かばのしっぽの

四国八十八カ所スクーター遍路記
〔8月25日(水)和歌山高野山編〕

■高野山奥の院 
 高野山…何回か行ったことがある。
 最初は東海近畿教育研究集会和歌山集会があって、私は生活綴方分科会でレポートするために参加した。まだ30そこそこだった。大阪まで出て、南海電車に乗って、ケーブルに乗ってバスに乗って、遠いなあ、高野山!と思いながらやっと着いた。東寺で十分なのに何でまた弘法大師はこんな遠いところにお寺建てたのかなと思っていた。「朝起きて散歩されるのもいいですよ」と主催者に言われただが、ギリギリいっぱいまで寝ていた。高野山は全く見学せずに帰ってきた。宿坊の大広間で分科会が行われたので、山内をぶらぶらした。門前町のスケールの大きさにビックリした。
 もう一度ここで何か大会が行われたが、何だったか忘れた。その時も大会に参加だけして帰ってきた。
 龍神温泉がいいよと教えてもらって、高野山がスカイラインで結ばれていることを知って行ったのが3回目で、この時初めて奥の院や金剛峯寺の伽藍を拝観した。
 今回四国八十八カ所遍路の仕上げとして奥の院を訪ね、ああ、ここが奥の院だったのかと思い出した。
 納経帳に、高野山のページが最初にある。最後の仕上げをして終わるのが「正しい遍路」である…というようなことが書いているものもあって、私も訪れなければいけないかなと思うようにだんだんなっていた。
■弘法大師信仰 
 高野山の中でも奥の院は弘法大師信仰の中核をなす場所である。
 弘法大師空海に対する尊敬は大きく二つあるようである。一つは真言宗の開祖としてその教えに対する尊敬である。もう一つは弘法大師そのものに対する信仰である。いわば仏としての弘法大師信仰のようなものである。この信仰は他の仏教各宗派の中でも際だって高いのではないだろうか。
 弘法大師に匹敵するような個人信仰のある仏教者が他にあるだろうか。聖徳太子信仰があったらしいことは現在残された聖徳太子像などで知ることが出来るが、聖徳太子を純粋の仏教者と見ることには戸惑いがある。親鸞も日蓮もその宗派の中では尊敬を集めていると思われるが、弘法大師空海ほどの広がりがあるとは言えない。同じ時代に活躍した最澄はその後の天台宗発展の基礎を築かれたが、個人崇拝があって、その尊像が広く拝まれることはないのではないか。私はなぜ弘法大師空海という存在そのものの信仰に発展したのかがよく分からない。しかし、この高野山奥の院にその原因があるように思った。

■弘法大師は生きている!? 
 奥の院駐車場はほぼ満車状態でどこに駐めようかと迷った。今日は水曜日だが人は多いようだ。
 一の橋というところから行くのが正しい参拝らしいが、これは後から知った。次いで二の橋があり、御廟橋まで約2kmの参道に石塔が建ち並んでいる。その数10万とも20万とも言われる。信長、秀吉など歴史上の有名人の墓や、企業の墓、法然や親鸞など他宗派の開祖の墓となかなか賑やかだ。中には重要文化財に指定されているものもある。
 御廟橋から先は写真撮影禁止になる。しばらく歩くと燈篭堂。信者の灯明が捧げられている。その奥に弘法大師空海の廟所がある。この廟所に今も空海は生きているというのが弘法大師信仰を支えている。835年62才で空海は亡くなった。座禅を組み、大日如来の印を結んだ姿で永遠の悟りの世界に入ったという。
 弘法大師が生きている!という話はその死の直後から語り伝えられているようで、死後49日過ぎても顔色が変わらないでひげが伸び続けていたということが死後100年経って作られた「金剛峯寺建立修行縁起」に書かれているのが最初らしい。また、「今昔物語」に東寺と高野山が対立していた時期、東寺長者観賢が、廟を開いたところ、空海がいて、髪を剃ったり衣服や数珠を整えたりして再び封印したとあるそうだ。観賢が921年醍醐天皇から「弘法大師」の名を賜ったことを報告するために高野山を訪れた際の話として伝わっている話である。
 一方で荼毘に付したと読める文書も「続日本後紀」や手紙として残っているようで「弘法大師空海が生きたまま奥の院にいる」という話は謎のままである。今も弘法大師のお世話をする方がいて、食事や衣服を用意し続けているらしいがこれも公になっている話ではないらしい。

■弘法大師を拝む
 燈篭堂の拝む場所、そしてお堂の裏の廟所前、そして燈篭堂の地下にある拝所の三カ所で、四国で買ったお経の本に書いてある全ての真言などを唱えた。そして、無事に今日ここへ来られたことのお礼を言った。全く弘法大師とのご縁のおかげでこの旅がありえたことを感謝した。ゆっくり灯明もお線香もあげた。
 それにしても弘法大師には88回そして今回で3回分併せて91回色々お話しさせてもらった。四国で初め何をお話ししたらよいのかと思った。私が弘法大師を尊敬したり、親しみを持っていたなら何も問題はないのだが、そのどちらでもないので困った。
 それで、弘法大師と自分とのかかわりをふり返ってみることにした。

■おだいっさん 
 「おだいっさん」と子どもの頃祖母から聞かされてきた。「大師」といえば「弘法大師」でその他の「大師」は最澄の「伝教大師」ぐらいしか知らなかった。その他にもたくさんおられるということを最近知って認識を新たにした。
  祖母は私をよく東寺へ連れて行ってくれた。今は近鉄だがその昔の奈良電に乗って、「東寺」へ行った。改札で祖母は「こうぼうさん」と言って切符を買っていた。東寺境内に色々な銅像や石像のある場所がある。その中に亀や墓のようなものがあって、その石造物や仏像一つひとつにお賽銭をあげにいくのが私の役割であった。その中に歩いておられる「おだいっさん」の像もあった。笠を目深くかぶり歩いておられた。弘法さんをしっかり拝むように言われた。「かしこなるさかい」と言われた。弘法大師がどんな方かは知るよしがなかったが、とにかく偉い賢くしてくれる人だと教えられた。
 私が四国遍路から帰ってきてから、祖母は壮年期に四国遍路したことを聞いた。40代に遍路したらしい。町内に講を世話する人があって、その人たちといっしょに何と「歩き遍路」をしたというのである。母親がそんな話をした。父親と母親が結婚する前のことらしいから戦前のことだ。「着物の裾がすり切れて、三枚着替えた」とのこと。祖母は「白衣」に朱印墨書してもらっていたらしく、この「白衣」で旅だった。
 祖母の生家は東本願寺で、嫁ぎ先は西本願寺。いずれにしても浄土真宗である。石川県出身であるから北陸の一向宗である。しかし弘法さんは別だったのではないだろうか。弘法さんは別と思わせる何かがあるのである。

■四国八十八カ所札所の開基や伝説
 私は四国八十八カ所札所は、弘法大師が決められたのだと思いこんでいた。しかし遍路してみて分かったのだが、弘法大師の足跡は感じられなかった。『三教指帰』に四国の室戸のことや太龍寺のある場所のことがその序で書かれてはいることと、出身が讃岐の善通寺辺りらしいということぐらいが確かなことで、他の伝承はパターンが決まっていておそらく弘法大師の死後、だれかによって創作されたものであろうことが想像された。
 開基が行基で再興したのが弘法大師というパターンのお寺が多い。弘法大師開基というお寺も多い。私はこのお二人の仏教者の名前が出てきたら、いつの時代にそういうことになったのかなと思う。四国だけのことではないが、このお二人は仏像を彫って安置したということと、治水や用水確保、温泉湧出(病気回復)伝説が多いことが共通していいる。行基開基というお寺が多いが、具体的に行基がどうしたこうしたの話はないに等しかった。
 これは想像だが、平安時代以後に造られたお寺は弘法大師開基になっているのではないかと思った。そして奈良時代にまで遡る伝承を持つ寺は行基開基になったのではないかと思った。それだけお二人は尊敬を集める方として意識されていたと言うことである。開基がだれであるか、これはあまり意味のないことなのだなと思った。
 衛門三郎伝説が四国遍路の最初だということが今も最有力の説のようである。これについては弘法大師の狭量な慈悲心のない執念深い「ひどい話」だと私は思った。しかしそのように書かれているものはついぞみかけなかった。これは因果応報を教え、弘法大師の強力(超能力)を知らしめるために創作された物語であろうとこれも想像した。この話の成立は中世になるらしいから、事実ではないだろう。弘法大師にお布施をしなかった、あるいは暴言を吐いた人物がひどい目にあった話は、確かもう一カ所あったように思う。これは、後の聖たちが、自分たちの体験を基に創作したもので、弘法大師の実際とは無関係だと私は思うのだがどうであろうか。

■四国八十八カ所を創ったのは…人々の願い
 四国八十八カ所遍路信仰を形作ったものは一つではないと言うことである。歴史の流れの中で様々な要素が融合して、最後四国出身の弘法大師という核のもとに創られたというのが正しいと思う。
 その要素としては以下のようなことが考えられる。
@「辺地」を巡り修行する信仰
A補陀落信仰(観音信仰・極楽浄土求めての渡海)
B熊野信仰の影響(神仏習合)
C一遍(時宗)の影響(浄土思想)
D修験道との関係
E高野聖との関係
F西国三十三カ所霊場巡りの影響
 まだ他にもあるのであろうが、概ねこのようなものが融合したのではないだろうか。
 もともと専門的なプロの僧侶たちの修行の場であった辺地、行場が、民衆も拝みに行くようになって札所へと変化し、遍路道が発生し、その案内本や地図が作成されたり、宿が確保されたり、石の道標が作られたりし出すのは、江戸時代に入ってからのことだそうだ。
 「死者を弔いたい」「神や仏の慈悲にすがり現世の利益をえたい」「迷いから抜け出たい」などの願いを、四国の由緒あるしかも厳しい辺地を巡ることで実現できるのではないかと当時の人たちは考えたのだと思う。さらに時代が進むと観光、物見遊山なども加わったり、通過儀礼的な要素も加わり現在の姿になったであろう。今も四国八十八カ所遍路に人が向かうのは、こういう歴史を持っている四国各地を歩きながら自分を見つめ直したり、取り返したり、作り直したりしたいという願望があるからではないかと思う。
■歩き遍路と車・スクーター遍路
 そういえば思い出したのだが、愛媛(坂出だったと思う)のある札所前にあるお店の方が、「汗ふきタオル」を接待(プレゼント)しながら「どこからお見えになりましたか」と聞いてこられた。「京都です」と言うと、「ようこそ、京都の弘法さん」とおっしゃった。遍路している人は「弘法さん」と同じなのだという信仰があるのだ。
 四国遍路をしている人を敬い接待をするということは四国各地で今も残っている。私はスクーター遍路だからいわば点の遍路である。札所での人との交流しかない。歩き遍路の方は線の遍路になる。歩き遍路をした人が言っていたが、歩いていると自分を拝んでいる人がいたり、わざわざ追いかけてきて、食べ物やお金を預ける人がおられたという。「お寺にお賽銭で入れずに、あなたが何か食べなさい」と言って千円下さった人もいたと言っておられた。
 歩き遍路は私にはできないなと思いながらスクーターに乗っていた。歩いても歩いても次の札所へたどり着かないということに耐えられるだろうかと思う。車遍路をしておられる方と少し話したら「私は6回目だが、私ら車の遍路はスタンプラリーみたいなもんです」とおっしゃっていた。歩き遍路に比べたら全くその通りだと思う。

■再び高野山で
 高野山の廟所で拝み終えた私は御供所へ行った。そこで四国八十八カ所の納経帳を差し出した。そしたら「ご苦労様でした。満願成就おめでとうございます。よくお参りになりました。」と大変丁寧にねぎらっていただいた。「ありがとうございます」とお礼を言ったのだが、素直にうれしくなった。
 終わったなと思った。

■高野山への道
 高野山への道へは車で行った。ナビの命ずるままに名神から大阪市内を阪神高速で通って、河内長野へ出た。そこから橋本へ出て九度山の道を進んだのだが、とにかく九度山からの道が狭い。車で行くには全く適していない。この道は高野山への参拝道で、山の中をこわごわ進んだ。あれ?高野山へ行くバスもあるのになんでナビがこんな道を選ぶのだろうと思った。帰りも九度山の道を案内されて往復怖かった。橋本から奈良を通って帰った。 
 日目  月日曜日 遍路県名  遍路した札所・訪問先   日目  月日・曜日  遍路県名  遍路した札所・訪問先 
    かばのしっぽ四国八十八カ所スクーター遍路旅スタート  1日目 8/14(土)  徳島1   1番札所・徳島市内 
 2日目 8/15(日)  徳島2 2番〜11番  3日目  8/16(月)  徳島3  12番〜22番 
 4日目  8/17(火) 徳島4・高知1  23番〜30番  5日目  8/18(水)  高知2  31番〜36番 
 6日目  8/19(木) 高知3・愛媛1  37番〜41番  7日目  8/20(金)  愛媛2  42番〜52番 
 8日目 8・21(土) 愛媛3  52番〜64番  9日目  8/22(日)  愛媛4・香川1  65番〜77番
10日目  8/23(月) 香川2  78番〜88番  11日目  8/25(水)  和歌山  高野山奥の院