円空さんを訪ねる旅(2)
(滋賀県大津市)
大津市三井寺(園城寺)
三井寺は園城寺とも言い、天台宗寺門宗の総本山である。平安時代智証大師円珍が天台別院として中興された寺だ。
その大本山三井寺に円空が七体の像を残している。滋賀県には九体が確認されているようであるが、うち七体が三井寺にあるものであり、何れもが善女竜王像である。
私が三井寺を訪れた時国宝金堂は修復中であった。円空仏七体は金堂内裏手売店の前に安置されていた。昭和38年1月、右の写真重文一切経蔵の八角形輪蔵の上にある龕(がん:仏像をおさめる厨子)から七体の円空仏が発見されたという。
円空仏が脚光を浴びるのは、昭和32年に行われた岐阜県立図書館で開催された「円空上人彫刻展」であったそうだ。見つかった時はおそらくニュースになったのであろう。
当時円空の仏たちは今のようにその価値を認められることなく、ひっそりと祠の奥深くにあるいは仏壇の奥にしまわれてきたであろう。そらく三井寺の円空仏もいつの間にか忘れ去られていたものが円空の評価が上がったことで発見されたものと思われる。
なぜ三井寺に?
円空は現在岐阜県関市にある弥勒寺の住職をしていたことがある。円空は、北海道を始め全国各地を造仏聖として歩き回って十二万体の仏を彫って回ったということが有名だ。旅を続けて造仏活動をするだけなら自分の宗派を明確にする必要はなかったと思われる。所謂世間で通用するような肩書きも必要なかろう。しかし自坊をもつとなると何宗の寺にするかを決める必要があったのではないだろうか。法隆寺でも僧としての資格をとっているようだ。しかしここ三井寺は役行者を尊敬していた円珍の寺である。おそらく修験道のつながりで三井寺で血脈を受けることが自然だったのではないだろうか。
円空は三井寺を足繁く訪れ、元禄二年(1689)時の長吏、尊栄大僧正から血脈(けちみゃく・師から弟子に授ける法統)を受けている。そして、弥勒寺は三井寺の末寺として認められ、荒廃していた弥勒寺の再興に努めている。現在尊栄長吏から弥勒寺を末寺とすることを認める書状が残っている。
三井寺に残されている七体の仏たちはそのお礼に残されたものではないかと考えられる。
なぜ善女竜王像ばかりなのか?
三井寺は7世紀の大化改新、壬申の乱、近江京の時代の三天皇の産水を湧出したという井戸を持つ寺である。このことを円空も配慮して善女竜神像を彫ったのではないだろうか。この井戸、未だに水が湧いている。そしてその湧き出る音がする。覗いていると不思議な感じがする。金堂のすぐ横にある。
*追記 と、私は想像したのであるが、五来重著「円空と木喰」には次のような記載があった。
大津三井寺は、寺門派天台修験の本山であるから、寺門派末派修験である伊吹山太平寺に所属する円空が、しばしば足を運ぶのは当然である。私もここの経蔵には戦前からしばしば入って、慶長七年(1602)毛利輝元寄進の八角輪像の龕には、傅大士像をまつってあるときいてあやしまなかった。しかしこれも円空ブームの結果、最近円空仏であることがわかった。七体だけで、一体不明とのことであるが、一体だけでみれば善女竜王であるが、八体揃えば八大竜王であろう。建築用材の残材か修理廃材をつかったらしく、様式は円空中期の特色を持つから、延宝7年のときの作とすればちょうど合うであろう。
重文閼伽井屋(あかいや) お寺の井戸のことを閼伽井と言う。この井戸は天智・天武・持統三天皇の産水に使われたと言われており、三井寺の名はここから名付けられたということである。 |
左甚五郎作龍の彫刻 この彫刻は重文園城寺閼伽井屋(あかいや)の龍の彫り物で左甚五郎作と伝えられているものである。 |
私が、金堂売店で購入した絵はがきである。三種類あった。
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