かばのしっぽの
四国八十八カ所スクーター遍路旅7日目
〔8月20日(金)愛媛2・42番〜51番〕

 徳島は発心、高知が修行、そして愛媛は菩提だそうだ。
 8月20日(金)今日は42番(仏木寺)〜51番(石手寺)まで10ヶ寺を巡る。
 西予市宇和町のビジネスホテル7:15出発。メーターは1052km。道を引き返して峠を越え直して仏木寺へ。

(1)第42番札所仏木寺

第42番札所仏木寺
(ぶつもくじ)
本尊 大日如来
宗派 真言宗御室派
開基 弘法大師
0895−58−2216
宇和島市三間町則
 7:40着。私より早く来ている団体さんがおられた。マイクロバスで来ておられる。他にも古い自転車の荷台大きな荷を載せて遍路している年配の人や車の人もいる。みなさん朝早くから動き出しておられる。
 私はいつものようにお経をあげたり勝手な話を聞いてもらったりする。自分の健康や家族の健康をお願いしていると、他の人はどうでもいいのか?と、どこかから聞こえてくる。私の知り合いの方々や子どもたちのこともお願いする。するとまた世界には苦しんでいる人は他にも多いぞ!と言う声も聞こえてくる。そんなこと言いだしたら、拝めへんと思う。ちょっと身内に限定することをお許し下さいと言うと、そういう執着が一番苦しみのもとじゃないのかとお釈迦さんに言われる。どうしたらいいのかなと思う。こういう事を考えているのは具体的に今どうしようもないような悩みを抱えてこの旅をしてないからやなと思い直す。
 弘法大師にはもうちょっと込み入った自分のことを話す。今までの自分のこと、これからの自分のこと。そんなことを思っていると時間が過ぎていく。
 仏木寺の鐘楼の屋根が茅葺きでいい感じ。7:57出発。
 
 43番明石寺へ行く道の途中で宇和高校の前を通った。宇和という地名には思い出がある。
 大学1年生の時、剣道部の合宿をしたのが、愛媛県の「宇和」という名前のつく場所であった。大学の先輩が宇和高校だったか南宇和高校だったかに就職していて、そのつてで愛媛県で春の合宿をすることになった。高校の道場を朝夕お借りしての合宿であった。
 私たちの剣道部はその当時4回生が1名、3回生が3名、2回生が3名、1回生が8名であった。男子が12名で女子が3名という構成であった。みんなお金もなかった。急行列車を乗り継いで宇高連絡船に乗って四国へ渡る時代だった。私は、飽きるほど列車に乗った経験がなかったこともあって「遠いな…愛媛」と思っていた。剣道の道具は重かった。でも楽しかった。合宿は夏に経験していたのだが、出かけての合宿は初めてだったのが新鮮で、同じ回生の者が8名いっしょというのも楽しかった。
 私たちの剣道部は体育会に所属はしていた。が、「根性」とか「シゴキ」には縁のない穏やかで友好的なクラブであった。
 そのかわり弱かった。女子は京都大会や近畿大会の個人戦で優勝したり準優勝したり、中には全日本学生に出場する人もいた。しかし男子はその女子とちょうどいいくらいの練習相手だったので、どの試合でもたいてい団体戦は1回戦で負けたし、個人戦もまあ勝ち進むことは少なかった。
 私たち1回生8名中、高校からやっていた有段者とか経験者は2名であった。他の6名は、私のような全くの素人と少しやったことがある程度の者だった。しかしこの6名は練習を重ねて、秋には初段を取得し有段者になっていた。この合宿の頃、私は剣道が少し分かりかけて、おもしろくなっていた時期であった。だから宇和で行った合宿が余計楽しい思い出になっているのだと思う。
 今度の四国遍路で自分が合宿した高校や町を通るかなと少し期待していた。宇和高校の前を通ったが、全く記憶にない景色だった。私の記憶にあるのは、古い町並みの田舎道に学校の校門があるというような景色であった。もう40年以上の時間が経過している。町の公民館で行われた日曜朝の稽古会に行かないかと誘われて出かけたことも思い出した。
 もう一度3回生から4回生になるときの春合宿も同じ場所で行った。その頃には同じ回生の友人の中で3名が抜けていなかった。私は2段になっていた。もう一度行こうと出かけた。楽しかったが、2年前と同じではなかったことも思い出した。

(2)第43番札所明石寺

第43番札所明石寺
(めいせきじ)
本尊 千手観世音菩薩
宗派 天台宗寺門派
開基 正澄上人
0894−62−0032
西予市宇和町明石
 少し山の中へ入ると駐車場があった。セミが鳴いている。山門を抜けて階段を上がると本堂であった。本堂の左手にたくさんの小さい神社のお社があった。数にして20はあったのではなかろうか。その扉が開いていた。中には鏡が吊ってあった。ご神体は鏡だったようだ。朝になったら扉を開けて神さまも林の中で深呼吸をなさるのかなと想像すると辺りの空気が違ったものに感じられた。熊野十二社権現を勧請して、修験道の道場であったことを今に伝える社なのかもしれない。
 このお寺は、弘法大師はもちろん源頼朝も関係しているらしい。大きなお寺である。
 地域にも根ざした寺のようで朝からお年寄りが大勢お参りに来ておられた。
 8:45発 総走行距離1079.6km。

(3)大洲の赤煉瓦館とおはなはん

 次の44・45番の札所へは、西予市から大洲市へ出てそれから東へ向かい石鎚山方面にある久万高原へ行くことになる。大洲へ入るまでは予定通り地図の案内通り走っていたのだが、大洲から先が分からなくなった。大洲道路という道に出たかったのだが松山自動車道へ入ってしまいすぐ抜けたら、「おおず赤煉瓦館・おはなはん通り」という案内標識が目に飛び込んできた。
 大洲市内で寄り道する気は全くなかったのだが、「赤煉瓦」と見えたからこれは呼んでいると思い、訪ねてみることにした。
 大洲は城下町で、お城があった。お目当てのおおず赤煉瓦館は、もともとは1901年大洲商業銀行として建てられたものらしい。その後大洲銀行となり商工会議所などに使用された後平成3年ふるさと創生事業の一環で「おおず赤煉瓦館」として利用されている。(真ん中の写真)この煉瓦の他にも左のようなレンガの建て物もあった。
 この赤煉瓦館のある一帯は、明治の町並みの残る場所である。
 「おはなはん」というのは民芸の樫山文枝が演じたNHK朝ドラの主人公名である。1966年放送で爆発的なヒットであったと記憶している。このドラマの舞台で大洲が使われたのだ。大洲は明治の町並みがあったからだそうで、右の写真が「おはなはん通り」である。主人公おはなはんのご亭主役が高橋幸治で、この役者さん織田信長ぴったりで私は今でもこの人の織田信長がイメージぴったりだったなと思う。
 大洲のお城も天守は明治時代に壊されたらしいが今復元されている。国道196の橋からみたが、川に浮かぶ城でいい感じだった。

(4)第44番札所大寶寺

 第44番札所大宝寺への道は長い。先ほども書いたが、西予市から大洲市へ出てそれから東へ向かい石鎚山方面にある久万高原へ行くことになる。走行しているときはそういう俯瞰的な全体像をつかまぬまま道路地図を見ていた。距離も85kmある。そんなにあるとは思っていなくて、私はとにかく松山へ向かえばよいのだと思っていた。そのため久万高原へ行かずに、379号をやきものの町砥部町へ一度出てしまった。
 私は道の駅「ひろた」まで引き返したのだが、私の使っている地図は道の駅を記載していない。これが私の使った地図の欠点である。「道の駅」は車でもバイクでもとてもよく利用する。仕方ない。道の駅「ひろた」で道を聞くことにした。親切に一番の近道を教えてもらえた。歩き遍路道だったようだ。古い石の道標や赤白の歩き遍路用の小さい道しるべが導いてくれた。細い山道をかなり走った。途中で家の前に出ておられる年配の農家の方に聞いたら、「まっすぐ行って、信号を左」と教えてもらった。分かりやすい!
第44番札所大寶寺
(たいほうじ)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗豊山派
開基 明神右京・隼人
0892−21−0044
上浮穴郡久万高原町菅生
 私もこの寺へ行くのに迷ったし、相当な距離だったが、この85kmというのは37から38までの95kmに次ぐ長さである。いくつも峠を越えて辿り着く八十八カ所中最難関の道である。
 ここは明神右京・隼人という狩人兄弟が十一面観音を見つけ安置したのが始まりという八十八カ所の中では珍しく行基とか弘法大師という有名人が開基ではない寺である。私はこういう開基の方がリアリティがあるように思う。
 この寺の本堂の屋根は銅板葺。立派なお堂だなと見上げた。本堂と大師堂の間に十一面観音の銅像があったが、これが美しかった。スタートページの十一面観音像である。本堂の脇で本職の僧侶と思われる丸坊主の人が、大きな声でお経をあげていた。いままで聞いたことがないお経だった。それにしても凄い声だった。発声の仕方が違う声だった。弘法大師の「三教指帰」に「山中で一人修行して大声で真言をとなえていますと」という文句が出てくるのですが、こういう声だったのかもしれない。44から45までは12kmと近いし道も分かりやすい。
 12:15発。

(5)第45番札所岩屋寺

 第45番札所岩屋寺
(いわやじ)
本尊 不動明王
宗派 真言宗豊山派
開基 弘法大師
0892−57−0417

上浮穴郡久万高原町七鳥
 駐車場から歩いて20分かかる。かなりな傾斜の登り道で階段でないところも多くきつかった。私は何度も休憩した。左から2つめの写真が山門。ここから220段の階段になる。何度も「きついな」と独り言言いながら登った。しかしいよいよ本堂や大師堂のあるエリアへ入って「オー凄い!」と感動した。お堂の向こうに岩むき出しの崖がそびえている。そして大きなものから小さなものまで多数の穴が開けられている。きっと大きなものはその中で修行されたのであろうし。小さいものは仏様を納めたりしたのであろう。まさしく名の通り岩屋寺であり、私の持っている四国霊場のイメージにぴったりの場所であった
 この寺の岩場はすごい。断崖絶壁で本堂の横にそびえている。本堂から大きな穴にむかってはしごがかかっていた。私の前の女性が登っていた。そして石を拾って何かを彫りつけておられるようであった私は…そういう勇気はない。私はいたって高いところが苦手である。
 この寺本堂より大師堂の方が立派である。大師堂は重文。本堂は横が崖で石も落ちてきそうだった。だからかな大師堂の方が立派なのかなと思った。
 この寺へ行く道帰る道で国民宿舎「古岩屋荘」があった。この宿舎の前が国指定名勝「古岩屋」で、奇岩が屹立するちょっと変わった景色であった。この宿舎、日帰り入浴も可能らしい。私は今日は道後まで行きたいと思っていたのでパスしたが、魅力を感じていた。
 12:30着1:15発

(6)第46番札所浄瑠璃寺

第46番札所浄瑠璃寺
(じょうるりじ)
本尊 薬師如来
宗派 真言宗豊山派
開基 行基
089−963−0279
松山市浄瑠璃町

 45番から46番まで28km。少しある。松山へ入った。松山へは道後温泉などに数回来たことがある。つい最近とべ動物園、砥部焼を訪ねてきたのだが、その道を通って浄瑠璃寺へ行った。大きな道標のある場所を通った。
 浄瑠璃寺という名前は京都府加茂町にある同名の寺を思い出させる。共通点がないかなと探してみたら、弁財天であった。薬師如来の別名瑠璃光如来にちなむ命名だそうだ。
 2:40発。 

(7)第47番札所八坂寺

第47番札所八坂寺
(やさかじ)
本尊阿弥陀如来
宗派 真言宗醍醐派
開基 役行者
089−963−0271
 山門の天井に最近描かれたと思われる阿弥陀さんと菩薩群像が描かれていた。山門もかわいくて唐破風で優雅だ。本堂は鉄筋コンクリート。右の納経帳の墨書は流れるようだと言えばよいのだろうか。墨も薄く力がなく、達筆には見えない。素人にもうまいなあと感じさせる書の方がやはりありがたみがある。八坂というと祇園さんを思い出すが全く関係はなさそうだ。
 3:00出発。

(8)第48番札所西林寺

第48番札所西林寺
(さいりんじ)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗豊山派
開基 行基
089−975−0319
松山市高井町
 松山市内へ入って訪れる寺は、どうも特徴がない。今日は明石寺も岩屋寺もかなり強烈な印象を与えてくれる寺であったためそう思うのかもしれないが、写真を見ていてもよく思い出せなかったりする。
 この西林寺は上の写真とこのページの一番上右の写真を見て思いだした。仁王門前の白い百日紅がよかった。仁王門前に太鼓橋がありその前に古い道標があった。それが雰囲気があって写真に納めた。私は道標に興味を持っているがゆっくり見ている時間がなかったのが残念であった。これは歩き遍路でなかったら楽しめないなとあきらめたが。3:30発。

(9)第49番札所浄土寺

第49番札所浄土寺
(じょうどじ)
本尊 釈迦如来
宗派 真言宗豊山派
開基 恵明上人
089−975−1730
松山市鷹子町
 大きな通りに面して駐車場があり、そこから歩いてしばらく行くとお寺であった。立派な本堂だなと思った。先客で団体さんがおられた。上の写真のような状況である。確かに前の道をかなり広く空けてくださっている。しかしその前を通って本堂に近づくのはかなり勇気がいる。私はだいぶ団体さんと遭遇する機会に慣れたこともあり、少し時間が窮屈なこともあって、大師堂へ先にお参りさせていただき後から本堂へ行かせていただくことにしたり、狭い場所なら、どちらかのお堂の前から、もう一つのお堂に向かって拝むこともあった。
 浄土寺には重文の空也上人像があるらしい。空也上人像と言えば六波羅蜜寺のものが有名だが、私は愛宕山月輪寺でも見たことがある。四国におられるとは思ってもみなかった。この寺に空也上人が滞在されて寺にとどまり説法され、里人に請われ自刻像を彫られたという伝承が残っているらしい。私は空也上人という方も偉い方だと思う。しかし、今もその実像は謎に包まれたままのようだ。資料が少ないのだ。四国へ来られた…ウーン…本当かな???と疑り深い私は思った。しかし空也の名が四国に残っていることは大事なことだと思った。いつの時代か分からないが、空也の評価が高い時代があったことを示しており、いつの時代も民衆とともに働いたお坊さんの名が残ると言うことだと思った。

(10)第50番札所繁多寺

第50番札所繁多寺
(はんたじ)
本尊 薬師如来
宗派 真言宗豊山派
開基 行基
089−975−0910
松山市畑寺町
 繁という字があって、何か自分の名前が入っているというので、興味があったのだが、どうもご縁が薄かったのか、辿り着くのに時間がかかった。49から2kmだそうだからすぐのはずなのに、大きな道路から入る道が分からず、松山市の中心へ行ってしまった。何かおかしいと引き返してやっと道を見つけたら、今度は歩き遍路用の狭い道へ入り、墓の入り口を引き返した。時間はそれほどでもなかったと思うがやっと繁多寺に着いたと思った。
 ここは一遍上人が修行された場所らしい。この話はすんなり受け取れる。一遍上人は河野水軍の出で、この辺り一帯はその勢力下にあったらしいということで無理のない話だと思う。先ほどの空也、そして一遍。浄土思想、阿弥陀如来への信仰が四国にも大きな影響を及ぼしたのだろうなと思った。
 4:30発。51番まで3kmとか間に合うだろうか。

(11)第51番札所石手寺

第51番札所石手寺
(いしてじ)
本尊 薬師如来
宗派 真言宗豊山派
開基 行基
089−977−0870
松山市石手
 この寺の納経所へ5時までに行けるかどうかを心配しながら50番から3km行ったら、4:45に着いた。駐車場に確かに着いたが、納経所まで15分で行けるかどうかは分からない。
 急いで拝む用意をして石手寺への横断歩道を渡った。あれ?今日は何?お祭りみたいに露店が出ている。
 とりあえず先に納経所へ行って墨書朱印してもらった。それから本堂へ行って大師堂へ行って拝んできた。今日も一日何とか元気に回りましたという報告と明日もどうかよろしくである。最後の数カ所私と同じ行動をしているお年寄りがいたが、この方も何とかなったようだった。
 その途中でどうも「施餓鬼」という行事らしいということが分かった。どうも先祖供養のようだ。私は「施餓鬼」という行事の経験がない。京都にもあるのかもしれないが私の身辺には今までそういうのはなかった。京都では大文字の送り火でご先祖さんはあの世へかえって行かれておしまいだと思ってきた。
 この時期六地蔵巡りとか地蔵盆とか大日さんとかはあるがそういうのではないようだ。
 本堂と大師堂のお参りが終わってから、「施餓鬼」を準備しておいられる場所へ近づいていった。テントの中に座っていた年輩の方に「どうするのか」聞いた。どうも要領を得ない。私はどのようすれば先祖供養ができるのかがが聞きたかったのであるが、そもそものお話しをされるものであるから話がかみ合わない。
 要するに一つは500円払って紙に自分の名前を書いて、その紙を水に浮かべるというもの。もう一つは同じく500円払って先祖供養と書いた紙に自分の名前を書き、ガラスの中のローソクの灯を灯すというものであった。私は両方ともすることにした。
 上の写真の仁王門は四国では珍しい国宝の建物である。その国宝に色々な飾りが付けられていて「イイノカナ」と思ってしまった。
 まだ、施餓鬼の準備をしていて、暗くなってから本格的に始まるようであった。
 この後、かんぽの宿道後に泊まることにした。石手寺から宿への案内の看板があり、案外近かった。
 宿で夕食をとりながら、やっぱり「施餓鬼」見てみたいなと思った。きっと美しいだろうなと思った。夕食後タクシーで石手寺へ行ってきた。
 大勢の人で露店がたくさん出ていた。7時を少し回っていた。10名以上の坊さんがお経を読んでおられた。マイクを使って読経しておられた。テント内の席に座り私も参加することにした。散華もあり私も2枚拾った。
 施餓鬼とは文字通り餓鬼に施しをするということなのだろうと思う。先祖はきっと水を求めて地獄で責め苦を受けているだろうから、水の中に先祖供養の紙を流すのだろう。京都の六地蔵巡りのとき、そう言えば卒塔婆に自分の名前を書いて水をかけるというのがあったことと、六道珍皇寺で迎鐘撞くときも同じ様な事するなあと思いながら見た。この時期先祖供養をするのだ、あちこちで。
 正直先祖のことを真剣に考えたことはない。自分の知っている先祖は祖母と父親である。その他は知らない。私は小宮山という苗字だが、小宮山の先祖と血のつながりはない。こういう場合先祖というのは血のつながりを重視するのか、家を重視するのかも分からない。仕方ないので先祖供養と言うときには父親と祖母を思い出すことにしている。
 下に「施餓鬼」の様子を紹介してみる。大きな絵が掛かっていた。艶めかしい観音さんがこのページの上の写真。弘法さんがスタートページにある。他に不動さんの絵もあった。
 愛媛は菩提だそうだが、私は運良く石手寺の施餓鬼の日に訪れたことになる。

衛門三郎伝説について思う

 衛門三郎というのは、47番札所八坂寺辺りに住んでいた強欲な長者でした。
 ある日旅の托鉢僧がやって来ましたが、衛門三郎は追っ払ってしまいます。その際僧が持っていた鉄鉢をムチ(竹箒という話もある)で8つにたたき割ってしまいます。その僧が空海でした。
 すると、翌日から八人の子が次々と急死してしまいます。衛門三郎は嘆き悲しみ、その罪を悔います。そして、あの時の僧が弘法大師だと知り、弘法大師を探して四国八十八カ所をめぐりますがなかなか会えません。21周目に逆回りをし、12番札所焼山寺の麓で行き倒れとなりやっと巡り会います。三郎は「もう一度生まれ変わって功徳を積みたい」という願いを伝えます。弘法大師はそれにこたえて「衛門三郎再来」と書いた小石(5cm)を握らせ再来を祈願します。そして衛門三郎は息途絶えます。
 その数十年後、この石を握った男子が伊予領主河野家に生まれます。この石が石手寺宝物館にあるそうで、石手寺の由来にもなっているというお話しです。
 四国八十八カ所を私のように1番から88番まで順に巡るのを「順打ち」逆に巡るのを「逆打ち」と言うそうで、衛門三郎伝説から、逆打ちは順打ちの3倍のご利益があるとも言われるそうです。と言うのが、衛門三郎伝説で、四国八十八ヶ所巡りは、衛門三郎が始めたという説になっています。
 
 さて、この話をみなさんはどのようにお聞きになるでしょうか。
 私は、弘法大師を尊敬できなくなる話だなと思いました。
 なるほど、聖徳太子もおっしゃっているように「仏・法・僧」の三宝を敬うことが大切だと考えれば、僧を大切にしなかった衛門三郎は正しくありません。しかしながら僧も色々で敬いたい方もそうでない方も昔からおられたのではないでしょうか。「仏」と「法」はともかく「僧」を大事にしなかったのは強欲だけとは言い切れないと私は思います。
 しかしこれが他の僧なら衛門三郎も八人の子を殺されることはなかったと思われます。恐ろしい特別な能力を持っていた弘法大師空海であったためです。
 この話の空海はいやな超能力者です。
@鉄鉢を割られ托鉢を断られたからと行って、子どもを8人殺す必要があるでしょうか。これは殺人です。この殺人は怒りにまかせた行動です。怒りを相手にぶつけることが僧のとるべき行動でしょうか。相手を諭してこその僧だと私は思います。それもせずに、自分の超能力を使って「殺す」とは無慈悲にも程があります。大体「不殺生」は戒の中でも一番大切な戒であって、仏教者にあるまじき行為です。まして超能力を身につけているものはそれだけの責任ある行動をとるべきです。
Aその後前非を悔いた衛門三郎が自分に会いたがって四国巡礼を20回繰り返しているのに会わず、21回目で野垂れ死ぬ前にやっと会うというのも何とも執念深いことです。衛門三郎を最後まで決して許さなかったのです。死んでも仕方のない人間だと思っていたとしか思えません。来世、人間に生まれ変わることを約束したということが慈悲をかけたことになるのでしょうか。謝っても許してくれない片意地な人間としか私には思えない話です。そしてその片意地で無慈悲な人間が、超能力(人の命を左右する)を持っているのです。こんなタチの悪い宗教的指導者なら、いてもらうと困ると私は思うのですが、どうでしょう。
 日目  月日曜日 遍路県名  遍路した札所・訪問先   日目  月日・曜日  遍路県名  遍路した札所・訪問先 
    かばのしっぽ四国八十八カ所スクーター遍路旅スタート  1日目 8/14(土)  徳島1   1番札所・徳島市内 
 2日目 8/15(日)  徳島2 2番〜11番  3日目  8/16(月)  徳島3  12番〜22番 
 4日目  8/17(火) 徳島4・高知1  23番〜30番  5日目  8/18(水)  高知2  31番〜36番 
 6日目  8/19(木) 高知3・愛媛1  37番〜41番  7日目  8/20(金)  愛媛2  42番〜52番 
 8日目 8・21(土) 愛媛3  52番〜64番  9日目  8/22(日)  愛媛4・香川1  65番〜77番
10日目  8/23(月) 香川2  78番〜88番  11日目  8/25(水)  和歌山  高野山奥の院 
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