円空さんを訪ねる旅(33)
2012・4・1(日)撮影
2012・5・3(木)作成
津市白山町浜城観音堂
(三重県津市白山町二本木)
浜城観音堂 | 浜城観音堂内陣 |
左の観音堂の内陣が右です。真ん中に観音様がおられて、右側の厨子に円空作「金剛界大日如来」像が祀られていました。現在白山町の指定文化財です。左側には青面金剛神像が祀られています。青面金剛神という神様は私にはなじみがないのですが,円空さんもよく彫っておられるようです。名古屋より東で信仰があった神様のようです。
(1)円空さんに会う方法には
今まで「円空さんを訪ねる旅」で紹介してきた円空さんは、自分で行こうと決めて何とか探したり見つけたりしてきたものでした。
でも今回は違って、バスツアーで行ってきた円空さんです。「円空と木喰 信者」さんが掲示板でお誘い下さいました。企画主催は中日新聞社・栄中日文化センター、そして旅行主催は鯱バス株式会社、講師は小島梯次(円空学会常任理事)さんと、まあ何の心配もなく連れて行っていただけた上、解説までしていただけるというありがたい旅でした。
こういう機会があることをそもそも知りませんでした。なるほど、名古屋中心の中京圏では円空さんを訪ねる旅もあるのだなと思いました。
今回訪れた円空さんは3カ所におられました。3回に分けて、見聞してきたことと思ったことをまとめてみようと思います。
(2)『三重へ円空さんを訪ねて』ツアー
■目的地 津市白山町浜城観音堂・津市下弁財町真教寺閻魔堂・三重郡菰野町明福寺
■日時:2012・4・1(日) 8時集合 8時10分出発
■集合場所:中日ビル西側正面(市営東山線栄下車・12or13番出口徒歩1分)
■参加代金:13,500円(昼食つき)
私は、当日自宅近くのJR藤森駅6:16発の京都行きに乗車しました。そして京都6:38分発の新幹線で名古屋まで行き(7時14分着)、地下鉄に乗り換え、栄駅には7時33分に着きました。集合場所はすぐに分かりました。
(3)津市白山町浜城観音堂の金剛界大日如来
(1)浜城観音堂のある場所と発見の経緯
浜城観音堂のある場所のすぐ近くを近鉄大阪線が通っています。津市側から言うと大三駅と榊原温泉口駅の間にあります。大三駅から歩いてもたいした距離ではなさそうです。165号から北へ入った集落の中に観音堂がありました。この165号という道路は、途中で北へ行くと伊賀街道、西へ向かうと初瀬街道(室生寺や長谷寺がある)へ繋がっています。私は円空さんの極初期像が発見された場所がここであることに意味があるように思えたので、地図で確認しました。このあと訪ねた真教寺の十一面観音像も初期像の可能性があり、法隆寺との関係も考えられるということですから、奈良法隆寺と伊勢をつなぐ道沿いで発見されたことの意味がありそうに思いました。
この極初期像は平成16年12月に新聞でその存在が公開されました。伊勢市にある中山寺の文殊菩薩像(25.0cm)の発見に次いで三重県での極初期像の発見となりました。
梅原猛著「歓喜する円空」に発見時のエピソードが書いてあります。何でも円空学会理事長の長谷川公茂さんと梅原さんが中山寺の住職から「こんなものが倉庫から見つかりました」と見せられたとか。そのことを中日新聞社が記事にし、それをご覧になった浜城観音堂から長谷川氏のところへ連絡が入ったとのことです。
(2)円空さんの金剛界大日如来
智拳印を結んだ金剛界大日如来像です。岩座の上に蓮華座があります。その上に座しておられます。高さ33.5cm。私は本地垂迹説では天照大神は大日如来に比せられると言うことから、この像があることの意味を考えています。円空さんはこの観音堂で天照大神を彫ったのではないかと想像しました。
この印を結んだ円空さんはもう一体法隆寺にあります。法隆寺のものは目が穏やかです。そして頭に化仏を冠しておられます。高さは79cmと浜城の2倍強。岩座と蓮華座は同じですが、岩座が相当高く作られています。法隆寺に大日如来という組み合わせも合点がいかないのですが、これは江戸時代の法隆寺がどういう状態であったのかが分からないと推論できないのではないかと思います。
極初期像の特徴は、「概して小像が多い」「蓮座左右の出っ張りを持つ」「丁寧な彫りである」「「表面が滑らかにされている」だそうです。そして美並町27体、郡上八幡市3体、関市4体、岐阜市4体あるそうだ。(「円空の作品と生涯」小島梯次『円空・木喰展〜庶民の信仰の系譜〜』ガイドブック2009)
この像を見ますと、確かに丁寧な彫りであり、蓮座左右に出っ張りがあります。この出っ張りは衣の裳が様式化したものという説明でした。
この目はすごくつり上がった目です。真横から見たらずいぶん違和感があります。しかし真正面から自分と同じ高さ、もしくは下から拝むと必ずしもきつい感じはなくなり優しい感じになります。美並にある「八面荒神」や「山の神」と同じ目です。
中山寺の文殊菩薩(25cm)を2005年の円空展で拝見しているようなのですが記憶にありません。ガイドブックで見る限りよく似ています。いずれも座像で、岩座の上に蓮華座です。そしてこの特色ある目です。そして背面に線を彫っています。頭髪の細かい彫りも同じです。耳の形もほぼ同じと言っていいと思います。
(3)極初期像発見「えらいことになった…」
中山寺の円空さんが見つかったとき、長谷川さんが「たしかに円空仏ですが、えらいことになった」とつぶやかれたそうです。どう位置づければよいのか迷われたということでしょう。(梅原猛著「歓喜する円空」)2006)
どう位置づけるかの前に、極初期像について調べたことを書いておきます。(極初期像という定義は小島さんに倣います)
寛文3年(1663・円空32歳)〜寛文9年(1669・円空38歳)までに制作された円空仏が初期像です。そして円空が北海道へ渡る以前の像が極初期像です。
美並村は寛文前期像(1663〜1666)と寛文後期像(1666〜1672)と分類しておられます。これは北海道へ渡る以前以後ということと様式の違いを加味されているようです。前期は神像が多いようですが、仏像は台座が臼座に蓮華座を重ねた形。後期のものは裳懸座になっていることが特徴のようです。美並村の分類で言う寛文前期像と小島さんの考えておられる極初期像は同じと考えてよいでしょう。(美並村編「美並村の円空仏」1998年第2版発行)
寛文3年は棟札で現在確認できる円空作像の最初のものである美並村神明神社の天照皇太神像他3体が造顕された年。(棟札)
寛文9年は、名古屋市にある鉈薬師で諸像を造顕した年。(『張氏家譜』「府城誌』)
神明神社から鉈薬師で造像するまで、円空はどこにいたことが確認できるかというと…。
まず、美並村白山神社で寛文4年9月に阿弥陀像を作っています。12月には同じく美並村子安神社で子安大明神他諸像を造顕しています。(棟札)
次いで、寛文6年1月(1666・円空35歳)青森藩弘前城下を追われ、北海道松前に渡っています。(『津軽藩日記』)この年北海道3カ所で在銘の仏たち(6月・7月・8月)を残しています。その後東北地方を巡錫したことが残された仏像群から推察されますが、在銘のものがありません。
それで、いつ美濃へ戻ってきたのかですが、これがはっきりしません。小島さんは、愛知県海部郡大治町・宝昌寺の観音像の底面にある「寛文八丁未」(寛文八年は実際は戌申であり、齟齬がある場合は干支を優先させる)から寛文七年に円空は尾張に戻っていたと考えておられます。
いずれにしても、この大日如来像の発見で、寛文5年までに、円空が伊勢を訪れていたことがはっきりしたことになります。中山寺は伊勢市の内宮と外宮のちょうど中間。この浜城観音堂は奈良から伊勢へ入る道すがらということです。中山寺の円空仏は当初から中山寺にあったのか、それとも他から移入されたのか何も記録がないので分からないそうです。浜城のこの像について移入の話はありませんでしたからもとからここにあったと考えてもよいのではないでしょうか。
ちなみに白山町にはもう一体円空仏があるようです。ツアーの小島さんの資料にありました。薬師寺というお寺の観音菩薩(千面観音)5.5cmです。これはどうでしょうか。どうみても極初期像ではありません。龍泉寺や荒子観音寺の中の一体のように思うのですが。小島さんに聞きそびれました。
(4)私の疑問
バスツアーに参加していましたのでバスの中で自己紹介をしたり、小島さんのレクチャーがあったりしました。私は二つのことを尋ねました。
@三重県にかなり初期から訪れて、伊勢神宮にも何度か訪れたであろう円空が「無知で」天照大神を男神にするはずがないと私は思っているのだが、どうでしょうか?
円空の時代、天照大神を男の神とする考え方があった。修験者の中にはそう信じている人たちがいた。円空の属していた集団はその考え方であったのであろうとのことでした。。
この後帰ってから調べてみたのですが、中世に本地垂迹説が起こり、インドの中国の神や仏は日本の神の姿の形を変えたものという考えが広まりました。天照大神は、最初観音菩薩に当てられていましたが、後大日如来と同一視されたようです。そして、男系社会が強まると、天照大神を男神とする説が広まったようです。
度会延佳(1615‐90(元和1‐元禄3)という外宮権禰宜だった人物は、江戸時代初期の国学者であり、この人が円空と同時代に天照大神男神説を唱えていたようです。円空が伊勢神宮を訪れた頃、この人の説を聞いたか影響を受けた可能性があるなと思います。円空が美並に残した内宮神=天照大御神は男神として彫り、外宮神=豊受大御神は女神に彫っています。やはり円空は「無知」ではなく確信して彫っておいると思われます。
Aなぜ円空は京都や奈良にたくさん大きな寺院がある中で法隆寺を選んで血脈をもらったのでしょうか?何が円空と法隆寺を結びつけたのでしょうか?
これに対して小島さんは「今日真教寺へ行っていっしょに継続してみなさんも考えてほしい」とおっしゃいました。私は小島さんが研究者として真摯にこのことを聞いてくださったことをありがたく思いました。
私はかねがね修験道なら醍醐寺か聖護院があるのになあと思ってきました。三井寺へ出入りした理由も修験との関係だと思われます。比叡山延暦寺はどうも敷居が高そうです。
しかし法隆寺とは結びつきません。
私は京都へ円空が来るとしたら「愛宕山」かなと想像しています。愛宕山には白雲寺というお寺が神仏分離の明治時代まであったそうです。廃仏毀釈の嵐の中でなくなったようです。このお寺がもし今も残っていたら、京都で円空仏発見!の可能性があったかもしれないと思うのですが。
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