かばのしっぽ日記2011・12

かばのしっぽはうんちをまき散らすための大切な働きをします。
まきふんは大切な威嚇の方法なのだそうです。 
でもおかしなやつです。
『オレは強いんだ』と言ってうんこまきちらすなんて。
何かユーモラスです。
自分にとっては大切な行動でも他人様から見たら滑稽なことって私もしてそうで
「かばのしっぽ」みたいな存在かもしれないなあオレってと、思う今日この頃であります。
2002年 2003前半 2004年 2006年 2009・10年 2013年
HPへ戻る 2003後半 2005年 2007・2008 2011・12年  
 12月30日(月)
これから

 総選挙があって政権交代があり、3年半前の政権与党が政権復帰した。また改憲を声高に主張する勢力が議席数を伸ばした。既得権益を守ろうとする官僚制度や労働組合を激しく攻撃することで「決められない政治」 から決断力と実行力をアピールすることが、流行りのようだ。外交では威勢よく武力行使も辞さないことを周辺国に誇示しようとしているようである。
 これが低成長で閉塞感のある日本国民に受けたのだと思う。雇用が不安定で正規雇用でない人たちが多くなっている。自営業者や中小零細企業の人たちは誰にも頼れないと実感している。
 その人たちの「イライラやむかつき」の矛先は、雇用が安定し、自分たちより賃金が高く労働条件が整っている官僚や労働組合のある公務員に向かった。そして攻撃を主導している政党に期待が集まった。支持団体の中に労働組合のある政党が敗北あるいは伸び悩んだのは、この「イライラやむかつき」の解決はこれらの政党には出来ないというキャンペーンが効果を発揮したからだと言えるだろう。
 TPP問題、沖縄問題はこれからも引き続き論議されていくことだろうが、アメリカとの同盟関係を重視することと沖縄問題やTPP参加問題との間に矛盾がある。社会保障制度がもうパンク寸前であることは誰の目にも明らかである。そこで消費税に頼らざるを得ないという論法が一番得意な政党が政権復帰したのだからこれは上げてくるだろう。参議院選挙後に。
 原発をなくし大きくエネルギー政策を転換することは遠のくだろう。政治家が安保問題と原子力政策を並行してサラリと論じるのを聞いていると、核兵器を保持したいという本音が透けて見える。「ヒロシマ・ナガサキ」と「フクシマ」の惨状を繋げて思考することが必要なのだろう。
 それにしても「責任ある政治」って何だろうと思う。原発を廃炉にする工程表が出来ていない、代替えエネルギーの目途が立っていない、六ヶ所村の核燃料再処理施設問題も解決できない、これらのことを理由に現状を認めた上で責任ある決断をするのが政治家の役割だと言う。しかし廃棄物処理が容易に出来ない原発、廃炉も計画できないような原発中心に日本のエネルギー政策を進めてきた責任はどうなるのだろう。せめて今までの政策は間違っていたから、再稼働は認めない、そしてあらたに作ったりはしない。急いで自然エネルギーに変換するような研究に予算を使うぐらいのことを言って責任をとってほしいと思うのだが。
 11月14日(木)
仮名手本忠臣蔵
 日曜日(11日)文楽11月公演を見てきました。今回は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」です。第1部2部を続けて見てきました。
 午前10時半開演で、午後9時終演でした。その間に25分の休憩が2回、5分の休憩が2回で合計1時間の休憩のみで、約9時間以上文楽を見ました。
 「忠臣蔵」は映画やTVで何度も見てきました。しかし文楽の忠臣蔵は見たことがありませんでした。もちろん歌舞伎も見たことがありませんので、「仮名手本忠臣蔵」は知らなかったのです。落語ではいくつかの落語で話題になります。「七段目」「蔵丁稚」「淀五郎」私が思いつくだけでもこれだけあります。
 何でも「仮名手本忠臣蔵」は十一段目まであるそうで、今回は十段目と十一段目の多くは省略されていました。これを演じたら10時間を越えますから省略されたのでしょう。
 いつもより大勢鑑賞されていましたし、客層も若い人が多いように思いました。 ハシモト大阪市長やマツイ大阪府知事など大阪維新の会が補助金カットして文楽協会に揺さぶりをかけていることが少なからず影響しているのではないでしょうか。今回11月公演で通しの「仮名手本忠臣蔵」をしようと文楽関係者が決意されたのも、意気地を見せようということなのでしょう。客が多いのもその心意気を感じてのことだろうと思いました。
 七段目「祇園一力茶屋の段」でアドリブが入りました。敵役斧九太夫と鷺坂伴内が「なぞかけ」を始めたのです。「大阪維新の会とかけて何と説く」に対して「来年の阪神タイガースととく」さて、その心は「新人に頼らざるを得ないでしょう」というものでした。そこで大拍手が起こりました。
 10月22日(月)
椎茸
 1年半前に椎茸の菌をクヌギの原木に埋め込む作業をする機会があった。ドリルで穴を空ける ところまでは終わっていて、菌を埋め込むだけだった。その木を2本家に持って帰った。
 世話は雨の当たる日陰に置いて、たまに水をかけてやればよいとのことで楽しみにしていたのだが、1年半何の変化もなくてもうだめだろうから捨てようかと思っていたら、この2週間ほど前に直径10cmほどの肉厚の椎茸が出た。本物?違う毒キノコ?と迷ったが、まさか菌を埋め込んだ物に違う物は出ないだろうと思って食べた。おいしかった。
 その後も続々と出てきて5本とれて、今小さいのが5本出ている。毎日大きくなっていくのが分かる。
 最近但馬から鳥取方面へ行ってきたのだが、若桜という道の駅で椎茸の原木を売っていた。これも出るかもしれないと思い買ってきた。その時もらった説明書によると椎茸は春と秋2回出るらしい。それが3年ほど続くという。夏から秋にかけて水をかけてやることが大事らしい。そういえば、この1年半に水をかけてやったのはほんの数回でたぶん水不足のために出なかったのだろう。今年は偶然条件がそろったのだろう。しばらく椎茸が楽しみだ。
9月30日(日)
家庭菜園 
 春から始めた20数坪の菜園を楽しんでいる。自宅内なので毎日すぐ行けるし日々の変化が楽しめる。
 今まで育てた野菜の中で「すごいなあ」と感心したのは「キュウリ」である。妻はどれだけ1本の苗からとれるかを記録していたのであるが、はじめに植えた2本からはそれぞれ250本ずつとれた。そのあと地ばえキュウリを育てたのだがこれもよくできて、一日に36本とれた日もあった。色々な方にお裾分けして食していただいた。万願寺や伏見甘長などのとうがらしはもうかれこれ3ヶ月以上楽しんでいる。
 難しかったのは、ニンジン。ほとんどとれなかった。ナスも思っているほどの収穫はなかった。賀茂ナスはできたが、皮が固くておいしくなかった。 
 大根もホウレンソウもジャガイモもそこそこの出来で楽しかった。
 今、サツマイモがすごい勢いで葉を伸ばしている。はびこっているというのが正確か。すごく期待して少し掘ってみたら、ほとんど出来て無くてがっかり。もうしばらくこのままにして様子を見ることにしたが、葉ばかり立派で、芋は出来ないかもしれない。
 秋植えの大根、菊菜、小松菜、白菜、ジャガイモ、タマネギを植えた。種の発芽率のよさに感心している。そして私宅程度の菜園では市販されている袋の中の種の数が多すぎる。プランターでの野菜作りも流行っているようだし、家庭農園や貸し農園で野菜作りを楽しむ人が多いのだから、種苗会社もそう言う人向けの少ない数の種をなぜ販売しないのだろうかと思う。やっぱりそれでは儲からないのだろうけど。
 9月6日(木)
あなたへ
 高倉健を見てきた。健さん、足が悪いのかな、どうも歩き方がぎこちなかった。私は「網走番外地シリーズ」の健さんに興味はなかった。「幸せの黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「鉄道屋」と健さんを見てきた。
 私の中の健さんのイメージは、滅茶苦茶腕っぷしが強くて、正義の味方で義理人情に厚く、優しい。不器用で口数が少なく女の人にもてるがストイック。まあ、男も惚れる男の中の男、男の憧れである。
 共演者(佐藤浩市、草剪剛、大滝秀治、ビートたけし、綾瀬はるか、岡村隆史ほか)たちの贅沢さはすごい。健さんと共演したいとみな思ったのだろうなと思った。 富山、京都、大阪、竹田城、下関、小倉、平戸とロケ地も魅力的である。
 これだけそろっていて、あんまり心に響かなかった。
 なぜだろう?たぶん健さん演じる刑務官に田中裕子演じる妻が残す二つの手紙が私には意味不明であった。妻との回想場面が幸せそうであればあるほど、あの手紙はないだろうと私は思ってしまった。最後に健さんがその解説を試みるような台詞を言うのだが、私には説得的ではなかった。種田山頭火の句がこの映画で何度か使われるのだが、これも?だった。宮沢賢治の作った曲を田中裕子が歌う。これはよかった。   
9月6日(木)
運動会練習 
 ほんまに暑い日が続く。
 毎日運動会の練習のために体育がある。体育館で花笠音頭を踊ったり、運動場で50m走をしたり。子ども達も大変だが教師も大変だ。
 1年生の50m走なんか何が大変かと思われるだろう。とにかく走る順番を覚えてくれない。並ぶ度に忘れている。人数が多ければ多いほど大変だ。
 花笠音頭は民舞の中では簡単だが、1年生にしたら難しいことだろう。1年生の大変なところは、自分が正確に踊れていないことを把握していないことである。どう思っているのか分からないが、無茶苦茶している。しかし全く何も気にしていない。まあ、1年生にしたら、花笠音頭を踊る目的も分からないことだろう。踊る楽しさが分かればしめたものなのだけれど。 
8月12日(日)
歯が抜けた 
 2年前の夏に梅干し入りのおにぎりを食べて「グキッ」っといった歯のことである。その時は、虫歯治療をしてもらって、何とか2年もっていた。
 一週間ほど前にグラグラしているなあと思った。さわって動かすと 痛くなった。でも旅行先でもあったのでしばらく様子を見ることにした。帰ってきても研究会が3日続いたので病院へ行くことは考えなかった。ものを噛むと痛いので右側では噛まないようにした。
 2日前に様子を見ようと鏡を見たら、何と少し腫れているなあと感じたところは膿んでいて自分でも気持ち悪い状態になっていた。これは放っておいたら大変なことになると思って、お医者さんの予約をとった。
 お医者さんはレントゲンで折れていることを確認して麻酔を打ち歯を抜かれた。この麻酔の注射がびっくりするほど痛くて背中が浮いた。
 さて、歯を抜いた後どうするのかなあと心配になった。お医者さんは2つの選択肢があるとおっしゃった。
@そのまま抜けたままの状態にしておく。
A前後の歯を削って歯をつける。
 Aの方法では前後の歯を傷つけるのが欠点であるとのこと。@の抜けた状態 で放っておいたら、前後の歯はガタつかないのかと確かめたら、多少はとのこと。歯茎に大きな穴が開いているので1週間は肉が盛り上がるのを待つことになった。ちょうどお盆で都合がよい。いよいよ入れ歯か…と思ったのだが、1本なくなった状態で日常生活を送ることになる。
 7月31日(火)
近況メダカ
 玄関にいるメダカの世話をしていたら、「メダカですか?」と私よりおそらく年配の方だろうと思われる女性が、話しかけてこられた。
 「おじさん(私のこと)、メダカの雄雌はどうやって見分けるの?」とおっしゃる。何でも家に以前は60匹以上メダカがいて、何世代か世代交代もしたのだそうだが、今は2匹になっているのだそうだ。「もうかれこれ4年生きている」のだそうだ。メダカの寿命は私の経験では2年ぐらいだと思う。「すごい長寿のメダカですね」と感心した。それで今いるメダカが雌雄いるのかどうかと思ってお尋ねになられたらしい。色々話をしてメダカをあげることにした。喜んで持って帰られた。しかし私より年配の方に「おじさん」と呼ばれるとは思わなかった。麦わら帽を被っていたせいにしておく。
 二三週間前にメダカの稚魚をあげた小学生に再会したら、メダカは元気に生きてると言っていた。
 ある小学校へ嫁いでいったメダカはどうも全滅したらしい。もう少し大きくなってからあげたらよかったかなと思う。
 今年孵ったメダカの中にもう卵を持っているのがいるので、越年したメダカの中に入れることにした。毎日卵が増えている。そしてどんどん稚魚が孵る。そして数週間に一匹ずつ越年した親メダカたちの中に死ぬものがいる。
 あるところで、「メダカほしい人います?」聞いたら、大勢挙手された。あげたいのだが、手渡す方法で困っている。家へ入れ物持って来てもらうのがいちばんいいのだが…。  
7月14日(土)
賀茂ナス 
 賀茂ナス料理といえば味噌田楽だというのでやってみたら、かたかった。皮もなかみもかたい。「もう一つやなあ」といいながら今度は漬け物にしてみたらこれもかたい。立派な大きいものが収穫できているのだが、かたいのが玉に瑕。それで炊いてみることにしたら何とかおいしくなった。でも賀茂ナスの形をそのままにして料理できる方がいいなあと思う。皮やなかみを柔らかく収穫する方法があるのかもしれない。   
6月27日(水)
植物園 
 三月ぶりぐらいで植物園へ行ってきた。あじさいやハナショウブはもうおしまいだろうな、今は何が美しいのかなあと思いながら。
 今植物園の宿根草園が改装中である。私はここが好きでいつもゆっくり時間をすごしてきた。早く改装が終わればいいのになあと思っていたのだが、もう少しで終わりそうだ。築山なども造られていて、蓮の鉢もたくさん運ばれていた。
 「ハイモ」という観葉植物があった。南米産のサトイモ科だそうだがなかなか美しい模様でびっくりした。「斑入り乙女」という名の椿の葉も美しかった。北入口付近にある松がいっぱい松ぼっくりを落としていて、根元は美しい模様を創っていた。
 南西入り口付近にある「泰山木」が芳香を発していた。(左写真)泰山木は北アメリカ原産のモクレンの仲間だそうだが、なかなか美しい状態で見られない。すぐ変色するのだが、これは美しかったし真上から見ることが出来た。
 久しぶりの植物園を楽しんできた。あじさい園にカモがいた。つがいでいたのだが水面に映るあじさいの中にいた。それがHPの写真である。   
6月22日(金)
原発再稼働? 
 ほんまにええのかな?再稼働してもええのかな?半永久的に原子力発電続ける気やで、これ。「原子力ムラ」ってなくなったと思ってたけど、まだ生きてるで。「私の責任で」って言うけど、事故起こったら、あんた責任なんてとれるわけないこと自分でもわかってるやろ。
 最近、フクシマから放出される放射線量のこと、ちょっともニュースにならへんけどどうなったん?フクシマやその近辺日本中の農産物や水産物の放射線量のことニュースにすること自体が「風評被害」を起こすというのでタブーになってるのちがうかな?もう大丈夫なんか、ほんまか?根拠ある心配と無責任な風評を選別するためにも、今現在の放射線量のデータ公表したらどうや。
 京大の小出センセイは60才以上のもんは、責任とって放射能に汚染されたもの食べるべきやっていうてはる。
 今までは、「安全神話」に欺されていたっていう言い訳も成り立ったかもしれんけど、2011・3・11以降は通じんやろ、その理屈。
 親兄弟にわが子失って、過去と未来を失って、夢や希望も失って、故郷を失って、帰りたいけど帰れへんそんな人いっぱいおるんやで。
 ほんまに再稼働するんか?それが政権交代の本質やったんか…。なんか情けないな。ちょっとはましになると思ってのになあ。 
 6月22日(金)
カラスという生き物
 カラスという鳥は賢い!けど何ともはや腹が立つ生き物だと思う。
 その@ メダカ編
 越冬したメダカは玄関の石臼にいてたくさん卵を産んでいるのだが、このメダカをカラスが狙う。しかしメダカの方もそう簡単に獲られない。悔しいからかどうか知らないが、カラスは自分が食べているものやくわえてきたものを水の中へ放り込んでいく。これが油だらけで実に汚い。本当に腹が立つ。何度水替えをしたことか。
 それで網をすることにした。網を石で押さえることにした。2,3日は効果があったが、今度は石を網の方へ落として、窪みをつくり、また汚らしいことをしていく。
 それで今度は網を針金で留めて、その上に板を渡して、その上に石と植木鉢を置くことにした。さすがにこれをひっくり返すパワーはないようである。やっと一段落した。
 そのA畑の作物編
 トマトがやっと色づき始めた。明日ぐらい一つめが採れそうだなと思っていたら、一番赤くなっていた2個がなくなっている。あれ?である。わざわざ人が畑に入ってトマト二個だけ盗っていくわけないし、カラスかなあと言っていた。明くる日、まだ青いのを食べさしのまま捨ててあった。それにしても上手に採っている。他のトマトを傷つけずにもぎり採っている。見事!
 さらに次の日。楽しみにしていた「賀茂ナス」が三分の一ほどついばんで捨ててあった。初めて実をつけた賀茂ナスであった。
 正直なところ、私はトマトは好きでない。だから妻ほど悔しくないが、賀茂ナスは相当悔しい。この苗は私が買ってきたものでその成長を楽しみにしてきた。やっと大きな実をつけたら、これである。
 きっとカラスのやつ(名前が分からないが、きっと私の家の辺りをテリトリーにしているやつに違いない)これからも同じような行いに及ぶに違いない。大体思うに初物を先に食べてしまうというその行いが仁義にもとる。こういうことをするから嫌われるのだと説教したくなるが、通じるかどうか?
 さて、どう対処しようかと思案中である。
 それにしても、よく観察しているなあと思う。賢い!しかし好きになれないやつである。 
 6月9日(土)
梅雨入り
 音を立てて雨が降っている。まとまった雨は久しぶりだ。畑の作物の世話をし出したらいつから雨が降っていないかが気になる。雨水タンクを二つ設置している。二つともかなり前に空になったままであった。
 きっと作物も雨が降ったら急速に大きくなるのではないかと楽しみにしている。ダイコン、きゅうり、ほうれん草はだいぶ前から収穫している。キヌサヤとソラマメはもう一段落したので抜いた。賀茂ナスがだいぶ大きくなってきている。
 一番最初に何本か木を植えた。柑橘系や桜などは芽を出した。しかし、柿だけは芽を出さなかったのだがやっと芽を出し始めた。生きていたのだなとうれしくなる。
 メダカはすごい勢いで数が増えている。しっかり数えていないが、100匹以上稚魚がいて、さらにまだこれから孵りそうである。そんな数飼えないなあと思いながら、さて、どうしようかと思案中である。家の前に「メダカほしい人あげます」と出そうかと思ったり。もう少し大きくなったら嫁入り先か、婿入り先を考えなければと思う。白メダカ・青メダカ・光メダカ・黒メダカたちである。 
5月12日(土)
見たことないキノコ
 
 畑に今まで見たことのないキノコが出てきたのはもう一月ほど前のことである。畑のあちこちに出没し始めた。色は褐色、土からポコリとでている。それがニューっと伸びると傘を開いて縁が黒ずむ。一日の内朝は元気だが、夕方になると萎れてしまう。畑全面から出る。最初は気持ちが悪くて、採って袋に入れて捨てていたのだが、あまりの数に呆れてきた。それで、図書館へ行って調べてみた。
 どうも畑で活躍しているキノコの名前はネナガノヒトヨダケのようだ。別名ウシグソヒトヨダケ。漢字で書けば牛糞一夜茸。要するに牛糞から出るキノコのようである。牛糞は確かに畑に入れた。
 私の読んだ本によると、まず「ササクレヒトヨダケ」の説明があった。このキノコは夏から秋のものらしい。それはこんな具合である。
「一晩かけて6〜15cmぐらいに成長し、長卵形の白いカサをつくる。カサにささくれたような鱗片があり、日の出前ころには縁が淡い黒味を帯び、カサが開くのをまって溶け始め、日が昇る頃には真っ黒の液体の中に胞子が入っている。ドイツにはカサがつぼむ頃を見計らって、つぼみだけとってきてソテーにして食べる。むこうでは取り合いになる人気と聞く」
 それに続いて、「牛糞一夜茸」のことが「こちらは、春から夏の気温が高いころに、草食動物のフンや藁の堆積から出る。このキノコのつぼみもドイツ人の好物のようだ」と書いてあった。
 私はドイツ人ではないのでにわかにソテーにして食べる気にはなれないが、ひとまず毒キノコではなかったようなので安心した。 
5月3日(木)
近況

 
 4月1日(日)「三重に円空さんを訪ねて」という中日新聞社主催のツアーに参加した。このツアーでは「円空と木喰 信者さん」と小島梯次さんに親切にしていただいた。うれしいことにお二方ともこのHPをご覧下さっていた。小島先生は伊吹山太平寺十一面観音像背面の私の読解の間違いを指摘してくださった。今日それを追加訂正した。
 この時のことをページにしようと思っていたのであるが、なかなか作れなかった。やっと今日作れた。まだその時に行った場所はあと2カ所ある。埼玉での円空展のことも書きたいし、昭和45年に京都新聞社主催の「新発見の円空展」のパンフが出てきたのでそのことも何とかページにしたいと思っている。いつごろできるかなと思っている。
 話は変わるが、4月14日(土)坪内稔典さんのお話を聞くことができた。おもしろかった。ことばのもつ力の多様性についてそして表現の可能性について考えさせられた。「かば好き」の人の間では私のHPは有名なのだとおっしゃり、びっくりした。もちろんお世辞なのだろうけど。このHPを作ったときから「かばの話」はあるのだが、反響はほとんどない。
 4月28日(土)大阪国立文楽劇場で公演を見てきた。「祇園祭礼信仰記」と「桂川連理柵」であった。
 「祇園祭礼信仰記」は金閣寺が舞台。三層ある金閣寺を見事に舞台装置をで上げ下げして表現するのだが、どうやっているのかと不思議だった。
 「桂川連理柵」は前に見た場と違い、やっと一続きの物語に繋がった。上方落語に「胴乱の幸助」があるが、この噺は「桂川連理柵」が下敷きになっていて、常識として「桂川連理柵」をみなが知っていることを前提にしている。
 女房お絹が丁稚長吉に因果を含める場所が六角堂頂法寺。長右衛門の店は、柳馬場押小路虎石町西詰。そして、お半と長右衛門が心中するのは、三条愛宕道。いずれも行ったことがある場所なのだがいかにもという舞台装置で感心した。人間国宝だと思ってみるからなのかどうか分からないが、蓑助のお半は愛嬌があって可愛かった。文雀のお絹も説得力があった。「帯屋の段」の嶋太夫、キリの住太夫もよかった。毎回堪能して帰ってくる。
 4月29日(日)初めて城南宮の「曲水の宴」を見てきた。大勢の人で写真を撮るどころではなく身動きできなくなってしまった。入場が始まったら、それを見るために人が動き、私はやっと人の渦の外に出られた。しばらく外にいたが、白拍子の踊りが始まった頃から見るのを諦めてお帰りになる人が出始めた。やっと何枚か写真を撮ることができた。いやはや雅の世界とは無縁の「曲水の宴」見物であった。
4/22(日)
野菜作り 
 3月はじめにジャガイモを植え付けたのだが、芽が出なくて掘り起こそうかと心配していた。ここ2週間ほどで芽が出そろった。急激に大きくなって葉を広げている。アンデスとキタアカリの2種類なのだが、葉脈の色が違うのが分かる。
 次に3月中旬にニンジンと大根の種を蒔いた。これもなかなか芽が出なくて心配したが、出だした。ダイコンは本葉が出てきたが、どうも色が薄く成長が悪いようなので油かすを追肥した。4月に入ってもう一度ダイコンの種まきをした。
 さらに3月下旬にサヤエンドウとソラマメの苗をそれぞれ10本ずつ植えた。ネットを張ったり、支柱を立てたりした。順調に大きくなってきている。ソラマメは、背丈がそれほど伸びていないのだが花を咲かせている。
 4月上旬にほうれん草の種まきをした。これもかわいい芽を出し始めた。
 そして4月15日にきゅうり2本、なすび2本、トマト2本、満願寺トウガラシ2本、伏見甘長トウガラシ2本、青トウガラシ1本を植えた。
 根が下へ伸びるものと横へのびるものの違いに応じて植え付け時に肥料の入れ方が違うらしい。他にも根を育てるのか、葉や茎を育てるのかによって肥料に違いがあることも分かった。牛糞とか鶏糞などの有機肥料はどの場合にも役立つようである。それに化学肥料を加えるようだ。そういえば中学生の時に「チッソ・リン酸・カリ」について習ったなあと思い出している。
 まだ実感としてよく分からないのは、腐葉土とかクンタンや米ぬかの役割だ。これらのものを入れたら「よい土」になるらしいので用意しているのだが、直接的な肥料でもなさそうだ。通気性や保湿性に優れた柔らかい土になるという理解でいいのだろうか。まあ、色々なことを試しながら野菜作りを楽しめたらと思う。
 1年前に、クヌギ二本に椎茸の菌を植え付けた。日陰に置いて時々水をかけているのだが、昨年何の変化もなかった。今年は椎茸が出るだろうか。 
3月28日(水)
メダカ2012 
 メダカを飼い始めて今年で3年目。愛知県安城市で青メダカを買ってきたのが最初。それから鉢を増やして、種類も増やして冬越しをすること二回。結局昨年秋に数えたら、白メダカ(光メダカを含む)が3匹。黒メダカが3匹。青メダカが7匹計13匹。いっしょにいたので、青メダカの中に光メダカもいるかもしれません。全部越冬しました。
 別の鉢で別種の白光メダカと楊貴妃という赤メダカも飼ったのですが、秋から冬の間にみな死んでしまいました。やはり何世代か今の環境で生き残っているのは環境に適応している強い個体なのだと思います。
 今年は何とか卵からかえったものを上手く育てたいと思います。孵化はするのですが、いつのまにかいなくなります。きっと食べられたりすることと、えさが大きすぎるのだと思います。今年は藻に卵がついたら早めに分離して、幼魚用のえさを与えようと思います。(そういうえさを売ってました)
 今は、13匹が同じ石臼にいるのですが、やはり色毎、種類毎に行動しているように見えます。日当たりのよい場所にいるせいか今もすごい藻が生えています。水を替えようかどうか迷っています。
 4月になったらもう一度楊貴妃と別種の光メダカ飼ってみようかと思っています。 
 3/23(金)
愛宕山
 比叡山より愛宕山に親しみを感じています。なぜ愛宕さんに親しみを感じるのかなあと昨日登りながら考えてみました。そして今までの自分と愛宕山のことを思い出してみました。
@私が初めて愛宕さんに登ったのは小学校の3年生の時。父親と2人で5月3日に登りました。「この子は強い子や。弱音はかんと登った」と誉めてもらいました。その時に、山は道を斜めに上ったり降りたりする方が楽だと言うことや、比叡山と愛宕山のけんかの話や愛宕山は火伏せの神だと言うことなどを教えてもらいました。
A中学生の時、毎日学校の屋上から愛宕山の見え具合を記録していました。伏見中学校の気象クラブに属していた私は気温や湿度や気圧の他に空気の汚れ具合を測るために0(全く見えない)〜5(色も形もはっきり見える)の6段階にわけて定点観測をしていました。私の中にくっきりと愛宕山の姿が記憶されることになりました。
B大学生の時友人に頼まれて、子ども達を引率して、首なし地蔵から愛宕山三角点を通り愛宕神社へ戻るコースを歩いたことがありました。確か4年生の子ども達だったのですが根性がありました。崖のような道を平気でどんどん登っていく子ども達でした。
C私の息子が産まれたとき、生後1年以内に赤ちゃんを連れて登ったらその子は一生火事に遭わないというので、息子を背負って、両親や私たち夫婦などで登りました。すると、登り初めてすぐ父親が「胸が苦しいのでやめる」と言い出しました。私は28才。父親は62才。それまで力仕事でも何でも率先してやったいた父親の弱音を初めて聞きびっくりしました。父親が亡くなる前、医者が「今までに心筋梗塞を2回やっているが、心当たりはないか」と聞きました。ひょっとするとこの時だったかもしれないと今思います。
D娘が産まれたときも登りました。背負子に載せて登りました。風邪気味だった私は気分が優れなかったこともあるのですが、それまでタバコを喫っていたのを、この日を境にやめました。愛宕山のおかげで禁煙したことになります。
Eたまたま正月に愛宕山を見て、よし登ろうと決めて2日に登ったことがあります。七合目で雪が積もっていました。私も妻も運動靴。他の方たちはシャーベットや氷状態の道のためにアイゼンを用意しての本格的な登山でした。ツルツル滑りながらようやく必死で登りました。愛宕山なめたらあかんとつくづく思わされたことでした。
F落語「愛宕山」に描かれている茶屋やかわらけ投げの舞台を探すために登ったことがあります。この時は結論としてかわらけ投げはおそらく神護寺境内だろうと思いました。
G月輪寺や空也の滝を見たくて、登ったことがありました。同じように清滝へ戻るのですが行きと帰りで道を変えました。月輪寺には六波羅蜜寺と同じ空也像がありました。空也の滝は確かにここは修験道の修行の場だなと思わせる施設がありました。表からは見えない愛宕山信仰を感じました。
H水尾から登りたいと思って登ったこともあります。ゆず風呂に入りたかったのですが行きに水尾の里を通ったので入れませんでした。
 
 最後に愛宕山に登ってから今年で7年ぐらい経っています。そして父親が登山をやめた年齢に私も達しました。私は無事登り切れるだろうか、ちょっと心配になりました。ゆっくりゆっくり今までのことを思い出しながら登りました。10人ぐらいの人に追いこされました。一人も追いこすことはありませんでした。往復4時間半の登山でした。
 今回登ったのは、もう一度落語「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」のことを調べるためでもありました。今回登って落語に関することが書いてある説明版があってびっくりしました。初めて知ったこともあり満足して降りてきました。
 「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕山へは月参り」とこれは落語にも出てくる古歌。愛宕神社の境内に五千回登った方の碑がありました。すごい方がおられるものです。 
3/20(火)
葛飾北斎展 
 だいぶ前から、京都文化博物館で北斎展が開催されている。ホノルル美術館蔵のコレクションである。ホノルル美術館の浮世絵コレクションはアメリカで三番目の規模。
 富嶽三十六景、諸国瀧廻りなどの名品が展示されていた。 とにかく大勢の人であった。老若男女みんなきっちり並んで牛の歩みのごとく見学している。私は1時間ぐらいで見られるかと思ってその後の予定を入れていた。しかし、とても無理だとわかり、人の後ろから一通り見て、近くであった用事を済ませてから、もう一度入館することにした。再入館したのは4時ぐらいだった。昼過ぎよりは人が少なくなっていたが、それでも多かった。
 展示期間内に展示内容が前半後半で完全に違うのでリピーターもおられた。「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」などはなかったが、「山下白雨」は見ることができた。 会場に展示してあったパネルを読んでいたら、アメリカのコレクターの方が、第二次大戦後占領軍としてきたことをきっかけに蒐集されたものらしい。
 ここから私が想像したのは、手放した人の中には戦後の貧しさを乗り切るために泣く泣く手放した人もいたかもしれないなということであった。海外に流失した日本の文化財のおかげで、日本理解が進むこともあるだろうし一概に海外に日本の文化財があることに意味がないとは思わない。
 私は安宅コレクション(今は大阪市立東洋陶磁美術館所蔵)のおかげで、中国や朝鮮の陶器が素晴らしいことに気づかせていただいた。が、なぜ中国や朝鮮の優品が日本にあるのか、そのことを当該の国の方はどう思われるのかには配慮が必要だなと思っている。
 大英博物館のコレクションを引き合いに出すまでもなく、その当時軍事的、政治的、経済的に優位に立っていた国が外国の富(文化財を含む)を集めることは歴史上繰り返されてきたことだ。外国の人が買うということは、それだけ普遍的価値があると言うことだから喜んだ方がいいという考えもあろうが、相対的に国力のない国のものが流失する。そしてそれを斡旋する人が出てくる。
 どうしてホノルルなのだろうと不思議だった。なぜどこか日本の美術館や博物館が自前で北斎展をしないのだろうと思った。できないのかな。それができるのなら、何もアメリカ第三のホノルルに頼ることはないのにと思った。これだけの人を集められるのに。
3/10(土)
ハイテクについていけるか 
 今日、新しい車が来た。ガソリンも使うが自家発電しながら走るというのが魅力で車種を決めた。電気自動車もいいが、まだ充電が不便そうだと思った。しかしまあ今頃になって購入するのがそもそも遅れている。今まで乗っていた車は同じメーカーのものだが、12年以上乗った。
 車を買うというのは私のようなものにはすごい買い物になるのだが、あんまり調べもせず、試乗ももせずに買った。
 乗り方を説明をしてもらったが、これはえらいことになったなあと正直思った。一番驚いたことは、カギと称するモノがあるのだが、所謂カギの形態をしていない。今までのカギからカギを無くしてリモコン部分だけが残っている。エンジンをかけるときにカギを差し込まない!?スイッチですべて操作するのである。ミッションも小さい。色々ボタンがある。ハンドルにオーディオ関係と空調関係のボタンが付いている。便利と言えば便利だが、慣れるまで戸惑うなと思った。
 さっそく試乗することにした。妻に「買い物に行こか?」と言ったら、「どうしようかなあ」と迷っている。明らかに私の運転を信用していない。まあ、私も不安だったから誘ったわけで文句は言えないけど。ガソリンスタンドへ行って、近くのスーパーで買い物をしてきた。まあ、その2カ所へ行けたら、今日のところは、「これぐらいにしといたろか」である。
ジャガイモ
 2/29(水)
 確かに春が近づいてきたなと思う。一雨ごとの暖かさである。
 年末年始に腐葉土と山土の畑を耕して鶏糞や牛糞を入れた。畑にジャガイモを植えようと種芋をずいぶん前から用意している。
 NHKの「野菜の時間」という日曜朝8時からの番組を見ていたら、土の酸性度を測定する計器があるらしいというのが分かったので、買いに行った。もちろん消石灰も買った。ジャガイモはph5〜6ぐらいがよいらしい。計ってみたら6.6ぐらいなので、もう少し消石灰を入れて土を耕し、3mぐらいの畝を4本作った。畝など作ったことがないので太いのや細いのができた。
 明日から3月。種芋に灰をまぶして明日植えることにする。 
レインマン 
2/25(土)
 NHKBSでアカデミー賞受賞作映画をやっている。「レインマン」は1980年代半ばの作品だそうだ。主演はダスティンホフマンとトムクルーズ。
 淀川長治さんではないが(と言っても分からない人が多いでしょうが)「いやあ、映画っていいですね」とつぶやいていた。
 二人は兄弟。しかし弟が3歳の時に別れたきり会っていなかった。弟は兄がいたことすら記憶に残っていない。父親が亡くなり財産を相続することになり、弟は全財産が自分にくると思っていた。しかし300万ドルのほとんどが養護施設にいる「ある人物」=兄に相続されることを知る。その兄は自閉症。納得のいかない弟は、兄を誘拐するように施設から連れ出し、人質に取るような形で裁判に訴えようとする。
 映画の大半は、兄弟二人の車での旅の様子を描く。兄は天才的な記憶力と計算能力を持っている。こだわりがあり、音に鋭敏であったり、日常の常道行動から外れることを嫌いパニックを起こす。正常な社会生活を営む上で支障があることは疑いないが、ピュアな人であることはよく描かれている。弟の方は、功利的で、現在事業が行き詰まっていることもあり打算的なものの考え方で、そういう行動をする。しかし兄とのつきあい方を見ていると必ずしも悪い人間のようには思えない。普通はこの兄を傷つけるような言動をしそうに思う。
 この二人がトンチンカンな旅を続ける中で分かり合っていく。いや、兄は分かったのかどうか定かでない。しかし弟の方は明らかに変化する。弟が「分かり合えた」と確信する台詞も用意されていた。
 なぜ「レインマン」という題名なのか、結末は…など観ていて映画の醍醐味を味わえた。様々に伏線が張ってあり、これは脚本がすばらしいのだと思った。   
2/13(月)
胃痛・頭痛 
 つい先日もある方が「70才台になったら話題は病気のこと。それを超えたら墓の話」とおっしゃっていた。「TPPの話とか原発の話などしたために意見が分かれて収拾つかなくなって今まで仲良かったのがけんか別れしまった」と言う例もあるそうだ。70には間があるが私も病気の話。
 木曜日すこし緊張する時間が終わってすぐ胃がしくしく痛くなり出した。あれ?こんなことで神経性胃痛を起こすほどかわいい神経はしていないはずだと思ったのだが、家へ帰って寝込んだ。時間が経つにつれて痛みがひどくなり、約3時間ぐらいたって(途中でやっと寝られた)食事がとれるほどに回復した。
 翌日金曜日にも緊張する時間があって、また同じ症状に見舞われた。遠くへ出かけていたので果たして家へ辿り着けるか心配になるほど痛みは激しくなった。胃ばかりか頭痛も伴った。おそらく顔色なかったのではなかろうか。
 最寄りの駅からタクシーに乗って帰った。4時半頃家へ倒れ込むように入って寝たが少しも痛みが緩和することなく呻き続けた。周期的な痛みが繰り返しきた。嘔吐と寒さと激痛で『死ぬ』かと思った。「痛い!痛い!」ばかり言うのも何なので、般若心経を唱えてみることにした。般若心経ではこの世は何事も空であって、無意識界であり無有恐怖だと唱えるのだが、現在苦しんでいるだけにほんまかなと思った。とこういう風に苦しいのに考えている自分はまだ余裕があるから死ぬこともなかろうなどと考えていた。3時間ぐらい経ってやっと寝られた。
 夜の9時に目が覚めたら家人が「『くも膜下出血』とか『脳梗塞』かもしれない」と言って救急病院へ連れて行ってくれた。幸いその心配はなかろうと言うことであった。
 土曜日は幸い用事もなくて一日音楽を聴いたり読書をしたりして過ごした。体調は少し頭の芯が痛いことと、胃の辺りが重かった。おかゆを食べることにした。夜になって風邪かなと思うような症状になり微熱が出ているように感じた。しかし胃痛と頭痛が起こることはなかった。
 日曜日、朝起きて動き出したら、又一昨日のような痛みが胃と頭に来た。これはもう一度寝るに限ると思ったので寝床に入り、市販の鎮痛剤を飲んだら、今度は30〜40分で治まった。テニスの約束をしていて人が足りないかもしれないので無理して出かけた。テニスしている最中走ると立ちくらみのような症状があったので全力で走るのは止めた。午後家で大人しくしていたら微熱が出だした。風邪のような感じであった。明日は年休とって胃の検査をしに病院へ行こうと決めた。
 そして、今日月曜日。いつものように起きて職場へ年休をとりますと電話して、金曜日救急で行った京都医療センターへ行った。8時に病院に着いた。大きな病院に慣れていないので何もかも戸惑う。どこへ行ったらいいのかが分からない。カードを入れる機械の前で迷っていたら、係の方が機械を操作されて、「総合内科」へ行くように指示された。
 2Fのその科近くへ行ったら、すぐにカードをBOXの中へ入れるように言われた。しかしどうもそのBOXは採血の順番をとるためのものだったようで、「7011番(私の受付番号)の方」と呼び出されて、隣の受付に出すように言われた。受付が開くのは8時半であった。診察は9時からだったようで、私は一番であった。
 診察室に入って先に書いたようなことをお話した。私は胃潰瘍もしくは胃ガンとか十二指腸に異常があるのではないかと心配していた。
 しかし医師の診断は「腸炎」だろうということであった。意外であった。嘔吐や下痢、微熱があり、頭痛を伴うのは腸なのだそうだ。痛みは胃から始まったので、すっかり胃の病気だと思っていた。胃なら頭痛は伴わないのだという。薬は出されなかった。腸炎はウィルス性だそうで、細菌で起こるものは抗生物質が効くがウィルス性のものは免疫力の回復を待つのだそうだ。急に痛くなったら困るので頓服をもらった。市販の鎮痛剤は胃を荒らすので止めるように言われた。一週間ほど様子を見て胃カメラ検査などを考えてはどうかと言うことで帰ってきた。
 大事でなくてよかったと胸をなで下ろしている。でも今年は人間ドッグで調べてもらった方がよさそうだ。
2/5(日)
鬼退治 
  節分は冬の一番寒い時期に行われるのだが「立春」前日だそうだ。春めく前に「邪気」を土の中に封じ込めるとか、とにかく人の目の前から見えないようにしてしまえというわけである。その邪気の象徴として鬼がやっつけられる。姿形のはっきりしているものを考え出してやっつける方がみんなに分かりやすいのだろう。何とも気の毒な役回りである。
 鬼がする悪いことはきっと人間にとって都合の悪いことすべてなのだろう。病気、地震、津波、火事、雷、台風、飢饉などなど自然災害も人災も命脅かされるすべてのことからお守り下さいという願いをするのにやっぱり「立春」が一番ふさわしそうだ。鬼が嫌いな豆とか柊とか鰯とか考え出したのもおもしろい。柊は葉にとげがある。鰯はどうかな、生臭いというけど焼きたては香ばしいのではないかな。炒った大豆が一番分からない。あんな豆をなぜ怖がるのか?ウィキペディアに邪気の「摩滅」につながると書いてあった。そうかしゃれ言葉遊びなのかと思った。
 去年は廬山寺へ行った。
 今年は去年みたいな大地震や津波という鬼が暴れないように願って地元伏見のあちこちの神社へ出かけてみることにしていた。時間をとられることがあって残念ながら2カ所しか行けなかったけど。
 いや地震や津波も大変な鬼だが、人間が作り出した原子力発電はもっと悪質な鬼のような気がする。よし、今年はこの鬼退治に行くのもいいなと思った。ちょうど京都市長選がある。どちらの候補者が鬼退治する気があるのかどうか、見極めたいものである。
2/5(日)
クロガネモチを見ながら 
 京都市伏見区に金札宮という神社がある。ここにクロガネモチという天然記念物に指定されている大木がある。この木がとても立派で天然記念物であることは知っていたのだが、実がなっている時に通りかかったことがなかった。
 節分の日に行ってみたらいやはや見事な大木に見事にたくさん赤い実がなっていた。こんなにたくさん実がなるのだなと感心した。それがHPの写真である。夕方だったこともあったのだろうけど全体を撮ると赤い実が目立たないので、その見事が伝えきれないのが残念だ。
 二つのことを思った。
 どうして冬に赤い実の植物は実をつけるのだろう。南天を筆頭に万両、千両などなど冬になると目につく。目につくだけのことなのかもしれない。
 もう一つは人間の目のすごさである。かなり遠いところからクロガネモチの実がすごいことに気がつくのにカメラはそのすごさを捉えきれない。腕の問題だけでもなさそうだ。高いところにあるので望遠で写すと、葉の汚れやバックのつまらなさなどが写り込んでしまう。見ているときには見えているのに気づかない。カメラの方が客観的に捉えているのだろうけど、人間の目の方が美しいものをより美しく見えるようにデフォルメしたり切り取ったり付け加えたりしているように思う。きっと思いこみがそうさせるのだろうけど。
 金札宮の節分のことは別に記すことにする。
1/28(土)
1年生の詩・おじいちゃんと孫 
 1年生の子どもの詩の話です。子ども達は「あのねちょう」という作文帳を持っていて、毎週金曜日になったら持って帰って書いてきます。何を書いてもいいのです。まだ、題をつける勉強をしていないので題はありません。この詩を使って題をつける勉強をしました。

         まお
せんせいあのね
水ようびに 学どうからかえるとき
りょうくんのおうちのまえでこけたよ
いたかったよ
くちびるからちがでたよ
はしって おうちにかえると
おじいちゃんが たっていて
かおが ちだらけやったから
「車にぶつかったんかー。」
といわれました
それで まおがおうちにはいったとき
おじいちゃんが 見にきて
さきに かおをふいてたから
「ああー よかった。」
って ゆわはった
 
 おじいちゃんが(お隣に住んでおられるそうです)心配しておられる様子、安心された様子がよく描写されています。書いたまおちゃんはおじいちゃんの様子を描写してやろうと意識せずに心に残ったおじいちゃんの姿を書き記しています。しかしそのされたことや話されたことを書いているときに、まおちゃんはおじいちゃんが自分のことをどう思いってくれているのかを感じ取っているからこそ書くのだと思います。書くことでおじいちゃんとの絆がさらに深まりそうに思います。
 この詩でまおちゃんは何が書きたかったの?(主題)と聞かれたら、本人はどう答えたらいいかたぶん分からないと思います。私が想像するにおそらく「帰りにこけて、血が出て大変だったことを書きたかった」のだろうと思います。しかし読む大人は「おじいちゃんと孫」のいい関係に心が動きます。そちらに値打ちを感じます。子どもの表現には、このように意識せずに書いていて思わぬ効果を発揮することがあるように思います。
 さて、この詩の題をみんなで考えました。「ちだらけのまお」となりました。 
1・25(水)
朝のニュース
 
 最近学校で「朝のニュース」を話すという実践が広がっている。日直が何か自分の身辺で起こった出来事の中から話すというのが多いように思う。それに対して聞いているものが質問をしていく。
 前回の学習指導要領で「話す聞く」が大切だと言い出してから急速に取り組みが広がったように思う。
 私が今入っている学級もやっている。1年生ははじめ一文の話だったのが二文、三文と増えてきている。話し終わったら、三人質問することになっていて、話し手はそれに答え、質問者はその答えを受けて感想を述べるという約束になっている。
 さて、ある日の朝のニュースの一場面である。(   )は私の無言のつっこみである。いずれも仮名。

田中



小山
田中
小山
山本
田中
山本
藤井

田中
先生
 
12月29日におじいちゃんが死にました。手紙を書いて棺桶に入れてあげました。(うわあ、何かえらい深刻な話を出したなあ、どうなるんやろ…。{実際教室の中は緊張感が走ったように思う})
何か質問はありますか。
どこの国で死んだんですか。(なんやねん、その質問は!どこの国ってどうやねん!)
大阪で死なはりました。
ぼくもおばあちゃんが死なはったとき、悲しかったです。(感想は共感している。いいぞ!)
おじいちゃんは、何才で天国に行かっはったんですか。(天国へ行くか、えらい!)
83才で死にました。
私も犬が死んで悲しかったです。(おじいちゃんと犬いっしょにするか!?)
交通事故か事故か、どうして死なはったんですか。(もう、わけわからん質問や。お手上げや)
病院で死にました。
病気でなくなったんやね。
冬休みの作文に書いていましたね。(えらい!先生はしっかり作文を読んでいた!) 
 私は作文を読んでいなかったのでえらいことになるかもしれないとハラハラしながらやりとりを聞いていました。今読み返してみるとええ子たちやなあと改めて思います。私は大笑いしながら子ども達の、時にはトンチンカンな、それでいて精一杯やさしさを発揮しているこのやりとりが好きです。そして担任の先生が素敵です。
2012・1・1(日)
今年 
 私はあと何年寿命があるのかな。深刻に考えているわけでも恐怖心があるわけでもないのだが、定年退職後どういう生活をするかこの2年間それほど考えずに非常勤講師をしてきた。まだ働けるなら働こうと思ってきた。今もそう思っているのだが、一体この後自分はどのように生きたいのか考えたくなった。
 12月28日待望の花壇と菜園のスペースができた。年末の3日間木を植えたり花壇と菜園のしきりを作ったり、土をひっくり返したりした。わずか3日で腰は痛み、冬の太陽で日焼けしている。長靴はいて手袋しながら麦わら帽被って自分の食べるものを作る生活を楽しめればいいなと思う。
 晴耕雨読…できればそういう生活がしたいと思ってきた。
 しかし…。晴耕はこれで何とかなりそうなのだが、雨読の方はどうだろう。これから学習とか研究し続ける体制ができていない。今までは自分の仕事と学習や研究が一体のものであった。わがまま勝手なものではなく地に足の着いたことをしようと思ったらどういう体制がよいか、今年は雨読を続けるためのプランを作ろうと思う。
 昨年近親者が亡くなり今年の正月は喪に服している。年賀状を出せなかった。 今年も元気にやっていこうと思う。やっと「般若心経」が空で言えるようになった。1日は写経から始めることにする。
12月11日(日)
京都検定1級 
 今日京都検定の試験日であった。私は今年で4回目の1級テストに挑戦してきた。結果、今年もだめであった。結果は1月25日以降郵送されてくるのであるが手応えからして絶望的である。
 正直なところ1級合格にこんな苦労するとは思っていなかった。自分が歴史好きで京都好きだという思い込みがあってのことなのだが、そんなことと関係なく結果は出る。
 私が京都検定に参加し始めたのは第3回で、この時は2,3級を受けた。無事合格して1級を受ける資格ができた。でも次の年はどうも気分が乗らず第5回目から受験している。第5回は113点(150点満点中120点で合格)で不合格。7点不足していた。
 次年度第6回は何と15点不足で、105点で不合格。そして昨年第7回は、5点不足115点で不合格。
 今まで3回はにわか勉強体制で2〜3週間で受験勉強していたが、 今回は一ヶ月前から準備をしたし、主催者(京都商工会議所)が行う講座にも参加した。この講座ではこんな問題が今年はでるのではないかという示唆もあった。
 にもかかわらず、今年は昨年を下回る成績しかでないであろう。
 今年こそと言う思いもあって講座を1日かけて受けた。1万円だったかな、お金もかかった。その効果であるが、ほとんどなかった。今年は浅井長政の三姉妹(特に養源院)、法然800年忌、親鸞750年忌、その他伏見稲荷大社御遷座1300年、宇治茶祭りなどが予想問題として語られたが、法然だけは当たっていた。でもそのぐらいの予想は私もできそうだ。
 これは人に頼っていてはいけない。自分でこんな問題が出そうだと予想を立てるべきであった。今年は、六地蔵巡り、二条城、法然、時代祭、京観世五軒家について出題された。京観世五軒家については昨年も出たが、五軒の苗字まで覚えていなかった。これは全滅に近い。まさか苗字をすべて答える問題が出るとは思わなかった。そんなに大事なことか!?と抗議したくなるが、知らなかったのだから私の実力がないのだ。
 何回か受験している内に気がついたことがある。
@分かっているのだが漢字が思い出せない。
 今日は歎異抄の「たん」が出てこなかった。何度書いても「難」か「嘆」しか出てこない。帰り道で出てきたがが後の祭り。
A間違って覚えているものがある。
 羅城門と羅生門の違いはないと思っていた。羅城門は実際にあった平安京の南門。羅生門は芥川龍之介の小説であったり、黒沢の映画の題であった。
B普段よく目にしているのにど忘れする。
 去年は武者小路千家を始めた宗守が出てこなかった。今年は安藤忠雄の忠雄が出てこなくてもう少しでアウトであった。
 それで来年も受験してやろうと今思っている。少なくとも漢字を書いて忘れないようにする効果はありそうだ。何より悔しい。
12月3日(土)
2つの研究会 
 今日2つの研究会がある。
 一つめは京都市つづり方の会12月例会で@実践報告は宮田稔さんの「子どもを信じる」。そしてA学習会は西條昭男さんの『作文と教育』10月号〈扉の詩〉について」である。
 二つめは大阪教育大学天王寺で行われる研究会で、大阪国語教育実践の会主催のものである。テーマは『ことばと伝統文化』、基調提案を「教師も随筆を書き出そう」という題で田中俊弥教授がされる。そして俳句や古典の実践報告もされるようだ。記念講演は子規研究の第一人者坪内稔典京都教育大名誉教授で「正岡子規の言語生活〜ことばと生きる・ことばを生きる」である。
 今年は新しい指導要領の本格実施に伴い、新教科書で行われているのだが、日本の古典が入るというのが注目を集めた。「日本」をどのように子どもたちに教えるのかは、古くて新しい議論なのだが、いよいよ国語教科書に様々な形で入ってきた。一昨年あたりから国語教育の各研究団体はそれぞれ取り上げてきたし、その先駆けの実践も報告されてきた。この研究会でもそれを取り上げたということである。
 迷っている。昨日までは大阪へ行こうと決めていた。しかし研究会の案内をよく見たら、京都市つづり方の会の12月例会の司会は私であった。これは困った。坪内稔典さんの話は一度是非聞きたいと思ってきた。愛媛の砥部動物園のかばさんを紹介するところで書いたのだが、大変興味ある方なのである。仕方ない。今日は会えないが、次の機会を楽しみにすることにして、今日は司会をすることにする。 
 11月26日(土)
埼玉の円空展明日最終日
 掲示板で「守口の人」さんが埼玉県立歴史と民俗博物館で開催中の特別展「円空こころを刻む」のことを教えてくださいました。
 ここ数年開催されている円空展で関東地方の円空さんが出展されることは稀で、栃木県日光市清瀧寺の不動三尊や同じく日光の閻魔像以外は拝見させていただく機会はありませんでした。私は埼玉や栃木のどこへ行けば見せていただけるのかと思っていました。お寺が所蔵されていることが推察されるものとか、個人蔵とかがあって、果たしてその連絡先も分かりませんし、やみくもに埼玉や日光へ行っても仕方ないなあと半ば諦めていました。
 埼玉や栃木の円空さんを一度拝見したいと思っていたわけは、写真でしか見たことのないいくつかの円空さんが大変魅力的で完成度が高いと思っていたからです。秋葉大権現と両脇待像とか春日部市の観音院の諸像、薬王院の薬師三尊及び十二神將像などは一度はお会いしたいものだと思っていました。
 さいたま市にあるこの博物館が保管されている円空仏とさいたま市立博物館が保管されている円空仏、及びさいたま薬王院の諸像でほぼ埼玉県内の主要な円空さんは拝見できるのだなと今回の展覧会を見て分かりました。ただし、この博物館が常設展で円空さんを常時公開しているかといえばそうではなくて、たまに美術品扱いで2,3の円空さんを出されるだけだそうですから、今回の円空展はめったにないチャンスだということになります。
 朝7時頃京都を出発して3時間半で大宮に到着し、4時間ほど特別展と常設展を見せていただき夜7時半頃帰ってきました。久しぶりに円空さんにどっぷり浸かってきました。またHPで今回の展覧会の感想など詳しく書きたくなりました。
 それにしてもなぜ円空さんは埼玉へ行ったのでしょうか。明日27日が最終日です。
 11月24日(木)
CDを買う
 小野リサさんとビギンのCDが欲しくて京都三条新京極のJ屋というショップに寄った。この店に足を運んだのは久しぶりでこの前来たのはもう何年前だろう。
 さて、小野リサさんはどの分類にあるのかが分からない。J−POPのコーナーにはなかった。しかしビギンはここにあった。まさか歌謡曲?やっぱりなかった。
 どうも1階ではなさそうなので2階へ行った。ここには懐かしいビートルズやPPMなどが並び、カントリーやヘビーなロックなどかなりマニアックなものが並んでいた。その2階にボサノバもあり視聴できるコーナーに小野リサさんの「ジャポン」があった。聴いてみた。「黄昏のビギン」から始まるそのCD、買うことにした。
 3階へ行ったらここはジャズとクラシックそして邦楽などのCDがあった。
 そしてつらつら考えてみた。いつ頃からCDを買わなくなったのかなあと。いや、落語のCDは買っている。これはデパートで買っていた。音楽のCDを買わなくなったのはレンタルCDが流行りだした頃からだ。それで気づいたのであるが、その頃から京都市伏見区の私の住んでいる辺りからCDを売る店が消えた。たまにCDを売っているのを見るのはスーパーのワゴン販売ぐらいになった。
 最近はPCや携帯などを使ってダウンロードできるらしく私の子どもたちはそうしているようだ。でも未だにネットショップに二の足を踏んでしまう私はそれを使えないでいる。
 J屋というこのお店、京都へ出たときには(伏見の人間は京都市内の繁華街へ行くことをこう言う)かならず寄っていたのは高校生の時であった。その時は楽器を見に来ていた。ギターを見たりドラムを見たりしていた。お金がなかったから買えなかったが「マーチン」に憧れていた。確か当時5万円〜10万円いやもっと高かったかな。YAMAHAも買えなかったけど、毎回毎回友だちと見るために寄った。
 そんなこんなを思い出しながらCD2枚買った。今小野リサさんの「オリビアを聴きながら」を聴いている。ハスキーでセクシーないい声だ。  
 11月8日(火)
文楽錦秋公演

「鬼一法眼三略記」
 6日(日)大阪日本橋文楽劇場で「鬼一法眼三略巻」を見てきました。義経と弁慶が出てくる話で、舞台は鞍馬山、書写山、清盛館、菊畑(鬼一法眼屋敷)、五条大橋です。鞍馬山の大天狗に剣術を教えてもらう牛若丸、書写山で学問を習う弁慶、二人が出合う五条大橋と、登場人物も場所もなじみがあります。
 文楽の筋立てにはよく世を忍ぶ仮の姿を持った人物が登場します。実は○○であったというののオンパレードで現代劇を見慣れている者には、筋立てにリアリティがないと感じさせられることもあります。「鬼一法眼三略巻」は話の展開のテンポもよく楽しめました。 舞台が美しいこと、衣装が凝っていることはいつものことですが、五条大橋の最後でパッと舞台が明るくなって、牛若、弁慶、鬼次郎、鬼三太が見得を切るところがとりわけはっとさせられました。和生、勘十郎、文司、玉也が光っていました。
 菊畑の段の咲太夫の語りにも感心しました。1時間あまりの大熱演でした。燕三の三味線も聞き応えがありました。
 住太夫や源太夫、蓑助や文雀などの人間国宝の方々は第二部に出演されていて、「鬼一法眼三略記」には出ておられませんでしたが、勘十郎、玉女、和生、清十郎などのそれに嗣ぐ方々の熱演で堪能して帰ってきました。11月20日までです。  
10月22日(土)
ピアノの売ってちょうだい 
 引っ越した。まだ家の外周はできていないのだが内部が完成したので1週間前から住んでいる。インターネットや電話の設置とか思わず時間がかかるものもある。
 ピアノを売ることにした。商売柄必要だろうということもあって27年前に買った。子ども二人にピアノを習わせてやりたいとも思った。私は中学生の時からギターを弾いていたが、鍵盤楽器ができたら自分の音楽の楽しみ方も違っただろうと思ってきた。
 子どもは二人とも高校生まで教えてもらってピアノと接した。熱心に弾いていたわけでもないが続けた。まあ十分役割は果たしたピアノである。最近はだれもさわらなくなっていた。
 それで「ピアノ売ってちょうだい」というTVコマーシャルをしている会社にメールした。そしたら返事が来て「あなたの家のピアノを作ったメーカー(フローラ)はすでになくなっていて、ただ(0円)でなら引き取る」という返事であった。家に置いておけばおくほど処分にお金がかかるという話であった。「こちらで運搬の費用は負担させていただき、有効活用させてもらいます」とのことであった。
 まあ、どうしても必要なピアノでもないし、役割も果たしたしそれでもいいいかということで今日引き取りにくることになった。でもこういうパターンの買い取りもあるのだなと思った。どこかでだれかが私たちが使ったピアノを弾いてくださったらまた値打ちが出るというものだと思っている。  
10月21日(金)
秋の七草 
 春の七草に比べると秋の七草はあまり言わないように思う。食するか、鑑賞するかの違いがあるのだろうか。 秋の七草は万葉集の山上憶良の和歌がもとらしい。
・秋の野に 咲きたる花を 指折り かきかき数ふれば 七種(ななくさ)の花
・萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花
 秋の七草の覚え方は下のようにするらしい。
・萩(ハギ)・桔梗(キキョウ)・葛(クズ)・藤袴(フジバカマ)・女郎花(オミナエシ)・尾花(オバナ/ススキのこと)・撫子(ナデシコ)秋の七草と覚えたらいいらしい。
 憶良のいう朝顔は桔梗だろうといういうことになっているそうな。
 植物園へいったらみなあった。藤袴にはアサギマダラがいた。何と警戒心がないのだろうと思うくらい逃げない。カメラを近づけても平気だ。人間をそんな信用してはいけませんよ、と言いたくなる。
 オミナエシという花は知っていたが、オトコエシという似た種類のものがあることも初めて知った。
 植物園がおもしろいなんて若い頃は思ったことがなかった。年齢がそうさせるのだろうか。 
9月8日(木)
『原子力教育』? 
 初めて聞く言葉であった。
 私のお知り合いの得丸浩一さん(現全教教文局長)が「季刊人権」(兵庫人権研究所)に書かれた文章ではじめて知った。
 『原子力教育』とは、国や企業の意向に沿った原子力行政を進めるためには子どものうちから原子力発電の有用性について理解させることが必要だということで進められてきた教育と言い換えることができる。関電等がTVなどで行ってきたキャンペーンを学校に持ち込むことを目的にしたものとも言える。
 こういうことをするには、教育関係者の中に賛同し推進する人間が要る。その役割の一端を向山洋一氏がしていたということを知った。なるほどなあ権力もいいところに目を付けるものだと思った。
 私は「3・11FUKUSIMA」以後それまで原発を推進してきた人々がどのような言葉で今までの自分自身の役割を総括されて、これからの役割を全うされるのか注目しているのだが、未だ聞こえてきていないように思う。
 どういう団体と人々がどういう「原子力教育」を推進しようとしてきたのか、読んでみられたらどうかと思い、得丸さんの文章を了解を得てUPすることにした。そして『原子力教育』に限らず教育はその時々の流れにそう形で進められようとする。教師はそれを峻別する力量が必要なのだが、そういうことは期待されていない。「ねらわれる学校と教育ー『原子力教育』はどのように進められたかー」(得丸浩一)
9月4日(日)
太陽光発電 
 2月16日から自宅を改築している。工務店に太陽光発電にしてはどうかと提案された。私の家は南向きで家の前に大きな建物がないので太陽光発電に適しているというのである。一体費用はどのくらいかかっるのか、それでどの程度の発電ができて買電が可能なのかなどを見積もってもらった。結論だけ言うと自宅で使う電気は十分発電できて、設置費用は10年から20年で償却できるということであった。いやもっとかかるという意見もあった。家人の意見も賛否あったが、これからの時代自然エネルギーを活用して生きていく方がよいのではないかという結論になり、パネルを設置してもらうことにした。買電価格も1kw48円の申請が間に合った。

 そうこうしているうちに3・11の大震災と津波そして原発事故が起こった。
 『事故を起こせば原子力発電は怖い』とは思ってきた。しかし原発がこれほど安全とほど遠い怖ろしい代物だとは正直思っていなかった。二酸化炭素を出さないクリーンな発電システムだということも「なるほど」と思っていた。(実はさらに怖ろしい放射性物質を出すことはどこかに忘れて)
 何だかんだと言っても「快適」な電気浪費生活を享受してきたことは確かなわけで、そのうちの3割が原子力だと言われれば、依存してきたのである。「安くて、二酸化酸素を出さない(地球に優しい)、安定的に電力を供給できる原子力発電」という『神話』に見事に絡めとられていたことになる。それが3・11でどれもウソであったことが悲劇的に証明されてしまった。
 太陽光発電にすると決めてよかったなと思った。

 四季折々で太陽の角度が変わるので屋根は二段式になった。6月28日その上に33枚のパネルが設置された。そして8月8日午後から発電し始めた。
 どのくらい発電するのかである。8月は気温が高すぎて発電量は若干落ちるらしい。1日中晴天だったら、今までの最高は41kw。昨日のような台風で雨天の日は3kwであった。平均1日28kw発電している。

 私の家の前の道路にはガス管が通っていない。都市ガスではなくプロパンガスを使ってきた。ここに30年近く住んでいるが別段不便なことはなかった。しかしこれを機会にオール電化にすることにした。
8月10日(水)
カバンづくり 
 1年前ミシンを買った。妻は自分で織った布を使って服やショールをそれで作っている。私は使い方が分からないので、使えないできた。このHPを立ち上げた頃、 巾着づくりに凝っていてよくミシンを使ったのだが最近はとんとご無沙汰であった。
 夏休み前、教室にあるお道具箱など持って帰るために、女の子が少し大きい目のカバンを持ってきた。ナップザックにもなるし手提げにもなるものであった。「ちょっと見せて」と言って見せてもらった。アニメキャラがプリントされたビニル製のそれは、機能的で使い勝手が良さそうであった。作り方も私のてこに合う。布のナップザックがあればいいなと思っていたので、これは夏休みの宿題だなと思った。
 8月7日(日)にやっと研究会や大会から自由になって私の夏休みになった。さっそくミシンの使い方を教えてもらった。前のより使い方も簡単だし機能も増えている。
 8日(月)、9日(火)と2日かけて2つカバンを作った。
 まず1つ目のナップザックはキルトを使った。紺色を基調にしたパッチワーク風のもので亀甲や波菊の花の白い模様が入っている。純和風の柄だ、それだけでは地味で変化がないので、赤地にサンリオのキティちゃん他のキャラが原色で一杯入ったキルトを約3分の1使った。テニスラケットも入るし、望遠レンズも入れることができそうである。
 次は、肩から提げる今使っているカバン(藍染めで布製)を真似てもう少し大きいものを作ってみることにした。表地は四国徳島で買ってきた紺色のグラデーション模様のつづれ織りの布を使った。裏地は厚めの茶色や渋い緑色の横縞が地層のようにランダムに入っている。裏地にポケットも作った。口もひもで締まるようになっている。
 作れたので妻に「これは、女の人でも使えそうやな」と言ったら、「私はいらんで」と即座に返事した。どうも危険を察知したようである。  
7月27日(水)
蓮の寺と待賢門院

 
 やっぱり法金剛院(別名『蓮の寺』JR花園駅前)へ行くことにした。8時前に着いた。7時から開いている。人もまばらでゆっくり見て回ることができた。時期の問題なのかどうかわからないが、今年は花が少ないように感じた。鉢植えのものも池も。
 蓮の花のどういう状態を美しいと感じるかは人によって違うだろう。私は今日朝開いたというイメージのを捜すのだが、なかなかそういうおあつらえ向きのものはない。うわあ、いい感じと思って近寄っていったら絵を描いておられる方がいて、私は近づけなかった。しばらく他のものを見回って戻ったら、さっきと微妙に違う。何かなあと思って見ていて気づいたのだが、一番下の花弁がダランと下がりかけている。わずかな時間の間に変化したようだ。
 9時を過ぎると人が多くなってきた。
 カメラを替えてもう一回同じように見て回った。
 私はここの宝物館にある阿弥陀如来座像の前で座るのが好きだ。定朝様式の丈六像である。金箔は相当剥がれているが風格がある。阿弥陀さんの光背に菩薩が彫られている。笙や篳篥、琴や笛を奏でておられる。これがどうも頭でっかちでバランスが悪く笑えてくる。
 その左に厨子に入った十一面観音像がある。これは願文などが残っているものですらりと背の高い十一面観音ではなく座像で何となくごてごて着飾った仏さまである。お地蔵さんや阿弥陀立像もおられる。何れも重文。
 団体のバスツアー客が来られたようで、大勢の方が宝物館に入ってこられた。阿弥陀さんとの極楽の話は中断せざるを得なかった。ここは撮影禁止。
 もう一つこの寺の魅力として特別名勝『青女の滝』というのがある。この滝は鳥羽天皇の中宮待賢門院が寺を復興したときの遺構で平安時代の「池泉廻遊式浄土庭園」の滝である。この待賢門院璋子という方は崇徳上皇や後白河上皇の母だそうで、この方の生涯はなかなか波瀾万丈で、平安時代末の宮廷のありようを如実に表現しているようだ。大河ドラマなどで待賢門院を取り上げたら相当センセーショナルなことになるだろうと思う。白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇や西行なども登場するし息子たちや平家や源氏も出てくるからドラマになると思う。でも皇室を侮辱しているとか何とか言われかねないからまだ誰も手をつけないのであろう。 
7月15日(木)
宵々々山

 
 昨晩から屏風祭が始まり祇園祭もいよいよ佳境に入ってきた。地味だが自宅にあるご自慢の屏風を公開される屏風祭はなかなか風情があって私は好きだ。
 人出がどっとある四条通や室町通りから少し離れた場所で、格子越しに飾ってあったり、少し中へ入れてもらって屏風を拝見したり、中には総絞りの和服を見せてもらったり。花が活けてあって座敷が華やいである。それにしても京都の町中に実に多くの町屋が残されていて、それぞれ昔と今が混在していることにあらためて感心した。
 宵山、宵々山、その前の晩は宵々々山と言うのかどうかよくわからないが相当な人出であった。

  
7月3日(日)
半夏生 

 
 半夏生…今年初めて知った言葉である。
 何でも昔は夏至から11日目で72候の中の一つで暦日らしい。今は7月2日がその日にあたるらしく、上方では蛸を食するとか…そう言えば私の行くスーパーで昨日「今日は蛸を食べる日だ」と言いながら蛸を売っていた。そんなことは初めて聞いた。この日には天から毒気が降るとかで、井戸に蓋をしたりその日までに農作業を終わらせなければならなかったとか。またこの日は野菜を食さないとか。熊野や志摩地方ではハンゲという妖怪が徘徊すると言い、農作業することを戒めたらしい。
 半夏生というドクダミの仲間の植物がちょうど今咲いている。これも今年新聞で初めて知った。何でも京都建仁寺塔頭両足院が美しいとあった。今韓国ドラマ「トンイ」を見ているがそこでも毒草として「半夏生」が出てきた。
 今、天から放射能が降ってきており、その野菜の安全性が問題になっている時に半夏生が話題になるのは偶然でもないように思う。
 今日一日遅れで両足院で半夏生を見てきた。左がその花である。葉が上三枚ほど白く変色している。それが花びらのように見える。なかなかこのように見事に白くはならないようで寺の案内役の方は「何しろお金がかかっている」と寺の努力を説明しておられた。半夏生はその花の色の変化から「半化粧」でもあるらしく、両足院は「半夏生の寺」と言われているらしい。
 両足院は通年で開けておられるわけではないようで、夏冬2回の公開らしい。この寺には長谷川等伯の襖や伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」などもあるようだ。しかしこれは冬に公開されるらしく今日は見せてもらえなかった。その代わり朝鮮通信使関連の書画がたくさん飾られていた。建仁寺は「学問面」と言われるように五山文学の中心であり、朝鮮通信使が来たときには対馬へ出向いてその接待役を幕府から仰せつかったようである。朝鮮通信使は朝鮮国の最高級の文化人であり、その応対もまた当時の日本の最高の文化人でなければ勤まらなかったらしい。両足院に多く書画が残されているということはこの塔頭が大きな役割を果たした証なのだろう。
 この寺の本尊が阿弥陀如来で、作庭は西本願寺と関係のある藪内流5代紹智だそうで、江戸時代の阿弥陀来迎図の軸が掛かっている部屋があった。何でまた臨済宗建仁寺派の寺に阿弥陀さんなのだろう?「南無阿弥陀仏」が聞こえてきそうなお寺である。こういうお寺もあるのだなと思って帰ってきた。
6月20日(月)
めだか2011 
 めだかを飼い始めて今年で3年目になる。
 冬を越したメダカは結局白めだか3匹、青めだか3匹、黒めだか2匹、緋めだか2匹、そして白光りメダカ1匹であった。
 去年たえず水替えをしていた。ちょっと水が緑色になりかけたら替えていた。しかしそれが原因で数が減るのではないかと思い、昨年秋口から水替えを止めた。飼う場所を変えるのも止めた。機嫌良く生きているのならそのままにしておいたらいいと思うことにした。おかげさまでその後数が減ることはなく無事11匹が越冬した。
 今、11匹は大谷焼きのメダカ鉢にいる。水はかなり濃い緑色になっている。そこにしばらく入れていたホテイアオイが凄く増えるので他の鉢に入れ替えたらどうも産卵していたようで、小さいかわいいのが数匹泳ぎ始めた。ということは、大谷焼のメダカ鉢にあるホテイアオイには相当数の卵が付いていると思われるので別の鉢に入れようと思う。
 去年はこの時期にたくさん孵って喜びすぎてほとんど全滅した。理由はよく分からないが水替えや鉢替えが理由のように思うので、今年は放任作戦でいこうと思う。さて、うまく孵って成長してくれるといいのだが…。
5月14日(土)
健康保険証 
 私は今非常勤講師をしている。4月6日入学式から仕事が始まったのだが、未だに健康保険証が発行されず困っている。昨年も同じ仕事をしていたのだが、4月末には発行されていた。今年は例年よりさらに2週間ずれ込んでいる。一体なぜなのかよく分からない。事務職の方から「ご迷惑をおかけしています。手続きにもう少し時間がかかります」というメモがあったのが5月6日。その後音沙汰なく今日になっている。
 私は3月13日に任用手続きに行っており、その時に現勤務校が決まっていた。その時から4月2日までに必要書類はすべて提出した。
 私たちは夏・冬・春などの長期の休みは任用が切れる。だからその期間は独自に国民健康保険に加入するか継続申請をするかになる。だから4月だけでなく9月と1月も1ヶ月ぐらい経って健康保険証が発行されることになる。ということは、1年間のうち3ヶ月は健康保険証発行手続きのために保険証がない状態で過ごす。
 病院でまだ発行されていないということを説明して10割負担となる。そのあとまた保険証を持って行って手続きしなければならない。保険証がないと医者へ行くのを我慢することにもなる。実に不便である。旅行に行くのも不安である。
 春休み、国民健康保険に切りかえるので区役所へ手続きに行った。実に簡単でその場で保険証を発行してくれた。お金は後で振り込めばよいとのことであった。
 なぜこうなるのだろう。どこでも健康保険証交付に一ヶ月半を要するのだろうか。
5月6日(土)
埒が明く・明かない 

 物事の進展がないこと、問題の解決の目途が立たないことを「埒が明かない」と言います。
 5月5日こどもの日に上賀茂神社へ競馬会神事へ行ってきました。1時からと書いてあるものを見ましたので、12時半頃到着しました。すぐに500円の席料を払って前から2番目に着席しました。
 やっと1時になって一の鳥居に馬や乗り手が現れました。いよいよだなと思っていたら、それが行事の始まりでした。結局競馬が始まったのは2時過ぎでした。神事ですから仕方ありませんが、ゆっくりしたものです。
 私の座っていた席の前が放送席でした。女性がアナウンス係で、その横に年配の学者風の方が解説をしておられました。その方は競馬会神事そのものの説明や陰陽師のことなどお話しになっていました。びっくりしたのは、その横で英語解説をしている神職姿の方でした。日本語解説の後流暢な英語の解説が入りました。さすが国際都市京都と言いたいところですが、外国人の姿はついぞ見ませんでした。原発事故の影響でしょうか。こちらは埒が明きそうにありません。
 その解説の中で「埒が明かない」の語源を解説しておられました。「馬場の柵」のことを「埒」というのだそうです。この競馬会のために「埒」が作られるのですが、もうすぐある「葵祭」のために競馬会が終わればすぐに「埒」を撤去する必要があります。その「埒」がなかなか明けられないと、祭に支障があることから「埒が明かない」というのだという解説でした。
 解説の中で意外に思ったのは「菖蒲とヨモギ」についての話でした。「もともと1月と5月ともうひとつ何月だったかは縁起のよくない月だそうで、邪気を払うために臭いの強い菖蒲やヨモギを腰に付けるのだそうです。そう言えば馬も乗り手もみな菖蒲とヨモギを身につけていました。
 おもしろかったのは、6レースの真ん中、3レース目が終わったところで、賀茂の神さんが帰ってしまったことでした。まあ我慢ができないというか、わがまま勝手で空気が読めないというか、おもしろい神さんだなと笑いました。なぜそういう演出なのかわかりませんが短気な雷の神さまです。
 右方(うかた)と左方(さかた)に別れて勝負する団体戦の要素もある競馬会でした。結局右方が3勝1敗2引き分けで勝利しました。右方が勝利すると「五穀豊穣」なのでそうで、こちらは「埒が明く」結果になったようでした。 
  
4月27日(水)
今年のツバキ 
 「今年のボタンはよいボタン…」というわらべ歌があった。
 4月24日(日)に植物園へ行ってきた。
 ツバキは漢字で「椿」と書くように私は早春の花だと思ってきた。何よりも先に咲き始め、桜の花が咲く頃にはもう終わっている花だと思っていて、正直なところ今頃の時季に椿が咲いていようとは思っていなかった。
 ところがツバキ園があんなカラフルに咲き誇っているのを見たのは初めてだというくらい見事であった。やや時季的には盛りを過ぎたものが多く、散っているものも多数あったが、今を盛りに大輪を咲かせているものも多かった。HPの写真は「袖隠」という名だそうで、何とも上品なピンクであった。
 春先に咲く日光・月光、有楽、曙などは終わっていたが、黒椿や黒昆倫、黒侘助など黒い椿、伏見唐津、不知火、乙女などが最高に美しかった。暖かくなった時季に咲く椿はどうも大振りなようだ。今まで桜が過ぎたら、春の花はおしまいだと思っていたが、どうもそうでもなかったようで、認識を新たにした。
 そう言えば私の家の前を通る方が「今年のツバキはよう咲いている」とおっしゃっていた。「今年のツバキはよいツバキ」だったようだ。
 ついでに水芭蕉を初めて見た。「夏が来れば思い出す。遙かな尾瀬、遠い空。水芭蕉の花が咲いて…」という歌の印象が強烈で一度尾瀬へ行って見たいものだと思っていた。きっと初夏なのだろうと思ってきたのだが、京都府立植物園では4月20日頃に見頃であったようだ。思っていたより大きな花であった。
 ついでに、先に蓮如の第21子と前の日記に書いたが、私の間違いで枚方のお寺に書かれていたのは第27子であった。
4月23日(土)
京街道を歩く
 
 お知り合いの方が退職して東海道53次を歩くということを実行された。休みの日に新幹線などを活用しての旅である。おもしろそうだなと私も興味がある。
 一昨年9月に枚方宿へ行った。その時に「歩いてみよう!東海道57次イラストマップ(大坂〜大津ルート)」(枚方観光協会発行)という小冊子を買ってきたのだが、それが最近出てきた。ようし大阪から京都まで歩くぞという気になって歩いてみた記録である。
 大阪高麗橋から大津札の辻まで宿場町が守口宿、枚方宿、淀宿、伏見宿と4つある。
 4月5日(火)10:30高麗橋(京阪北浜駅)出発。天満橋の八軒家の説明や大阪城の石垣遺跡などを見たり読んだりしながら京橋口まで出てきた。赤レンガの建物があって近づいたら大阪砲兵工廠であった。前から京阪電車に乗っていて気になっていたのだがやっとわかった。立派なものだが、何とも気の毒なくらい痛んでいて、このあとこの建物はどういう運命になるのだろうと思った。どうみても大切にされているようには見えない。大阪城の堀端の桜が美しい。
 京阪京橋に着いたら12時だった。新京橋商店街が昔の京街道らしい。この道は大坂から京都へ向かうときは京街道(京みち)で、京都から大阪へ向かうときは大阪街道(大阪みち)と呼ばれたようだ。
 森小路とか千林などの商店街もこの道が通っている。守口では秀吉が諸大名に築かせた「文禄堤」の名残があった。やっと「文禄堤」のイメージが出来た。鳥飼大橋からの堤道は単調で行けども行けども進まないので疲れた。
 とまあこんな調子で歩いていたら、結局守口宿は越えたが枚方宿の手前茨田堤辺りで5時近くになり、結局京阪光善寺という駅から帰ることにした。しかしどうもルートを取り違えたようで、京阪の駅がなかなか見つからず困った。足に堪えた。夕方6時前まで歩き続けた。
 4月10日(日)枚方公園駅10:45出発。5日は一体どこまで歩いたのかが分からず、枚方から引き返すことにした。枚方には淀川沿いに高層マンション群が林立していた。用水路沿いが散策路になっている。それを相当歩いてやっと前回の堤道の場所が見つかった。それが12時。河川敷で少年野球やら大人の軟式野球やらをしばらく見ていた。
 堤道から光善寺という寺のある集落へ入った。その後枚方宿であった。
 さてここで問題。京街道に一番その足跡を残している歴史上の人物は誰?私には意外であったが、それは、蓮如であった。
 大阪城はもともと石山本願寺跡だし、守口や枚方には創建の寺とか腰掛け石などがある。枚方は寺内町だったようだ。伏見にも蓮如ゆかりの寺がある。山科には山科本願寺跡や蓮如の廟所がある。
 枚方宿は一昨年9月に歩いていたので今回は「五六市」を楽しみながら歩いた。それにしても枚方市は広いなあと思った。御殿山、牧野、樟葉みな枚方市である。行けども行けども枚方市であった。
 京阪沿線で育ったものは枚方と言えば「ひらかたパーク」で郷愁をそそられる。ジェットコースターに唯一乗れた場所であり菊人形が行われる場所であった。通称「ヒラパー」と名を変えて菊人形をやめた頃がピンチだったように思うが、最近はブラックマヨネーズの「ヒラパー兄さん投票」や「世界一の…」などTVCMがおもしろい。
 樟葉に砲台場跡があった。この辺りから淀そして伏見まで鳥羽伏見の戦いの遺跡が続く。大阪府から京都府に入り橋本を超えて八幡に着いたらもう6時。今日はここまで。今日も疲れた。昔の人はもっと朝早く歩き始めたであろうからもっと歩いたのだろうなあと思う。
 4月17日(日)八幡(8時30分出発)〜大津追分(4時)まで歩く。今日は大津まで歩くつもりだったので朝早く起きた。今日歩く道は、歩いたり車やバイクで走ったことのある道が大半なのでおおよその見当はつく。
 八幡の御幸橋は木津川と宇治川に架かっている。木津川に架かる京阪の鉄橋見ていたら、八幡の水泳場の川下側に鉄橋が見えたことを思い出した。小学生の時にここで泳いだ。泳ぎに行くと言えば、八幡と木津川(これは今の近鉄昔の奈良電の夏だけの特別駅)であった。
 御幸橋を越えたら美豆の集落へ向かう。昨年度勤めていた小学校が見えてきた。ウグイスが鳴いているので見上げたら電線にとまっている。ウグイスと言うからうぐいす色しているのかと思っていたらそうではなくて、茶色だと知ったのは最近である。メジロとウグイスを間違っていた。しかしなかなか鳴いていても姿が見えない。植物園でも山でも鳴き声はするが姿が見えない。やっと見られたなあと思った。この美豆に涼森神社があり、その辺りに室町時代後期城があったらしい。しかし城主が不明だとか。そういう城もあるのだなあと思う。
 これは少し前から思っていたことであるが、山間の少し寂しい広い場所に出るとかなり大きなモダンな建物に出くわす。あれは?と思っていると特別養護老人ホームである。今回の京街道沿いにもいくつかあった。川沿いであったり、田んぼの中だったり。堤防がしっかり造られていなかった江戸時代には遊水池だった場所が埋め立てられて、今は工場や住宅地になり、浄水場になっていた。そして今は特養が建っている。これからもドンドン増えるのだろうなと思う。
 淀の町に入った。淀は城下町である。淀川の淀であり、淀君の淀であり競馬場の淀である。伏見区であるが、旧伏見からはかなりの距離がある。今の淀城跡は淀君の住んだ淀城ではなく、稲葉氏(春日局の嫁ぎ先)の居城だったらしい。昔の地図を見た。水路の中の水城のようなイメージである。
 ここに「唐人雁木」という朝鮮通信使の上陸跡があるが、これも今では川のないところでイメージが湧かない。淀小橋跡も同じである。
 京街道沿いに納所を通って行くと鳥羽伏見の戦い激戦地の一つ千両松(戊辰の役の碑がある)へ出た。ここで負けた幕府軍は淀城へ逃げ込もうとしたが、淀城は開門せず、見捨てられた幕府軍はさらに大阪目指して敗走する。まさかあの稲葉氏が裏切るとは思いもしなかったことであろう。千両松は今は競馬場の駐車場しかない。そして横大路の清掃工場ができるまでは、京都市の生ゴミなどが野積みされていた場所に続く。この場所はすぐ横を走る京阪電車に乗っているとその臭いがした場所であった。中学校の時理科の先生が、この場所には30cm以上のネズミがいると話していた。私はかなり長くそれを疑わずにいた。いてもおかしくないような場所であった。
 ここから宇治川の堤防を中書島へ向かう。伏見港公園を右に見て三栖の西高瀬川沿いを北上する。油掛通りを東へ風呂屋町から毛利橋通りそして両替町通りへ出て15丁目から京町通りへ入った。伏見の中はどこをどう通ってもよかったのではないかと思う。私は両替町に住んでいたのでそこが小冊子にルートとして案内してあったので「へえ〜」と思ったが、どうも京町通りの方がメインのような気がしてならない。京町通りはまっすぐ京都市内に通じているからである。
 そして墨染から京都教育大学南門前を通り、西福寺前を左折して「大津街道」を行った。この辺りのことは「伏見街道を行く」「大津街道を行く」「伏見の道しるべ」に書いているので興味ある方はどうぞ。
 名神高速道路沿いに大津街道を歩く。ここは大岩街道という別称もある。この道は可哀想なくらい荒れている。名神高速道の下の地道はおそらくどこもそうだあろうが、騒音などもあって人は住みにくい。工場や土砂や産廃の処分場があったりする。観光農園もある。途中から北側を歩いたがビニルに空き缶その他ゴミが散乱している。
 勧修寺に出た。ここからさらに東へ大宅の一里塚から北に向かい大塚、音羽を通り追分を目指す。この道は奈良街道とも言う。六地蔵へ出て宇治から大和へ向かうのである。
 音羽(山科浄水場付近)に縄文時代からの遺跡がある場所があった。大塚から追分までに同じ道しるべが3つあった。いずれも左伏見みち、右京みちという追分にあるものと同じである。昔からのものなのか模造されたのか分からないが、大きな立派なものであった。こういう道しるべがあると旧街道だったんだなと思わせてくれる。
 追分についたら4時過ぎであった。浜大津札の辻の道路原標まで歩けないこともなかったが、交通の便も考えて、山科まで東海道53次の方の道を歩いて帰ることにした。この日は朝8時半には歩き出していたので相当な距離が歩けた。
 高麗橋から追分まで所要時間合計は約22時間30分。そんなに急いで歩いたわけではない。あちこち見ながら歩いた。しかしこのペースで歩いたとしたら大阪から大津まで丸一日24時間かかることになる。江戸時代までの人は京都大阪間をどのくらいで歩いたのだろうかと思った。一日で歩くのは相当きつい。枚方辺りで一泊したかもしれない。
 大阪には淀川沿いにたくさん浄水場があったことも印象に残った。立派な蔵のある建物も相当数残っている。その蔵や建物も風水害に耐えられるように周りから地盛りして石垣の上に造られていた。伏見に入ると川から離れるので少なくなるが、淀までの旧家と思われる淀川沿いの家はみなそういう構えがしてあるものであった。
 枚方のお寺で蓮如の第21子と書いてあって、「へえ〜、蓮如って21人も子どもがいたのか」とびっくりした。一体何人子どもがいたのだろう?江戸時代の将軍でもっと多くの室と子どもがいた人もいたらしいが、僧籍にありながら21人はなかなかのものだと感心をした。蓮如は相当精力的な生き方をしたのだなと思い、蓮如を調べたらおもしろいかもしれないと思った。
 鳥羽伏見の戦いについても調べてみたくなった。
 「道しるべ」に改めて心惹かれた。京橋のものは元の場所から移動していた。枚方の宗左の辻の道しるべがいい。ここは枚方宿の遊女が「送りましょうか、送られましょか、せめて宗左の辻までも」と送ってきた場所だという。この文句、「たそがれの御堂筋」という歌で「せめて難波の駅までも」と変えて使われていた。橋本にも伏見中書島や撞木町にも昔遊女がいた。昔の道を歩くといろいろ見えてくる。
 やっぱり昔の道を色々思いながら歩くのは楽しいかもしれない。東海道や中山道は相当覚悟を決めて歩く必要があるが、京都から奈良へ向かう大和路、大阪へ向かう道、丹波へ向かう道、大津へ向かう道などを歩くというのは楽しいかもしれないと思う3日間であった。     
 3月29日(火)
親鸞展
 今、京都で私の興味のある2つの展覧会が開催されている。一つは京都市立美術館の「親鸞展」もう一つは京都国立博物館の「法然展」である。
 25日(金)親鸞展に行ってきた。(3月17日〜5月29日)
 親鸞という方は宗祖として他の方とかなり異質だと私は思っている。「我こそは仏教の正しい継承者である」という信念はきっとお持ちだったと思うのだが、それよりも自分がいかに凡夫であるかということを自覚しておられたのではないかと思う。煩悩から逃れられないこととどう向き合うかを真剣にお考えになった。
 主著である「教行信証」は一生肌身離さず持ち推敲を重ねておられて、それが欄外や字間に溢れていることは知っていたが、「観無量寿経註」や「阿弥陀経註」にも凄い量の書き込みがあった。親鸞の生きた時代、学問をするとはこのようなことであったのかと心が動いた。
 信徒の方がバスで展覧会に団体でお見えになっているようである。ドーッと人が増えて、ドーッと人が少なくなるという不思議な感じの会場である。いつもの通り本を買ってきた。これを読んでからもう一度出かけようかと思っている。
 法然展も近々出かけようと思う。   
3月24日(木)
京都御苑 
 久しぶりに京都御苑へ自転車に乗って行ってきた。
 春が始まっていた。梅はもう咲き終わっていたが、八重で満開状態のものがあった。桃林は2〜3分咲き。御苑の桜の中でも有名な旧近衛邸の枝垂れの桜の中にはもう咲き始めているものがあった。4〜5日のうちにきっと様子が変わるだろうなと思った。今日一番楽しみにして行ったのは、白木蓮なのだが、これは桃林の北側にある。この白木蓮はすごい。すでにつぼみから花がほころびかけていてきっとこれはこの土日が見頃になりそうに思った。今日出かけたのも、自宅近くの白木蓮がほころびかけていたからである。
 私の勤務している学校の体育館前の「緋寒桜」が満開である。私はてっきり「彼岸桜」だと思っていたので、見事にお彼岸に咲くのだなと感心したが、全くの見当違いであった。「緋寒桜」で思い出したが、きっと府立植物園では今満開だろうなと思う。HPトップに去年撮った緋寒桜をUPしてみる。 
 3月19日(土)
今できること
 Yahooの震災に関するニュースに対する書き込みを見た。首相批判、政府批判、東京電力批判、そしてマスコミ批判で溢れている。風評被害で迷惑を被っているいわき市の市長発言に対する書き込みであった。
 私はただただおろおろと心配しているだけで、首相や政府や東京電力やマスコミがどんな間違いをしているのか批判するだけの力がない。
 福島原発事故に対しても、一体誰が一番正確でベストな対応策が出せるのだろうと思っている。だれが首相でも何の落ち度もないような対応はできないと思っている。今は当事者の方々の努力を信じるしかないと思う。爆発や放射能の恐怖と戦いながら作業されている自衛隊や消防署の方々、東京電力の方々に頭が下がる。
 被災各地で使命感に燃えて本当に多くの方々が努力されている。日本人も日本国も捨てたものではない。被災地でない日本各地でもそして海外でも多くの人が心配し、みんなが注視するだけでいい加減なことができようがないと思っている。
 その上で今私たち被災しなかったものができることは、義援金を自分の納得できる金額送ることしかないのではないかと思う。どうも各地で集められた義援金は日本赤十字に集中するようであるから、直接日本赤十字へ送ればいいのではないかと思う。物を送るよりお金が一番だと思う。
 新聞に僧侶の方が、阪神淡路大震災の時にボランティアに行った体験から、今東北へ行かない方がよいと話しておられた。今は専門家の方々にご活躍いただいて、ある程度交通が整備されたり食糧事情に見通しがついてから現地に行こうと思う人は行く方がよいとあった。
 復興は長期戦になりそうである。これから先いっぱいすべきことが見えてくると思う。自分ができることを時々に考えるとして、今はとにかく義援金を集めたり送ったりすることに集中すべきではないだろうか。
 節電する、無用な買いだめをしない、つまらない風評を立てないことは当然である。混乱に乗じてぼろもうけ画策するなどは恥ずべき事である。その程度の常識や倫理観を共有しているのが日本国であると私は思うのだが。 
 3月16日(水)
チェーンメール
 私が中高校生だった頃「不幸の手紙」というのが流行ってけしからんということが常識になった。しかしメールを使って今も「チェーンメール」で似たようなことがあると聞いていた。私は「不幸の手紙」のメール版なのだなと思っていた。
 しかし、今度の東北関東大震災で善意を装ったものがあるのだなと考えさせられた。
 まず、妻のところに知人からメールが来た。「関西電力に勤めている知人からの依頼です。今回の震災で電力不足が予想されるので、関西電力から東北、関東方面へ電力へ送るので節電に協力してほしい」という趣旨のものであった。妻はまじめに返事を出していた。さすがに他の人にはそのメールを広げはしなかった。妻の場合メールになれていないことが幸いしたとも言える。その話を聞いて、私は少し「おかしいなメールだな。もしそうならTVや新聞で節電を呼びかけたらいいのになあ」と思ったが、節電そのものは大事なことだなとも思った。
 妻は、娘と息子が帰ってきたのでその話をした。「そのメールなら私にもきた」「オレにもきた」と言った。そして「それがチェーンメールだ」と異口同音に言った。「関東と関西では電力を融通できないからそんなはずはないし、関電に勤めている人が個人的なそんなメールを出すはずがない」と言うのである。
 私のところにはそんなメールはだれからも来なかった。「お父さん。友だちいいひんからちがうか」と言われた。それにしても家族4人で3人にまで同じメールが来ていることに驚いた。相当な広がりを持った迷惑メールだったのだ。こんな風に善意を装った愉快犯的なメールを使った遊びが行われるのだなと認識を新にした。こういうメールが行き交うことで必要なメールが送れなくなる可能性だってあったのである。
 14日(月)京都市教育委員会は各校で緊急朝会を実施するように言ったようだった。もちろん何を言うかの指示もしたと思うのだが、私の学校の校長は震災津波の概略を説明したあと次のような話をした。
 私たちができることをしよう。(具体的には節電を訴えた)
 私たちがしてはいけないことは3つある。
1,無関心ではいけない。
2,震災津波を笑いの種にしてはいけない。
3,事実でない、根拠のないうわさ、デマを流してはならない。
という話をした後、お亡くなりになっか方々に黙祷を捧げた。私はこの3つのしてはいけないことは大事だなと思った。 
 3月12日(土)
東日本大地震
 私は職員室にいました。急に車に酔っているような不思議な感覚になりました。だれかが、「地震違いますか」とおっしゃって、「ほんまや、地震や」となりました。かなり長い時間回るような感じの揺れでした。すぐにTVがつけられて、東北が震源地だったと分かりました。東北から離れている京都でも相当な揺れでしたから
東北では相当な被害が出るだろうと思いました。
 時間が経つにつれて、どんどん深刻な被害状況がTVで報じられています。
 地震そのものの被害だけでなく津波のもの凄さに言葉がありません。津波は大きな波が襲うのだろうと単純に思っていた私は、急速に陸地を侵略していく海水の様子をショックを受けながら見ています。福島第一原発の爆発や放射能漏れも心配です。
 まだ全容が見えませんが「えらいこっちゃなあ…」と思いながら、TVを見ています。
3月11日(金)
体重をコントロールする
 
 1月末に体重が72.5kgを超えた。久しぶりに会った人は必ず「小宮山さん、太ったん違う?」と言う。かかりつけのお医者さんへ行って体重を量ったら「過去最高ですね」と言われる。1年生の子どもたちは、私のお腹を触って「お腹出てる」と正直に言う。親戚に不幸があって喪服を着ようとしたら相当窮屈である。これはいけないと冬用のズボンを確かめたら、軒並み入らなくなっている。
 私は身長169cmである。理想体重は60〜65kgぐらいと思われる。
 結婚した頃は55kgであった。30台に60kgを越え、40になる直前に、61kgになっていた。その頃ひどい腰痛になった。腰痛を治すために水泳をしたら、面白いほど体重も減った。簡単に5kg減った。この経験から私は体重を減らすなんて簡単だと思った。しかし昨年水泳をしたのだが全く効果なかった。きっと泳ぐのが上手になってそれほどのエネルギーを使わなくなったためだと思われる。
 50台には65kgになり60才になって70kgは越えないがスレスレのところを推移していた。だから退職してこの1年間で3kg増えたことになる。
 これではいけないと2月の当初から体重をコントロールできるように取組を始めることにした。結果1ヶ月半で体重は約5kg減り67.4kgになった。
 何が効果あったのかであるが、大きく3つのことであろうと思われる。
@食事量を減らす
・夕食 今までの1/2〜2/3にする。ご飯は茶碗1杯に。おかずも少なめに
・おやつ 夜TVを見たり仕事をしながら食べていたものを止める。あるいは少量にする。私はお酒も好きだが、饅頭などの餡菓子、おかきなどの餅菓子、ピーナツチョコや飴など大好きで、一度に一袋食べてしまうこともあった。太らないわけがないとよく分かっていたのであるが…。
A運動量を増やす…無理をしないことをモットーに
・走る&歩く…長い距離を走るのは大嫌いなのだが、足がだるくなったり息が苦しくなったら歩くことにしている。しんどいことはしないようにして走っている。例えば100m走ったら100m歩くなどする。近くの北堀公園周回コースは1周1150mで、これを4周したあと明治天皇陵周辺を散歩している。約1時間半12000歩ぐらいの運動である。これを1週間に3回ぐらい。
・水泳…伏見港公園プールで実質50分間泳いだり歩いたり。これも息が切れるような泳ぎ方はしないようにしている。12.5mクロールや平泳ぎをして12.5m歩く。
・テニス…これは楽しみながらできる。
・写真撮影&Walk…御所か京都府立植物園へ出かける。『鳥』を探しながら歩くと楽しいので今は鳥を撮っている。1日1万歩必ず歩くようにする。
B体重計で絶えず体重を量る
 朝、夕方、夜最低3回体重チェックするようにしている。1日の変化がよく分かる。私の場合、1日で1〜1.5kgの変化がある。夕方運動を終えて量ると、大抵最低記録になる。そして寝る前に量ると、夕食でいくら増えるのかが分かり、夕食及び夕食後のおやつがいかに体重を増やしているのか一目瞭然になり、夕食やおやつの量を減らすのに効果があった。
 こういうことをしたら、きっと効果があることはする前にも分かっていたが、行動できなかった。つまり体重をコントロールする方法は分かっているのだが、実行できないだけなのだ。それが今回できているのはなぜなのかが実は一番のポイントなのだと思う。
 私は今、体重がコントロールできるのが面白い。顔つきやお腹周りが変化しているのが分かるし、動きも軽くなっている。走ることが大嫌いで長続きしなかったのだが、少し走れるようにもなってきた。最初の1週間で体重減少の効果が出たことも大きかった。
 このまま体重を減らせるだけ減らそうと考えている。そして「やや肥満」状態を克服しようと思っている。
2月24日(木)
小学館「枝雀」

 
 小学館が落語「昭和の名人」26巻を出した。その第1巻が枝雀で490円で配本された。「代書」と「親子酒」がCDとしてついている。
 私は勘違いしていた。2月22日(火)発売だとばかり思いこんでいた。それで本屋さんへ行ったら、第2巻の志ん朝が店頭に並んでいた。「本日発売」の小さい垂れ幕とともに。「すみません。これの第1巻枝雀はありませんか」と聞いたら、「完売しました」とのこと。うわあ、えらいこっちゃと思った。同時に枝雀人気のすごさを思った。
 急いで家へ帰って「アマゾン」で検索したらまだ残っていた。急いで購入した。490円の特別価格で。ちなみに第2巻からは各巻とも1190円になる。
 今日、それが送られてきた。490円は安い!
 まず「代書」は枝雀大全と同じ昭和57年8月19日関西テレビ「とっておき米朝噺し」放送のものであった。今回のものを加えると「代書」を4種類7枚持っている。
 私は大阪サンケイホール平成4年7月19日『枝雀らいぶ』が最高だと思っているが、「桂枝雀上方落語傑作選集」のみんなで女郎買いに行ったことを履歴書に書かせようとするのもおもしろいと思う。また今回出ているものは何と言ってもマクラがおもしろい。かかりつけの小児科医の先生の九官鳥の噺がおもしろい。
 晩年枝雀は松本留五郎(主人公)の職業を「河太郎(ガタロ)」から「ポン(ポン菓子屋)」へ変更し、「生年月日」のギャクを完成させる。
 「親子酒」は今回のものが絶対よい。枝雀がノってしゃべっていることが伝わってくる。これは3種類のものを比べた私の結果である。枝雀が歌う酔っぱらいの息子の歌がおもしろい。
 満足して、これをUPしようとして左のアマゾンの紹介を添付しようとしてビックリした。わずか2日の間に490円のものはなくなっていた。そして定価1190円に近い額で売られていた。キャンペーンセールが終わったから当然なのかもしれないが。
 それにしても思うのだが、枝雀はCDもDVDも破格の売れ行きなのだそうだ。今回の全集も第1巻で枝雀を取り上げたのはその人気の表れなのだろう。
   
2月12日(土)
枝雀18番

 
 枝雀さんが亡くなってから落語会へ足を運ばなくなっている。私は枝雀さんが好きで上方落語の世界を楽しむようになった。
 枝雀さんの落語を生で聞いたのは今から25年ほど前のことである。すでに枝雀落語という言われ方が定着していた。1月5日京都府立文化芸術会館桂枝雀独演会であった。私は一度聴いてみたいと思っていて、研究会の後たまたま友人を誘って二人で当日会館へ行った。枝雀さんの人気がどのくらいかも知らずに当日券で入れるだろうと思っていた。行ってビックリした。前売り券も当日券も完売していた。「へえ〜!入れへんの?」と思った。
 そしたらチケット売り場の横で「チケット1枚あるんですけどいりませんか?」と声をかけてきた人がいた。これがダフ屋かなとちょっと警戒したが気の弱そうな人で「友人と来たかったけれど用事ができてチケットが余ったので・・・」とおっしゃった。私は「チケット2枚いるんです」と言うと、私の友人が「小宮山さん一人でも入ったらいいやん。オレは誘われたから来ただけやし。遠慮せんと入り」と言ってくれた。先ほどの人は確かに私の横で聴いていた。
 私は枝雀落語で苦しくなるほど笑った。枝雀を3席聞いたように思う。どの噺も知らない噺であった。こんな面白い世界があるのかと思った。それから私は上方落語を追っかけ始める。まだその頃京都での落語会は数カ所であった。「市民寄席」「染屋町寄席」「かねよ寄席」「上方落語勉強会」「安井金比羅さんの米朝一門の勉強会」私のわかる範囲で出かけた。同時に手に入る限りの「テープ」を集め出した。とにかく上方落語の噺を全部知りたいと思った。枝雀さんは私に上方落語のおもしろさを教えてくれた。
 左の「枝雀18番」のDVDは枝雀生誕70年を記念して最近出された。枝雀落語18席(9枚)のDVDとおまけで枝雀一門の座談のDVDがついている。18席のDVDは「枝雀寄席」などテレビ局が持っているビデオからのものであり、昭和50年代後半から60年代の枝雀さんの高座である。好きずきであるが私はこの頃の枝雀さんを生で見ていないので大変貴重なものだと思った。私の好きな枝雀落語に「代書」があるのだがこの演出は初めてである。これで枝雀さんの「代書」は家にいくつになったのかな。副音声でその噺にまつわることを枝雀さんのお弟子さんやざこばさんなどが話しているのもおもしろい。
 このDVD集は新聞で知った。日本直販が扱っているのだが送料別で28,000円であった。しかし私は21,000円弱でアマゾンで購入した。購入して今日で4日目。毎日楽しんでいる。ネットで購入すると安くつくということを初めて知った。おすすめする次第である。
2月11日(金)
散髪 
 水曜日約二ヶ月ぶりに散髪へ行った。
 翌木曜日学校へ行ったら、さっそく1年生たちが色々と話しかけてくる。今まで散髪してもそれほどの反応はなかったので、今回はよほど伸びていたのを短くカットしたようだ。
 「小宮山先生、髪の毛切ったん?」
 「うん」
 「髪の毛染めた?」
 「ううん。染めてへんで」
(白髪が短くしたことで目立たなくなったのかな?)
 「パーマかけた?」
 「いや。かけてへんで」
(笑、私は天然パーマなのだが短いほうがウエーブが強調されるようだ)
 「○くんと○くんと小宮山先生とで『はげ3人組』や」
 「何でやねん!」
(最近髪の毛が少なくなっているが『ハゲ』はないやろと思った。しかし子どもの言う『ハゲ』は髪の毛が短いあるいは丸坊主のことを指す)
(しかし子どもたちの率直な感想に)
「そんな短いか?」 
と思わず頭を触ってみた。
2月8日(火)
伏見稲荷初午祭 

 今年は2月8日(火)が初午祭であった。何で読んだのか忘れたが一昔前の京都伏見稲荷の初午祭はそれはそれは盛んだったようで、祇園の芸妓衆も楽しみにして詣でたらしい。鴨川だったか琵琶湖疏水だったかに船を浮かべて参っている図版を見たこともある。もっと遡れば「今昔物語」や「枕草子」などにも出てくるらしく、清少納言も訪れたらしい。
 初午は、もともとその年の豊作祈願のための行事である。旧暦2月の最初の午の日だから春先の行事(通常は2月下旬から3月中旬の間)だったことになる。しかし新暦2月に変更されたため厳冬真っ最中のこの時期に変わった。後に伏見稲荷の神さんが和銅4年(711)のこの日に降臨されたという事にちなみ稲荷信仰と結びついたものらしい。江戸時代にはこの初午の日に寺子屋に入門したとか。
 行ってみていくつか印象に残ったことである。
 @新装改築された拝殿に並べられたお供え物は整然と並べられていて美しかった。
 楼門側正面には伏見らしく伏見の酒造メーカーが「献酒」しており、灘のものもあった。ビールも並んでいる。立派な大きな魚が冷凍機に入っていた。醤油やソースも並んでいる。中でもテレビなどで宣伝している焼き肉のタレの会社が目立った。
 側面には果物や菓子などが並んでいた。
 本殿側、つまり裏側には種苗会社や錦の八百屋さんなどが野菜を「奉献」されていた。この並べ方が見事で大変美しかった。(左の写真)
 A神楽が行われていた。お琴などの生演奏付きで巫女さんが二人踊っておられた。その前にガードマンがついておられて、カメラを向ける人に止めるよう注意しておられた。神楽を理由もなく踊っておられるのではなくて、料金を払った人(奉納する人)が座っておられる前で踊っているのである。その料金が、小神楽3,000円、中神楽5,000円、太神楽10,000円、本太神楽が20,000円というものであった。私はその違いに興味を持ってそのガードマンの方に聞いてみたが、「知らない」ということであった。たくさんお金を払った人にはやはりそれなりのことがあるのであろう。わかりやすいと言えばわかりやすい。
 B「志るしのすぎ」というものが売られていた。これは杉の枝に御幣をつけ、お多福の面が付けてあった。これにもランクがあって、1000円から各種用意されていた。商売繁盛の神様だけあって色々工夫しておられる。
 稲荷大社と杉は平安時代に遡る古い歴史を持つ関係のようである。熊野詣とも関係あるようで、平清盛の話にも登場するという。杉といえば稲荷大社のシンボルであったらしい。
 「志るしの杉」を家に持って帰って挿し木して根がつけば願い事が叶うらしいのだが、杉が大きくなってもなあ・・・と思った。花粉症で杉が敵役のように今は言われてるので、お稲荷さんも昔とは違った感慨をお持ちのことであろう。
 行きは徒歩で出かけた。自宅から約1万歩。お正月の雑踏のすごさを知っているものにはこのぐらいの人出なのだなという感想であった。50代の先生風の男性と制服姿の女子中学生3名が楼門付近で座って「たこ焼き」を食べておられた。修学旅行かな?寒いだろうなと思った。今年はお稲荷さんは遷座1300年だそうだ。
 2月4日(金)
節分そして立春

 節分の次の日の今日が立春。
 昨日久しぶりに廬山寺へ出かけました。廬山寺の節分の催しは節分会追儺式鬼法楽と言います。赤、青、黒三鬼が「鬼おどり」をします。
 廬山寺のHPにはこんな説明がしてあります。
 「太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が大師堂前の特設舞台に出現し、足拍子をとりながら、堂内に入ります。堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われており、そのまわりを三鬼が踊りながら修法の妨げをするのですが、護摩供の秘法、追儺師の邪気払いの法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力に追われて鬼は門外へ逃げ去ります。」
 さすがの鬼たちも有難い護摩供養の秘法でやっつけられてめでたく春を迎えるということなのだと思います。
 この赤鬼の持つ松明が本堂に燃え移らないかと少々心配になるぐらい迫力もあります。
 節分と言えば昔から「いわし」と「豆」です。最近は「巻きずし」を恵方巻などという名前で売っています。そして丸かじりするとか。そういう風習はいつから始まったのでしょうね。私が子どものことはなかったように思います。でもスーパーの食品売り場は「いわし」と「豆」と「巻きずし」がずらっと並んでいて、私も「巻きずし」買ってきました。
 イワシを焼いて食卓にのせたら、わが子が「この魚何?」と言います。「えっ?イワシ知らんの?」と思いました。「イワシってもっと小さいと思ってた」とのこと。きっと丸干しがイワシのイメージなのでしょう。
 今日朝学校で「小宮山先生、昨日晩に豆まきしてん。朝学校へ行くとき靴はいたら中に豆入っててん。五つも入ってた」と言いにきてくれた子がいました。それぞれの節分が家庭であったようです。
 廬山寺から京都御苑へ行きました。もう梅がほころびかけています。やはり立春です。
 1月24日(月)
野鳥2
 というような話をサークルでしてたら、鳥の写真を毎日撮っているという友人が「それは小宮山さん、認識不足だ」と言っていました。
 その人はこんな話をしてくれました。植物園で木の下で草刈りをしている職員の人に聞いた話だそうです。「自分が草刈りをしていると必ず野鳥がやってくる。自分の相手をしに来るのかなと思っていたら、そうではなくて早くその場所を離れろと催促しに来ている」とおっしゃったそうです。私の友人曰く「土を掘り起こした場所には虫がいることを野鳥は知っていて、そういうエサのある場所に人間が近づくと早く移動してくれるように姿を見せるのだ」というのです。
 人間の持っているエサにつられて近づいてくるのか、早くどこかへ行けと近づいてくるのか。
 以前西高瀬川のカモは近づけば20mほどの距離を保って飛びました。鴨川のカモが特別な環境で人間に対する警戒心が薄いのかもしれません。また、鳥の種類によっても違うのかもしれません。
 鴨川で70代と思われる男性がズボンのポケットにエサを入れて堤防に座っています。時々ポンとエサを投げます。それに合わせてユリカモメが滑降していきます。手から直接もらっているのではないかと思うぐらい近づいています。ユリカモメの「芸」としか言いようがないなと思いました。おもしろそうだなとも思いました。
 しかし、人間と鳥の関係…どうあるべきなのでしょう。野鳥にエサをやるのはよいことなのでしょうか。絶滅危惧種である朱鷺やコウノトリは人間にエサをもらわなければ生きていけません。タンチョウヅルもナベヅルもやっぱり人間がエサを与えています。
 カモやユリカモメは人間がエサを与えなければ生きていけないわけではないだろう。どうも人間の事情でエサを与えているようで考えさせられました。
 1月23日(日)
野鳥1
 鴨川の河川敷をサイクリングロードが通っている。七条から出町柳まで走ってみた。まだ賀茂川を行けば先へ進むこともできるのだが何しろお尻が痛くなってきてやめた。
 冬の鴨川にユリカモメとカモが群れていた。鳥の数が多いのは人間がよく行き交う場所のように私には思えた。五条大橋から四条大橋、さらに三条大橋などの近くに多いのだ。
 エサをやっている人が多いのにもびっくりした。その人の周りに鳥が集まっているのである。私のような何もエサを持たずに堤防に座ったものにでも近寄ってきた。特にユリカモメは自分が可愛がられ好かれていることが分かっているようで無警戒であった。カモも同じだ。その点、カラスとハトは迷惑がられているのが分かるのか、ユリカモメやカモの外側からおこぼれを窺っていた。私が子どもの頃はハトは平和のシンボルで、伝書鳩を飼う子も多かった。あの頃はハトが遠慮していることはなかったように思う。ユリカモメやカモはどうも人間が与えるエサに依存しているように私には思えた。
 その点、白サギや青サギは人間に媚びを売ることはない。彼らは見事なハンターである。その他にはトンビが多いのにもビックリした。近づくと大きいしくちばしは猛禽類のそれでやっぱり怖い。その数が多いのにもびっくりする。
 私が分かる鳥はこの程度である。きっと野鳥に詳しい方なら他の鳥も見つけられるのだろうなと思いながら帰ってきた。  
 1月10日(月)
伊達直人症候群
 今日は寒かった。朝テニスの初打ちをしてきた。
 ところで伊達直人が突然復活しているらしい。全国各地に、ランドセルや現金おもちゃ文房具を持って出没するらしい。
 去年のクリスマスに養護施設の子どもたちにプレゼントしたのが最初。このニュースを今年になって聞いたと思うのだが「なるほどなあ…」と思った。こういうアイデアを最初に思いついた人がすごい。
 続いて伊達直人を名乗っている人たちもきっといい人なのだろうなと思う。
 それは十分評価した上でのことであるが…。
 寄付とかカンパとかでお金を出すことが時々ある。
 年末になるとユニセフから手紙が来る。ユニセフ募金は学校でも取り組む。
 ユニセフに○円募金すると世界でこれだけの人が助かると書いてある。そして実は日本も戦後すぐユニセフに「脱脂粉乳」を援助してもらって給食が行われたと書いてあった。私は脱脂粉乳が大嫌いで、えずきながら飲んだのだが、でも日本の窮状を知ったアメリカの市民団体が始めたことをユニセフが継いだらしいことを後で知った。世界の人々の善意の寄付が助けてくれたのなら今自分ができる事をしようと思って一昨年お金を送った。どなたかが私なら送金しそうだと思ってユニセフに名前を知らせたのだろうからそれに応えよういう動機もあった。
 しかし昨年にほとんど全教職員に送られているダイレクトメールらしいということも分かったし、昨年ほどの意欲がなくてそのうちに手紙を紛失してしまった。
 寄付というのは自分のお金がどのように使われたのかが見えない。それに聞かされた目的に使われず、権力者の私利私欲を肥やすことに使われることもある。
 寄付よりもひどいのが税金の使い道だと、今、日本人が思っていることと今回の伊達直人に共感する心情に関係があるように私は思う。
 自分のお金を手応えある使い方がしたいと思っているのだと思う。そのことは間違っていない。でもそれが社会の仕組みを変える方向に向かわず、この行為を一服の清涼剤とする今の日本社会は「伊達直人症候群」に陥っているのではないかと私は思っている。 
 1月9日(日)
3連休
 早いものでもう元旦から9日目。今年も駆け足で日が過ぎていくように思う。
 3日休みが続く。昨年までは何も予定がなかったら朝はテニスクラブへ出かけていた。しかしそれが閉鎖になって休みの日をどう過ごすか考えるようになった。今までも考えていたのだが、今までなら何もなくてもテニスがあったのにそれがなくなった。
 「西国三十三カ所も四国八十八カ所も行かはって、次はどこです?」
と聞かれた。ここ数年行きたいと思っていたところへ昨年行ってしまって次がなくなってしまった。温泉とやきもの求めてもいいなとか、東北へ行きたいなとか思う。
 正月に入って「円空さんを訪ねる旅」を3カ所まとめた。昨年6月と7月に出かけていたのだがどうも気乗りがしなくて一日延ばしになっていた。
 自分のHP見ながら思うのだが、何とまあ気まぐれにあっちをかじりこっちをかじりしているものかと思う。 
 1月6日(木)
フラワーズと春との旅
 映画を見てきた。昨年上映された邦画「フラワーズ」と「春との旅」二本立てだった。
 「春との旅」がよかった。仲代達也と徳永えりがおじいちゃんと孫娘役で出演している。小林政弘監督という方も徳永えりという女優さんもしらない方であった。
 よくできた脚本であった。見ているうちにだんだん二人が旅をしているわけも、二人の人生も見えてくる。初めは仲代達也の演じる「おじいちゃん」が何という自分勝手で厚かましいじじいなのだろうと腹が立つが、次第に心が寄っていく。徳永えりさんが演じる「春」がよかった。がに股で小学生かと思うような歩き方やしぐさのこの孫がどうしようもない「おじいちゃん」を支える。最後に実の父親(香川照之…この人は何をしてもいいな)を訪ねるのだが涙が出た。
 共演陣が素晴らしい。大滝秀治、菅井きん、田中裕子、淡島千景、柄本明、美保純、戸田菜穂、香川照之。それぞれの事情を抱えながら生きていて、とっくに縁が切れているような「おじいちゃん」をそれでも想っていることがよく出ていた。
 現代の日本を描いていた。絶望的とも思える状況だが、何とかなるかもしれない、人間同士だものと思わせてくれる映画であった。
 「フラワーズ」は蒼井優、鈴木京香、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、広末涼子という人たちが出演しているオムニバス仕立ての映画であった。こういう映画に出ると女優さんは比較されて大変だなと思った。私は鈴木京香がいいなと思った。この役は鈴木京香しかできないなと思った。蒼井優もいい役者さんだなと思った。もっともっと他の作品が見たくなる人だ。他の四人はイメージ通りであった。
 いつも思うのだが仲間由紀恵さんという方の台詞はなぜあのように説教調なのだろう。「TRICK」や「ごくせん」では違和感がない。コミカルな面を強調する言い回しに感じるのだが、「功名が辻」や「フラワーズ」のような賢さや人間性のよさが全面に出ると、時に嫌みに聞こえてくる。大好きなのだが。 
 1月5日(水)
文楽初春公演

 大阪の国立文楽劇場へ初春公演を見に行ってきた。演目は「寿式三番叟」「傾城反魂香」「染模様妹背門松」であった。大阪の大先輩のお世話になって年に4回文楽(人形浄瑠璃)を鑑賞する機会ができてこれで5年目を迎えている。本当にありがたいことである。
 何とまあぜいたくなお芝居だと毎回思う。歌舞伎・能狂言・浄瑠璃・人形劇の要素をすべて包含している。
 舞台から見える人々は、人形を使われる方、浄瑠璃を語られる方、三味線を弾かれる方であるが、その人たちの中に人間国宝が多数おられる。さらにこれから名人上手になられるであろう方がひしめいておられる。蓑助さんや玉女さん、勘十郎さんさんたちの人形が素晴らしいのは当然として(今日は文雀さんは見なかった)吉田幸助という方の人形が生き生きしているなと感じた。まだお若く見えた。
 住太夫さんはさすがであった。「傾城反魂香(けいせいはんごんたん)」という演目で語られたのだが、浮世又平の人形(玉女)その女房の人形(蓑助)が生きているように感じた。しばらく前に住太夫さんがお弟子さんに稽古をつけられる話が新聞に載っていた。それはそれは厳しいようでぼろくそ、みそくそに罵声を浴びせられるらしい。年齢を重ねてもそういう気力があるというのが凄い。よほどの信念とか執着がないとできることではない。いや自分が現役でまだまだ自分の芸域に達していないと思う自信があるからこその事である。それに言っても仕方がなかったら言わない。まだ伸びると思うからこそなのだろう。
 初春公演で祝儀の手ぬぐいがまかれた。何と私のところに手ぬぐいが飛んできた。次いで隣に座っていた妻のところにも飛んできて、妻もいただいた。その手ぬぐい2本が左の写真である。2枚あるのが分かっていただけるだろうか。字と絵の間のものが投げられた状態そのままのものである。文楽劇場の客席数は753席。満席状態で手ぬぐいは20数本投げられたと思う。その中の2本を夫婦でいただいたのだから、「こいつぁ春から縁起がいいわい」である。よい席をご予約いただいたおかげである。 
1月2日(日)
石清水八幡宮
 
 1月1日、自転車に乗って石清水八幡宮へ行くことにした。私の住んでいる伏見から河川敷の道を行くと八幡まで行けるから自転車でと思ったのだが、もう一つ理由があった。私が小学生の頃わが家は1日は八坂神社へ行って、石清水八幡宮へ行くのが恒例であった。そして3日は香里園にある成田山へ行った。なぜそういうコースを父親が選んでいたのか聞いたことがなかったが、最近は足が遠のいていた。毎年行っていたのだが全くどういう神社だったかの記憶がないのである。それが確かめたかった。
 高瀬川から宇治川に入り、桂川と木津川との三川合流地点まで自転車で走った。ここは秀吉と光秀の山崎の合戦の対岸にあたる場所である。河川敷を走っているとこの場所からの景色がなかなかのものであることが分かる。比叡山は京都市内から見えるものとは形が異なり頂上付近が真っ二つに割れて見える。愛宕山は京都市内から見えるものと同じで美しい。北山は雪をかぶっていた。
 男山という山に石清水八幡宮はある。祭神は応神天皇。若宮は仁徳天皇とその姉だったか妹だったか。源氏の氏神で、鎌倉、室町、江戸幕府など源氏を名乗る武将の信仰が厚い歴史を持つ。
 全国にある八幡宮のもとは宇佐八幡宮らしく、石清水は平安時代初め9世紀に勧請されたらしい。自ら都の鎮護をかってでられたらしく比叡山が表鬼門、石清水が裏鬼門らしい。私はここが総本宮だとずっと思ってきた。
 「やわたの八幡さん」というがこれは「八幡さんの八幡さん」と同じで考えるとおもしろい。神さんの名前が地名になっているのである。
 エジソンは白熱電灯に用いるフィラメントの原料をこの八幡の真竹から作ったらしい。この神社ではエジソンの絵馬(写真)が売られていた。私はエジソンが日本へ来て八幡で竹を探したと思っていたが、そうではなかったらしい。ムーアという冒険家が探したらしい。エジソンを偲ぶ記念碑や生誕祭なども行われている。
 大勢の人であった。建物は江戸時代初めのもので多くが重要文化財に指定されている。本殿は間口が狭く拝むのになかなか進まなかった。1時間ぐらい並んでやっと拝めた。今建物を再建中であった。
  
1月1日(土)
新年 
 『一富士・二鷹・三茄子』…初夢に出てきたら縁起がよいそうです。『一富士』と『二鷹』は何となく大きくて美しいものや強いものですから憧れの対象として納得しますが、『三茄子』には諸説あるそうです。
 年末に富士山を見てきました。やっぱり美しく抜群の存在感でした。
 富士山にかかる笠雲が離れていたら良天候で吉兆とか。確かにこの日はいい天気でした。
 富士山は毎日300dの土石を落下させているそうで千年後には真っ二つに割れてしまうらしいです。まあ私は生きて確かめられませんが。
 元気にくらしております。今年も仕事を続けます。何やかやとお世話になりますがよろしくお願いいたします。
 みなさまのご健康とご多幸をお祈りしております。