛け軸や浮世絵等の版画などに興味を示していた。こちらはいかにも日本文化らしいものに興味をもっていて、品物を選んで購入している。相当日本の市に通い慣れている感じがする人が多い。落ち着いた買い物ぶりである。店主に「Can you speak English?」と聞いているスペイン語を話す夫婦がいた。私より年配の店主は「Just a little」とはにかんだように答え応対していた。今や弘法さんも片言でも英語が話せないと商売にならないようだ。昼前からたこやきやお好み焼きその他店で売られている食べ物をほうばりながら見て回る彼らを見て、京都観光や日本観光も地域密着型に変わったのだなと思った。日本人の財布は骨董品に関しては固いように思う。どちらかというと日常生活に必要な食べ物や必要な品物を絞って安く買おうとしているようだった。私の前で古銭を購入された年配の方は10枚14000円の品を一枚おまけしてもらっておられた。とにかく広くてみな見て回ると疲れる。
 私は久しぶりに笹屋伊織のどら焼きを買って来た。この和菓子は弘法さんの日前後にしか売られない門前の名物菓子である。おいしかった。
 
 10月15日(水)
今年の園芸
 今年はツルレイシが大豊作である。もうぼちぼちおしまいだと思うが毎日数本ずつ採れる。妻は色々な方にお裾分けするのだがそれでも過剰気味。料理の仕方も今年は色々。「私は…」とお裾分けした方から情報をもらっているようだ。
 去年もイチジクはたくさん採れたが今年もよく採れた。今年初めて柿が実をつけた。十数個。小玉スイカもたくさんいただいた。トマトやトウガラシは例年通り。キュウリが不作だった。1年目は大量に採れたのだが、今年はほとんど採れなかった。ナスはそこそこであった。ジャガイモはとれるのだが、サツマイモはうまくいかない。葉ばかりよく繁る。土が栄養過多らしい。
 今は大根や白菜が順調に大きくなっている。
 日曜日にチューリップの球根を植えた。
 10月11日(土)
「造形活動の一万年展」
(安土城考古博物館)
 「造形活動の一万年」(縄文の宇宙・円空の衝撃・アール・ブリュットの情熱)展へ行ってきた。
 この企画は分かるようで分かりにくい。考古博物館であるから縄文文化をまずメインにお考えになったのであろう。縄文文化を代表する遮光土偶や火焔模様の土器のデザイン性や装飾性はアール・ブリュット作品に共通するものがあると私は感じた。しかし円空や木喰はどうであろうか。
 みなさんはアール・ブリュットって何のことかおわかりだろうか。私はヨーロッパの作家の名前だとばかり思っていた。作品を一通り見終わってもさっぱり分からないので聞いた。美術の専門的な教育など受けず、全くの自己流で「表現する」人たちが生み出した作品のことらしい。直訳するとフランス語で「生の芸術」だそうだ。山下清はこの系譜だとのこと。滋賀県は糸賀一雄の近江学園などで粘土を使った作品づくりが行われてきたようで先進的な取組をしてこられたようである。
 円空と縄文やアール・ブリュットはどうにも結びつかなかった。円空はあの縄文の装飾性やデザイン性とは無縁だ。ひょっとしたら、歴史、常識、権威などから逸脱した価値がその作品にあるという共通項なのだろうか。でも縄文時代の土偶や土器は生活必需品であり、時代そのものだったはずだ。
 私は三者に共通するのは作品づくりに懸ける意気込みというか、表現せざるを得ない性というかそういうものかなと思った。
 そうだ。私は「円空の衝撃」を見に出かけたのであった。特に茨城県笠間市月崇寺の観音菩薩立像と三重県志摩市少林寺の護法神と観音菩薩立像に出会いたかったのだ。
 少林寺の観音菩薩像は寂しげだった。何でこんな不幸を全部背負うみたいな表情なのだろうと思った。護法神は木だった。生木に目鼻口眉をつけただけだ。この護法神は人間の姿とは思えない。私は深海に住むまだ知らない生物に見えた。
 月崇寺の観音菩薩。これか…と感慨深いものがあった。真っ黒で背丈の低い(43.5cm)丸顔の中学生の女子という印象の像である。この背銘の解釈をめぐってまだ決着がつかない論争がある。ある意味随分罪作りな円空さんなのである。
 とにかくゆっくり見られる。私はしゃがみ込んで下からゆっくり拝観させていただいた。公開中にもう一度出かけようかと思っている。
 10月5日(土)
発掘調査
 私の住んでいる場所の住所は戦国武将の名が付いている。その武将の屋敷に植えられていたという木斛が近くの寺に残されている。
 北側はずっと空き地だったのだが9件家が建つことになった。私の家から北を見ると京都タワーや東寺の五重塔が見える。大文字の時は鳥居・左大文字・船・妙法の法が拝める。空き地に家が建つと景色が変わる。風通しも悪くなるだろう、きっと。
 10月から工事を始めるというチラシが入っていた。いよいよかと思っていたら重機の音がし出した。見たら発掘調査をしている。試掘したときに何か出てきたのだろう。一体何が出たのだろう。昨日までは重機で作業していたが、今日は手作業で人海作戦のようだ。人数が5人から10人になり瓦片のようなものを掘り出しておられる。自宅と地続きだから私の家の下も掘れば出てくる可能性は高い。
 子どもの頃両替町という地名の所に住んでいた。家の下に大判小判が埋まっているかも知れない…埋まっていればいいなと思ったことがあった。
 今回はどんな発掘成果があるのだろう。宅建業者にしたら予定が大幅にずれ込むので困るだろうけど。 
 9月27日(土)
絵を描いていると
 今日はいい天気なので国立京都博物館へ絵を描きに行った。ここには赤レンガの正門と門衛所、及び本館がある。片山東熊という宮廷建築家の設計で、この人は赤坂迎賓館の設計者でもある。
 今日は絵だけを描きに行っている。さっそく日陰を見つけて描き始めた。しばらく前、友人が植物園で花の絵を描いていたら、子どもが集まってきて困った、という話をしていた。さすがに博物館、子どもはめったに来ない。
 私は腕に覚えがあるわけではないので、人にお見せする自信がない。できればご遠慮したい。遠近法がうまくいかないので苦心惨憺30cmの物差しを使って測ったりしながら描いていた。すると大人が断った上でスケッチしているのを見に来られる。
 最初の女性は「まだ、書き始めですか。私もこういう建物をを描きたいのですけど」とおっしゃる。「京都の方ですか」と言うと「奈良です」とのこと。
 次は男性。なかなか進まない描き始めの絵を見て「もう、何年ぐらい描いておられるのですか」と尋ねられた。「いえ、ほんの三日ほど前から」とごまかす。本当は二週間ほど前からである。
 博物館という場所がら、他人が描いている絵を見たいと思う方が多いのかも知れない。美術愛好家が集まりやすいかも知れない。なら余計に恥ずかしいことである。
 一週間ほど前、龍谷大学正門前から本館の絵を描いていたら守衛の方が「おっ!なかなか上手ですね。中へ入って描いていただいてもいいですよ」と声をかけてくださった。門を入れて描きたいのでとお礼を言って、お断りした。
 私は、人が描いておられたら、見て見ぬふりする。だからみんなそんなものだと思っていたのであるが、どうもそうでもないようだ。
 私の風景画は現在5枚目。「ぼちぼちいこか」でUPしようかと思案中である。
9月19日(金)
平成知新館京へのいざない
 
 
 
 昨日18日平成知新館のオープン記念展「京へのいざない」へ行ってきた。
 チケット売り場で、パスポートを購入することにした。このパスポート3100円である。特典は@通常展の入場は何回でも無料(京都・東京・奈良・九州を含む)。そして特別展覧会は、各展覧会につき1回、合計6回まで無料になる。京都での特別展覧会を2回以上見るときは割引になる。*ただし東京と九州は年1回もしくはどちらかで2回まで無料になる。Aミュージアムショップ10%OFF。B京都国立近代美術館、京都府京都博物館・京都市美術館他2館は、団体割引料金C年1回京博の年間スケジュール送付。D春と秋の京都非公開文化財特別拝観料金が割引(そうでない寺院もあるらしい)
 私が10日に書いた計画はこれを購入すれば必要なくなる。
 ちなみに、知新館開館前に招待客が招かれてセレモニーをしているニュースが流れたが、あの参加者は数万円を払っている賛同者(2段階)たちだったようだ。
 一通り見てきたのだが、一言で言うと疲れる。最初から全力で見ようとすると息切れする。展示物は以前の通常展にあったものがほとんどだが、たしかに見やすく工夫されているし、目玉になる展示物も多い。
 3Fから下へ順次降りながら見学するように誘導される。
 最初が陶磁。江戸時代から近代までの京焼の名品の展示であった。江戸初期の野々村仁清から始まって尾形乾山、江戸末期から奥田頴川その弟子の青木木米、初代や三代目仁阿弥(高橋)道八、又永楽保全などの作品が数点ずつ並んでいる。まあすごい。
 同じフロアの考古の部屋では小野毛人(妹子の孫)の墓誌が必見。正直言うと考古は東京博物館を見ると縄文の遺物も弥生の遺物も見劣りする。初めて見たときは感動したものだが…。
 この辺で疲れてくるが、まだ5分の1程度。
 2Fは絵画と絵巻である。このコレクションはさすが京都。伝源頼朝像、山越阿弥陀図、知恩院の阿弥陀二十五菩薩(早来迎)、雪舟の「天橋立図」などが並ぶ。絵巻で京都所蔵の「餓鬼草紙」「病草紙」はおもしろい。こわいものみたさや不思議なもの見たさを刺激する。「祇園祭礼図屏風」「阿国歌舞伎図屏風」など興味津々で見た。如拙の「瓢鯰図」の人物はどこが顔なのだろう思ってじっと見たが結局分からなかった。
 京都は他にも「水天図」(東寺旧蔵)「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(送達・光悦)などもあるはずであるからきっと後期に出てくるのだろう。
 もうこの辺りで限界で休憩した。休憩所は何カ所か外の景色を楽しめるような工夫がある。欲を言えば季節季節の木々や花が楽しめたらと思う。しかし展示スペースと休憩スペースにメリハリがありいい感じだ。
 1Fの彫刻は以前の通常展の方が作品も多く充実していた。京都や奈良の仏像は少ない。河内長野の金剛院の不動や大日如来の整ったお顔が印象に残った。以前にも見たお顔が割れてその下から顔が出てくるという西住寺「宝誌和尚立像」はギョッとさせられる。
 こうここでギブアップなのだが、まだ続く。光悦の書も金工も染織も漆工もほとんど通過した。

 体力と気力の必要な通常展である。
 せっかくパスポートも買ったことでもあるし、一回一回テーマを絞って見せていただくのがいいようだ。
9月10日(水)
京都国立博物館と
安土城考古博物館
 
 今月から始まる2つの企画展を楽しみにしている。
 ます、1つ目。京都国立博物館で行われる「京へのいざない」(平成知新館オープン記念展)である。キャッチフレーズがすごい!「ずらり国宝(50余点)ずらり重文(110余点)を含む400点の展示」である。京都国立博物館が所蔵していたり寄託されている名宝の数々が見られる。
 平成知新館は常設展のための建物である。今までの常設展もすごいと思ってきたが、リニューアルした常設展会場で数々の名宝が見られるのがうれしい。期間は9月13日(土)〜10月13日(月)までが第一期、10月15日〜11月16日(日)が第二期。展示替えが行われる。520円と低料金で見られる。様々な分野の日本文化の名宝が見られる。
 同時期に本館(明治古都館)で、特別展「国宝鳥獣戯画と高山寺」が開催される。こちらは10月7日(火)〜11月24日(月・休)まで。1500円。
 「高山寺展」中に行けば両方1500円で見られる。模様替えした両方の常設展を見るには、「京へのいざない」第一期開催中当初に鑑賞して、「高山寺展」の後半に11月16日までに行けばいいなと思う。いやきっとすごい人出になる可能性がああるから、まず、第一期中早い時期に特別展へ行き、特別展が終わってからの一週間に常設展に行くのがいいかもしれない…などと思いをめぐらせている。
 もう一つ安土城考古博物館開催の「「造形衝動の一万年展」。このキャッチコピーは「縄文の宇宙 円空の衝撃 アール・ブリュットの情熱」。9月20日(土)〜11月30日(日)。890円。場所・行き方などはHPで。滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 TEL 0748-46-2424 である。円空仏の中で今まで拝観する機会がなかった・護法神(三重県志摩市、少林寺)・観音菩薩(三重県志摩市、少林寺)・観音菩薩(茨城県笠間市、月崇寺、茨城歴史館寄託)・不動明王(滋賀県米原市、光明院)などが見せてもらえるようだ。 
 9月6日(金)
やりたいこと2
 9月になってやりたいことが順調にスタートしている。
 まず英語。ラジオ講座なかなかおもしろい。しかし相変わらず説明があって初めて、ああそうか、そう言う単語だったのかの連続。録音して何度か聞いて発音して見るが、我ながら情けない。「聞けない」「話せない」状態だ。「中学程度の英語力」にも自信がないので、学研の「やさしくまるごと中学英語」という参考書を買ってきて復習している。中2の半ばまできた。意外に熱心やっていて、半月ぐらいでこの本は終わりそうだ。よく考えたら、こんな熱心に参考書で勉強したことがない。ついでに英検でも受けてやろうかと思う。
 次はテニス。今まで月2〜3回だったのだが、毎週1回定期的に出来るグループに入れた。もう少し回数が増やせるかもしれない。
 自転車を買った。家の近くの店でブリジストンのクロスバイクを買った。まだ2回しか乗ってない。朝自転車で出かけようかと思ってたら雨だった。京都市内は平地なので、あちこち出かけてみようと思う。これも早く慣れたい。
 仏像彫刻教室へ行ってきた。初めてというのは何でも緊張する。「地紋彫り」で菱形の模様を小刀で彫るということから始まった。「やげん彫り」という手法を教えてもらった。板目を考えること、刃の裏表で板に当たる角度が変わる感覚をつかむこと、左手の添え方など習った。「上手です」「模様になってますよ」誉めていただいた。お世辞でも誉めてもらうとうれしい。この教室へ自転車で行こうと思う。
 60色の水彩用色えんぴつを買った。色んな色があって見ているだけで楽しい。便利な道具が出来ているなと感心する。先に買ってきた水が出てくるタイプの筆と、この水彩用えんぴつとティッシュ(又は布)があれば、絵の具もパレットも筆洗もいらない。荷物が軽くなる。道具がそろったので、自転車で写生に出かけよう。
 円空仏、木喰仏に会いに行く機会も平日に動けるようになったので機会が増えそうだ。
 今月末、フォークソングを楽しんでいるグループの練習の見学に行く予定が入った。
8月31日(日)
写生 
 京都のお気に入りの建物や風景を絵に描こうと思って、必要な品を揃えた。
 スケッチブック・筆(水がしみ出すタイプのものを加えた)、筆洗、絵の具(水彩)と色鉛筆。えんぴつ(4BとHB)とボールペン(0.4)、布、水を入れるペットボトル。
 簡易椅子がいる。コーナンの釣りやバーベキュー用のものがあった。折りたたみ式で背もたれもついていて座り心地もよい。軽いのにもし安いのにも感心した。これらをナップザックに入れたら、写生に行く気分になってきた。
 写生…懐かしい響きだ。小学生の時よく写生会があった。年に何回か写生会があって、校内作品展やコンクールがあった。昭和30年(1955)から40年(1965)まで私は義務教育期間だった。私の学校が絵画教育を研究していたこともあったかもしれない。
 八坂神社など寺社へよく出かけた。まだ寺社も大らかだった。私が教師になった頃には軒並みどこの寺社も写生禁止になっていた。頼みに行っても断られた。水彩画の絵の具水をこぼす、境内を走り回る。ゴミを出す。騒がしい。寺社にしたら迷惑なことだろう。断るに限る。学校の方も、写生(デッサン)軽視、コンクール主義の見直し、交通事情、行事の精選等の理由で写生をしなくなった。学校の作品展では金賞とか銀賞とか銅賞などが貼ってあったのが懐かしい。その度に賞状が出た。今は『配慮』があってみな一様に貼り出される。
 どこへ行こうかな。それを考えるのも楽しそうだ。
   
8月30日(土)
スズムシとメダカ

 
 今年も散髪屋さんとメダカとスズムシを交換した。1週間ほど前からそのスズムシが鳴き始めた。オスが2匹しかいなくてメスが8匹いる。その中の1匹が鳴き始めたのだ。後の1匹が鳴いたら合奏になるのだが。
 夜外へ出たら、虫が鳴いている。コオロギだろうか。秋の虫が鳴き始めた。外へめったに出ないので鳴いていることに気づかなかっただけかもしれない。涼しくなってきたのは嬉しいのだが、お天気がもう一つパッとしない。大雨の後も降り続いて、捜索や片付けに手間取っておられる広島や福知山でも虫は鳴き始めているだろうか。
 I like dogs.(私は犬が好きだ)これを見て、そうか複数にすればいいのかと思って、私はメダカが好きだを英語にと思って調べた。すると、「メダカ」を私の持っている電子辞書で出てこない。「メダカ」をウィキペディアで調べたら、欧米に紹介したのがあのシーボルトだという。ということは欧米ではメダカがいないので英単語にないのかも知れない。ついでにカバは確かhippoかhippopotamusだったなと思って調べたら出てきた。(私はカバ好きだ)は「I like hippoes」かな。
 散髪屋さんのメダカは元気にしているのだろうか。ちょっと気になる。
   
8月29日(金)
Englishスタート
 
 NHKの基礎英語1を聞いてた。私の買ったテキストは9月からのものなのでテキストなしで分かるかやってみたが、会話部分は全くチンプンカンプン。
 色々なことを感じた。
 知らない単語は出てきていないことが後から分かったが全く聞き取れない。
 なぜか?ネイチィブな発音に慣れていないからではないかと思った。
 例えば、この英文。
Eat this!Sunflower.(サンフラワー〈猫の名前〉、お食べ)は「イージス サンフラワー」と聞こえる。無声音と次の単語の冒頭が重なってわけが分からないのだ。話の脈絡が分からないし、登場人物とその関係も分からないから想像できないということもある。
 単語だけですませることもある。これは日本語でもそうだけど、私が習った英語はみな文型がしっかりしたもので、普段使いのものではなかったような気がする。

Not a street cat.But she has a name.(じゃ、野良猫じゃないじゃない。名前があるんだ)これ英文にするとしたら、This cat isn't street one.Because she has a name.と書きそうだ。「Not But」の使い方に感心した。
 否定形疑問文は、同意を求める文型であるということは「ナルホド」であった。
Isn't that kind?(それって親切じゃない?)
Isn't Sakura cute?(さくらちゃんってかわいいわよね?)
などのようにである。
 こんな感じで新鮮な思いでスタートした。
 昨日よく考えたら家にラジオがないことに気づいて買いに行った。ステレオコンポが古くて接触が悪く音が途切れることがあるので買い換えを考えていることもあって、ラジオ単体にするか、コンポごと買い換えるか迷った。毎日録音予約が出来るタイプはないのか聞いてみた。CDラジカセで録音が出来るものはあるが、ラジオ番組予約は出来ないようだった。ステレオ型のコンポもラジオ予約は出来ないようだった。結局安いラジオを買って、その時間にラジオの前でレコーダーの録音スイッチを押すことにした。何度も聞き直すことが上達の秘訣と書いてあったもので、そうすることにした。
 この番組15分番組で一日に3回(午前6時・午後6時45分・午後9時)で月曜から金曜まで週5回ある。
 
 8月28日(木)
英会話と仏像彫刻
 昨日、これからやりたいことをする準備をするために京都市内へ出かけた。
 まず四条柳馬場にある英会話教室。話を聞き資料をもらうために行った。週1回のレッスンを1年間続けるというプログラムの料金は、25万円。それに入学金と教材費で30万円ほど必要だと言うことが分かった。入学前にテストがあるようで、そこで適正クラスを決めるシステム。その予約をするように勧められた。他とも比較したいのでと言って、資料をもらってきた。
 同じビルの本屋さんに寄った。NHKのラジオやテレビのテキストの棚があった。その中に混じっておもしろい題名の本を見つけた。「NHKの英語講座をフル活用した簡単上達法」。著者は英文科出身でもなく、30代で主婦子育てをしながら英会話を始められという。今、英会話教室を2校開設し通訳もしておられるのだそうだ。やってみようかなと思い、同じ棚にあったラジオとテレビの「基礎英語」「基礎英語1」のテキストを買った。続くだろうか?いや続けてみよう。
 英語教室でもNHKのテキストにも「中学英語で話せる英会話」などと書いてあった。この「中学英語」があやしいのでこれももう一度やりなおさなければいけない。
 もう一箇所。松久宗琳仏所・宗教芸術院仏像彫刻教室へ行った。これは三条御幸町にある。こういう場所はどうも敷居が高い。中へ入ると松久朋琳・宗琳・佳遊各先生作他の仏像が飾ってあった。一通り、見て回るような格好をしてから、ちょっと勇気を出して受付へ向かい、来意を告げた。
 「今、水曜教室を開講中なので見学されますか」とのこと。願ったり叶ったりなのだが、緊張する。教室に入った。10名ほどの方が机に向かっておられた。手だけを彫っておられる方・頭部だけの方、如来像か観音像を彫っておられる方、講師の先生が直接顔を彫られるのを見ながら、彫刻刀の動きを習っておられる方。バインダーで彫刻刀を研いでおられる方。それぞれの課題に添って仏像を彫っておられる。
 下へ降りて、入学金と会費(15,000円)を払い申し込みをした。10本組の彫刻刀とテキスト「仏像彫刻のすすめ」(松久朋琳著・1973・52刷)で28,980円これに教材費500円を支払った。道具をそろえてからやる気を起こすという今までの自分の行動パターン。続けようと思う。 
8月24日(日)
わたしのおすすめ
 
 電話で退職教職員互助組合伏見支部の会報原稿の依頼を受けた。
 「私のおすすめ」というコーナーに400字で寄稿してほしいという内容であった。  頭の中で「落語」「銭湯」「カバ」「レンガ・洋館」「仏像」「円空・木喰」「テニス」「ギター・フォーク」「伏見のかくれた名所」「あまり知られてない京都案内」などが駆けめぐった。まあ、その中の一つにしぼれば書けないこともなかろうと引き受けた。
 依頼は8月13日、原稿締切は8月25日。よく考えたらそれほどの余裕がないのだが、そんな事は考えなかった。絞れないまま時間が過ぎた。それより今日(24日)実践報告する専門学校での仕事のまとめ(学生さんが書いたエッセイの持つ意味とその作品集づくり)と実行委員会への提案づくりに時間がかかった。
 で、それが一段落したので手紙を見直したら、締切が明日に迫っていた。急いで朝から書き上げた。それが下の原稿である。


 私のおすすめ円空・木喰

 イクタヒモタエテモ立ル法ノ道九十六億スエノヨマテモ(円空)
 ゆめの世をゆめでくらしてゆだんしてろせんをみればたった六文(木喰)
 円空は17世紀、木喰は18世紀の仏師(乞食僧)。二人の仏像は「微笑仏」と呼ばれます。木喰仏は京都府南丹市八木町清源寺で見られます。私の一押しです。
 円空仏や木喰仏に会いに行く、円空や木喰のことを調べる、円空仏を彫ってみる、こんなことを楽しんでいます。旅の記録は私のHP「ぼちぼちいこか」で公開中です。入門書として「円空仏入門」「木喰仏入門」(まつお出版・小島梯次著)があります。「円空仏入門」には私の名前も出てきますので探してみてください。
 円空の和歌には、生真面目な信念が、木喰の狂歌には、楽天的で達観した心境がうかがえます。封建制の江戸時代全国を放浪した円空・木喰を求め私の旅まだまだ続きます。


 近いうちに「円空さんを訪ねる旅〈42〉長間薬師寺から竹鼻へ」をUPする予定です。
8月23日(土)
やりたいこと
 
 「昔好きだったことをやればいい」リタイア後の生活で何をしようかと迷っている人へのアドバイスだそうだ。
 私の場合、剣道、フォークソング、仏像、カメラ、このあたりかな。そのあとテニスを始めた。米朝さんや枝雀さんの落語を楽しんだ。今やってみたいことは、絵を描く、英会話、本格的に写真や仏像彫刻を習う、自転車を足代わりに使う…こんなことだろうか。
 カメラ片手にカバやレンガ建築や洋風建築求めて車(自転車乗せて)かバイクで気ままな旅に出たい。ついでに温泉や銭湯にも入りたい。全国の円空や木喰、石仏巡りもいいな。英会話が出来るようになったら海外へ行きたくなるかも知れない、と考えると、やりたいことはなんぼでも思いつく。
 でもやれるかと考えるとなかなか難しい現実がある。まず母親を妻に任せて気ままな旅になど出られない。今でも妻に任せることが多く負担をかけているのにそんなこと言い出せる理由がない。時間と工面すればお金も何とかなりそうだけど、なかなか現実「気ままな旅」は厳しい。
 いやよく考えたら母親の介護がなくても、自分だけ「気ままな旅へ行ってくる」と言って家を出られるかと考えると、これは言い出しにくい。
 いや、考えると芭蕉も円空も木喰も山頭火もみな独身だった。所帯を持ちながら放浪の旅などできない。。
 ということは、家から通える範囲のことで時間をやりくりして楽しめることをやるしかないということになる。
 さて何から始めるか…。体が元気なうちに。 
8月21日(木)
大雨と鮎 
 福知山で広島で大雨のために死者が出ている。梅雨や台風でもないのに集中豪雨に見舞われている。今年は一日で一ヶ月の雨量を超える大量の雨が降ったというニュースをよく聞く。
 やはり温暖化の影響なのだろうか。何かおかしいのではとニュースを見て思っている。
 今日ローカルニュースだったと思うが、滋賀県の安曇川で鮎を捕る特別なしかけのニュースをしていた。地元の漁協の人の話では「こんなことは初めてだ」とおっしゃっていた。二ヶ月ほど前から川は完全に干上がってしまったらしい。8月に入ってやっと降ったと思ったら豪雨で、今度はそのしかけに泥や木が入り込んだ。それをやっと後始末して、漁が再開できた。今まで遡上できなかった鮎が大量に捕れたが、鮎解禁の期限が来てしまった・・・とこんな話であった。
 そこでふと思った。今まで遡上できずにいた鮎はどこに待機してたのかなあと思ったが、よく考えたら、琵琶湖にいたのだ。さぞかし琵琶湖には大量の鮎が今もいるのだろうなと思った。琵琶湖から流れ出す川は瀬田川(後に宇治川)と琵琶湖疏水しかない。あとは琵琶湖へ流れ込んでいる川である。鮎はどの川でも遡上するのだろうか。遡上できなかった鮎はどうするのだろう?鮎のこと調べてみようかなと思った。 
8月11日(月)
メダカ 
 今年もメダカがよく卵を産み孵っている。
 もう飼いはじめて5年になるのでどうすればよいかはおおよそ掴めたと思う。エサも適量やれるようになったし、卵と成魚、小さい稚魚大きい稚魚とを分離することも大切だと言うこともよく分かった。
 今年は大きくなるのが遅いように思う。なぜなのかよく分からないのだが、小さいままだ。夏過ぎには相当大きくなってくると思うのだが、今はまだ小さい。
 去年も一昨年も家の前を通る人や子どもに分けてあげたのだが、今年はそこまで大きくなっていない。あれは、9月に入ってから分けてあげたのかな。全部成魚になったら私の家の鉢や容れ物は不足する。今のところ行きつけの散髪屋さんにあげる約束をしている。
 去年秋に産まれ孵ったメダカは小さいまま冬を越した。それで春になったら大きくなるのかと思ったが、それほど大きくならないままだった。そういうことも関係あるのだろうか。
 
8月9日(金)
物価上昇?

 
 週に何回か近くのスーパーへ夕食の材料を買いに行く。
 ウナギの値段には驚いている。人が集まるときは「手巻き寿司」をよくしたのだが、最近は躊躇してしまうぐらい値がはる。2年前と比べて倍近くになってしまったのではないか。今年の土用の丑の日鹿児島産は2900円であった。中国産はその半分より少し高いぐらい。2年前は中国産の値段で買えた。日本人は世界のウナギ消費量の9割を占めるそうだから、資源が枯渇している責任はひとえに日本のせいだ。しかしそれにしてもウナギ屋さんはどうしておられるのだろう。最近河原町へ出たら舞阪が閉店しておられた(七条七本松本店は営業)。近くの「かねよ」は寄席もしておられる有名店だが、これだけ値上がりすると大変だろうと人ごとながら心配した。
 それより、スーパーの値段表示の仕方はあれで良いのだろうか。大抵、大きく原価が書いてあって、その下に消費税を上乗せした金額が書いてある。あれ、錯覚する。前から好きで買っていたものは値段を覚えている。私はチョコレート菓子を買うのだが、298円であったものが大きく赤字で280円とある。あれ?今日は安売りかなと思ってしまう。しかし実際はそれに8%の消費税が上乗せされて322円になる。24円値上がりした。それで、計算してみたのだが、原価280円で5%上乗せしたら294円で、あれ?もともと4円高かったのかと思ってしまった。
 便乗値上げは許さないとか導入前言ってたけれど、本当だろうか。どうも消費税分の値上がり以上にものの値段が上がっているように思う。輸入は円高でとか石油関連や食料品は値上がりしている。
 私は毎食いくら使うとかそれほど考えずに夕食の材料を買う。その辺がプロでない主夫なのだが、そんなアマチュアの私でも消費税値上げ後と前では全部で3000円台でで買えたのに今は4000円台になっているなと感じる。
 給料が上がった人もいるらしいが、生活実感として家計は潤っていますか。どうも輸出関連の大企業には恩恵が大きく、それにさらに減税措置が執られるようで、一体「アベノミクス」効果で生活がよくなった人がどこにいるのかと思う。私の周りにはいない。そう言う人は黙っているのかな。そういう大金持ちの知り合いがいないのは寂しいような気もするが。 
8月6日(水)
北海道から京都へ
 
 8月1日から4日まで北海道へ行っていた。3日までは作文教育研究集会参加。その後一日旭山動物園と富良野にあるファーム富田へ行ってきた。
 研究会会場が北海道大学だった。ここには北海道の近代建築が数多く残されていて広くて緑豊かなキャンパスの中で映えていた。
 もちろん北海道庁の赤レンガも見てきた。
 サッポロビール園の赤レンガが今回も見られなかったのは残念だった。
 8月3日はオープンキャンパスが開催されていて大勢の受験生や保護者でキャンパスは賑わっていた。国立大学もやってるんだなと思った。
 伊丹から千歳新空港まで2時間半余り。時間的にはすごく近い。
 旭山動物園のカバのこと、北海道の赤レンガ建築や近代建築のことなど写真と共にまとめていこうと思う。
 作文教育研究大会、来年は京都である。おもしろく中身の濃い充実した大会にするための活動をしなければならない。
 「アホノミクス」で話題になり古舘伊知郎の報道ステーションで歯切れのよい論評をされている、浜矩子同志社大学教授が全体会講演を引き受けてくださった。「子どもの教育と貧困問題」についてエコノミストというお立場で講演下さる。会場は龍谷大学大宮学舎。この大宮学舎が明治時代の擬洋風建築で重要文化財である。すぐ近くには、世界遺産西本願寺がある。ここは唐門(これは外からも見られる)、飛雲閣(聚楽第の遺構と言われており京の三閣の一つ)北能舞台、書院など国宝のオンパレード。「教行信証」6巻、「歎異抄」(蓮如写本)や「三十六人家集」なども所蔵されている。 
7月28日(月)
思い出のマーニー
 
 日曜日に来年の日作京都大会実行委員会がありました。その席で「思い出のマーニー」を見てきたという話をする人がいました。内容が京都大会で目指そうとしている自己表現重視と重なるということを言い「ジブリも私たちの味方だ」と語りました。
 ジブリが味方かどうか知りませんが、忙しい彼がもう見てきたのなら私もと思い早速見に行ってきました。感動して見ました。「借りぐらしのアリエッティ」をTVで見て米林宏昌監督という人はなかなかすごい方だなと思ったのですが、「思い出のマーニー」もお薦めの作品です。宮崎駿監督の後継者であることは間違いありません。
 絵が美しい。登場人物が魅力的。ストーリーがよくできている。北海道が舞台なのですが、原作が外国なのでその雰囲気がプンプンします。自分が大嫌いで自分探しをする少女。「なぜそう思うようになったのか」が、展開の過程で徐々に明らかになっていきます。そして最後に大展開の種明かしが待っていました。    
7月27日(日)
目利きの豪商

 
 23日夜、NHKTVの祇園祭特集は中々見応えのある内容でした。私が印象に残ったのは二つの謎を追うその姿勢でした。現代の科学を活用し、専門家の意見を参考にしながら、資料を明らかにして歴史的考察を加えていくという本格的なものでした。
 まず、第1の謎は、鯉山や鶏鉾・霰天神山などで使用されているギリシャ神話をモチーフにしたベルギー製のタペストリーはどのような経過で伝わったのかについてでした。謎を追う経過がおもしろいのですが、結論だけ言うと、徳川将軍家に献上された5枚セットの絨毯が、その後紀州や尾張に大名貸しをしていた京都の豪商の手に渡りそれが山鉾に活用されたのではないかということでした。江戸時代新町通を挟んで三井本家や伊藤家が向かい合ってあったとのこと。当時日本経済を担っていた目利きを自称している豪商たちは年に一度祇園祭でその財宝をみんなに披露したというのです。
 第2の謎は長刀鉾の胴掛けの絨毯の毛はどの動物のものかです。染織家の吉岡幸雄さんの意見から赤く染める植物がない、あるいは方法を知らない中国の辺境地域砂漠地帯のものではないかという意見を引き出しました。そしてロンドンの学者が類似品をチベットで見つけたことが報告されました。さらにアメリカのメトロポリタン美術館の方が周りの模様が「アラー」と読めることを説明しイスラム圏の文化の影響を指摘しました。最後にその毛のDNA鑑定をして、中国北部に住む希少動物チベットカモシカだと特定しました。この絨毯はおそらく砂漠地帯の辺境民族がモンゴル帝国の下イスラム文化圏の影響で絨毯づくりをしたものが日本に伝来したのだろうという結果でした。
 他にも南観音山の星模様絨毯が幻のペルシャ絨毯と呼ばれているものであったことなどヨーロッパでは実用品で使って捨てられたものが祇園祭で大事に保存されていることが紹介されていました。
 私は江戸時代京都の豪商が桁はずれた財力を持っていたことに驚くと同時に、そういう豪商は目利きでなければならずそれを分け与えることが信頼を得る方法であると知っていたことに驚きました。
  
7月25日
「素人のくせに」 
 下に後祭(祇園祭)に行ってきたと書いた。その続きである。
 「役行者山」という山がある。巡行前日、この山に聖護院からお坊さんや修験者が来られ 護摩木が焚かれる。たまたまこの護摩木を焚かれる行事が始まる少し前に着いたので、どんな行事なのか興味があって待っていた。日陰のないところで待つこと20分、いよいよ始まった。その様子については別のページで紹介することにする。私は眼前で行われている行事に夢中になってシャッターを押していた。
 「おい、そこ乗ったらアカンて書いたあるやろ、降り!」
という男の人の声がした。振り向くとマンションの80cm程の垣根に乗って写真を撮っている横着なおっさんがいる。そのおっさんは警告を無視して写真を撮り続けた。
「おい、聞こえへんのか。そこ乗ったらあかんねんや。みんな約束守ってるやろ」
その男の人はそのおっさんを引きずり下ろすという実力行使に出た。
男は降りてきて、こう言った。
「何でお前はそんなえらそうなこと言うんや。一枚撮るだけやないか」
「えらそうもくそも、あかんもんは、あかんねや。お前警察に突き出すぞ」
「出せるもんなら、出してみろ」
そして、こんな訳の分からんことをほざいた。
「素人のくせにえらそうに言いやがって」
そしてその場から立ち去っていった。
 素人?うん?何のこっちゃ?するとその横にいた女性が、言った。
「ほんまに感じのわるい人でしたね。あの人腕に腕章巻いてはったし、きっと新聞社かなんかの人ですよ」
 私はそのおっさんが落ちてくるときにカメラがその男の人に当たったのではないかと心配していたので
「ケガしゃはりませんでしたか。大丈夫でしたか」
と声をかけた。すっかりかのおっさんは嫌われていた。
 撮影マナーの悪い、自分だけよかったらいいという人がいる。この2日間大勢の人がカメラ構えている中で私も撮っていたからよくわかる。だいたい報道関係者は最前列の場所を確保されていて、素人が立ち入れない場所で撮影していた。プロとおぼしき人や慣れている人は、アシスタントがいたり、脚立を用意して撮影に望んでいた。
 それにしても「素人のくせに」という発言は墓穴を掘る典型みたいな発言だった。玄人なら素人の範にこそなるべきなのに、バカにしている素人に当然な注意を受けるとは…。玄人だとしても大した玄人ではどうもなさそうであった。
7月25日(金)
後祭(祇園祭)
 
 今年、祇園祭が転機を迎えた。
 転機の一つめは、49年ぶりに山鉾巡行が前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に別れたことである。前祭には23基、後祭は10基の山や鉾が巡行した。
 二つめの転機は150年ぶりに大船鉾(おおふねほこ)が復活し巡行に加わったことである。150年前の禁門の変(蛤御門の変)で焼失したのを復活されたと言うから歴史を感じる。
 二つに分かれたため、宵山も2回に分けられた。前祭では、今まで同様露店が出たらしい。四条通などの歩行者天国も宵々山、宵山の二日間は行われた。新聞報道などを見て思ったのだが、鉾町では静かで情緒ある祇園祭を願っておられる声も多いようだ。露店が幅をきかせ大声で人々が行き交う宵山ではなく、静かに屏風祭りができ、宗教行事が行われることを望んでおられる方も多いようだ。昨年の福知山花火大会での露店火災事故のようなことが祇園祭の夜店で起こったら、狭い道路で逃げ場がない祭りの場が地獄絵になることは必至だ。しかも「動く美術館」と言われる山鉾にどんな被害が起こるか考えると「閑かな祇園祭宵山」を願う声は切実なものだと言えよう。宗教行事か観光行事か、その論争に一つ妥協点を求められた結果が今回の決定のようだ。
 後祭にも宵山自体はあるが、露店を出さないことにした。
 当然のことだが、人出は巡行も宵山も前祭が多いであろうことは予想がつく。人気のある鉾は復活した大船鉾以外(長刀・函谷・放火・菊水・鶏・月・船)は前祭である。山鉾の数が倍以上あるのだから当然であろう。
 それでも大船鉾復活を期して後祭をやろうという決断をされた10の山鉾町の心意気を感じ、山鉾町はどんな様子なのか、150年ぶりの大船鉾はどんなか、後祭巡行はどうかが気になって、私には珍しく23,24日の2日続けて出かけてた。近く私が見た後祭を紹介することにした。
 7月13日(日)
干し柿
 経験を積めば自分は専門家で、何でもお見通しだと思っている方がおられる。母親の入院中お世話になっていた看護士さんの中にいつも威圧的で教訓めいたことしか言わない方がおられた。毎日病院通いしている私たちに病院の規則や常識を説き、家族としての心構えを強調された。やれ愛情が大事だのかんだのと。よほど私たちが愛情不足と見えたのか。しかし母と接しておられる様子を見ていてもその方が愛情溢れる接し方をしているとも思えなかったし、母もその方を頼っているようにも思えなかった。今思うとご本人はその力量に自信がないから威圧的だったのかもしれない。
 私たちに一番よいアドバイスをしてくれたのは違う看護士の方であった。「小宮山さん、お母さんを早く退院させてあげた方がよい。病院にいる私が言うのもおかしいけど、ここにいたらどんどんできないことが増えるばかりで、痴呆も進む。まだ間に合ううちにここを出してあげたほうがいい」と。この方は母に優しく接して下さった。昼には動けないように車いすに縛り付けられナースステーション前に置いておかれている母を散歩に連れ出したりもして下さっていた。
 私が教師になったときある指導主事が、「教育界には『干し柿』と隠語で呼ばれている教師がいる。『下手(へた)なりに固まっている』という意味だ。どうかそういう教師にはならないでほしい」と言っていた。ものの捉え方思考に柔軟性がなくいつまでたっても教師としての力量が伸びない教師にはなるなということだったのだろう
。 
7月13日(日)
母と老人介護
 
 男と女で違いがあるのかどうか、多分違いがあるのだろう。母親という存在は男という性を授かったものにとっては何とも一言では表現しがたい存在である。
 それはあこがれであり、現実である。絶対的信頼を寄せたい存在であり、乗り越えなければならない存在でもある。
 その母親が晩年を迎え痴呆症状を迎えているという事実は子どもにとって過酷だ。しっかりしていると思っているからこそ反発もできたし無視もできた。それが許されない現実に直面せざるを得なくなるのだ。
 病院で痴呆の進む母親のことは以前書いた。
 その後のことを書いておこうと思う。結論から言うと母は随分回復した。本当に今お世話になっている介護施設に感謝している。週二回母は帰ってくる。最初は目が離せないから、私は母といっしょの部屋で寝ていた。しかし三ヶ月経った今寝入ってから自宅へ帰ってこられるぐらい母はもとの自立した生活を取り戻すことができている。介護施設での集団生活の中で刺激を受け、以前の機能が回復してきたのであろう。排泄機能も回復した。痴呆の進行も止まっているように思う。施設に入る前は「絶対いやだ」と言っていたのだが今はそれにも適応してくれている。有り難いことである。
 母が老いる、そして自分も老いる。そのことを重ねながら考える。
 それにつけてもである。「餅屋は餅屋」という慣用句は本当だなとと思う。私は今まで病院が最後の頼りだと思ってきた。しかしそれは間違いだと思う。老後病院を頼りにしてはいけない。はっきりした病気なら別だが、人間的な老後を考えるなら病院は頼りにならない。私の体験は限られているから絶対とは言えないが少なくとも私は病院には頼らないでおこうと思う。これは医者とか医療より老人介護に携わる仕事に従事する人たちやその施設の方が老人を人として接しておられると思えるからである。これは不幸な現実だ。 
7月5日(土)
「歯止めをかけた」
 
 いまニュースを見ていたら公明党の全国会議における山口代表の発言を伝えていた。集団的自衛権問題(解釈改憲問題)で『歯止めをかけることができた』というのである。公明党は『福祉と平和』を看板にしてきた党である。その党是を逸脱することなく自民党の『暴走』に歯止めをかけることができたと言っておられるのだろう。
 公明党の支持母体である創価学会は仏教を信じる人々の集まりである。不殺生を五戒の最初におく仏教の教えを大切にしておられるからこそ、この党は最大の殺生である戦争に反対し、平和を希求してこられたのだろう。また、創価学会の前身団体が、戦前、時の権力から大弾圧を受けられたことも関係があるだろう。
 言葉尻を捉えるようで恐縮だが、「歯止めをかけた」というのは「不本意ながら」というニュアンスを含んでいる。山口代表の本意はこういうことではないか。集団的自衛権行使容認(解釈改憲で)に反対である。しかし切っても切れない仲の自民党から言われている。平和を脅かし、戦争への道を突き進む危険性のある閣議決定ではあるが、賛成せざるをえなかった。こういうことではないだろうか。
 歯止めをかけなければいけないような集団的自衛権容認なら、反対を貫いてこそ公党としての責任ではないか。今日の会議では、内部から前回の参議院選挙の公約と矛盾するという意見も出たらしい。数ヶ月前『報道ステーション』出演時の山口代表は明確に反対しておられた。
 それが「歯止めがかけられた」というようなご本人も不本意な説明をせざるを得ない決着のつけ方では、さぞかしご本人も寝覚めがよくないだろう。
 この問題に対する公明党に期待する声はマスコミを中心にして高かった。期待はしぼんだ。期待は絶望や不信に変化しないか。それにしても歯止めをかけなければならないような無理難題を言ってくる相手と、なぜいっしょに政治行動されるのか…そのことこそ問われている。「歯止めをかけた」という言葉は山口代表・公明党の悲鳴のように聞こえる。
 
6月20日(金)
金目
 そんな言葉あったかな…と思った。「あとは金の問題でしょう」なら分かるのだが「あとは金目でしょう」という使い方を私は知らなかった。
 それで、広辞苑で引いてみた。金目には二つの意味があった。
@金銭に換算した価値。値段。浮世草子、好色万金丹「其外、茶碗・茶入に銀目(かねめ)に積もらば十七貫目が物有」
A値段が高いこと。日葡辞書「カネメノモノ」
 そう言えば、「カネメノモノはない」というのは聞いたことがある。実際家に金目の物がないのでうちの家はそれにあたる。これはAの意味になる。
 石原大臣が使ったのはどうも@の意味のようだ。原子力汚染された廃棄物の中間貯蔵施設建設を福島の地元が認めるかどうかは、金目の問題が残っているだけだという認識を示したと受け取られたのである。
 本人はそうではないと思っているようだ。始めは撤回を拒否したが周りから説得されたのか渋々撤回し頭を下げた。
 私は思うのだが、誤解を恐れずに言うなら、金目の問題だと言い切る政治家がいてもおかしくないと思う。それはそれで見識であると思う。
 原発周辺の地域の方々が近々自宅へ帰って第一原発事故前の状態に戻れる可能性はあるのだろうか。私はまことに残念だが、その可能性は相当低いと思う。だからそういう事故を起こすような原発の再稼働も新規建設もまして海外へ売ることも反対である。原子力、原発を制御するなどと言うのは思い上がりだと思っている。廃炉しかないと思う。
 「近々故郷へ戻ってもとの生活をすることは困難だ」ということを前提にした交渉をすることこそ責任ある交渉ではないだろうか。そのためには私有地を買収すること、仕事保障、住宅地の確保などを誠意を持って行うしかないのではないだろうか。その時に最終的には金目の問題になるという認識を持っているといないとではえらいちがいである。できるだけの努力をするというのは、金のかかることなのだから。「歴代の自民党政権が推進してきた原子力政策の犠牲者に対して、最高の金目で誠意を示すことが私の責任だ」と石原氏が思っているとしたら、私は石原氏の発言を支持したいのだが。   
 5月20日(火)
席を譲られる
 小学校の時の同級生と地下鉄に乗った。当然のことながら彼とは同じ年である。私たちは立っていた。
 彼は早生まれで65歳になるのは私の方が早い。それで介護保険被保険者証が送られてきた話をしていた。「何か年寄りになったことの念を押されたような気分になった」と話していた。
 すると私たちの前に座っていたペアの彼氏の方が立ち上がった。?という感じでいたら、同級生の彼が
「いいよ。そんな年ではないから」
と言った。ああ、そういうことかと了解した。私は席を譲られた経験がなかった。ひょっとしたら彼は今までにも譲られたことがあったのかその言い方が慣れているように聞こえた。見事であった。
 それで、何故席を譲られたのか、考えてみた。 
@私たち二人が席を譲るに相当する年配に見えた。
A話の内容が聞こえて、私たちが相当な年配であると思った。そういう話を電車でしているのが席を譲れと言わんばかりに聞こえた。
 どっちかなのだろう。しかし私は自分が席を譲るべき対象になるほど老けて見えるのだろうかと自問してみた。いやまだそこまでは…と思うのだが。それで私はいや私ではなくて彼の風貌が年齢より上に見えたからだろうと勝手に判断することにした。きっと彼は彼で自分のせいではなくて私が年寄りに見えたからだと思っていることであろう。
 5月12日(月)
介護保険被保険者証
 区役所福祉課介護保険課担当からおもしろい形の郵便物が届いた。数ヶ月前から母親の介護の関係で区役所へ申請に行っていたのでその書類だろうと思って開けたら、なんと自分の介護保険被保険者証が入っていた。
 え〜っ!?
 私はこの5月で65歳になった。被保険者になる資格を得たのだ。国が介護の必要な年齢になったことを知らせてくれた。.ありがたいけれど……複雑な心境である。介護保険料は年金から引き落とされると書いてあった。
 シルバー川柳を思い出した。
ボランティアするもされるも高齢者
 老人が老人を介護することがだいぶ前から問題になっていたが自分自身のこととは思わずにいた。そういえば母親がお世話になっている施設に私と同い年の方が入所されている。私は今のところ介護保険を適用してケアを受ける必要がない。ありがたいことだと思う。
 60歳になったとき、「村の渡しの船頭さんは 今年六十のおじいさん」という歌を思い出して苦笑した。今回は「もう十分おじいさんです」と念を押されたようである。
 シルバー川柳からもう一句。
ボケてやる最後の武器を持っている
 ま、このぐらいの気概で老人を楽しむのもいいかと思っている。 
5月8日(木)
憲法記念日に思う

 
 俳句川柳はブームだと言われてかなり年数が経つ。今もそれは変わらなく盛況である。
 川柳で言えば第一生命の「サラリーマン川柳」が果たした役割が大きいのではなかろうか。その後「シルバー川柳」が続いて「笑い」を提供している。クイズ番組でも「ペケポン」が「謎解き川柳」などを取りあげマスコミ的には見事に川柳が市民権を得ているように思える。
 俳句はどうであろうか。これも伊藤園の「お〜いお茶新俳句大賞」などは今年で25年を迎えるすっかり老舗の俳句コンクールになっている。高校生の「俳句甲子園」は子規のふるさと松山市が主催しているらしい。自治体主催、メーカー主催のコンクールは相当数に上ると思われる。
 鶴彬(つるあきら)という川柳作家がいる。
・タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やろう
・万歳とあげて行った手を大陸において来た

 こんな川柳を書き、逮捕され昭和13年(1938)拘置所で赤痢にかかり病死した。29歳であった。国家総動員令が出された年であった。彼は国内の無産階級の不幸を嘆き、アフリカの労働者のこと、ナチスのユダヤ人迫害、朝鮮の植民地化についても痛烈な批判を川柳にしたため殺されたのである。。
 現在の日本国憲法の下では考えられないような蛮行が戦前行われた。戦前の教育勅語を礼賛し、修身の復活で日本人のアイデンティティをと主張する人は、この川柳をどう読むであろうか。
・修身にない孝行で淫売婦
 日本国憲法成立は国家権力のために犠牲になった人々の願いなくしてありえない。押しつけ憲法批判だけで葬られたのでは死者が浮かばれない。
  
4月30日(水)
南山城の古寺巡礼展
 
 京都国立博物館で4月22日〜6月15日「南山城の古寺巡礼展」が開催中である。さっそく26日(土)行ってきた。
 本展でいう南山城というのは相楽郡(木津川市〔旧木津町・山城町・加茂町〕、笠置町)と、綴喜郡(京田辺市、宇治田原町)のことである。木津川(泉川とも言う)が東から西へ流れてきて、急に北へ直角に水路を変えるこの地域は京都と奈良の間に位置し、古墳時代、飛鳥や藤原京、平城京に都があった時代からの遺跡や寺院が点在している。
 この地域は私の住んでいるところからは比較的近いので何度か出かけている。
 加茂町当尾には浄瑠璃寺と岩船寺がある。そして又この地は「わらいぼとけ」など石仏の宝庫でもある。浄瑠璃寺の国宝九体阿弥陀像、四天王像、重文の秘仏吉祥天など仏像が素晴らしいが、その佇まいそのものが平安時代の浄土思想を今に伝える貴重な場所である。
 蟹満寺の国宝釈迦如来座像も学生の頃初めて対面して驚いた。薬師寺の薬師三尊像や聖観音像と同じブロンズ像で時代も同じ天平時代を代表する素晴らしい像である。今昔物語に出てくる蟹の恩返しの説話もおもしろい。
 海住山寺の国宝五重塔は美しい。笠置へ行く途中の山側にあり、細い道を車やバイクで一気に駆け上がる。近くには恭仁京跡もある。今回の展示で小ぶりだが素晴らしい十一面観音と出会えた。他にも多数の寺宝が出ていた。
 笠置寺は後醍醐天皇が立て籠もったことでも有名だが、私は磨崖石仏が素晴らしいと思う。この近くに「わかさぎの湯」という温泉施設があって時々立ち寄る。この寺の毘沙門天像が出品されていた。
 神童寺は人里離れた山の中のお寺であった。私は石仏を見せていただくために行ったのであるが、宝物館を案内していただいた。ご住職が丁寧に重文指定を受けている平安時代の諸像を説明下さり拝ませていただいた。白不動が印象に残ったのであるが、久しぶりに再会できた。この不動さんは愛くるしい。
 京田辺市には、酬恩寺がある。別名一休寺。一休宗純が晩年森信女とここで過ごした寺であり、一休の廟、彫刻や懸け軸絵ある。ここの庭に座っていると落ち着ける。
 同じく京田辺市の観音寺。国宝十一面観音立像がおられる。この仏像は最高に美しい。お顔立ちと言い、全体的なフォルムと言い、左右の手の表情のj上品さと言い、保存状態と言い、最高の仏像の一つである。
 今回の催しに各お寺の本尊は残念ながら出ておられない。浄瑠璃寺の阿弥陀さん、蟹満寺のお釈迦さん、観音寺の観音さん、この南山城の仏像ビッグ3はおられない。誠に残念であるが出かけて拝ませてもらうしかない。
 私が今回の特別展ですごいなあと感心し、行ってよかったなあと思ったのは、ビッグ3以外の素晴らしい仏像と出会えたことであった。寿宝寺の千手観音立像、禅定寺の十一面観音立像、現光寺の十一面観音座像などを拝ませてもらいあらためて南山城地域の仏教美術の質の高さを認識した。奈良京都は別格として、仏像ファンのスポットとして、近江湖東地域や若狭小浜が穴場として観光案内されるが、南山城はもっと見直されてもいいのではないかと思った。 
 
4月25日(金)
名乗るほどの者ではない
祝儀・不祝儀 
 名乗るほどの者ではない
             伊藤 芳博
ゲームセンターで恐喝があった
それを止めて
丸く収めた高校生がいたということだ
彼は店主に名前を聞かれると
「名乗るほどの者ではない」とだけ言って
そそくさと立ち去ったそうだ
しかし感激した店主によって
すぐに彼の身元は判明し
本校の2年生の生徒 小山君だと分かった
言うまでもないことだが
(言う必要があって言えば)
本県では高校生のゲームセンター出入りは禁止されている
「名乗るほどの者ではない」だなんて
実は名乗れなかったんだ
本校の生徒指導担当である僕は
この話が大いに好きだ
店主のお礼の言葉を背に受けながら
ドアの向こうに消えていく少年の名前を
僕も知らない

 最近読んだ本にこの詩があった。笑ってしまった。
 小山君、カッコいい!何回もの修羅場を見てきたであろう店主が感激するくらいだもの。行為とセリフの決めぐあいが絶妙である。「名乗るほどのものではない」なんて一度使ってみたいセリフである。腕っぷしに自信のない私など絶対使えない。
 しかしその背後に名乗れない事情があったなんて笑える。その事情が、彼の行いの立派さの前では非常に肩身の狭くなるような規則であるだけに可笑しい。
 この教師もいい。「この話が大いに好きだ」「少年の名を僕も知らない」のがいい。
 この詩の表現で私が感心したのは「そそくさ」という言葉の使い方である。後で読み返して気づいたのだが、 「名乗るほどの者ではない」とだけ言って/そそくさと立ち去ったそうだ」と書いてある。この立ち去るときはまだカッコいい小山君なのだから「颯爽と」でも「夕日を背に受けて」(陳腐かな?)でもいいのになぜ「そそくさと」になっているのだろう。事情が分かるとカッコいい小山君の後ろ姿に哀愁は漂っていなかったと思ってしまう。急ぎ帰って行かざるを得ない彼の後ろ姿を表すには「そそくさと」以外確かにないなと思った。

 
 続いて最近読んでちょっとひっかかった詩である。

祝儀・不祝儀
             阪田 寛夫
昔、母の死を描いた小説の受賞が決まった晩
旧友の奥さんから長距離電話が入った
「お母さんが生きておられたら
どんなにお喜びでしたやろう」と
よく考えると母が死ななければ
私はその小説が書けなかった

半年前、旧友が妙な声で電話してきた
「やっといい筍が送れると喜んでいた家内が
朝から宅急便を出しに行き
帰って倒れてそのままなんや」
翌朝、訃報に続き見事な筍が届いた

 第1連目で電話された方が2連目でお亡くなりになったということであろう。最初読んだとき、二連目の事実が重すぎてこんな風に書いていいものかと思った。書かれている事実はどっかちぐはぐで可笑しい。阪田さんはこの奥さんの愛すべきちぐはぐさを自然にあふれ出す天然のユーモアだと感じておられるのであろう。こんな事が出来るのはあの方しかおられないと思って哀悼の意を込めて書かれたのだと思う。祝儀の中にある不祝儀。不祝儀の中にある祝儀。阪田寛夫さんの詩の中では珍しくひっかかる詩である。
4月16日(水)
専門学校で国語
 
 4月から滋賀医療技術専門学校で国語を教えることになりました。高校を卒業した学生さんたちに言語表現のおもしさを伝えられたらと思っています。理学療養学科と作業療養学科2つの学科生計八十数名の学生さんたちです。
 第1講「国語を楽しもう1」の授業をしました。テーマは「自分の名前」。私は自分のハンドルネーム「かばのしっぽ」の話をしながら、絵本「ぼちぼちいこか」を紹介しました。そして室井滋作長谷川義央絵「しげちゃん」を読み、長谷川義央さんの「おかあちゃんがつくったる」等を読みました。その後アナグラムで名前の変身に挑戦してもらいました。折句にも挑戦した後、自分の名前について作文を書いてもらいました。
 授業後に感想を書いてもらいました。絵本は好評で、「私は絵本を読むことが好きなので、今日の授業はとても心地よかったです」「子どもの頃にもどったようでした」「絵本など久しぶりに読み聞かせをしていただきましたが、今の歳で読むと絵本も少し深く感じました」 「長谷川さんの作品は読んだことはありませんでしたが今日初めて紹介してもらいとてもおもしろく感動することもあり、良い作品ばかりで見ていてわくわくしました」等々の感想がありました。
 アナグラムと折句には「自分の名前でこんなにも楽しいことができるのだと気付きました」「今回の講義で新たな発見をしました。アナグラムと折句です。自分の名前がこんなにおもしろくなるとは思わなかったです」「言葉遊びがこんなに楽しいと思ったことがなかったので」等々。
 そして講義全体についての感想。「国語っていう授業があらためて新鮮にうつりました」「とても楽しい講義でした」「私は国語が好きなのでとても楽しみでした。今日の内容もすごく面白かったです」「たくさんの絵本などが授業に用いられていて授業の内容がとてもわかりやすく楽しい授業だった」「とても楽しく、かたくるしい感じを考えていたのでびっくりしました」等、喜んでもらえたようです。
 ついでに私の板書がきれいと誉めてくれている人が二人いました。チョークは慣れているので、何とかごまかせたようです。ホワイトボードはどうもうまく書けません。
 来週は「詩の鑑賞と短詞作り」に挑戦するべく資料を作っています。
3月30日(日)
春が来た
 
 一月いぬ。二月にげる。三月さる。と昔から言うが、今年は本当にそうだなあと実感している。いつのまにか春が来ていた。
 開花宣言から二日しか経っていないのに自宅近くの桜はもう五分咲きから七分咲き。今日の雨でさらに加速しそうだ。ラッパスイセン、レンギョウ黄色い花が美しい。遅咲きの自宅の椿が開花し始めた。買ってきて三年目なのだが鉢植えにしたのがよかったようだ。チューリップ、アブラナ、パンジー、サクラソウなどこれから自宅前が賑やかになる。それが一段落したらボタンやシャクヤクが咲く。
 昨日畑の野菜の植え替えなどした。大根、ホウレンソウ、白菜、菊菜などを整理して、植え残していたジャガイモを全部植えた。サニーレタスを苗床から畑に移した。ホウレンソウの陰に隠れていたエンドウが大きくなれるように支柱を立て網を張って麻ひもで引っ張った。
 畑作りも3年目になる。土が軟らかくなりいい感じになってきた。今年は深く掘り起こすように心がけている。石ころが多数出てくるのだが、大根やジャガイモなどを大きくするにはやはり土が深い方がいいのではないかと思ってのことである。燻炭、米ぬか、乾燥牛糞、化成肥料などを土に混ぜ込んだ。 
3月16日(日)
治療と介護 
 「病院は病気を治療する場所である」この当たり前のことを前とは違う意味で認識した。
 母親が退院した。自分でタクシーに乗って診療に行ったのであるが、帰りは介護タクシーで車いすに乗って介護施設に向かった。その間に要介護3レベルという認定を受けた。
 食事、排泄、入浴、睡眠、歩行、入院している4ヶ月の間に次々出来ないことや介助が必要なことが増えた。急速に衰えていくのである。最初は自由にベッドから降りてトイレに行っていたが、ポータブルトイレが室内に用意されるようになった。歩かないから歩行が困難になってくる。そのうちに失禁するようになると、ポータブルトイレが部屋から無くなり、紙おむつを使用することになった。センサーマットがベッドから降りる場所に設けられる。ベッドから降りたら看護士さんが駆けつけてくれる便利なものだが、夜も昼もベッドで横たわっていなければならない制約が母親に課せられる。紙おむつを潔しとしないのか、母はパジャマを脱ぎ紙おむつをはずそうとして、また失敗する。そしておむつを千切り始めた。病院は「つなぎパジャマ」を用意された。これは自分では脱げないパジャマである。そしてビニルシートのような素材のものである。
 ベッドで寝ていることを求められるが、昼に本当に寝てはいけない。昼夜逆転の原因になるから静かに起きていることが求められる。痴呆の進んだ母は、自分の身に起こっていることを合理的に解釈できなくなっていて、とにかく部屋の中や外へ冒険に出ようとして、センサーに引っかかる。夜に度々引っかかると「手に負えない」ので私が呼びだされる。昼は、車いすに座らされて体が動かない状態でナースステーション前に置かれる。「ここは怖い所や。体を拘束されて放っておかれる。仕事させられるんや。寒い寒いあの売店(ナースステーション)の前に置いておかれる」と私たちに訴えた。ナースステーションはエレベーター前で確かに階段も近く風が通り、色々な人の行き来のある場所であった。仕事をさせられることはないと思うが、時々看護士さんが手先を使うような作業をしてみないかとお誘い下さったのだと思う。
 「寒がっているので、せめて室内で車いすで座らせてもらえないか」とお願いした。しかし日によってはナースステーション前に母はいた。言葉を発するのに時間がかかるようになり、食事中に食べこぼすことが多くなった。食事に時間がかかるようになって、食事時間はいっしょにいてやるほうがゆっくり食べられるので、夕方4時半頃〜6時半頃まで毎日見舞うことにした。
 2月17日母親はインフルエンザに感染した。感染源は分からないが、まさか病院でかかるとは思わなかった。それが直ったと思ったら、次は肺炎になった。次いで気管支炎。入院中に転倒したことが3回あった。1回目は明け方に後頭部を打ったらしく出血し患部を治療し、レントゲン検査を受けていた。このことが原因で痴呆が進行することはないというDrの説明であった。後の2回は右目付近に内出血が見られた。本人はいつ打ったか覚えていないという。
 ナースステーション前で拘束されて置いておかれることは本人が全く納得できていなかった。病院側の論理は「とにかく転倒が怖いので、声もかけられ目も届くナースステーション前にいうてもらう」であった。母親が動き回らなかったらそういう目には遭わないのであるが、これも母には理解不能であった。母の言い分は「私は何も悪いことしてへんのに、『島流し』にあって『みせしめ』『さらしもん』にされている。なんでこんな目に遭わされるのかわからへん」であった。
 病院は病気の原因を究明し手術したり施薬したりする場所であって、痴呆状態にある老人の老化の進行によりそい、自立するようにし向けたり進行を止めることを目的にしているのではないということであった。
 そういうことは求めてはいけないので、介護施設にお願いできないかと相談した。特養やグループホームへの入所は無理であったが、自宅近くの小規模多機能ホームが引き受けてくださった。今は母親が一日も早くその施設に慣れて生活できるようになってくれることを願っている。そして自立の見通しが立って自宅へ帰ってこられるように準備を始めた。
 
3月9日(日)
「円空仏入門」
「木喰仏入門
」 
 小島梯次さん(円空学会理事長・全国木喰研究会評議員)が、3月1日2冊の本を同時出版された。「円空仏入門」と「木喰仏入門」である。両書とも「まつお出版」からで、1200円である。
 小島梯次さんの二つの本を多くの方に読んでいただけたらと願っている。小島さんは誠実で実証的な研究態度を一貫して追及してこられた方である。
 私が「円空」さんや「木喰」さんに興味があるのは、第一には仏像彫刻としておもしろいと思うからである。
 興味を持つ二つめの理由は「謎」の魅力である。円空も木喰も「謎」が多い。前半生が不明、どこで亡くなったかも不明。僧ではあるが江戸時代の体制からはみ出した廻国を旨とする僧であったことが共通している。二人は仏像を彫るという特技を生かして全国を巡った。
 この二人の研究を通して何が明らかになるのか。私は二人の生き方を知って江戸時代の見方が少し変わった。江戸時代は大変窮屈ながんじがらめの時代だと思ってきた。この二人の僧の活動を知って、必ずしも停滞や束縛ばかりではなくて、精神の自由を失わず創造的な活動をした人たちがいたことが分かった。そしてその仏像彫刻を生み出す思想や信仰について考えられるなと思った。独自の表現や技法は何故可能だったのかについても考えるきっかけがあるように思う。
 ただ、円空仏や木喰仏の実際を見たい方には両書は不満が残るかもしれない。写真がカラーでなかったり小さすぎるためである。それは他の本に譲らざるをえないが、現在の円空研究や木喰研究の到達点を確かめるには格好の良書が出版されたと私は思う。小島先生が「円空仏入門」の前書きで私の文章を引用してくださっている。これもありがたく、両書を推薦する理由である。
2月23日(日)
生理的飛蚊症
 教室のカーテンの横に立って黒板を見ていた。あれ?おかしなものが見える。タバコの煙を丸くしたような浮遊物が左目に見える。飛蚊症の再発か?と心配になった。
 私は2005年11月右目、2006年10月左目飛蚊症の手術を受けている。
 飛蚊症には2種類あって、加齢に伴う『生理的飛蚊症』と 『網膜裂孔・剥離症状としての飛蚊症』である。前者はそれほど心配しなくてもいいのだが、後者は網膜剥離から失明に到るという怖いものである。後部硝子体剥離などの硝子体収縮のために網膜に亀裂が生じたり、網膜の血管が切れて出血して硝子体に血液が広がった状態になる。
 手術時2回とも「見つかりました。穴が開いています」と言われた。即、手術することになった。レーザーを当てて人為的な傷を作り瘢痕(はんこん)にして感覚網膜と色素上皮を癒着させ、裂孔から網膜下へ水分が流れ込む危険性を減らすという手術。開いた瞳孔からレーザーが照射される手術だった。私はこういう手術法が確立していなかったらこの時に失明していた。
 これが再発したのかもしれないと動揺した。急ぎ医者へ行けばよかったのだが、このところ夕方は母親の入院先へ行って夕食食べるのを手伝っていて、帰りは7時過ぎる。
 昨日土曜日眼科医を訪ねた。結果、手術跡からの出血ではなく安心な方の生理的飛蚊症だから「上手に付き合ってください」と言われた。一安心である。
2月14日(金)
大雪
 
 ぼた雪だったが、一日中雪だった。私の住んでいるところでは今年初めて積もった雪だった。
 通勤電車に乗るためにいつもの道を歩く。毎日のことで同じ場所で同じ人と出会う。家を出たらすぐ若い女性に会う。いつもは颯爽とブーツをはいて溌剌とした歩き方なのだが、今日はぎこちない。直ぐ後ろを二人の女子中学生がきゃーきゃー言いながら「こける!」と叫びながら歩いている。楽しそうだ。
 しばらく行くと、自宅近くの事務所へ向かう人たち数名と出くわす。今日はみな寒そうだ。雪が肩に掛かっている。
 住宅街を抜けて畑のある場所へ出ると、3町内の集団登校する小学生たちと出会う。いつもは整然とおしゃべりもなく登校しているのだが、今日はみなバラバラで中にはわざとひっくり返ってなかなか立ち上がらない子もいる。楽しそうだ。学校へ着くまでにビチョビチョになっているのではないかと思った。
 少し大きな通りでは、雪でスリップしているようでタクシーと少し大きめのトラックが離合できなくなって渋滞を起こしている。踏切近くなのでみな焦っているのがわかる。トラックの同乗者や数人の人がタクシーに指示しているのだが、中々思うように操作できなくて難儀している。
 駅に近づいてきた。いつもは近くの養護学校の生徒さんが十数名登校するのに出会うのだが、今日はいない。あれ?列車が遅れているのかもしれない。改札口で、大勢の人が出てこられた。定時運転していたら、私が乗りたい電車の発車時刻まであと2分ほどである。改札口二カ所は、出てくる人専用のような状態で、中へ入れない。私は3人目ぐらいの所で待機していたのだが、間に合うか少し心配になってきた。すると一番前にいた年輩の紳士が
「私も入れて下さい」
と叫んだ。一瞬で空気が凍った。しかし流れが途切れるまでに2,3人の人が向こうから改札を通った。バツ悪そうにしながら。
 列車は5分ぐらい遅れて到着し、私は遅刻することなく学校に着いた。
 
2月9日(日)
はかどる
 
 1年生の教室でのこと。「たぬきの糸車」という教材を読んでいた。
 木こりの夫婦は冬の間里へ下りている。そして、春戻ってみると、いたずらもののたぬきがおかみさんの真似をして糸車を使ってたくさんの糸束を山積みにしていたという話である。
 それを見つかったたぬきが走って逃げていく、それを見送るおかみさんという絵を見ながら、おかみさんとたぬきはどんなことを思っているかを吹き出しの中に書き込むという学習をしていた。
 ある子が、おかみさんのセリフとして書いていた。
「ありがとう。おかげではかどったよ」
 へえ、1年生の子が「はかどる」という言葉を使っているということにびっくりした。この子の両親は焼きものの絵付けをしておられる。「家で、『今日は仕事がはかどったな』ていわはるの」と聞いたら「うん」と答えた。
 こういう労働にかかわるような言葉を語彙として持っている子は少なくなっている。当然のことだろう。かわりにどんな言葉や論理が子どもの中に蓄積されているのか。それは世の中の変化のせいだろう。しかしそれが望ましいことなのか不幸なことなのか。
2月5日(水)
春を待つ
 
 寒い。今日はとりわけ寒い。雪がちらちらしていて午後七時前に2度だから氷点下を記録することになるのだろう。もっと寒い地方の方々には「何を大袈裟なことを」と思われそうだが。
 秋に球根を数種植えた。チューリップ、ヒヤシンス、クロッカスはこれからきっとまだ寒くなるだろうに芽を出し、伸び始めた。畑菜、ホウレンソウ、コカブ、ダイコンなどの葉は暖かく日が好く当たる日にぐんぐん伸びていく。まだ寒くなるなあと寒がって縮んでいるのは私たち人間だけで、他の生き物は確実に春の準備に入っているようだ。いや、春の準備をしてないのは私だけかもしれない。 
1月26日(日)
吉野弘さんへ
 
 詩人吉野弘さんがお亡くなりになったそうだ。吉野弘さんの詩を何回か子ども達と読んだ。6年生担任したら「奈々子に」「夕焼け」「I was born」など読んだ。漢字の意味を問う短い詩もおもしろくてよく読ませてもらった。
 第33回日本作文の会京都大会(1984)で全体会講演をお願いした。吉野さんは「私の詩の原点」という演題で話してくださった。もう30年前になる。この時現場からの報告という実践報告を私がした。その後が吉野さんの講演であった。
 2005年5月、雑誌「作文と教育」に私は吉野さんの新刊書「「詩のすすめー詩と言葉の通路ー」(思潮社)の書評を書いている。ご紹介したいと思う。

 「われわれの比喩造出の行為を詩の領分での特別な行為と考えるのは誤りで、言葉そのものが比喩を媒介として生成してきたのであり、言葉の生命は比喩そのものであると考えるのが正しいと言えます」
 詩人のこの言葉にハッとする。
 
 過
 日々を過(す)ごす
 日々を過(あやま)つ
 二つは 一つことか
 生きることは
 そのまま過ちであるかもしれない
 日々
 「いかがお過ごしですか」と
 はがきの初めに書いて
 落ちつかない気分になる
 「あなたはどんな過ちをしていますか」と
 問い合わせでもするようでー

 寅さんは「恥ずかしきことの数々」を口にした。涼しい顔しながら過ちの日々を過ごしているであろう私。詩人は、それに気づかせる。「言葉の文化は、大まかに言って、その意味の拡大乃至増殖現象」「ひとつに意味が「喩」となって、別の意味に移っていく」詩人は、言葉に潜む歴史と意味を紡ぎ直して、命を吹き込む。
  
 母は
 舟の一族だろうか
 こころもち傾いているのは
 どんな荷物を
 積みすぎているせいか
 
 こういう詩を読むと「母」の歴史と本性を開示されたように感じる。詩人は事や物の本質を貫く言葉を使える才能を持った人のことなのだ。
 私は、子どもに詩を書かせることは可能なのかと聞かれたことがある。詩にもならないものなど書かせる必要はないと言われたこともある。
 私は教師の持っている「詩」観で子どもの表現を歪めてはならないと考えている。子どもの精一杯の感性で捉えた事実の中から、子どもが精一杯のことばで、リズミカルにうたいあげたものは、詩と呼べばよい。そして詩を意識するあまり、「よい作品づくり」のための児童詩教育になっていないかと自戒する必要を思っている。
 吉野さんは「詩のすすめ」で詩の言葉のおもしろさを書かれた。しかし私には詩人が言葉に厳しく対峙する姿が印象に残った。

 吉野さん、ゆっくりお休み下さい。私の母もきっと重い荷物のためにこころもち傾いて生きてきたのだと思います。 
1月25日(土)
母の話

毛布
これ、どうしたんや
ああ、家から持ってきてくれたんか
おおきに、あったかいわ

次の日
これは、あんたが持ってきてくれたんやな 
ええ柄であったかいわ

さらに二日後
これは、あんたが持ってきてくれたんか
西川の毛布やな
西川のもんはやっぱりええな
柔らかいし、あったかい

さらに三日後
この毛布あったかいねん
寺町五条の西川で買うたんや
長いことしまっておいたったんやけど
出したんや
あったかい

*母が毛布を喜んでいる。この毛布西川の製品ではない。
 昨日までなかった毛布がある。これはどうしたのだろうと、繰り返し繰り返し考えている間に、自分を納得させる話が加わるのかもしれない。
 どの話にも「ああそうか、よかったな」と返事する。
1月20日(月)
 92歳
 母はもうすぐ92歳になる。2ヶ月前に検査入院した。その後どんどん老化が進み、痴呆が進行した。
 一昨日、病院から「困っている」と言われた。夜中に起き出してベッドの柵を乗り越えて、廊下へ出たり部屋の中をうろついたりするのだそうだ。昼間腰が痛いと言い、自分で起きあがることもままならない様子なのに、高いベッドの柵をどのように乗り越えるのだろう。
 母はよく話す。私と妻を相手に、繰り返し繰り返し同じ話をする。私たち姉弟妹(きょうだい)が子どもだったときのこと、自分が子どもだった頃のこと、父のこと、弟のこと、姉の死のこと、私の息子や娘のこと。
 食事するのを見た。ベッドを立ててスプーンでおかゆを口に運び、おはしで煮物を食べようとするのだが、こぼしてばかりいる。妻に手伝ってもらってやっと食べ終わり薬を飲ませてもらった。
 日曜日ほぼ一日病室にいて、夕方7時頃に家へ戻った。夜の10時半に病院から電話がかかってきた。また、暴れているという。私が行ったときは看護士さんが、枕元でお話し下さっていて落ち着いていた。それから1時まで母は話し続け、やっと眠った。人っ子一人いない冷え切った真夜中の道を車に乗って帰った。老いるか…と思いながら。
1月13日(月)
稀勢の里 
 もう…。負けるか?稀勢の里!
 八百長、賭博、体罰暴力…不祥事続きだった国技大相撲がやっと落ち着いて興行できる雰囲気になってきた。あとは新しいスターの登場を待つばかりの相撲協会。 
 角界、マスコミあげて、横綱稀勢の里を待望している。そんな甘い基準でええの?と思うが、まあいいかと辛口批評家も目をつむっているというのに。何度も綱取りのチャンスをセットしてもらいながら負けるか、初日から…。
 本人が一番情けないであろうが。さて二日目はどうだろう。
 今日対戦する妙義龍は、ここ数場所大活躍というわけではないが、安定した成績をあげている。スピードもあるし、馬力もある。相撲も巧い。
 今、稀勢の里が勝った。でも危なかった。明日からどうなるのだろう。何とか白鵬戦まで持ちこたえてくれないとおもしろくない。
1月6日(月)
補助金打ち切り
 
 昨日国立文楽劇場で文楽初春公演を観てきた。
 午前の部で「二人禿」「源平布引滝」「傾城恋飛脚」であった。
 「禿(かむろ)」というのは廓があった時代に行儀見習いをしていた花魁に仕えていた少女のことである。二人の禿が「禿かむろとたくさんそうに、言うてくれるな、エ、憂きの廓(さと)、外でなぶられ内ではせかれ、ほんに身も世も内緒の文の使いも二度三度、いつが春やら花ぢゃやら」と己が境遇を嘆くところから始まる。二人が羽根突きやまりつきに興じている時に歌われているのは数え歌で、これもことばあそびになっている。そして最後に「さて面白い花の廓、心ごころで楽しまん」で終わる。お正月のおめでたい演じものとして選ばれている。
 浄瑠璃を最初聴いたときは、何を言うているのか戸惑うであろうと思ったが、慣れてくると分かるようになる。
 大阪市の文楽への助成金打ち切りのニュースがこの年末新聞に出ていた。この初春公演で9割の入場がなかったら打ち切られるらしい。私が観たときは満員御礼状態であった。これが、千秋楽まで続けばいいのになあと思いながら帰ってきた。
 補助しなければ成り立たないような芸能は消え去ったらいいのだという自然淘汰の論理が働いているのだろう。これからも儲かりそうもないものに税金をつぎ込むのは愚の骨頂だという理屈は資本の論理が幅をきかせる世の中では賛成をする人も多いのだろう。
 もともと京、大坂、大和に起源を持つ能狂言は江戸時代に宗家が江戸に移った。上方歌舞伎は戦後に中心的な役者が東京へ。そして上方落語も危うかったが、何とか残った。お笑いは関西だと言ってきたが、東西の壁がなくなり、おもしろい若手中堅はみな東京へ出て行く。何もかも東京に集中している中で唯一残っている芸能が文楽なのである。
 ジョウシン電機という電気製品の量販店は「唯一の関西資本」「阪神タイガースを応援しています」というキャンペーンを張っている。なるほどと思う。
 何でも東京一極集中で、大阪が沈没するというところから大阪都構想も始まったのだと思うのだが、東京にはない文化芸能を護り育てることが出来ないようであれば、如何なものか。文化を大切にしない政治は世界からも尊敬されない。
1月3日(金)
教え子からのメール 
 昨日教え子だという方からメールをもらった。大阪で教師をしているとのことであった。確かに覚えのあるお名前であった。会いたいと書いてあったので、今朝返事を出した。するとすぐに送信不可のメールが届いた。添付ファイル付きのメールであった。今までも送信不可のメールはあったが添付ファイルが付いてくることはなかった。相当重そうな添付ファイルだった。開けるのはやめた。念のためもう一度同じアドレスに送付したが結果は同じだった。
 というわけで、あのメールをくれた教え子さん。もしこの日記を読んでおられたらそういう事情で返事が送れないのです。
2014年1月1日(水)
新年 
 伏見稲荷大社に近い1年生の教室で「お正月かるた」づくりがありました。私も考えてみました。
・よそいきの 顔と衣装で 初詣
・大繁盛 稲荷の狐も ハハハのハ
・黒山の 人出の向こうに 銭の山

 Sちゃんが詠みました。
・お正月 いそがしすぎて たいくつだ
 Sちゃんの家は和菓子屋さん。年末は鏡餅の注文、年始はお客さんの応対で大忙し。家中がてんてこまいで子どもは退屈なのだそうです。
 平和で安全で笑顔のあふれる年でありますように。
 今年もどうかよろしくお願いします。
 12月31日(火)
お餅
 子どもの頃、12月30日は餅つきの日だった。祖母は臼取りが上手だと家族内で認められていた。若い頃、若い衆に空臼をつかしたとよく言っていた。(空臼…餅つき中に臼どりが、中の餅を引き上げてつき手が臼をたたいてしまうこと)。
 祖母も父親も餅好きで、1月15日にも餅つきをした。確か「寒餅」とか言っていた。黒豆をゆでて入れた「豆餅」、できたてを大根おろしで食べる「大根餅」、きなこ餅、砂糖醤油をつけてのりを巻いてなどなどみな好きだった。
 父親は酒造会社に勤めていて30日まで仕事があった。だから、うちの家の餅つきは夕方から始まった。私が何とか一臼つくことが出来るようになると、家の餅つきは昼間に変わった。あれは、高校生になった頃だっただろうか。餅つきはきつかった。一臼つき終わると息が弾み手にマメができた。それがしばらく続いた。
 餅つき器なるものが発売された頃、うちもそれに変わった。私が結婚し家を出て、父親が亡くなくなっても、母親は12月30日に餅をついた。私たちも手伝いに行った。母親が「もうやめる」と言ったのは、いつ頃だったろうか。もう随分前のことだ。 妹宅では、今も30日に餅つきをしている。今年も餡入りの草餅を持ってきてくれた。おいしいので毎年楽しみにしている。
 お雑煮を何個食べるか、結婚した頃「6個」と言って嫁さんにびっくりされた。今でもそのくらい食べられそうだが、最近は3個にしている。京都では白味噌仕立てだというが、うちの家はおすましであった。祖母が石川の出でそれが踏襲されていた。母親は京都市内の生まれで、色々具の入った白味噌仕立てのお雑煮の方がよかったようだ。祖母が亡くなってしばらく経ったある年、「うちも白味噌にしよう」と母親が言ったことがあった。特に反対する理由もないのでその年、白味噌になった。丸餅に小芋やかまぼこやセリなどが入っていた。私にはそれはお雑煮とは違う食べ物に感じられた。翌年から、おすましに戻った。不評だったのだ。私は餅しか入っていない祖母から伝わっているすましの雑煮が雑煮だと思っている。
 餅がある期間、練炭火鉢で餅を焼いて、塩を少々入れ、それにお茶をかけて食べるのが父親の朝食だった。私もその食べ方が好きだった。最近その食べ方をしたことがなかったが、久しぶりにやってみよかと思っている。  
12月30日(月)
新潟 
 柏崎の西光寺から長岡の真福寺へ行きました。その車中で聞かせてもらったり見たりした風景の中で京都に住む私が興味を持ったことです。
・山中に線を張り巡らした池がいくつもありました。錦鯉の養殖だそうです。そういえば故田中角栄氏が自宅で鯉を飼っている話は有名でした。
・大きなお稲荷さんがありました。山の中腹に見えるその社は色鮮やかで壮大でした。伏見稲荷は全国の稲荷神社の総本宮。大きな社殿で山一帯が敷地です。でもここのお稲荷さんもすごいと思いました。
・「三波春夫」さんの出身地という場所を通りました。「新潟出身の有名になったタレントは、新潟生まれを強調するんですよね」とMさんはおっしゃいました。「三波春夫、小林幸子、林家こん平」の名が出てきました。
・ヨネックスの工場がありました。ヨネックスはもともとその場所が本社だったそうで、やはり創業者がこのあたりの出身なのだそうです。
・岩塚製菓の工場がありました。この会社のおせんべいが好きで、特に「黒豆せんべい」が大好物でよく買うのですが、そんな話をしたら、新潟には製菓会社が多いという話になりました亀田製菓、越後製菓などなど。新潟は米どころでお酒がおいしいのは知っていましたが、特にあられの会社が多いことは知りませんでした。そういえばサトウの切り餅も新潟でした。
 
12月27日(金)
今どきの人やない 
 近くの北堀公園4周を走ったり歩いたりした後、桃山城を通って自宅へ戻るとちょうど一万歩を超える。時間にしておおよそ1時間半。
 桃山城には人影がなく駐車場も車が数台。私が大手門を出てきたら、若い女性の三人組が記念撮影をしておられた。「写真撮ってくれませんか」と言われて「は〜い」と調子よく返事した。渡されたのはスマートフォン。カメラなら何とか分かるけどスマートフォンで写真撮ったことがない。
 「これ、どこ押すの?}まず第一の質問。
 「あれ?画像はどこにでるの?」第二の質問。私は液晶画面を向けて撮ろうとしていた。私はどこかからのぞいて撮るのかと思っていた。レンズは裏面にあるのであった。
 「あれ?押しても撮れへんけど?」第三の質問。スマートフォンの周りに柔らかいプラスチックの保護面があって、シャッターが押しにくいのだ。
 持ち主が質問の度に私の所へ来て教えてくれた。実はズーム機能はどこを押したらいいのか聞きたかったが、「もうええわ」と思って聞くのをやめた。困ったおっさんに頼んだと思っておられたことだろう。
 実は私の携帯は相当古くてスマートフォンに代えようかなと思っているのだが、先が思いやられる。
 枝雀の落語で「あんた、今どきの人やおまへんやろ」というギャグがある。ほんまに今どきの人やないなあと思いながら家路を急いだ。 
12月22日(日)
掲示板 
 掲示板、しばらく前からIndexから消しました。何の宣伝か分からないものが毎日のように書き込まれるようになったからです。一度警告したのですが何も効果がないのでしばらく掲示板そのものをIndexから無くしました。これで書き込もうと思っても出来なくなり、書き込んでる人もあきらめるだどうと思いました。
 ところが…。
 今日、確かめてみたら、どういう方法で書き込むのか知りませんが、その後もどんどん同じような書き込みが続けれていることを確認しました。私のHPから入るのではなく、おそらく掲示板のアドレスを呼び出して書き込みをしているようです。
 という事情ですので掲示板をどうするか再考します。開設以来色々な方が書き込んでいただけるのを楽しみにしてきたのですが、誠に残念です。
 
12月21日(土)
冬休み 
 20日(金)に勤務が終わり、いよいよ冬休みになった。
 同じ日に忘年会へ行って、二次会でカラオケに行ったのだが、私の歌ううたは、1980年代までの歌で私より若い世代の方々の歌ううたは1990年以降の歌であった。全くリズムが違う。若い方々はカラオケで歌ったらどういう曲が盛り上がるかをよく心得ておられて選曲しておられるのが分かる。私は歌いたいうたをうたっている。若い方たちの方がよほど気遣いに長けている。きゃりいぱみゅぱみゅ(これが発音できない)曲の歌詞を見ながら思ったのだが、こういう作詞をする人はどういう発想なのだろう。何の脈絡もないような言葉が次々現れてめまいがしそうになるが、きわめて斬新である。
 毎年年賀状は押し詰まった28日とか29日に作ってきたが、今年は早く作れた。新潟で木喰さんの馬頭観音の写真が撮れたのでそれを使おうと決めたからである。
 スタッドレスタイヤに履き替えに行ってきた。これで冬支度は出来たのだが、さて、どこへ行こうか。
 黒豆と葉ボタンを買いに丹波まで出かけた。少し時期が遅かったようで、品数が少なかった。残念。
 体重が自己記録を更新中である。冬休みにぐうたらしているわけにはいかないのだが。  
12月9日(月)
円空さん木喰さん 
 毎週新幹線に乗って遠出している。こんなことは珍しい。
 11月24日(日)は岐阜県高山市や丹生川町千光寺へ行ってきた。「円空学会」の研究会があったので参加した。
 12月1日(日)は岐阜県美濃市の円空仏を拝観するツアーに出でかけた。
 12月8・9日は新潟県長岡市へ行ってきた。新潟作文の会の研究会に参加するためだった。せっかく長岡まで行くのに日帰りするのはもったいないので、一泊して長岡や柏崎の木喰仏を拝観してきた。4カ所で拝観したのだが、それぞれの場所で色んな話を聞かせていただき楽しかった。 
 たくさん写真も撮ってきたので整理して、円空や木喰のページを作っていこうと思っている。
 今、上宝町桂峯寺の三尊像のページを作っているのだが、遅々として進まない。論争の多い背面に書かれた文字をどう読むかの整理をしようと取り組み始めたら色んな本を読まなくてはならなくなって、ついつい派生したものへつっこんだり脱線したりを繰り返している。 
11月29日(木)
パニック

 
 京都教育大の図書館を利用していた。席に落ち着いて本を読み始めて10分。私の携帯がけたたましく着信音を奏で始めた。私は着信音を最大にしている。あわてた。何とかしなければと、カバンの中の巾着袋の中にある携帯を捜すが、なかなか手が届かない。焦れば焦るほど届かない。さわっているのに取り出せない。
 やっと、手にしてみると、妹からであった。めったに携帯に電話してくることもないのにこれは何かあったなと思い、席を立ち外へ出るために歩きながら電話に出た。歩いて暫くすると、1階におられるはずの女性職員の方が、わざわざ2階まで来られて、「外へ出てください」おっしゃった。急いで1階へ下りて、出入り口のカウンター付近へ行くと、今度は男性職員の方から「外へ出てください」と注意をうけた。よっぽど大きな音で図書館中聞こえていたのだろう。迷惑をおかけし、恥ずかしいやら格好悪いやらである。
 電話の内容は、母親が入院したということであった。
 早々に図書館を出た。
 幸い母親は検査入院で、大事に至るようなことはなかった。
 私は携帯は持っているが、滅多に使わないのですぐに取り出せるようにはしていない。それより図書館へ入ったら電源を切るべきであった。映画館や劇場では気をつけるが、図書館は思っていなかった。
  
11月4日(月)
 「伊賀越道中双六
 大阪日本橋の国立文楽劇場で「伊賀越道中双六」(近松半二作)を見てきた。一部二部通し狂言で、一部は午前10時30分開演で、二部の終演は8時40分であった。一部と二部の入れ替え時間は40分あまりで本当にぶっ通しで見せていただいた。
 話のあらすじを書いたものを読むと、さっぱり頭に残らずおもしろいのかどうか心配になった。まして9時間である。杞憂であった。歌舞伎や文楽は通しでなく「場」だけを取り上げることが多い。通しで見ていると、「場」だけ見ても独立した見せ物になるように工夫が凝らしてある。盛り上げるために相当無理な話の持っていきようをしているなと思われるところもある。文楽では荒木又右衛門は唐木政右衛門、渡辺和馬は和田志津馬という名に変えてある。
 玉女の政右衛門は凛々しくさすがであった。清十郎の志津馬も美しい。文雀のお袖も可愛らしい。「沼津の段」「平作内の段」「千本松原の段」は、最高の盛り上がりであった。勘十郎、蓑助に和生が絡む人形に、寛治、清治の三味線、そして住大夫の浄瑠璃であった。
 三味線の上手下手は私にはよく分からない。人形ぶりはその立ち姿やしなやかさがいいなと感じる。孫八を演じた幸助という人がいいなとしばらく前から思っている。浄瑠璃の名人上手には声質のよさや言葉の歯切れや説得力のようなものを感じる。咲大夫、嶋大夫はいつもさすがだなと思うし、咲甫大夫はまだお若いように思うが、声が美しく声量があって華があると思う。
 「伊賀越道中双六」は、三大敵討(曾我兄弟・赤穂義士・荒木又右衛門)の中の荒木又右衛門の話である。最近は時代劇を映画やTVでやらないから曾我兄弟の仇討ちとか、荒木又右衛門鍵屋の辻の仇討ちと言っても知る機会がない。戦前を知っておられる方々は、「立川文庫」で知っておられるらしいが、私の世代は少年サンデーとかマガジンが発行され出した時代で時代劇はわずかに、月刊漫画誌が扱っていたように思う。時代劇は主に映画で見たように思う。
 「鍵屋の辻」の仇討ちは寛永11年(1634)11月7日実際にあった事件である。伊賀上野の奈良街道と伊勢街道が合流するその場所には大きな道標や記念館がある。円空が法隆寺に出入りしていた頃である。
 荒木又右衛門伝説は徐々にふくらんでいったようで三十六人斬りをしたとか、柳生心影流の極意を身につけていたとかすごい剛の剣客に後世ふくらんだらしい。実際の仇討ちとその後芝居になるまでの変遷についての解説が解説本に書いてあったのもおもしろかった。
 十一月二十四日(日)まで公演は続くのでぜひ。
10月28日(月)
寒くなってきました 
 今朝は気温10度を切ったとか。急に寒くなってきました。
 日曜日にサツマイモを収穫しました。昨年は葉や茎は立派だったのですが肝心の芋がもう一つでした。今年はどうかなと思ったのですが、昨年よりよく採れました。はち切れたような状態の芋があって、収穫時期が遅かったのかなと思いました。
 サツマイモを植えていた場所にダイコンや菊菜やホウレンソウを植えました。チューリップの球根を30球植えました。春が楽しみです。
 木も何本か植えています。びっくりするのはイチジクです。2年目の今年、木は3m以上に伸び枝も広がりたくさんの実をつけました。柿やみかんはまだまだのようです。  
10月8日(水)
歩く・学ぶ
 
 バイクが故障した。職場到着後、門の前でエンジンがかからなくなった。バイク屋さんにお願いして引き取りにきてもらって修理してもらったら、セルモーターの故障で、1週間以上かかって56000円かかった。
 その間、JRを一区間使って通勤することにした。健康のためには一日1万歩歩いた方がいいとのことであるが、1万歩というのは相当難儀なノルマである。しかし行きに駅まで歩き、電車に乗って、又職場まで歩き、仕事をして、帰り歩いて帰ると一万歩は軽く歩くことになることが分かって、これは歩いた方がいいなと思い出した。せっかくバイクが修理できたのに乗らないのも何なので、今、一週のうち3日は歩きにして2日はバイク通勤にしようかと思っている。
 私が利用するJRの駅「JR藤森」から京都教育大学まではほんの5分である。帰りに京都教育大学図書館に寄ってみた。前から教育大の図書館を使ったら便利ですよというアドバイスをして下さる方がおられたので通勤方法を変えるついでに図書館も変えてみようかと思い立った。
 地域図書館である伏見中央図書館は、年配の方たちが多くて、中々席が確保できない。それで、自宅近くの京都教育大学図書館を利用するために卒業生用カードを作ることにした。PC持ち込みも出来る上、利用者で溢れているわけでもなさそうだ。教育大学であるから調べようと思ったら教育関係の本も多い。何を調べるかを決めてじっくり腰を落ち着けて学んでみようかと思っているのだが、果たしてどうだろう。カードも送ってきたので、早速明日行ってみようかと思っている。 
 9月22日(日)
やってられない
 大阪市の民間校長が三ヶ月でやめたとか、セクハラ問題を起こしたとか、教頭に土下座させただとか昨年任命された11人の中6人が何かと新聞沙汰になっている。しばらく前の橋下徹氏ならすぐに首を切って次の手を打ったであろうに(またそこが拍手喝采の原動力だったのに)、どうも今回は歯切れも決断も悪い。自分の肝いりで始めたことが巧く機能していないどころか問題続出では「制度の問題ではなく、運用上の問題だ」という弁解もむなしく聞こえる。 
 さらに来年度は民間出身の校長を大量に採用するのだそうだ。それに対して、現場の教頭から不満というか絶望の声が上がっていると新聞が伝えていた。教頭とか教務主任とかの仕事は激務である。「校長になれると思うから我慢している」というのは正直な気持ちであろう。職場の中間管理職としての気遣いや休日を返上しての勤務、勤務日も一番最初から最後まで学校に残っているのはその人たちである。意の染まぬ教育委員会や校長の命じる通達や方針もあるであろうが、通知徹底させるのも彼らの仕事である。にもかかわらず、民間採用の校長の方が、学校内部からの採用より競争率が低く、なりやすいというのは、如何なものかというのがその言い分である。「やってられるか」という声が聞こえているというのである。
 この夏休みに大阪府下のある先生に話を聞かせてもらう機会があった。校長の給料についてであった。大阪維新の会の進出以来公務員の給料を民間並みにというかけ声の下、教員全体の給与水準を下げ、管理職も下げられた。学校の中には教諭だけでなく、他職種の事務職員や管理用務員(校務員)、給食調理員さんなどがおられる。職種によって賃金体系が異なっている。校長は他職種の人の管理指導の責任も負っている。ところがこの方たちの給料が人によっては校長を超えているという事態が起こっているというのである。
 これは著しく校長の勤労意欲や権威を落としているらしい。「なんぼなんでも、それはないやろ」というのである。「校長や教頭になろうという優秀な人材の確保が危ぶまれる」とのことであった。「やってられるか」と言う声がここでも上がっているという。
 上司の給料が部下より低い…まさかこれが民間並みではないであろう。
 せめて校長の給料が「やっぱり校長先生の給料はその地位に応じているなあ」と思わせる方が、校長になりたい人はやる気を起こすと思う。それが世間の常識だと思いますよ、橋下市長殿。
9月10日(火)
オリンピック開催と
原発汚染水問題

 
 2020年東京オリンピック開催が決まった。関係者の方々のご努力は並々ならぬものであったであろうしそれが報われ、日本で開催されるということを喜びたいし楽しみでもある。7年後たぶんまだ私は生きているであろうからひょっとしたら見に行けるかもしれない。
 が、しかしである。安部首相のプレゼンテーション及びその後のTV出演時における「福島第一原発事故問題」「汚染水問題」「今後のエネルギー政策」についての発言は「ホントウ」なのだろうか。
 NHK「NewsWeb」によるとこう発言したという。
「状況はコントロールされており、全く問題はない」
「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメールの範囲内で完全にブロックされている。福島の近海で行っているモニタリングの数値は最大でもWHO=世界保健機関の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ。また、わが国の食品や水の安全基準は世界で最も厳しいが、被ばく量は日本のどの地域でもその100分の1だ。健康問題については今までも現在も将来も全く問題ない」
「抜本解決に向けたプログラムを私が責任を持って決定し、すでに着手している。責任を完全に果たしていく」
 朝日新聞9月9日夕刊には、このようにある。
「安部晋三首相は7日夜(日本時間8日午前)、ブエノスアイレスでTBSのテレビ出演し、国際オリンピック委員会(IOC)総会で汚染水漏れを解決できると説明したことについて、『自信があるからこそそう言った。海外の不安は払拭できた。だからこそ、日本が招致を勝ち得ることができた』と語った。
 これに先立ち、安部首相は記者会見で、今後のエネルギー政策について、責任あるエネルギー政策を構築していく。原子力の比率は引き下げ、今後3年程度で再生可能エネルギー普及と省エネルギーの推進を最大限、加速させていく」と強調した。原発再稼働については、『世界で最も厳しい安全基準のもとで判断していく」と述べた』(ブエノスアイレス) 
 安部首相の今回のプレゼンテーションに対する海外のメディアの評価は高いようで今回東京が開催地に決定したのも安部演説が大きな役割を果たしたと述べているようである。
 私はこういう説明は、まず福島ですべきだと思う。現在第一原発で働いておられる方々、現在未だ原発事故のため避難や避難所生活を余儀なくされている方々、農業や漁業関係者にこそ納得してもらうべき内容だったのではないかと思う。こういう方々に希望と安心を与えてこそ、今回の演説が真実味を持って海外に受け入れられたのにと思う。「大丈夫です。私に任せてください」ということを今、福島の方々に胸を張って本当に言えるのか?本当に「状況はコントロールされている」と言えるのか?そもそも原子力発電そのものが廃炉や事故廃棄物処理を含めてコントロールできるのか?
 このあとまだまだ不都合な事実が出てくるのではないかと私は懸念している。その時に安部首相はもちろん日本が『嘘つき』呼ばわりされないことを願っている。 
 9月9日(月)
初秋
 今までしっかり鳴いていたスズムシが急に鳴かなくなった。あれ?と思って見にいったら五匹死んでいた。よく見たら残っているのはみなメスだった。もらったときはオスとメスの区別がつかなかったが、やっと輸卵管と背中の形で見分けがつくようになった。
 エサはキュウリとナスを交互に与えたのだが、どうもナスの方が好きなようだった。あと一匹だけオスが残っているがこれも多勢に無勢で多分あと数日の命なのだろう。
 子孫のために命を落として奉仕するオスか…と感慨深いものがある。
 この後どうしようかなあ。メスに卵を産まして孵化するのを待つか。畑に逃がすか…。来年の春まで待つのは長いなあ。
 この所の気温の低下でメダカが産卵しなくなった。メダカは、おおよそ1年半から2年の寿命である。今年生まれたのは、大きくなるペースが遅いが元気に育っている。メダカは今年も無事世代交代している。
 今日は午後から雨が上がったので、夏にキュウリやトマトを植えていたところを全部抜いて耕した。さっそくジャガイモと菊菜とホウレンソウを植えた。1週間前にはタマネギを植えている。すごい雨で種が流れてしまったかもしれない。土曜日に滋賀県まで燻炭を買いに行ってきた。100gで900円の袋を2つ。今日さっそく馬の乾燥堆肥や化成肥料といっしょに土に入れた。  
 9月1日(日)
京都迎賓館
 まあ正直なところ私には縁がない場所だと思っておりましたが、8月26日(月)の見学会に応募したら当たりました。京都検定1級合格者には特別枠があるというので申し込んだら当たったのです。
 この2005年完成総工費約208億円の京都迎賓館、建設時には京都でも賛否両論ありました。私の理解ではこんなことだったと思います。
 賛成派は、平安遷都1200年を記念して、和風迎賓館を建てたいということでした。また、京都御所は耐震性に問題があり天皇や賓客が京都に来られたときに危険であることや、京都に迎賓館があることで日本の歴史や文化に対する理解を深めるのに資するという理由でした。
 反対派は、今まで宿泊に使ってきた大宮御所があるのに迎賓館は税金の無駄遣いだということ、自然保護や文化財保護の観点から京都御苑内に新しい建造物を建てることに問題があるという意見。
 見学はパブリックスペースのみ行われました。
 まず、送られてきた見学許可証を受付で渡すのですが、入念に本人確認をし、PCに打ち込まれたデータと照合しておられました。カメラ以外の持ち物はロッカーに入れるように指示されます。
 カメラは持ち込めるのですが、入り口付近、地下駐車場付近、日本庭園に架かる橋、廊下は写真撮影禁止でした。石畳と灯籠、置き石の配置が美しい廊下にカメラを向けたら、「ここは撮影禁止です」とのこと。禁止と禁止でない場所の基準が私にはよく分かりませんでした。「警備の関係で…」とのこと。
・「迎賓館内の建物の配置とか何とかは、航空写真撮れば簡単に分かりますし、作成されたDVDや出版物に相当詳しく紹介されているのに、何でまた色々制限するのでしょうか」
・「毎年公開時にはそのチェック体制を巡って揉め事がある、実は去年も…」
 警備や案内担当の方々からもこんな声が出てました。
 私が撮ってきた写真を公開したいのですが、「個人の記念写真の範囲としてご利用下さい」とのことですからやめときます。
 大広間(桐の間)には全長12mの一枚板の漆の座卓と蒔絵の座椅子があり、畳は迎賓館用に作られたイグサのよいところだけを使った中継表という特別な作り方をしたものでした。
 晩餐室(藤の間)壁面装飾は日本画家鹿見喜陌下絵の「麗華」を川島織物が製作したもので、数十種の花々が競って咲く豪華なものでした。舞台扉には人間国宝故江里佐代子氏の載金細工が施されています。故伊砂利彦の型絵染屏風、岸本圭司の蒔絵飾台も見事。晩餐会用の椅子も大変美しく上品でした。
 夕映の間は箱崎睦昌下絵「比叡月映」「愛宕夕照」龍村美術織物製作の綴れ織が飾られています。故第五代小川文斎、八代清水六兵衛、故人間国宝十四代酒井田柿右衛門の陶芸作品が並び、北村繁の螺鈿飾台が置かれていました。
 庭園は佐野藤右衛門が棟梁。東西の建物をつなぐ廊橋で二つに分かれた池の北側には和舟が用意されて錦鯉が悠然と泳いでいます。南側には石が配置され鯉が入らないように浅く作られています。
 他にもロビー(聚楽の間)の長椅子の美しさや、中には入れませんでしたが待合室(琵琶の間)の落ち着いた雰囲気も心に残りました。
 やはり贅を尽くした建物だなと思いました。
 開館してから現在まで85回会議や宿泊に使用されました。皇室関係では天皇皇后がつい最近宿泊。皇太子他の皇族関係の宿泊は今までなし。私が外国の賓客で印象に残るのは2011年にさわやかな印象を残して帰国されたブータン国王夫妻。さて、8年間で85回の使用回数。大体1ヶ月に1回使うと言うことのようなのですが。やっぱり税金の無駄遣いでしょうか。維持費運営費は平成22年度予算では約4億5千万円らしいのですが。
8月23日(金)
 「少年H」と風立ちぬ」
 今年は暑い!とTVで毎日報道されているのに惑わされているわけではないが、確かに暑い。年齢のせいかもしれないが、どこにも行く気力が湧いてこない。かといって、家でじっくり書物を読むのもすぐ飽きる。
 どこか涼しい所はないかと言ったら「映画館は涼しい」という結論になって2日間避暑がてら、イオンがやっているスーパーと映画館が併設されている場所へ買い物兼ねて行ってきた。
 最初に見たのが、「風立ちぬ」。宮崎駿作品。主人公である堀越二郎という人物と堀辰雄の同名作品についての知識が全くないまま映画だけ見た。戦時中に軍需産業の中枢にいた人物(堀越二郎は零戦の設計者らしい・たまたまホテルで同席したドイツ人(ゾルゲかな?)との関係で特高にマークされそうになるという場面もあった)にしては、とても自由な発想でそういう生き方ができたのだなと思った。才能のあるお金持ちはこういう戦争時代を過ごせたのかというやっかみの気持ちもあって、宮崎駿はこの作品で何をメッセージとして送り届けようとしたのかなと思った。恋愛映画としてはよくできていた。
 「少年H」をその二日後に見に行った。これもあれだけ「少年H」が売れていた時期に読んでないという何の先入観も予備知識もない状態で見に行った。(これも全然自慢にならないことである)
 洋服の仕立屋を営むクリスチャン一家が神戸で戦前と戦後すぐどう生き抜いたかを描いたこの映画、よかった。「よかった」と言う言葉は軽いが、そう言うしかない。どんな時代になってもどんな状況でも人間として何を大切に生きぬくのかを庶民である仕立屋の家族4人が見事に表現していた。
 私は戦後になって少年Hが父親に「何で黙ってるんや。お父ちゃんは戦争の前から間違ったことしてへんかったやないか。何かいうてくれ」と言い寄る場面が一番印象に残った。戦前は的確に家族にどう対処するかを指示していた父親が、戦後口数が少なくなる。軍国主義の礼賛者だった人々がにわか民主主義者やアメリカ迎合に変節していく姿を目の当たりにした少年Hの怒りであり、戸惑いであった。
 水谷豊という役者さんは相棒の「杉下右京」というキャラのイメージが強くて、何をやっても「杉下右京」に私には見えてきた。似たような探偵役などやっているのは気の毒で見ないことにしている。相棒の「杉下右京」には勝てないからである。今度の「少年H」も「杉下右京」が見え隠れするのではないかと心配していたのだが、それは杞憂であった。誠実な仕立屋を見事に演じていた。
8月20日(火)
「言語活動」の充実 
 お盆がすんで、学校もぼちぼち夏休み明けの準備が始まる頃になってきた。私は今任期が切れているのでまだ気分はのんびりしているが、さぞかし現役の方々は夏休み最終盤の会議や研修会の準備、授業再開後の準備などに明け暮れておられることであろう。
 この時期、いよいよ佳境に入る校内研究での研究授業に向けた研修がどこの学校でも行われる。これは校内研究だけでなく、生徒指導、同和教育、外国人教育、男女平等教育などなど、また、時々の課題に応じて、学力向上委員会などが加わって、それぞれに報告や会議の連続になる。
 だから、この一週間は忙しい。
 ある学校の校内研修の講師依頼があった。「言語活動の充実」について話してほしいということである。
 前回の新学習指導要領から文部科学省が中央教育審議会の答申を受けて「ゆとり教育」と言われた自らの方針転換を図った。新学習指導要領では総合的な学習の時間が相対的に引っ込み、教科学習の内容を増やし、時間数も確保した。一時あれほど「総合」の研究が盛んだったのに殆どしなくなった。
 今、「言語活動の充実」研究が流行なのである。きっとみなさん悩んでおられるのだと思う。どうすればいいのだろうと。
 講師をしなければならないので、文部科学省の出している「指導事例集」を読んでみた。分かったことは、ああ、それで各教室で「読まない」文学教育や説明文教育が、広がっているのかということであった。作文教育については、前から実感や自分のくらしからかけ離れたことを、形式だけ整えて「書く」ことが強調されていると思っていたのだが、教科書がそうなっていて、指導事例がそうなら現場もその方向に流れる。
 校内研修で私の話を聞かれる方は、別に私の話を聞きたいと思っておられる方ではない。ほとんどの方は、何か夏休み後の研究の中で一つでも二つでも役に立つ具体的な話を期待しておられる。
 う〜ん、困った。言語活動を充実させて、正しく豊かな日本語の担い手になってほしいという願いは間違っていないと思う。それで、どうすれば言語について関心を持ってその活動が楽しめるのかとか、子どもが自ら進んで取り組もうとするのかとかについて、今考えていることを話そうかと思っている。
 ところがこの言語活動という言葉も私の理解と文部科学省では違う。私は単純に「読む・書く・話す・聞く」だと思っていたが、文部科学省は「記録・要約・説明・論述」だと定義している。今までの「読む・書く・話す・聞く」を充実させるのではないのである。
 8月14日(水)
半沢直樹と杉下右京
 東芝日曜劇場「半沢直樹」がついに第5話(8/11)で視聴率29%という数字を出したそうだ。「半沢直樹」は池井戸潤原作の小説をドラマ化したもの。東京中央銀行の銀行員である主人公は、銀行内外から様々な圧力を受けたり妨害をされるが、「やられたら倍返し」といいながらその難局を乗り切る。
 第五話では「やられたら倍返し」という半沢のセリフ通り、自分を陥れた融資先の社長に恥をかかせ、社会的に葬ることに成功する。その社長とグルになって私腹を肥やし、その罪を半沢になすりつけようとした支店長(上司)に対しては、証拠を握った上で精神的に追いつめて、謝罪させる。そして刑事告発し社会的断罪を受けろと宣告する。
 支店長を追いつめている時に、その妻が現れて、「うちの人を頼む」と言って半沢の手を握り出て行く。一旦支店長に格好良く見得を切ったはずなのに、その後もう一度支店長室に戻った半沢は、「犯罪に目をつむる」条件として「自分を本店のエリートコースに入れること、そして部下を本人の望むポジションに入れること」 を要求し、それを飲ませた上で、約束の「土下座」をさせる。(こういう事情が裁判で明るみに出たら、半沢はお終いだなとフィクションと知りつつ心配している)
 私はここで「相棒」の「杉下右京」を思い出していた。杉下右京は絶対こんなことはしない。警視庁と民間の銀行では違うのだろうけど、ヒーローの人間性が違うのである。半沢は「上に上がる=出世する」ことを公言してはばからない。その伏線として父親の自殺があるようだ。目的のためなら手段を選ばないという点では、不法な捜査も辞さない杉下右京もいっしょだが、何のためにの根幹が違う。彼は彼の考える社会正義の実現のために、私情を捨てて真実に迫ろうとする。
 この後、東京へ舞台を移した「半沢直樹」がどう展開していくのか興味津々だが、自分の立身出世のために、犯罪に目をつむるという「小狡い」半沢が果たして大きな悪に挑み、目的を達することが出来るのか見てみたい。動機が「やられたら倍返し」という相手に対する憎悪や復讐心であることは分かりやすいが、怖いことである。出世する目的がどこにあるのか、半沢はどこを見ているのか、その説得力があるかどうか、これからが見所かもしれない。
 きっと「やられたら倍返し」は流行語大賞に入るだろう。そして今でも子ども世界で「土下座して謝らせること」は流行り続けているのに、ますますその傾向に拍車がかかるのではないかと心配している。子どもはすぐに「土下座」を要求する。私はその度に何時代の話?と思ったが、TVの世界で土下座という屈辱的な謝罪方法が市民権をもって時にまじめに、時に笑いの種として使われて今も生き続けていることは、そろそろ人権の問題として、考えた方がよいと思うのだが。
8月12日(月)
メダカと鈴虫
 
 私がお世話になっている散髪屋さんに昨年メダカをあげた。越冬しまだ何匹かは元気である。しかしあまり産卵しないらしく殖えないとおっしゃっているので、「うちのを又持ってきます」と言ったら、「鈴虫は要らないか」とおっしゃる。「ほしい」と言ったら、次行くときに交換することになった。
 鈴虫を飼う虫かごを買いに行ったら、えさと、中に入れる土と、水分調節ためのボトルを売っていたので買ってきた。
 それで一月ぶりに行こうかと思ったら、今日は月曜日で散髪屋さんは休みであった。
 この暑さに参っている。昨日久しぶりにテニスしたらすぐにバテて、気力が湧いてこない。10年遅れの五十肩も思ったより調子悪くて、思い切りスマッシュとサーブできないし、急な動きをすると痛みが走る。治るまでだましだましプレーすることになる。
 りーんりーんと鳴いたら、少しは涼しく感じるだろうか。
8月6日(火)
池袋 
 日本作文の会埼玉・関東大会に行ってきた。
 二日目、三日目が大東文化大学板橋学舎で行われたので池袋のビジネスホテルで二泊した。
 池袋の駅からホテルまで6分と書いてあったのだが、池袋の駅構内を東口まで中々出られない。広いし、とにかく人が多い。少し大きめの荷物を持っているので歩きにくい。西も東も分からない不案内な我々は掲示物だけが頼り。ようやく東口に辿り着いたが、もう10分ぐらい経っていた。人が多い。地方から出てきたものが東京の雑踏を「今日は祭りか」と聞いたという笑い話が実感できる。そして若い子がいっぱい駅周辺や飲み屋さんの前で客引きをしている。
 ホテルで荷物を置いて京都の仲間と夜食事に出かけた。予約してあった場所は「京風居酒屋」というのが前につく戦国武将の名を冠した店であった。京風とその武将はどう考えても結びつかない。
 中に入ってどこが京風なのか捜してみたが、壁にある窓はしばらく前まで中華料理店であったことが偲ばれるもので、すだれで隣の席と分けてあるのが京風なのかなという程度の京風であった。料理は全く京都を思わせるものではなく揚げ物のオンパレードで、ビールはぬるくて早々に退散することにした。
 さて、どこへ行こうか考えたが、あてがない。仕方なく京都にもある居酒屋チェーンへ行くことにした。この店のオーナーは最近参議院議員になった人物で、従業員がおなくなりになったことがあって、「ブラック企業」という不名誉なレッテルを貼られている。いっしょにいた友人の中には「やめとこう」という人もいたが、何がメニューであるか分かっている方が安心だというので入ることにした。ビールはよく冷えていてよかった。
 二泊目は、駅前で客引きしていたお兄さんの案内で、又「京の○○」という名前の店に行った。京都という名前を付けるのが流行っているようだ。店のしつらえに京都を感じさせるものは、廊下にもみじを配した溝が作られていて、透明プラスチックか被せてあったのが、かろうじてこれかなと思わせてくれた。料理の方もメインは鍋で6人前といって出てきたのは、キャベツ、ニンジン、ニラとサケの入った鍋で、それもプラスチックの入れ物に一人半分ぐらい盛ったらなくなるという量であった。炊き込みご飯が最後に出たのだが、お砂糖入れてるのかと思うぐらい甘くて味が濃かった。
 二つの店だけで言うのも何だが、「京風」とか「京の」とかいうのはあてにならないようだ。
 きっとこの町で住み慣れたらきっと便利で楽しいのだろうなと思う。
 私の仲間の一人は提案資料の不備が見つかったので、コピーをするために印刷をしてくれるところへ行ったら、印刷して、プリントを並べてまとめ、ホッチギス止めまでしてくれる店が24時間営業していたと感心していた。
 駅でバーチャル自販機も見た。池袋だけでなく他の駅周辺もきっとこんな風なのだろう。私は東京で毎日行われている「祭り」の一端を体験したのだろう、きっと。 
7月28日(日)
夏休み 
 私が勤務する学校は25日まで授業をして、7月27日から夏休みに入った。そして8月28日から授業が再開される。
 夏休みは40日間と思っていたのは遙か遠い昔のことで31日間である。
 昨日(27日)国語の研究会を開催した。
 しかし私の学校の先生は、この土日学校で行われる宿泊行事(サマースクール)があって、誘うきっかけもなかった。主催は地域の少年補導だったり、体育振興会だったり、「おやじの会」だったり学校だったりするが、夏休み校庭にテントを張ったり、体育館に夜具を持ちこんだりの宿泊体験が流行っている。
 私は7月26日から任用期間が切れたから研究会に何の気兼ねもなく参加できたのである。健康保険証もなくなったので、国民健康保険に加入してきた。
 そして今日から北海道の研究会に参加する。そして3日ほど空けて、埼玉で行われる研究会へ出かける。その後元気だったら大阪の研究会に出ようと思う。それが終わったら自由になるので、夏休みらしいことができるか考えようと思っている。 
7月20日(土)
四十肩五十肩? 
 「四十肩とか五十肩とか言われているやつですね」
整形外科の先生に言われた。
 一月ほど前からどうも右手の調子がよくなかった。肩を使ったストレッチが痛くてやりにくい、ちょっと窮屈な服の着脱の時、痛い。右手に力が入りにくくて、物を引き出すときに痛みを感じて力が入らないなどの自覚症状があって整形へ出かけた。
 レントゲン検査の結果骨に異常は認められなかった。肩に注射を打ってもらい、理学療養士の方の指導で肩を温め、簡単なストレッチを施してもらった。痛みもなくストレッチできた。「軽いですね」と言われた。たぶん重症ではないのだろう。
 「64才で四十肩とか五十肩と言われたと言うことは若いのかな」夜道を歩きながら笑ってしまった。  
6月29日(土)
伏見人形展
(京都市考古資料館
) 
 京都市考古資料館で特別展示「伏見人形展」が開催されている。伏見人形は全国各地にある土人形の元になったと言われている。私が伏見人形に興味を持ったのは比較的新しい。今では唯一の伏見人形窯元「丹嘉」さんを知ったのもそれほど昔のことではない。伏見人形の素朴な味わいは好きで家に立雛や饅頭喰い夷・大黒、福良雀、十二支の中のいくつか等がある。
 2月から行われていたのだが、私は知らずにいた。Fitsという深草地域にある大学の学生さんやNPO法人や商店街などと連携をとりながら地域作りのお手伝いをされている団体(と、私は理解しているのだが間違っているかもしれない)の方から連絡を頂いた。
 京都市埋蔵文化財研究所副館長の方の解説もしてもらえるというので期待して出かけた。
 今回の特別展で私が興味を持ったことである。
@現在1軒になっている窯元は、先代の丹嘉のご主人の記憶にあるだけでも伏見街道沿い中心に30軒を超えていたし、販売所も伏見稲荷大社裏参道沿いに10数軒あったらしい。
A2011年新十条通り開通に伴う道路工事で本町二十丁目(ふくち屋跡)の発掘で「綿治」銘の入った江戸末から明治初期の土型が出土した。廃業した窯元から土型を買ったりもらったりがあったのではないか。又はふくち屋跡へ綿治の土型が廃棄されたのかもしれない。
B同じ場所から丹嘉さんも知らない土型「蜃気楼」(はまぐりの形をしていて竜宮城の楼閣のような建物が描かれている)が出てきて、復元された。
C上方落語「三十石」に出てくる「虚無僧」「西行」を初めて見た。丹嘉にもあるらしいが私は見たことがなかった。
D伏見人形の代表のように言われている「饅頭喰い」の土型がそれほど多く出土していない。案外新しい時代のものかもしれない。(江戸時代の書物に饅頭喰いの記述のあるものがあるのでこれはどうかなと思った。…小宮山)
E伏見人形は庶民の人形で、公家社会では御所人形と思われてきたが、京都迎賓館の発掘などから公家社会にも広く愛玩されてきたようである。市内各地で今では残っていない土ひねり人形など数種の人形が出ておりその実体は不明である。
F伏見区役所の発掘で寺院跡墓地が出てきたが、その中に伏見人形が一緒に葬られていた。
G伏見人形の絵の具は「にかわ絵の具」を使うが土に埋もれると剥がれてしまう。
 など大変興味あることを教えていただいた。

 私の伏見人形の知識は上方落語からきている。
 「壺買い」では台所の荒神さんの棚の布袋さんが出てくる。お稲荷さんで初午大祭や正月に毎年小さいものから順々に7体毎年そろえていくという話がある。京都市内の旧家には今もそのしきたりが残っている。私の子どもの頃、隣の家のおじさんは毎年布袋さんを買ってきて集めておられた。私も伏見人形に興味を持ったときに集めてやろうと思ったのだが、順々に大きくなっている布袋さんが売っているのを見たことがなかった。副館長さんの話では13体集めるというのもあったそうである。今も丹嘉さんにあると言っておられたので、今度聞いてみようと思う。一番売れたであろう布袋さんの土型が少ないように私は思い、聞いてみた。「たぶん、よく売れる土型は、他の窯元に売ったのではないか」あるいは「布袋さん専門の店があったかもしれない」とのことであった。
 「三十石」では「虚無僧」は船酔いに「西行」は盗難よけに「寝牛」は皮膚病(くさっぱちを食べてくれる)になどそれぞれ効能があると説明がある。他にも福禄寿、天神、夷、大黒、文使いなどが話題になる。
 最後に「饅頭喰い」の説明になる。落語では「父親と母親とではどっちがありがたいか」と問われた子が、持っていた饅頭を二つに割って黙って差し出し「味に変わりはない、ありがたさに変わりはない」と言うことを示したという話になっている。ところが「伏見人形展」では「父と母とどちらが好きか」と問うたとなっている。これは落語の方が説得力があると思うのだがどうだろう。
 6月25日(火)
家庭菜園
 菜園を始めて今年で2年目になる。だいぶ要領よくなってきた。昨年は苗と苗をどのくらい空けたらよいのかとかも分かってなくて、妻が「もっと開けた方がよい」というのに、「大丈夫」(何の根拠もない)とかいいながら植えていた。種をまくのも私と妻では発芽率がちがう。妻の方が上手だ。
 というわけで、もっぱら私は土を耕す。肥料を入れる、畝を作るの係である。牛糞、鶏糞、バーク肥料、油かす、米ぬか、燻炭、腐葉土、リン酸肥料、化成肥料(8・8・8)などを適当に混ぜて土作りをしている。なぜ石灰を先に入れるのかもやっと理屈が分かってph測定器も買った。最近馬糞肥料を買った。これにはたくさん藁が入っているのでどんな効果があるのか、色々試してみようと思う。
 とにかく無農薬であるから、しっかり虫が付く。敷地内なのでたいてい毎日見に行く。去年よりジャガイモはたくさん収穫できたが、キュウリやナスはどうだろうか。
 大抵の野菜は作るので野菜を買わなくなった。
 キュウリ、ジャガイモ、ナス、万願寺とうがらし、タマネギが手を替え品を替えこの時期食卓に出てくる。肉より魚や野菜に好みがシフトしていっているのは年のせいか、野菜作りの成果か。
 家を建て替えて、元住んでいた場所をガレージと畑に変えたのだが、妻も私も結構愉しんでいる。、 
6月23日(日)
今年のメダカ

 
 冬を越したメダカがおおよそ白メダカ20匹、青メダカ60匹、黒メダカ(二種)60匹、緋メダカ3匹。どなたかもらってくれる人がいたらと思っていた。幸い3人の方が10匹ずつ持って帰ってくれたので少し減った。
 今年も順調に産卵し孵化している。自然種に近い黒メダカの繁殖力と警戒心が高いように思う。去年は一緒に育てていたので青黒いものとか、ピンクぽい色をした白メダカとか、青の光メダカのようなものも生まれている。今年はそれぞれの色で一応の区分けをしているのだが、色々なものが又生まれるかもしれない。 
 6月22日(土)
小学校の同窓会
 16日(土)伏見住吉小学校昭和37年卒業生の同窓会が新都ホテルで行われた。5年前に第1回を行い今回は2回目であった。卒業から51年目である。
 私に幹事にならないかというお誘いがあった時にはすでに1回目の準備が始まっていた。まず現住所と連絡先を確定する作業が不可欠なのだが、これがなかなか手間ひまと熱意のいることである。すでに縁者が昔住んでいた場所にはどなたもおられなくなっている人もいる。幹事の中で休日などを使って校区を廻って一軒一軒訪問して確かめてくれた人たちがいた。地元で仕事をしている人はそのつてで近況をつかむ努力をしてくれた。
 おかげで5クラス250名の卒業生のうち170名の方と連絡が取れる状態になっている。 還暦を超えた私たちの中にはすでに物故されたことが分かった方が11名おられる。担任の5名の先生のうち4名の方もお亡くなりになった。今年80才になられた先生はお元気にお見えになって下さりお言葉を頂いた。関東東海で居を構えている人たちも数名駆けつけてくれた。
 第1回は79名の参加、そして今回が77名の参加であった。第1回と重複したのは50名、新参加者が27名であった。今回も熱心に働きかけが行われたことを物語っている数字である。
 会場には資料コーナーも設けられ、「学校文集」や懐かしい集合写真などが展示された。受付では卒業写真の顔入りの名前プレートが手渡されそれを胸につけて「○○さん、△△君」と懐かしんだ。受付でもらった袋の中には、卒業写真と5年前の写真が並んでいる住所録も渡された。いずれも幹事の中その仕事を積極的に引き受けてくれた人がいてこそ出来たことであった。
 私はそういうお世話が出来なかったので一次会の司会をした。 
  
 6月1日(土)
奈良作文の会60周年
 今日、奈良教育大学山田ホールで奈良作文の会主催の研究集会と60周年を祝う会が行われ私も参加した。この研究会は奈良作文の会を牽引してこられた谷山清先生と長田光男先生の米寿を祝う会でもあった。
 午後から行われたお祝いの会でお二人の先生がお話しされた。
 まず、長田光男先生はご自身の体験からお話しされた。
 昭和20年6月1日、つまり今から68年前の今日、長田先生と谷山先生は学徒動員で招集され、大阪の部隊に入隊をされたのだそうだ。その日大阪は大空襲を受けたそうで、命からがらの入隊であったそうだ。「黒い雨」も降ったとのことであった。そして終戦の日まで爆弾抱えて飛び込む訓練ばかりを繰り返したとおっしゃっていた。もし敗戦の日が遅れていれば自分の命はなかったのである。その体験から、教職に就いてからは「命を大切する」ことを第一にする教育を目ざそうと思ったと語られた。そして平和主義を覆そうという改憲勢力を痛烈に批判をされた。
 谷山清先生はご自身が学ばれた二人の先達の言葉から、生活綴方教育の根幹に関わるご自身の信念を語られた。それは生活綴方では、子ども達に「何」を見つめ書かせるのかということについてであった。「身につまされたことを書け」(山村広治奈良作文教育研究会委員長)「何でも書ける学級というのは、そのクラスの中にいる一番言いにくいことを持っている子がそのことが書ける学級のことである」(佐古田好一京都綴方の会初代会長)
 そしてご自身は「相手の身になって考える」ということを信念としてきたと語られた。かって中国で婦女子を犯し強奪を繰り返した部隊にいた元兵士が、酒の勢いもあってか自慢話のごとく語ったことがあったという。その時、「もしあなたの娘さんがそのような目にあったら」と諫めたという話をされた。
 私は米寿を迎えられたお二人の先生が期せずして現在の政治状況を憂える発言をされたことを重く受け止めた。
   
4月29日(月)
 「東京は首都だから」
 円空展が東博で行われたので4月3日に行ってきた。円空展だけでなく通常展示も見てきた。法隆寺館も少し東洋館も見てきたのだが一日ではとても廻りきれない。しかも展示品の内容が充実していて驚く。まさか私の住んでいる伏見区の稲荷山から出土したものを東京で見るとは思わなかった。それで入館料が特別展を含めて800円という安さ。もうこれにはびっくりした。
 東京出身で京都で教師になったS君は私と同い年であったが、先年なくなった。その彼が生前「東京は首都だから」と私よりも彼とのつきあいが深かった方によく言っていたと最近聞いた。私が上方落語のおもしろさや米朝や枝雀の凄さを語るとS君は東京落語の志ん生や文楽のおもしろさや人情について語った。東京についても江戸についてもよく知らない私は「いや…」とムキになって上方文化や京都の奥深さを力説していた。
 そもそも余裕のある方はムキになって論を張らない。以前私の所属するある研究団体で私がその団体の方針の不十分さを非難したことがあった。その時まだ若手であったその団体の常任委員は「あなたが何を言ってもはえがブンブンですよ」と私の主張を一笑に伏した。その時何という事大主義権威主義かと腹が立った。それが東京なのだなと思った。
 最近TVのバラエティ番組を見ているとよしもとや松竹芸能の30代40代のタレントが大活躍である。しばらく前まで大阪では前がつかえて活躍の場が少なかった「おもろい」人たちが水を得た魚のごとくTVの世界を席巻している。さんまや鶴瓶、ダウンタウンがこじ開けた扉をその後に続くタレントが通って、大活躍である。
 彼らにとっては大阪に固執する必要はいまやないのであろう。チャンスは東京にあったのだ。やっぱり「東京は首都だから」。東京は何でも使えそうなものは全部呑み込んで新しいものを創り出すキャパのある所なのだ。
 今はおもしろい吉本新喜劇が松竹新喜劇のようにならないことを願っている。上方歌舞伎は坂田藤十郎や片岡仁左衛門が東京へ移り住んだ時点で、大阪の基盤が細った。上方落語はよく健闘していると思うが、文枝、ざこば、文珍、鶴瓶、南光の後を担う人たちの働く場が確保できるのかが課題になる。「文楽」はどうだろう。客層をどう広げるのかが課題になろう。
 私が心配することではないが、稲荷山の出土品を東京でしか見られないのと同様に上方文化と呼ばれてきたものが東京でしか見られない時代が来るのかもしれない。  
 3月25日(月)
内川・白鵬のこと
 昨日深夜のスポーツニュースを見ていたら内川のことを「ベンチでうなだれすぎて腰を痛めた」と茶化し揶揄していた解説者がいた。冗談にも程があると思った。あのプレーは本当に内川ひとりの責任なのだろうか?日本帰国後すぐマイクを向けられて、「ボクノセイデ…」と涙ながらに話していた内川の心情を察すると私は気の毒でならなかった。
 同じ席に座っていた現役時代それほど走塁面で実績があったと思われない解説者が内川の走塁ミスを指摘していた。確かにそうかもしれない。しかしそれに乗って前記のような発言はいただけない。
 あの大事な局面であんな選手任せのサインを出したベンチはどうなのだろう。まず、大リーグ一と言われているキャッチャーからのダブルスチールが無謀だったのではないか。まして、バッターは日本の四番で、「このチームは阿部のチーム」と監督自ら語った信頼を置いていたバッターだったのだから。
 たとえそう思っていなくても、「私の優柔不断な判断で内川選手に辛い思いをさせる結果になって申し訳ない」と言うべきではなかったかと思うのだが。
 白鵬が全勝優勝した。白鵬の優勝インタビューは毎回「この人は賢い人だな」と思わせてくれる。昨日は双葉山と大鵬の全勝記録を超えたことについて問われ、「恐縮であり光栄」とことばを選んで応えていた。そして大鵬の死に対して黙祷を捧げることを提案し、自らは涙した。
 日本語を十分熟知しているものでも意を伝えるのはなかなか難しい。まして異国の言語で、その国の人々の心をつかむような言動が出来る白鵬は大したものだと感心した。
 もう一つインタビューの中で「私の内弟子が序の口優勝したことがうれしい」と言っていたのだが、現役中からそういう内弟子制度で自分の弟子がもてるのかと思った。そうなると同じ部屋の中で特別に目をかける者が出てくるわけで、困ったことにならないのかなと気になった。
3月9日(土)
WBC二次リーグ
 
 一次リーグ前の試合から見ている。
 一次リーグを2位で勝ち上がったこと、そして昨日の二次リーグ第一戦台湾戦で勝って、よかったと思うのだが…。
 先取点をとられて先行され、試合前半はイライラする様な展開の連続で正直「大丈夫?」と言いたくなる。
 相川、井端、内川などどちらかと言えば地味な選手の活躍でかろうじて勝っているように思う。ピッチャーも何となく頼りなげで、決して圧倒的な力を見せて勝っているのではない。今回は米国はもちろん中南米やヨーロッパの国々が本気で選手を選考してきている。それでなくても力のあるチームが出場しているので優勝は相当難しそうだ。
 今までの日本の戦いぶりを見ていて気になるのだが、スモールベースボールというのは、高校野球の真似をすることなのだろうか。今二次リーグを戦っている後楽園球場は狭いことで有名な球場である。日本のバッターの中で後楽園ならホームランを打つ力のあるバッターもいるだろうに、みんな「らしくない」打撃で凡打を繰り返しているように見える。普段は各チームで中軸を打っている選手が、ランナーがでたらバンドしてタイムリーが打てない場面を何回見せるのかと思う。プロ野球らしい試合をしてほしいと思うのは私だけだろうか。私はキューバや台湾のクリーンアップが逞しく見えた。
 これはベンチワークの問題ではないだろうか。昨日は能美と田中の替え時を間違ったと思う。
 一番イライラするのはTVの解説陣である。TV朝日の工藤と古田は単なる応援団であって、解説者ではない。彼らは決して精神論だけで野球を語らない、冷静で科学的で技術的な解説を得意とする人たちだと思っていたのだが、日本チームに楽天的なことしか言わないし、決して作戦面に対する疑問を口にしない。もっと思ったことをはっきり言うべきである。「こんなところで、1球目からあんな球に手を出してはだめですよ!」ぐらいのことを言うべきだ。MBSの衣笠と桑田も少しマシか似たようなものであった。
 明日のオランダ戦はすっきり勝ってほしいと思う。前田健太に期待している。阿部か糸井か中田にぜひホームランを打ってほしい。
2月21日(木)
定期健康診断
 
 1月末に職場で受けた定期健康診断の結果、肥満傾向で、「あなたはメタボリックシンドローム予備軍に該当する」とはっきり書いてあった。うーん、確かにこの1年体重が増え続けており、自分でも困ったなと思っている。
 「必要な処置・アドバイス」という欄には、「食事量に注意し、間食、夜食を抑え、適正な運動習慣によって早めに(体重を)コントロールしてください」とも書いてあった。
 また、尿酸値が少し高いのをとらえて、「積極的な有酸素運動を実行されることをお勧めします」とも書かれていた。
 要するにもっと汗をかくぐらいの運動を続けなさいと言うアドバイスだと思われる。
  より深刻なことが書いてあった。心電図に異常があるという結果である。精密検査・再検査が必要だという。そんなこと言われたのは初めてなので、ちょっと戸惑っている。
 で、よくよく考えてみたのだが、心臓に異常があるかもしれない人って、運動したらだめなのではないかと素人の私は思うのだがどうだろう。
 運動しなさいという助言を重く見たら、心臓はおそらく大したことはないだろうと思っているのかなと思う。心臓に異常のある人用の有酸素運動があるのだろうか。よく分からない。
 こういう矛盾したアドバイスをする理由を考えてみたのだが、おそらくコンピューターが異常値を見つけたら、整合性を考えずに一つ一つについてアドバイスするからではないかと思った。医師が一人ひとりに説明する文章を書くのだとしたら、こんな惑わすようなことにはならないと思うのだがどうであろうか。
 2月7日(木)
 写真と文集
 小学校の時の同窓会の幹事会が土曜日にあるのでその時に、残っている写真など資料があれば持ってきてほしいという依頼があった。家にあるアルバムを探してみたが、小学校時の写真は数枚であった。
 確か結婚するときに整理した。高校時代のものはかなり残っていたがそれ以前のものは相当数処分したようだ。いや、個人のアルバムではなく家族で一冊のアルバムだったから、その中から選んだので少ないのだろう。
 アルバム整理と同時に子どもの頃の文集なども捨てた。学校文集、教科書、学級文集。今残っていたらきっとおもしろく読めたかもしれないなと思う。さすがに自分が教師になってから自分が作った文集は残っている。37年間分。 
 1月30日(水)
映画「東京家族」
 山田洋次監督の「東京家族」を見てきた。
 両親、長男、長女、次男出てくる人物はみな善人である。それぞれがそれぞれの持ち場でまじめに現代を生きている。そして親を思い気遣っている。
 父親は元教師。現在フリーターをしている次男のことを心配しているが理解できずにいる。どうもそれは小さい頃からのようで、次男が語る父親とのエピソードの中に見え隠れする。次男も素直に父親には接しきれない。その間を母親が自然に埋めている。
 その両親が子ども達のくらしている東京へ出てくる。もちろん子ども達のくらしぶりを見るのが目的であろう。
 父親の方は、東京にいた同級生の葬儀にでられなかったのを長年気にしていて、お線香を上げたいと願っている。又息子が成功しているらしい友人との再会も楽しみのようである。しかし再会してみれば長年の友人は決して思い通りのくらしぶりではなく、自分の現実認識の甘さに気づかされる。
 母親の方は、思いがけない人との出会いで幸せな時を過ごす。その母親が急に長男宅で病に倒れ…。と、まあこういう筋書きである。
 凄い展開とか、ハラハラドキドキとかそういうものはなく、今こういうことはどこかでありそうだなと思う日常生活が描かれている。
 見終わって思った。この父親は幸せな人だなと。妻に先立たれても近所の人たちが親切で何とかくらしていきそうだなと予感させてくれるエンディングであった。子ども達の住む東京へは行かないと決心するこの父親の思いがひしひしと伝わる映画であった。
  
1月27日(日)
友人のFOLKライブ
 
 京都宝ヶ池に「ホンキー★トンク」というカントリーミュージックやフォークソングのライブを聴かせてくれるレストラン&バーがある。もう40年以上前からあると思うが、行ったことがなかった。
 私は高校1年生の頃から大学2回生ぐらいまで友人とFOLK SONGのグループを作っていた。当時P.P.M(ピーター、ポール&マリー」のハーモニーの美しさに惹かれ、男2人、女1人(後年2人)のグループで楽しんでいた。自校の学園祭で歌うことも他校の舞台に立つこともあった。しかし大学が違ったこともあって、自然消滅的にそのグループは解散した。
 私の相棒であった友人は大学に入っても「アメリカ民謡研究会」を旗揚げして活動を続けたが、私は剣道に打ち込む大学生活を送った。
 今は関東地方に住むその彼が「ホンキー★トンク」に出演するから来ないかというお誘いを受けた。かれこれ40年ぶりに会うことになる。
 先週20日(日)夜、彼のグループはP.P.Mの曲を45分間聞かせてくれた。未だに声は艶やかで健在であった。いい時間が過ごせた。
 今、おやじバンドが盛んだという話を聞いたことがある。昔取った杵柄でもう一度音楽活動がしたいと、精神的時間的な余裕ができた私たち世代のものが思うことがよく理解できるコンサートであった。
 思えば、ビートルズやP.P.Mの洗礼を受けた私は、自分で音楽が創れることに魅力を感じていた。自分を表現したり、メッセージを届けることが歌で簡単に出来ることが驚きであり喜びであった。それから40年。私の中で何が変わり、何が変わらずにあるのだろうかと自問自答してみる。 
 1月23日(月)
京都検定1級合格
 やっと合格しました。喜んでます。今日仕事から帰ってきたら合格通知が届いていました。
 昨年12月9日(日)に試験がありました。
 手応えとしたら合格でも不合格でもギリギリだろうなと思ってました。ですから多分不合格だろうと思うことにしました。
 自分で採点するとどうしても甘くなります。自分では正答したと思っていても間違っている場合が今までもありました。「夢窓疎石」を「無窓疎石」と書いたり「羅城門」を「羅生門」で合っていると思っていたこともありました。今回も「蚕ノ社」を「蚕の社」と書いたり、「京都国立博物館」を「国立京都博物館」と書いていましたので、この手の間違いをすると合格は覚束ないと覚悟していたのです。
 京都検定1級は、150点満点で120点(80%)とれば合格です。
 今回の京都検定は9回目。私は3回目で2,3級に合格して、第5回目から1級を受験してやっと5回目で合格したのです。
 これで一つ目標が達成しましたので次は何をしようかと思っています。
 1月5日(土)
継承
 昨日大阪日本橋の文楽劇場初春公演へ行ってきました。
 寿式三番叟では久しぶりに住大夫さん(88)がお元気に翁を語っておられました。ガイドブック(毎回発行される)に金剛流家元の金剛永謹さんの「能にして能にあらず 翁の今昔」というインタビュー記事がありました。能の中でも翁は神聖視されているそうで、特別に精進潔斎して舞台をつとめられることをその歴史と共に語っておられます。
 私がこのインタビュー記事の中で他にもおもしろいなと思ったことがありました。それは今年生誕650年を迎える世阿弥の「風姿花伝」の中の次の二つの言葉でした。
 「衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり」これは「みんなに愛されてこそ一座の繁栄がある」という意味のようです。
 「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす」こっちは、「家というのは血統や家柄ではない、器量や実力のある「知る者」に家を継がせよという意味のようです。歌舞伎、能・狂言、舞踊などの伝統芸能、そして華道、茶道などの伝統文化、陶芸、織物、染などの伝統工芸などの継承を目指す方々はきっとこういう重圧の中でお仕事をしておられるのだろうなと思いました。
 一昨日NHKの特集で第16代楽吉左右衛門さんの仕事ぶりが取り上げられていました。その映像と重ねながら世阿弥のことばを読んでおりました。
 もう一つ思い出したことがありました。それは「京都と闇社会〜古都を支配する隠微な黒幕たち〜」(宝島社・一ノ宮美成他著)という本の内容でした。この本は二部構成で一部は「暴力団と黒幕たちの饗宴」。第二部が「宗門と家元たちの饗宴」です。ここに出てくる人物や団体はTVなどのマスコミによく登場する(あるいはした)人たちばかりです。その人たちが、いかに時には絡み合いながら京都を舞台に数百、数十億単位の金を生みだす利権構造を作りだし、事件になったかが書かれています。一読してみてください。「へえ〜、あの人が!とかそんな人がいたのか」と思う人や団体が一つはあると思います。
 きっと世阿弥は宗家とか家元とか何代目とかという権威が、その文化や芸能、芸術を自壊させることを懸念していたのでしょうね、きっと。
  
2013
1月1日(火)
いじめで遊ぶ子どもたち
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 「いじめで遊ぶ子どもたち」(新日本出版・村山士郎著・1000円)が昨年末出版されました。ぜひ読んでほしいおすすめの本です。昨年マスコミで大きく報道された大津市のA中学校のいじめ自殺事件以後あらためて「いじめ」問題がクローズアップされています。大東文化大学教授である著者村山士郎さんがいじめ自殺問題に関わり発言されるようになってもう三十年近くになります。今回の大津の事件についても詳細かつ冷静に報道を分析しながら事件を追っておられます。
 もうだいぶ前から子どもの万引きは必要から行われるのではなく「あそび」であるということが指摘されてきました。貧しいから盗むのではないのです。それが「いじめ」についても「あそび」という感覚で行われているという指摘です。そしていじめの中にサディスティックな病理が潜んでいることを指摘しておられます。なぜ子どもが病理的ないじめをするのか、その分析とその解決への道筋を明らかにするための本です。
 私は昨年度後半のニュースで何年にもわたって家族や知人を殺し続けた女性一家の事件報道は聞きたくもないし見たくもない事件だなと思いました。その女性が拘置所で自殺したという報道にびっくりしましたが、この事件は子どものいじめ事件と似ているのではないかと思いました。
 病理的な心情や行動は子どもだけにあるのではなく、実は現代を生きる私たちにも潜んでいることを感じます。他人の人格を否定するために屈辱的なことをさせたり、欲望を満足させるために相手を隷属させて精神的に追いつめるなどのことは大人の方が実は巧妙に日常行っているように思います。
 いじめ問題を考えることは教育問題であると同時に私たちの社会のあり方を考える問題であると思います。
 そこで、この本の作者村山士郎氏を迎えて講演してもらう研究会を企画しました。
 第24回近畿作文の会大会です。2013年5月18日(土)10:00〜16:00
 場所は京都教育文化センター(京阪神宮丸太町下車東へ5分)
 参加費2000円(午前の村山氏の講演のみ参加は1000円)