円空さんを訪ねる旅(23)
立神少林寺
(三重県志摩市阿児町立神2051)
国道260号は阿児町鵜方から志摩半島の先端へ行く道路です。鵜方は志摩市の中心でここに志摩市役所があります。鵜方で賢島へ行く道と別れ、大王町へ向かいます。大王崎灯台のある波切まで行く手前で「立神」への案内が表示されていました。大王崎は太平洋に面する灯台で、立神は英虞湾に面しているのです。
私は少林寺の番号(рO599−45−2630)をナビに入れてその案内で進んでいます。国道から西へ(右)折れてしばらく進むと集落が現れました。そして道が細くなり「ダイジョウブカナ」とだんだん心配になってきました。坂道を降りていくと少林寺がありました。
志摩地方のどこでも真珠の養殖が行われているようで立神の真珠組合の建物の前を通りました。
少林寺には塀がないので広々とした印象です。すぐ近くに立神小学校があるようです。
観音堂はすぐありました。
観音堂
観音堂の中におられるのは,当たり前ですが観音様です。お堂の左に石柱があってこのように書いてありました。「円空上人作鉈彫観音・延宝二年夏円空刻」。
さて、扉は開いているのかどうか。開いてなくても円空さんの観音さんは拝めるのか。お堂をのぞいてみました。おられました!
龍を抱く観音像(215cm)
お分かりでしょうか。左側が観音様です。そして右側に龍がいます。顔は同じぐらいの大きさに彫られています。角度を変えようがない位置から覗いて写真を撮っていますので分からないのですが、下から仰ぎ見るようにするとこの龍の目は生きているように見えるとか。(「円空を旅する」冨野治彦著)
この観音さん朽ちた桜の木に彫られているらしいのです。そういえば観音さんの顔の側面が朽ちているようです。
観音さんの顔の彫りも簡単で省略されています。龍の顎というか口はワニと同じなのだそうですが長く彫ってあります。
構図として観音さんが知り合いの龍と仲良く並んでおられるように見えます。
こういう観音さんは円空さんならではではないでしょうか。円空さんは龍をよく彫っておられます。龍頭観音(善女龍王)、八大龍王などなど。
もともとこの観音さんは、立神薬師堂におられたようです。立神薬師堂は延宝2年片田三蔵寺に続いて「大般若経」を修復したお堂です。明治初年に立神薬師堂からここ少林寺に移されたようです。そして立神には他にも個人蔵の円空仏があるようです。
少林寺にはあと二体
この少林寺には興味深いあと二体の円空さんがおられます。その二体とも梅原猛著「歓喜する円空」の口絵にカラーで掲載されています。口絵の円空仏のページは38ページあって、その中の2ページを使ってこの少林寺の円空さんが紹介されているのですから、梅原氏が重視していることが想像できます。千光寺、荒子観音寺、高賀神社、美並星宮神社、竜泉寺などが2ページ3ページ使われていても不思議ではありませんが少林寺に2ページというのは異例なのです。
にもかかわらず、私はあとに二体を確かめずに帰ってきてしまったのです。上に紹介した龍を抱く観音さんを拝んで安心してしまったのです。見せてもらえなかってももともとであと二体のことや立神薬師堂にある「大般若経」の話しを聞かせてもらったらよかったのなあと今、後悔してます。
家に帰ってから梅原氏の本を読みなおして「あれ!」と思っています。少林寺に円空さんがあるという情報だけでくわしく調べずに出かけたのです。
では私が見損なったあと二体とは次の二体です。ぜひ梅原氏の本でお確かめ下さい。
@護法神〈91.5cm延宝2年(1674)〉
この護法神も朽木で造られています。朽木に目と口を付けただけと言った感じの像で、何とも奇怪です。
A観音像〈58.7cm延宝2年(1674)〉
この観音像も朽木のようです。根っ子のような木に顔を彫りつけただけの観音さんです。きっと立たないだろうと思いながら写真を見ています。顔も簡単に簡単に細い目の疲れたような顔が彫ってあります。あちこち朽ちたような状態の木の根が体として付いています。わたしは〈幽霊〉かと思いました。
立神には先ほども書いたように民家にも円空さんがおられるようですが公開情報はありません。梅原氏は民家に「木のかたまりにほんの少し顔をつけただけの大黒像らしい像がある」と書いておられました。私はこの記述を読み直して岐阜市円空美術館の大黒さんを思いだしていました。
なお、図録『円空展』(2005年・神戸新聞社発行・梅原猛・長谷川公茂・小島悌次解説)には「志摩地区には延宝二年(1674年・43歳)前後の像が17体遺されている。」と書かれています。
立神薬師堂
同じ立神に薬師堂があります。円空さんは、この薬師堂で造仏されたようです。少林寺の円空さんももともとは薬師堂にあったものだそうです。そして立神の「大般若経」修復もここで行ったようです。
そしてこの薬師堂に「大般若経」が残されているのです。
少林寺から薬師堂へ行くことにしました。しかしながら「薬師堂」がどこにあるのか分かりません。人がいたら聞こうと決めていました。おられました!年輩の女性!今回の伊勢志摩では年輩の女性のおかげで円空さんに出会えたのですが、ここでもありがたいことに親切な方に出逢いました。
「すみません、薬師堂はどこですか?」
「そこです」(すぐ前の駐車場の向こうにある集会場のような建物でした)
「大般若経は毎年読まれるのですか」
「少林寺さんとナントカ寺のお寺さんが来られて読んでもらいます」とのことでした。
上の建物が薬師堂だそうですが、どうみても集会場です。かなり広いようです。しっかりカギがかけられておりました。どこに連絡したらよいものやらさっぱりわかりませんでした。左の写真は前の掲示板にあった円空さんの和歌が描かれた板です。その横には円空さんに関する美並村発行の研究冊子が貼ってありました。
円空さんゆかりの建物であることは匂わしてあるのですが、何の説明もないのです。変に説明して盗まれても困ると言うことなのでしょうか。
私は円空さんが来村した頃には簡単なお堂だったのではないかと思いました。小さな住職もおられないようなお堂にあった大般若経を頼まれて修復したのであろうと想像しました。きっと片田三蔵寺で行った修復(延宝2年3月)の噂を聞いて立神でもお願いしたのではないでしょうか。
と、ここまで書いてからインターネットで立神薬師堂を検索したら、この薬師堂は、江戸時代末に造られた仏堂兼芝居小屋の建物だと言うことが分かりました。それから、中に瑠璃殿があり、薬師如来もおられ、県文化財の鰐口もあるようです。そして同じく県指定文化財の円空さん修復の大般若経が保存されているようです。
そしてここは、立神の盆行事「ささら踊り」の会場になるようです。
ウウーン……やっぱり中へ入って円空さんの絵を見たかったなと今思っています。もっとしっかり調べて電話をかけたりお願いしたら見せていただけたかも知れないと思いました。初めから私はあきらめていましたから。
立神薬師堂大般若経
そもそも大般若経とは
ここからは『円空を旅する』(冨野治彦著)からの引用です。
『大般若経』は三蔵法師玄奘が天竺から唐へ持ち帰った東洋最古の大乗教典だ。読めば災害を防ぎ、五穀豊穣、疫病退散、大漁などあらゆることにご利益があるとされる。
この教典を読む法要が大般若会。全巻は読まず一部だけを読んで省略し、他はパラパラとめくり、パタパタとたたいて読んだことにするのを転読という。
地元の郷土史家、故中岡志州さんは円空学会発行の『円空研究(9)で「上は皇室から、下は百姓、漁師にいたるまで、大般若会は定期的に、疫病流行や政治の浄化など臨時必要時に、しばしば行われた。経巻は一村または数村共同で一組を所有し、生活必需品的な役割を持っていた」と書いている。かっては日本全国どこの村にもある経典だった」
円空さんは、この大切な大般若経を修復したのです。絵そのものは、もともと南北朝時代の版経見返り絵の模写だそうですが、ここでは130枚の十六善神図を添絵として描いているのです。
立神薬師堂大般若経…歓喜沙門
600巻のうち、250巻は平安時代のもので、残りは鎌倉、室町、江戸時代のものだそうです。
この大般若経で注目すべきことは以下のことのようです。何しろ私自身は見ていませんしくわしい研究をしたわけでもありませんので、色々な本の孫引きでお茶を濁すことにします。
一つは600巻の中の571巻に修復の年月が書かれていることです。「延寶貳歳甲寅暦自六月上旬同至八月中旬」と書かれているそうです。六月上旬からから八月中旬まで二ヶ月半かかって修復したと書かれています。円空さん43歳の時の話です。
もう一つの注目すべき文字は円空の和歌とその署名です。
「イクタビモ タヘテモタルル 法ノミチ 九十六ヲク 末ノ世マテモ」和歌の方は片田三蔵寺のものと同じです。ここでは円空が弥勒信仰を自分の思想の中心に据えていることが読みとれます。もう一つは彼の署名です。『歓喜沙門』と書いているのです。円空さんには「乞食沙門」と署名した仏さんがおられるようなのですが、ここ志摩では「歓喜沙門」なのです。大峯山で修行して得た宗教者としての自信と確信を和歌で表し、その喜びを署名で表現したというところでしょうか。
円空さんの絵130枚についてです。印象でしか書けませんが、省略が徹底した絵が描かれています。片田のものより立神の方が善神の数を減らしさらに省略した表現の善神が描かれています。もっとくわしく分かれば片田のところで書きたいと思います。
2008・12・24撮影
日本の石仏めぐり | 円空さんを訪ねる旅 | 木喰さんを訪ねる旅 | HPへ戻る |