かばのしっぽの

四国八十八カ所スクーター遍路記10日目
〔8月23日(月)香川2第78番〜88番〕

   
 8月23日(月)78番(郷照寺)〜88番(大窪寺)そして帰宅
 旅館「さぬき」で朝食6:40。びっくりするぐらい卵焼きが塩辛い。みそ汁も。何か食欲が減退しているようで、食べきれない。ここは78番札所へ700mという場所にあり、とにかく上手く泊まれた。ただ朝水道が出なくて困った。仕方がないのでお風呂で風呂の湯を使って洗面ハミガキをした。
「郷照寺はそこの道からいけるのですか?」昨日「ほかほかの湯」へ行くときに郷照寺800mの案内があったので聞いてみたら「はい。門前へ出ます。7時になったら大門が開きます」旅館のおばあさんが、いかにも誇らしげにおっしゃった。この道は古い遍路道なのだ。この旅館「さぬき」も昔は流行ったのだろうが、今は遍路道から少しずれて流行らなくなったのではないだろうか。
 7:20出発。1602.2km。
 荷物の積み込みも慣れて、こうすれば納まると言うことが出発4日目ぐらいで分かった。バイク屋さんが「案外たくさん収納できますよ」というのは確かにその通りであった。

(1)第78番札所郷照寺

第78番札所郷照寺
(ごうしょうじ)
本尊 阿弥陀如来
宗派 真言・時宗
開基 行基
0877−49−0710
綾歌郡宇多津町
 郷照寺は、宿から狭い道を進む。歩き遍路道のようで街道沿いのような雰囲気の道だ。お寺がいくつもある。朝見ると壊れかけたようなアーケードのある商店街を右に見て、すぐにあった。駐車場があるのかと進んでいくとかなり広いのがあった。
 高台にある。私が着いたらすでに大きな声でお経を詠んでおられる女性がおられた。何のお経かよく分からなかった。
 本堂とその上にある大師堂でお経をあげて降りてきたら、その方は癖のある般若心経をあげておられるらしいことが文句から分かった。癖があるのが私のとなえている般若心経なのかその人のなのか分からないけど。熱心なお経のあげ方である。
 納経所で書いてもらって降りてきたら、お数珠を持った恰幅のよい実業家タイプ(なんで分かる?)の男性が汗をふきふき拝みに来られた。時刻は7:40。出勤前の参拝だろうか。熱心な方がおられる。
 この郷照寺、宗派がおもしろい。真言宗であるのは弘法大師との関係であるから当然だが。時宗が変わっている。しかし四国八十八カ所の成立過程を考えると一遍の時宗も大きな役割を果たしているようだ。
 「捨聖」「遊行聖」一遍は伊予の豪族河野氏の出である。一遍は45番札所岩屋寺で半年修行している。その後全国の神仏霊場を巡る。高野山へ詣でた後、紀州熊野へ向かう。ここで一遍は熊野権現から「熊野権現の神勅=信不信をえらばず、その札をくばるべし」を得る。これはその後の彼の人生を左右するものになる。四国遍路は熊野詣に強く影響を受けており、熊野修験者が四国へ多く入ったようである。一遍が辺路遍路(修行)と補陀落信仰(海の向こうの桃源郷信仰)と結びついた熊野信仰から大きな影響を受けていることは興味あることになる。念仏遊行者である一遍の足跡が確認される寺(45,49,50,55,72,75,78)の中にこの郷照寺がある。
 宇多津道場と呼ばれていたものが、道場寺、江照寺、郷照寺と変化したらしい。「踊り跳ね 念仏唱ふ道場寺 拍子そろへ 鉦を打つなり」という当時の御詠歌はこのことを証明している。そしてここが四国内念仏遊行者の拠点であったらしい。江戸時代中期には木喰行者の屯する場所になったらしいけれど。
 7:43出発。

(2)第79番札所天皇寺

第79番札所天皇寺
(てんのうじ)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗御室派
開基 弘法大師
0877−46−3508
坂出市西庄町天皇
 香川の道は遍路にはとても親切だ。案内の通り進めば必ず辿り着く。大きな通りへ出れば大きな道標が案内してくれる。国道33号に入ったら、すっかり安心した。1km毎に案内してくれるのだ。
 JRの八十場駅から国道を入ると保育園があった。どっちへ行ったらよいのか分からないので、若いお母さんにうかがったら、右だった。すぐにちょっとおかしな神社の鳥居のような入り口が見えた。ここは白峯宮。大変立派な神社だがどうもお寺のようでもある。これが本堂かなとも思ったが、そうでもないようなのでしばらくうろうろ辺りを歩いたら、さっきバイクをおいたところがお寺のようだった。確かに本堂と大師堂があった。明治の神仏分離廃仏毀釈の嵐の中で、この白峯宮と天皇寺のように無理矢理分離され、寺が冷遇されたということだろう。
 天皇寺…よくそんな名前が許されたものだと思った。そしたら、崇徳上皇の流されたのがここで、ここで亡くなったからだそうだ。崇徳院と言えば、保元の乱で失脚した上皇であるが、私は落語に出てくる「崇徳院」の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を思い浮かべる。この方は父親の鳥羽法皇から疎まれたらしい。その理由が本当の父親は祖父の白川法皇だったからとも言われている。母親は待賢門院璋子。
 崇徳上皇は保元の乱で敗れ、讃岐へ流罪になってここに住んだ。軟禁生活の讃岐で深く仏教に帰依し、お経の写本を朝廷へ差し出したが、時の後白河天皇が「呪いがかけられているのではないかと」と拒否。送り返された写本に舌をかみ切った血で呪いの言葉を書き、その後亡くなったらしい。その後崇徳院祟りが語られることになる。
 流罪と言っても牢獄に入れられたわけでもなさそうだ。割と自由にやりたいことができたのではないだろうか。何より周りの人たちから石つぶてを投げられることはなかったであろう。かえって都からお越しになった偉い方というので大事にされたのではないだろうか。ということになると、流罪と言ってもそんなに気の毒がることもないのかなと思った。
 8:15出発。1610.9km。バイク駐車料金100円。

(3)第80番札所国分寺

第80番札所国分寺
(こくぶんじ)
本尊 千手観世音菩薩
宗派 真言宗御室派
開基 行基
087−874−0033
高松市国分寺町国分
 山門前にバイクを止める。自販機があり、細かいお金を作る。
 山門入ると、八十八カ所本尊石仏が並んでいる。本堂までの道にもともと金堂に使われていた礎石が並んでいた。その説明を読んだのだが、国分寺には八重塔が建てられたのだそうだ。現在の東寺五重塔より高かったとか。そして金堂や講堂が並ぶ大規模なものだったようだ。奈良東大寺が大きくて、国分寺や国分尼寺は規模が小さかったのではないかと私は思っていたが、相当な大きさだったようだ。そこで思ったのだが、各地に八重塔を建てるだけの建築技術が中央だけでなく地方にもあったということである。8世紀初頭にそれだけの建築技術の蓄積があったことが驚きだ。
 広い場所に色々なお堂がある。本堂で拝み終えて納経所(大師堂兼務)へ。前に年配の女性が花を切って活けておられた。その方は挨拶を丁寧にして下さった。その横に箒を持った男の人がいた。
 納経所に人はいなかった。「すみません」と3回ほど声をかけたら、そうじしていた男の人が(うるさいなという感じで)「今、そうじしてるんや」と言いながら建物に入ってきた。「それはあなたの事情でしょう。納経所が7時からと言うのならここに誰かが座っていて当然なのではないか」と私はあきれてしまった。とにかく何を勘違いしているのか「お願いします」と言っても「ありがとうございました」と言っても返事もされなかった。こういう人もいる。国分寺と言うだけで何か期待してしまった私はがっかりした。
 8:54出発。1618.3km。
 讃岐国分寺の資料館がすぐ近くにあった。入りたかったけどなあ。

(4)第81番札所白峯寺

第81番札所白峯寺
(しろみねじ)

本尊 千手観世音菩薩
宗派 真言宗御室派
開基 弘法大師 智証大師
0877−47−0305
坂出市青海町
 80番から13.5km、山の中にある。
 寺に着いたら、何かテープが流れている。私は何かあやしげなものを売ってるのかなと思った。しかしよく聞くとお寺がお説教やお経を流しておられるのであった。テープを流しておられるお寺は二つ目だ。
 ここに崇徳院の廟所がある。ここで崇徳院が崩御されたらしい。大変立派な廟であった。崇徳院は怨霊となって都に災いを及ぼした。きっと身に覚えのある人たちはおそれて御霊神社だのなんだので鎮めようとするものだ。
 本堂へ登る階段をしっかり登らなければいけない。

(5)第82番札所根香寺

第82番根香寺
(ねごろじ)

本尊 千手観世音菩薩
宗派 天台宗
開基 弘法大師 智証大師
087−881−3329
高松市中山町
 「ねごろじ」という名前。こういう字を書くねごろ寺があるとは。ここには牛鬼伝説があるらしく山門前の駐車場横にその像があった。思わず笑ってしまった。顔はネズミに似た牛。体に鱗があり、ヒレみたいな羽みたいなものがくっついている。ウルトラマンシリーズに出てくる怪獣みたいである。この牛鬼を山田蔵人高清という弓の名人が退治したらしい。
 きっと紅葉の時はきれいだろうなと思った。本堂へあがっていく階段付近。

(6)第83番札所一宮寺

第83番札所一宮寺
(いちのみやじ)
本尊 聖観世音菩薩
宗派 真言宗御室派
開基 義淵僧正
087−885−2301
高松市一宮町
 中学校のすぐ近くにあるお寺。国分寺も全て通ったが、一宮も通ったのではなかろうか。一遍は各地の一宮を巡ったらしい。今も全国の一宮巡りをされる方もおられるそうだ。この寺も最初は別当寺だったらしい。神仏習合の産物である。弘法大師は日本の神々と仏の共存共栄をはかられたのではないかと私は思うのだが、こういう寺が四国霊場にあることが興味深い。
 義淵僧正は明日香の岡寺をつくられたお坊さん。四国でお名前を見るとは。行基の師という説もある。行基の開基より古いということを力説したかったのかと私は思った。
 ここにヤマトトヒモモソヒメに関係する石塔などがあった。隣の田村神社に百襲姫が祀られているらしい。百襲姫の墓は山辺の道にあり「箸墓」である。箸墓は卑弥呼の最有力な墓と言われている。私は百襲姫信仰がこの地にあることが何とも不思議だった。
 11:38発。

(7)第84番札所屋島寺

第84番札所屋島寺
(やしまじ)
本尊 十一面千手観世音菩薩
開基 鑑真和上
087−841−9418
高松市屋島東町
 ここへ辿り着くのに何度か地図を見直して人に聞いてローソンに入って昼食のおにぎりと飲み物を買ってやっと着いた。今回の旅で一番迷った。屋島へは車で2回行ったことがあった。しかしナビを使って車で来ているから何も覚えていない。
 大きな駐車場についた、ここは資料館やお寺などの共通の駐車場のようだ。多くはないが観光客もいた。
 もちろん源平合戦屋島の戦いで有名な場所である。屋島の戦いを俯瞰できるような展望できる場所があるがどなたかにか説明してもらわないと何がどうとも分からない。それにしても狭い場所で戦ったのだなと思う。
 大きなお寺で本堂は重文。宝物館は有料で源平合戦絵巻などがあるらしい。資料館の建物の形がおもしろい。昼食を無料休憩所でとった。私以外の人はいなかった。
 1:04出発。

(8)第85番札所八栗寺

第85番札所八栗寺
(やくりじ)

本尊 聖観世音菩薩
宗派 真言宗大覚寺派
開基 弘法大師
087−845−9603
高松市牟礼町牟礼
 八栗寺へ行くにはケーブルを利用する。のぼりはテープで弘法大師のいろは歌を聞いた。「いろはにほへと」というあの歌である。そうか、弘法大師が創ったとどこかで聞いたことがあったなあと思い出した。あのいろは歌はすごいと私も思う。ことば遊びの極致だと思う。弘法大師作かどうか私は分からないけど。
 ここは五剣山というらしい。山門あたりから本堂を見ると、そのバックに岩山がそびえていてなかなかの景観である。五剣山というらしい。五台山とか五剣山とか五に関係するのはなぜだろう?
 八栗寺はケーブル駅からそれほど傾斜があるわけではないので楽に歩ける。
 多宝塔(これは美しかった)の前で年配の男性が女性を捕まえて人生論を語っていた。私が見たところ女性はそれほど感心して聞いているとも思えなかった。でもおじいさんに合わせていた。何でだろう?四国巡礼でこういうおじいさんを何カ所かで見た。帰りにまだお話ししておられた。
 山門近くで熱いお茶の接待があった。
 1:30ケーブル乗車。帰りは2:15に乗車。このケーブル運転は女性である。往復900円。

(9)第86番札所志度寺

第86番札所志度寺
(しどじ)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗善通寺派
開基 藤原不比等
087−894−0086
さぬき市志度

 海岸近くの駐車場に着く。今日よく会った団体さんがいた。雨がふるような雲が出てきた。何とか最後まで降らないでほしいとお願いした。仁王門は重文。
 海女伝説がある。海女の経塚と五輪塔があった。こういう伝説。
 興福寺を建てるときに藤原不比等の妹が唐から3つの宝物を送ってきたらしい。ところが志度の浦で船が難破して3つの宝物の内の1つ、宝珠を竜神に奪われた。これを奪い返すために不比等がやってきて、土地の海女を妻にする。やがて息子房前が誕生。海女は不比等に房前を跡継ぎにするという約束をさせて、竜神から宝珠を取り返し、帰らぬ人となる。妻を哀れんだ不比等は「死渡道場」と名付けた。後志度を訪ねた房前は、母のためにこの寺を建立したというお話。これが重文の志度寺縁起に書かれているらしい。
 この話、不比等が宝珠を奪い返すために海女を利用したともとれる話で悪い奴やなあと思った。
 しかし死渡が志度だというのは、この地が補陀落信仰のある辺地だと見られていたことを表しているように思う。室戸や足摺などの補陀落伝承のある場所では、僧侶が浄土へ渡海する(結果的には死ぬ)ことが行われたようである。この志度には渡海の記録はないようだが、補陀落信仰との関係から伝承を見ることもできそうだなと思った次第である。
 2:56出発。1703.2km。

(10)第87番札所長尾寺

第87番札所長尾寺
(ながおじ)
本尊 聖観世音菩薩
宗派 天台宗
開基 行基
0879−52−2041
さぬき市長尾西
 途中で歩き遍路道に入ってしまって大丈夫かなと心配になったが無事到着。
 静御前がこの寺で得度したらしい。髪の毛を埋めたという塚があった。
 この寺のおもしろい伝説。1年に何人か、この寺に入れない人や出られない人が出るらしい。そう言うときは、今まで巡ってきた寺の本尊の真言を唱えればよいらしい。しかし86も唱えるのはなかなか大変だなと思った。幸い私は出るときも入るときもそれほど苦労なくできた。
 ゴロゴロとかみなりが鳴り始めていた。少し雨も降ってきた。何とか後一ヶ寺お天気が持ってくれますようにとお願いした。団体の方たちがおられた。もう一ヶ寺回られるのか、どうなのかなと思った。
 本堂と大師堂で拝んだ。いよいよあと一つになった。
 3:23出発。1711・km

(11)第88番札所大窪寺

第88番札所大窪寺
(おおくぼじ)
本尊 薬師如来
宗派 真言宗
開基 行基
0879−56−2278
さぬき市多和兼割
 大窪寺へ行く山道がぬれている。きっと志度寺や長尾寺にいた時大窪寺周辺では雨が降っていたのだろう。私は本当にラッキーだ。雨に遭わずに遍路が出来た。
 広い駐車場には私以外の車は1台だけだった。その人たちが車の中の大掃除なのか大整理なのかをしておられた。今までの四国遍路の最終整理でもしているのだろうか。車内のゴミをいっぱい袋に詰めておられた。
 仁王門が大きい(写真左)。雨の後で全体に煙っている。めがねも曇る。結願の寺で金剛杖の奉納もするらしい。私は金剛杖を持っていないので納める必要がなかったが、この寺で納めるらしい。本堂を拝したあと大師堂が離れているのでゆっくり移動した。これで最後だと思うと何かのんびりした気分になった。ここの薬師さんは薬壺の代わりにホラ貝を持っておられるというのだが、想像すると笑ってしまう。
 お経は書いてあるもの全て詠んでみた。薬師如来の真言「おん ころころ せんだり まどうぎ そわか」というのは何回言っていても楽しい。私の旅が無事にケガなく京都まで帰れることをお願いし、家族の健康をお願いした。
 駐車場で飲料水を飲んで、シャツを着替えた。そしてバイク用の上着を着た。これで家路をめざす準備が出来た。
 4:40出発。1729km。今日は遍路に121km走った。
 帰り道が分からなかった。よく考えたら、88カ所巡る地図は持っているが、家へ帰る地図は持っていなかった。
 納経所で「京都へ帰るのだがICに出たい」と言ったら、「寺の前の道を東に向かい白鳥へ行けばよい」とアドバイスされた。「白鳥」だけインプットされた。その「白鳥」に向かって走ることにした。 
運がよかったように思う
 この旅で何度も運がいいなと思うことがあった。それぞれの土地の神さまや各寺の仏さま、そして弘法大師がこの旅を笑って見守ってくださったように思う。とりわけ弘法大師に対しては、よく分からないこともあって(今も理解できないことだらけ)生意気なことや、批判めいたことを思ったし、お話もした。しかし広い心でお許し下さって、私の四国遍路をお護り下さったように思う。
■今日帰ろうと思ったのは…
 今朝出発するときは、今日で88番まで回りきれるかなと思っていた。だからもう一泊する気でいた。しかし途中から早く終わったら今日帰ってしまおうと思うようになった。
 なぜそう思うようになったのか考えてみると、まず食欲が減退していたこと。毎食あっさりしたものと思うようになっていて、肉なんてとんでもないと思うようになっていた。
 そして、もう一日四国へ残って早朝出発しても明日楽しいことがあるとも思えないし、どこか行きたい場所があるわけでもなかった。それより高野山へ行く日を確保するためにも帰ってしまおうという結論になった。
 それなら夕方出発すれば10時ぐらいには帰れそうに思った。結果的には、この後、高速道を使って京都まで帰ってきたのだが、8時半頃には自宅に着いた。淡路南ICで晩ご飯を食べている。
 京都から四国へは高速道路を使うとそれほど時間がかからないということがよく分かった。
 日目  月日曜日 遍路県名  遍路した札所・訪問先   日目  月日・曜日  遍路県名  遍路した札所・訪問先 
    かばのしっぽ四国八十八カ所スクーター遍路旅スタート  1日目 8/14(土)  徳島1   1番札所・徳島市内 
 2日目 8/15(日)  徳島2 2番〜11番  3日目  8/16(月)  徳島3  12番〜22番 
 4日目  8/17(火) 徳島4・高知1  23番〜30番  5日目  8/18(水)  高知2  31番〜36番 
 6日目  8/19(木) 高知3・愛媛1  37番〜41番  7日目  8/20(金)  愛媛2  42番〜52番 
 8日目 8・21(土) 愛媛3  52番〜64番  9日目  8/22(日)  愛媛4・香川1  65番〜77番
10日目  8/23(月) 香川2  78番〜88番  11日目  8/25(水)  和歌山  高野山奥の院 
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