かばのしっぽの
西国三十三カ所巡り2
(山城・近江・大津・京・丹波)

西国33カ所巡り1(1番〜9番)
(紀伊・和泉・河内・大和・奈良)
 
西国33カ所巡り2(10番〜21番)
(山城宇治・近江・大津・山城・京・丹波) 
西国33カ所巡り3(22番〜33番)
(摂津・播州・丹後・近江・美濃) 
西国33カ所巡り
写真集
 
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 かばのしっぽの西国三十三カ所巡りスタートです。
 とまあ始めたのですが、5日間ではとうてい巡れないことが分かりました。4月5日から仕事が始まるので丸ごと一日は使えません。その後は、午後2時か3時頃からは自由な時間がとれそうなので、京都近辺は後回しにして、遠いところを1日かけて巡る計画に変更しました。その結果下のようになりました。
 何とか15日間は連続で般若心経を唱え続けましたが、摂津中山寺・花山院と岐阜華厳寺が残ってしまいました。
 巡るよりこのページ作りの方が時間がかかっています。まあぼちぼちやっていきますのでおつきあい下さい。
 今回は宇治から醍醐を巡り、宇治川に沿って滋賀県へ入り大津市へ。東海道を通り京都市内へ入ります。さらに西山から丹波へ向かします。
第1日目 紀伊(1)清岸渡寺 2010・3・31(水)       
第2日目  紀伊(2)紀三井寺・粉河寺 2010・4・1(木) 第2日目  和泉 槇尾寺 河内 葛井寺  2010・4・1(木) 
第3日目  大和 長谷寺・法起院・岡寺・壺阪寺 2010・4・2(金)  第4日目  播磨 圓教寺・一乗寺・清水寺  2010・4・3(土)
第5日目  近江 竹生島・長命寺・観音正寺  2010・4・4(日)  第6日目  大和奈良 興福寺南円堂   2010・4・5(月) 
第7日目  山城宇治 三室戸寺  2010・4・6(火)  第8日目  山城上醍醐准胝堂 元慶寺  2010・4・7(水) 
第9日目  近江 石山寺・岩間寺  2010・4・8(木)  第10日目  近江大津 三井寺  2010・4・9(金) 
第10日目  山城京 清水寺・今熊野観音寺    2010・4・9(金)  第11日目  山城京 行願寺・六波羅蜜寺  2010・4・10(土)
第12日目  丹波 穴太寺 丹後 頂法寺・松尾寺 2010・4・11(日)  第13日目  山城京 六角堂  2010・4・12(月)
第14日目  摂津 総持寺・勝尾寺  2010・4・13(火) 第15日目  山城 善峯寺  2010・4・14(水)
第16日目  摂津 中山寺 花山院御廟  2010・4・18(日) 第16日目  美濃 谷汲山  2010・4・18(日)

第7日目(2010・4・6・火)
「山城宇治」三室戸寺

第10番札所
明星山 三室戸寺

本山修験宗
千手観世音菩薩
行表和尚
宝亀元(770)年
京都府宇治市
0774−21ー2067
拝観料500円
宝物館300円
8:30〜4:30
納経は拝観終了の30分前
 宇治市は私の住んでいる京都市伏見区と接しています。宇治川に沿って東へ向かえば木幡とか万福寺のある黄檗とかに続いて三室戸になり、さらに進むと平等院のある宇治です。
 この三室戸寺は隠元さん(インゲン豆の由来の方)の黄檗宗万福寺や鳳凰堂の平等院に比べたら知名度では劣るのではないでしょうか。しかしながらどうでしょうか。参拝者数では平等院には及ばないかもしれませんが相当な方々が訪れておられると思います。
 もちろん西国三十三カ所霊場であることが大きいでしょうが、「花の寺」として有名なのです。私は「あじさい」「つつじ」「蓮」「紅葉」の時季に訪れましたがそれぞれに素晴らしい寺です。特に「あじさい」と「つつじ」は広いお庭にツツジ二万株、アジサイ一万株は他に例を見ないスケールの大きさであり美しさです。 紅葉の時や桜の時は三重塔がアクセントになります。
 蓮が咲く頃には、本堂の前の蓮の鉢が一躍脚光を浴びます。蓮酒のことが新聞に出たりもします。
 もう一つこの寺で有名なことは、源氏物語宇治十帖「浮舟」の石碑があり、ゆかりの地らしいのです。
 伏見から木幡そしてこの辺りまで藤原氏の別荘が置かれたり、葬送の地だったりしたそうで平安時代はきっと紫式部も宇治を訪れたことでしょう。
 このお寺へ来るときは先ほども書いたように花を愛でるために来ますからどのような仏様がまつられているのかを思ったことありませでした。宝蔵庫には五体の平安時代の重文の仏様がおられるとか。しかし今回も4時半の閉山ぎりぎりに訪れたため拝むことはできませんでした。 
 今回おたずねした時、桜も終わりかけで、さらに閉山時間ぎりぎりでしたからでしょうか、こんな人の少ない三室戸寺は初めてでした。
 

第8日目(2010・4・7・水)
「山城」上醍醐准胝堂 番外元慶寺

第11番札所
深雪寺 
上醍醐准胝堂
真言宗醍醐寺派

准胝観世音菩薩
理源大師聖宝
卓観16(874)年
京都府京都市
075−571−0029
8:30〜17:00
無料
伽藍・三宝院・霊宝館は
600円
   醍醐寺…私の住む京都市伏見区にあります。しかしながら、私の住む桃山と醍醐寺のある醍醐地域は山一つ隔ててあちらとこちらなのです。
 中学生の時自転車で桃山を超えて醍醐側へ降りたときは感動しました。突然視界が開けて知らない土地が現れたのです。そこが小栗栖。そうです。明智光秀が山崎の合戦後敗走するときに殺された場所です。この小栗栖という場所は私の子どもの頃は「やいと」で有名な場所でした。その小栗栖から醍醐のお寺まで田んぼと畑だけでずーっと見渡せたとを覚えています。
 自転車で山越えをした私たちは必然醍醐寺へ向かいました。その頃醍醐寺は入山料などというものをとるようなお寺ではなく(これはかなり最近までそうでした)自由に金堂や講堂や五重塔の前まで行けました。私たちは雪が降ったと言っては上醍醐へ行き(雪ですべって遊んだのです)ひまやからといっては醍醐寺へ行きました。今醍醐の山を登ったらヒイヒイ言いますが、その頃は何ともありませんでしたから、何度も行きました。自転車はふもとの里の牛乳屋さんに預かってもらって、帰りに牛乳呑んで帰ったのです。家族でお弁当もって「花見」をしたこともありました。醍醐水という井戸水のある上醍醐、五大力さんのお札の醍醐寺は私には子どもの頃からなじみのあるお寺です。
 西国三十三カ所である准胝堂が雷のため全焼しました。ですから上醍醐の登り口にある「女人堂」が今その代行をしています。下のお堂がそうです。
 上の山門が金堂などのエリアへの入り口でここから有料です。私は国宝五重塔の内部を特別拝観の時に見せていただいたことがありますがきれいでした。ちなみにこの醍醐寺の五重塔が京都市内で一番古い建造物だとか。京都に平安時代の建物は案外残っていないのです。戦火で燃えてしまったというのですが、それは第二次世界大戦ではなく応仁の乱だというところがすごいというか何というか京都です。

 豊臣秀吉の醍醐の花見は有名です。現在の京都でも桜の名所の一つ。
   
番外
華頂山 元慶寺

天台宗
薬師如来
遍昭僧正
貞観11(869)年
8:00〜17:00
境内自由
京都府京都市山科区
075−581−0183

 
   京都市伏見区醍醐は京都市山科区とつながっています。山科盆地の北側が山科区で南側が伏見区醍醐なのです。京都市地下鉄東西線が京都市内から山科まで延びさらに南へ木幡まで来て、市内へ出るのにずいぶん便利になりました。
 醍醐寺と同じ日に訪れた元慶寺は山科にありますから、同じ山科盆地内にあることになります。
 元慶寺…へえ?どこにあるの?と思いました。今回行ってみて分かったのですがもう20年ほど前に醍醐地域の学校に勤務していて京都市内の会議に出席する時に通った細いけれど抜け道として便利な道の途中にありました。
 へえ!こんなところに西国33カ所霊場番外のお寺があるのかと思いました。西国三十三カ所中興の祖「花山天皇」が19歳の時ここで出家得度されたのだそうです。
 この寺の開基は遍昭僧正です。この人は六歌仙の一人で「あまつ風 雲の通い路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばしととめん」の作者です。そして小野小町の恋人だったのではないかとも言われる人です。
 上の写真が入り口です。龍宮造りの唐門です。入ってすぐに下の本堂があって、納経所は一番奥にありました。納経所にはご住職がお一人座って私たちを対応してくださいます。

   
   

第9日目(2010・4・8・木)
「近江」岩間寺 石山寺

第12番札所
岩間山 正法寺
(岩間寺)

真言宗
千手観世音菩薩
泰澄大師
養老6(722)年
8:00〜16:30
入山料300円
滋賀県大津市
077−534−2412
 宇治川沿いの道を岩間寺へ向かっていったのですが途中で分からなくなりました。結局通り過ぎて石山寺へ先に着いたので石山寺から参拝することにしました。その後に引き返しました。京滋バイパスが通っているところを琵琶湖と反対側へ進んでいくと辿り着きます。巡礼道としては上醍醐から歩けます。私も歩いて行ったことがあると思うのですが、今回行ってみて初めてのような感覚に陥りました。私の抱いていたイメージと違ったのです。
 この寺の開基は泰澄。泰澄が自作の桂の木の千手観音を安置したのがこの寺の始まりと伝えられています。泰澄は白山信仰をもとに役行者から始まる神仏習合という日本的宗教観確立の上で大きな役割をした僧です。泰澄は修験の道をすすめた人物でもありますから法力で不思議な現象を起こす力があったと伝えられています。本尊は秘仏の15cmの金銅仏だそうです。泰澄がその法力で雷を戒めたというので「雷よけ観音」と呼ばれているそうです。また衆生の苦を救うために毎晩136の地獄を駆けめぐり「汗かき観音」とも呼ばれているのだそうです。
 この寺に有名な池があります。「蛙池」という名です。あの芭蕉の「古池や かわずとびこむ 水の音」の句碑がこの寺にあります。ということは芭蕉はこの寺であの句を詠んだのでしょうか。
 西国三十三カ所霊場巡りをしていて、いくつかのお寺は他にもたくさんの○○霊場巡りのお寺でもあると言うことが分かりました。この寺は「ぼけ封じ近畿観音霊場の第4番札所」でもありました。ぼけ封じ…これはだれしも深刻なことです。
 しかし、今どき雷封じの御利益を得たいと訪れるかtらはおられるのでしょうか。避雷針ができてからあまり神や仏に頼ることがなくなったように思います。「地震・雷・火事・おやじ」とよく言いますが「雷」は確かに怖いですが、「おやじ」同様すっかり権威が落ちているように思います。
第13番札所
石光山 石山寺

東寺真言宗
如意輪観世音菩薩
良弁僧正
天平勝宝元(749)年
8:00〜16:45
拝観料500円
滋賀県大津市
077−537−0013

 石山寺は言わずとしれた紫式部と縁のあるお寺です。本堂に「源氏の間」という所があり、源氏物語を執筆している紫式部の人形があります。紫式部がこの寺に参籠して源氏物語の構想を練ったと言う話は中世の注釈書などに盛んに出てくるそうです。寺伝にもあるそうです。ことの真偽は分かりませんが、いつの頃からか執筆したことが常識として定着したのでしょう。
 何れにしても、この地が琵琶湖や瀬田川の景勝地として大宮人に人気があったようで式部も来たことがあったのは確かでしょう。
 この寺の多宝塔(下の写真)は大変美しいと思います。源頼朝の寄進で建立されたようで、日本最古の木造多宝塔で国宝です。
 この写真ではわかりにくいのですが、この多宝塔の下に石山寺という名の由来になっている石山があります。石灰岩がマグマの噴出による熱作用で変化した珪灰石(けいかいせき)だそうで、一つひとつの塊ががなり大きいものです。この石にお賽銭を挟み込むことが流行っているようで、初めて見たときにはビックリしました。
 この寺の開祖良弁は東大寺開山堂に祀られている奈良時代の有名な僧。聖武天皇の命を受けて東大寺の開山に尽力しました。この地が平城京や東大寺建設のための木材の集積地だったのでこの寺が建てられたらしいのです。しかし「石山寺縁起」によると、黄金を求めて旅に出た良弁がこの地で蔵王権現の夢のお告げを受けます。そのお告げ通り如意輪観音を安置したところ東北地方から大量の黄金が出たという話になっています。
 良弁の弟子が道鏡だそうで、この道鏡がこの寺を一大伽藍の大寺にしたのだそうです。
 近江八景に「石山の秋月」があります。月の名所でもあるのです。湖や池のある場所は月の名所になっているようです。
 私が訪れた4月8日はお釈迦さんの誕生日で「花まつり」。私は前から不思議なのですがなぜ仏教界こぞって大々的に「花まつり」されないのでしょうか。信者でもないのにキリストの誕生日は大騒ぎする日本で、お釈迦さん軽視は仏教界の責任だと私は思うのですが。石山寺は門前で「花まつり」してました。

第10日目(2010・4・9・金)
「近江」園城寺(三井寺)

第14番札所
長等山 園城寺

(三井寺)
天台寺門宗(総本山)
如意輪観世音菩薩
(観音堂)
大友与多王
朱鳥元(686)年
8:00〜17:00
拝観料500円
滋賀県大津市
077−524−2416
 三井寺へ前回行ったのは、円空さんを探しに行ったときです。(円空さんを訪ねる旅2「三井寺」)今回も金堂におられる円空さん見せてもらいました。2回目の今回の方が心に届きました。
 その前はレンガ建築を求めて琵琶湖疎水を琵琶湖側から京都まで歩いたときでした。(明治の大事業琵琶湖疏水)長等山は琵琶湖疏水が貫通している山です。そして長等山を通って京都に入る道が小関越えという道です。この道は大関越えに対するもので、大関越えは逢坂山を越える東海道なのだそうです。
 その前は、大津絵を見に行ったときでした。(大津絵)
 その前は…もうそれはなんとなくどんなお寺かを見に行った時です。西国霊場であることはその時分かったように思います。ですから観音堂へは行っていたことになります。
 このお寺は「三井の晩鐘」で近江八景に入っています。日本三名鐘です。そして弁慶がゆかりの「弁慶の引き摺り鐘」も保管されています。
 同じ天台宗なのですが、比叡山延暦寺は山門派、この三井寺は寺門派。両者は近親憎悪としか思えない抗争を繰り広げ、山門派は三井寺を焼き討ちするなどしました。弁慶は山門派の僧ですから、この寺で暴れて鐘を奪ったことになります。
 三井寺の「みい」は「御井」だそうです。金堂横にその井戸があり今も音を立てて水がわき出ています。不思議な音です。この井戸水が天智・天武・持統三人の天皇の産湯になったのだそうです。
 私が訪れた日、観音堂の中の観月舞台でかっぽれの奉納があったようで踊り終えられた方がおられました。しかしなぜまた「かっぽれ」なのかなと思いました。「かっぽれ」という踊りは確か江戸のものだと思うのですが、ここの観音さんは江戸好みなのでしょうか。
 ちょうどご本尊の御開帳と遭遇しました。本堂内内陣へ入れていただき間近で般若心経をあげることができました。右の膝を立てて座し、三臂を持つ思惟像です。なかなか美人というか男前というか艶やかなお顔立ちと姿態です。頭の宝冠が豪華です。平安時代の仏様で重要文化財に指定されています。31年ぶりの御開帳に出会えました。

第10日目(2010・4・9・金)
「山城京」今熊野観音寺・清水寺

第15番札所
新那智山 観音寺
(今熊野観音寺)

真言宗泉涌寺派
十一面観世音菩薩
弘法大師
天長年間(824〜834)
京都市東山区
8:00〜17:00
境内自由
075−561−5511
 今熊野…最近熊野になったのですよというような名前です。東大路七条を南へ「新(今)熊野神社」があります。この神社、後白河法皇が熊野三山を勧請したそうですから京都に熊野権現のお力をと願ったのでしょう。「今」と言っても800年前になるのですから歴史を感じさせます。院政の時代に「熊野詣」が盛んであったことが偲ばれる神社であり名称です。ついでに今熊野神社は観阿弥世阿弥親子が足利義満と出会った場所としても有名で、京都での能楽発祥の地になっています。樹齢850年という大楠が目立っています。ちょうど東海道線が京都駅から東へ、東山連峰のトンネルに入る辺りにあります。
 今熊野観音寺…おそらく京都に住んでいる人でもご存じない方が多いのではないでしょうか。泉涌寺のさらに奥(東)に位置するのですが私も泉涌寺までは行ったことがありましたが、観音寺まで足を伸ばしたのは最近です。現在は泉涌寺の塔頭です。しかし盛んだった頃は二十町の広大な境内で鴨川から観音寺大路が通じていたのだそうです。
 弘法大師が開かれたそうです。月輪山にあるこの場所は観音ゆかりの地であるという白髪の翁の言を弘法大師が嵯峨天皇に伝え、建立されたとか。
 そういえば、お寺の階段前に「子まもり大師像」という珍しい弘法大師の像がありました。弘法大師と言えば笠をかぶって歩くお姿だったり、手に法具を持ってお座りになっておられたりが多いようです。しかしここの弘法大師は、子どもたちが足元に集まっているという姿です。弘法大師が子ども好きだった…それは初めて聞く話でした。
 もうだいぶ前になりますが、山科に古くからある道に道標があったので、読んでいたら、「かんのんじ」の名前がありました。おそらく滑石街道を通って今熊野へ出る道を案内しているのだろうと想像しました。その時に「今熊野観音寺」って昔(江戸時代)は道標の目安になるぐらい有名だったのだなと思いました。先ほど書いたように西国三十三カ所霊場巡りに興味のある人はご存じでしょうが、私は「観音寺」ってどこだろうと思いました。滑石街道も京の都と山科をつなぐ重要な道だったようです。大津の三井寺から番外の山科元慶寺を通り滑石から観音寺へが巡礼道だったのでしょう。
第16番札所
音羽山 清水寺

北法相宗(大本山)
十一面千手千眼観世音菩薩
延鎮上人
宝亀9(778)年
京都市東山区
6:00〜18:00
境内自由
本堂300円
075−551−1234
 清水寺へは三井寺から国道1号で帰ってきて、清閑寺から歌の中山を経て子安塔付近の入口から入りました。表の清水道へ回っていたら時間がなかったのです。こういう道を知っているのが地元のものの強みです。この道は東山トレイルを歩いているときに知りました。子どもの時、父親によくこの寺は連れて行ってもらいました。弁慶の大きな鉄下駄や錫杖を覚えていますし、音羽の滝も清水の舞台も子どもの頃から馴染みがありました。
 満開の桜でした。こんな時季に訪れたことがなかったので感動いたしました。それにしても絵になる景色と建物です。桜、紅葉はもちろん彼岸花もサツキもみんな美しいお寺です。
 清水寺と言えば、故大西良慶さんが百八歳の時「かもがわ」という文字を書いてもらいそれをいただきに行ったことがあります。故松本大圓というこれまた有名なお坊さんとお話させていただきました。お二人とも平和運動に熱心な方でした。
 私が清水寺のことで紹介しているのは上方落語と石仏です。上方落語に清水寺が出てくるのがいくつかあります。「はてなの茶碗」・「景清」「殿集め」などです。また石仏も興味あるものがいくつかあります。
 最後の教え子たちにこの3月卒業遠足で市内見学を計画させました。その時清水寺へ行きたいというグループが多かったのですが、入山料拝観料は、清水寺が一番安いことに気づきました。大人から500円とか600円とか入山料を徴収されるのは致し方ないと思いますが、小学生は無料にしてほしいと私は思いました。子どもは300円という寺院が多く、3カ所回れば交通費を合わせると千円を超えるのです。これでは市内見学も計画できかねるのです。京都の子どもたちが歴史学習で学んだことから世界遺産に登録されている神社仏閣に興味を持って巡れるように京都仏教会で小学生無料を実現してもらえないかなと思うのですが。でも修学旅行生が大きな収入源でしょうから難しいかな。
 数年前の秘仏公開で本尊を拝ませていただきました。両手を頭上で合わせる独特のお姿でした。今回本堂の観音さんに一番近い場所まで近づいて「般若心経」あげていて気づいたのですが、内陣にたくさん仏像がありました。暗くて定かでないのですが相当な数でした。今まで全く気づいていませんでした。

第11日目(2010・4・10・土)
「山城・京」(六波羅蜜寺・革堂)

第13日目(2010・4・12・月)
「山城京」六角堂

第17番札所
補陀洛山 六波羅蜜寺

真言宗智山派
十一面観世音菩薩
空也上人
天暦5(951)年
8:00〜17:00
境内自由
宝物館600円
京都市東山区
075−561−6980
 六波羅蜜寺のある場所は平清盛ら平家一門の館のあった場所であり、鎌倉時代六波羅探題のあった場所でもあります。六波羅密は菩薩が涅槃に至る6つの修行方法ですが、地名の六波羅(六原)は髑髏(どくろ)の原の意味だそうで、この辺り一帯は鴨川より東にあり、葬送の場所鳥辺山へ続くところだったからの命名とか。今もこの寺の町名轆轤町は清水焼の轆轤の意ではないとのことです。詳しくは「幽霊飴」参照下さい。
 そういう場所に庵を結び、京の都で疫病で行き倒れたり捨てられた人々の骸を集めて供養したり、十一面観音を刻んで車に乗せ、観音に備えた結び昆布と梅入りの「皇服茶」を人々に飲ませた空也上人はえらい方です。そして首から鉦鼓をかけ撞木を持ち破れた衣もまとって念仏を唱え庶民を救済して回られた空也上人を「市の聖」とみなが尊敬したのは当然のことだと思います。いくら素晴らしい仏教理論を確立されたえらい僧侶もその時代の人々にとって、そのすばらしさが分からなかったことでしょうが、行基や空也そして忍性などは民衆とともにを実践された方々で日本仏教の良識を示していると思います。その昔坊さんは国が認めた人しかなれなかったようです。しかし民間にも「聖」と呼ばれるお坊さんがおられたのです。この人たちの中の代表的な存在が、行基であり空也であり円空でありなのです。
 六波羅蜜寺は「都七福神」弁財天でも私は訪れました。7年間正月に続けて訪ねました。そしてここにも私の興味ある石仏があります。
 私がこのお寺に一番興味を持って訪れたのは大学生の時でした。このお寺の宝物館の諸像群に興味があったのです。平清盛像、運慶像ももちろん教科書にも出てきて有名ですが、何と言っても空也上人立像が見たかったのです。草履を履いて鹿の杖をつき口から「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えているのを六体の阿弥陀で表現している像は空也上人を見事に表現していると思います。
 本堂の主尊十一面観世音菩薩は秘仏で、昨年11月に9年ぶり開帳されたようです。
第18番札所
紫雲山 頂法寺

(六角堂)
如意輪観世音菩薩
聖徳太子
用明天皇2(587)年
6:00〜17:00
境内自由
京都市中京区
075−221−2686 
   雨が降っていました。本堂横の柳が見事で見ほれてしまいました。柳に雨はぴったりです。
 六角堂の前の通りは六角通り。「姉三六角蛸錦…」と続く京都の通りを歌ったわらべ歌の中にも出てきます。お堂が六角形なので六角堂です。本堂の前方に「へそ石」という六角形の礎石があります。この礎石、平安遷都の時六角堂が道路の真ん中にあったので天皇が使者を立て移動するように祈願したところ一夜でお堂が礎石一つ残して北へ15m退いた伝わるそうです。ま、この辺りが昔も今も「京都のへそ」=中心付近であるということなのでしょうか。この寺の近辺は京都のビジネス街四条烏丸から徒歩5〜6分の場所。ここはかって下京の町衆の集会所(町堂)だったとか。この寺の鐘が火事などの災害なども知らせたとか。
 この寺の開基は聖徳太子。そんな寺が京都にあることを知りませんでした。聖徳太子がこの地に四天王寺の用材を求めて来られたときに泉を見つけ沐浴されたそうです。その時に護持仏を多良の木にかけておいたら木から離れず光を放ってお告げをしたのだそうです。
 この寺にものすごく大勢の人が集まられる時があります。この寺の住職は「華道家元 池坊」なのです。寺に池坊の会館があります。全国からその門人が集まられて生け花の発表会(?)をしておられるのを昨年見せてもらいましたが、すごいエネルギーだなと思いました。下世話なことで恐縮ですが「花屋さん」も家元も儲かるやろうなと思ってしまいました。 この寺の如意輪観音さんのお姿はいつでも見せていただけます。ただし、お堂の全面に亀甲紋の鉄格子があります。この鉄格子何でかなと思ったのですが、「鳩」避けなのかもしれません。
 私がこの寺に興味あることの最後です。ここは親鸞聖人が比叡山で修行中、自分の煩悩に悩まれて、この寺にお籠もりなった時のエピソードです。夢で観音さまが現れて、親鸞さんの女犯の相手をしてやろうとおっしゃったというのです。この話親鸞という方を理解する時に欠かせない話だと私は思っています。都合のいい話だなと思う反面、正直な方だなとも思う話です。
   
   
第19番札所
霊ゆう山 行願寺
(革堂)

天台宗
千手観世音菩薩
行円上人
寛弘元(1004)年
8:00〜17:00
境内自由
京都市中京区
075−211−2770
 行願寺というより革堂の方が京都の人間には分かりやすいでしょう。
 この日は大阪まで文楽を見に行く予定が入っていました。しかし西国霊場巡りを続けようというので朝早くに出発して8時に革堂に着きました。この本堂は西向きなのでまともに朝日が来て写真は上手く撮れませんでした。
 革堂へ来たのは…覚えているだけで10回目です。「都七福神巡り」で7回。石仏巡りで2回。そして今回西国霊場巡りで1回。
 都七福神巡りでは寿老人がおられます。
 石仏で思い出すのは、革堂の石仏(大日如来)が国立京都博物館の庭にあるのです。なかなか立派なものです。どうして博物館にあるのかなといつも思います。
 この寺の境内に立派な五輪塔があります。何でも室町時代のもので珍しいのはくりぬいてあることです。初めて見ましたし、それ以降も他では見たことがありません。
 何でもこの寺は室町時代上京町衆の町堂の役目を果たしたようです。下京の町堂がこのあと紹介する「六角堂」だそうですから、上京下京の町堂が西国三十三カ所観音霊場に指定されているということになます。なぜなのでしょうか?何か理由がありそうなのですが分かりません。
 革堂…なぜ革なのかです。何でも行円上人という方は僧になる前狩人だったそうです。ある日射た鹿のお腹に子鹿がいたことから殺生の罪深さを知り仏門に入られたとか。この方も空也上人同様「聖」です。行円は鹿皮の衣をまとっていたので、「革聖」(かわひじり)と呼ばれたそうです。
 空也にしても行円にしてもその風体はかなり異様ですが、彼らの活躍した時代の「聖」はこのようなものだったようです。行円は空也から30年ぐらい後を生きたようです。
 この寺は尼寺です。庵主さんは革堂が廃れていたのを立て直すのにご努力された有名な方です。今も元気に「次は分かっておられますか」と次の札所への行き方を尋ねて下さっていました。

第15日目(2010・4・14・水)
「山城」善峯寺

第20番札所
西山 善峯寺

天台宗単立
千手観世音菩薩
源算上人
長元2(1029)
8:00〜16:30
拝観料 500円
京都市西京区
075−331−0020
 「善峯さん」は京都市なのですが「西京区」にあります。西京区というのは右京区から分区した比較的新しい区で、桂川の西側に開けた洛西ニュータウンなど新興の住宅街のイメージの多い区です。善峯寺は乙訓にある光明寺・揚谷寺とともに京都西山三山と呼ばれています。京都市内ではありますが、どちらかというと、川向こうの乙訓地域のイメージが大きいところです。
 この善峯さんを私が訪れるようになったのは、花の寺としてです。「秋明菊」が似合う寺なのです。それから紅葉です。「そうだ京都行こう」JR東海キャンペーンで取り上げられたときは、善峯さんへ向かう細い道がにっちもさっちもどうにもならない状態になったとタクシーの運転手さんが言っていました。あのポスターは確かによかったです。
 桂昌院(徳川綱吉の母)関連のものが多く残されている寺です。江戸時代に桂昌院が復興に尽力jしたようです。桂昌院の生誕地の石碑、京都市上京区堀川丸太町上がる西入る辺りで見かけたことがあります。八百屋の娘だったとか聞いたこともあります。京都にゆかりのある方だったようです。
 「遊龍の松」というのがあります。地面をはうように樹齢600年の五葉松が伸びています。元は54mあったそうですが、平成6年に松くい虫のため15m余りきり現在は40mだそうです。
 本尊御開帳しておられました。正々堂々の御開帳でした。というのは御開帳とは名ばかりでほんの少し扉が開いているだけの御開帳とか、遠い遠い場所から垣間見えるだけのけちくさい御開帳もあって、その程度なら開けるな!と思うような御開帳もあるのです。善峯さんは開放的な御開帳でした。本尊十一面千手観音は仁弘法師作、脇立は源算上人作の十一面千手観音。両方とも見せていただきました。内陣へはいると3歳ぐらいの子どもとお母さんがおられました。子どもは木魚をたたいて遊んでいました。お母さんが注意するのですが聞きません。私が「般若心経」をあげだしたら、さすがにお母さんも真剣に注意して子どもを外に連れ出されました。般若心経を本尊と脇立両方の観音さんにあげたのですが、私の好みで言うと脇立の観音さんの方が優しくて好きです。
 この寺へ行く途中に東映の時代劇スターの二代目でカジキマグロなどのフィッシングでも著名な俳優さんの自宅がありました。今そのお宅は当時のままで違う方がお住みのようです。

第12日目(2010・4・11・日)
「丹波」穴太寺

第21番札所
菩提山 穴太寺

天台宗
聖観世音菩薩
大伴古麿
慶雲2(705)
8:30〜16:30
境内自由
本堂・庭園セット500円
どちらか300円
京都府亀岡市
0771−24−0605
 穴太寺と書いて、「あなおじ」と読むそうです。初めて訪れました。初め本堂の外から拝ませてもらって、納経所で朱印をいただいて、西国霊場巡りの御詠歌のCDはないのかと訊ねました。CDショップにあるのではないかとおっしゃいました。なるほどそいいえばそうだと思いました。祖母のお通夜に近所の方々が7〜8名来てくださって御詠歌をあげてくださったことを覚えています。その時初めて聞きました。確か休憩が入って、かれこれ1時間半ぐらいかかったと思います。私は三十代前半だったのですが、辛気くさいと思いました。しかしその哀調を帯びたメロディは印象に残りました。この寺で御詠歌のことを思い出したのも何かの縁ですから、CDをと思ったのですがなくて、結局六角堂へ行った日に大丸のCDショップで購入しました。
 穴太寺は本尊開帳中でした。御前立ちも重文の本尊もすぐ目の前で拝ませていただき、般若心経をあげることができました。御開帳は27年ぶりとか。いいときに行かせていただきました。
 このお寺の本堂右側に釈迦涅槃像があります。布団をかぶせてもらっておられます。このお釈迦さんは「なで仏」で、病気平癒を願われる方々がなでられるので、黒光りしておられました。私もなでさせていただきました。頭を中心にあちこちを。だいぶ前に新聞で書いてあったなあ、このお釈迦さんのことと思いながらなでました。ここだったのかと思いました。
 この近くまで行ったことがあります。彼岸花の写真を撮りに行ったのです。この周辺は田園風景の広がる場所です。亀岡市曽我部町です。曽我部で思い出しました。ずいぶん若いときに曽我部小学校で授業をしたことがありました。作文教育に熱心な校長先生がおられたのです。
 京都市内から亀岡へ行くには、老坂峠を超えていきます。、しばらく前は渋滞のおこる峠でした。老坂を越えて亀岡へ入ると霧です。亀岡は盆地で、霧が発生しやすい地形のようです。ここから霊場は摂津へ向かいます。亀岡と摂津は直接つながっています。国道171号で高槻や茨木を通っていたら、亀岡へ向かう道がいくつもありました。
西国33カ所巡り1(1番〜9番)
(紀伊・和泉・河内・大和・奈良)
 
西国33カ所巡り2(10番〜21番)
(山城宇治・近江・大津・山城・京・丹波) 
西国33カ所巡り3(22番〜33番)
(摂津・播州・丹後・近江・美濃) 
西国33カ所巡り
写真集
 
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