円空さんを訪ねる旅(45)
祖師野薬師堂再訪
(岐阜県下呂市金山町祖師野)
撮影日:2014・9・17
作成日:2014・10・5
祖師野薬師堂は2回目の訪問です。前回はたまたま下呂合掌村からの帰り道で見つけ、扉のすき間から見せていただきましたが今回は中へ入れていただき拝ませていただきました。
円空さんは15体おられます。そして円空研究にとって大切な『木札』があります。
(1)薬師三尊像
日光菩薩(55.3cm) | 薬師如来(105.0cm) | 月光菩薩(53.7cm) |
薬師如来は1mを超す大きさですが、日光・月光菩薩はその半分の大きさです。薬師さんも日光・月光もご覧の通りやさしく微笑んでおられます。日光・月光は頭部の割に足元が省略したようでバランスはよくない像です。
薬壺を持った薬師如来さんが、磐座の上の蓮座に立っておられます。日光・月光菩薩は磐座のみです。
(2)十二神将像(六体)
薬師三尊をお守りする十二神将です。円空は何カ所かで十二神将を残していますが、ここの十二神将は17.7cm〜18.5cmと小さいことがまず特徴です。尊名は磐座前面に漢字で彫られています。私は「羊・申・子」は読めたのですが他は分かりませんでした。「酉・辰・午」が他にあるようです。もう一体ありましたが、別人の後刻です。一番右の像のように後ろにもたれかけられている像もありました。
(3)観音像四体と仁王像二体
観音像は薬師如来像の左右に分けて四体ありました。大きさは35.9cm〜51.2cmと色々です。右側にあったものは肩幅の広い観音さんです。もともと薬師堂にあったものか個人蔵のものが持ち込まれたものかは不明だそうです。
仁王像二体は30.4cm(左)と25.5cm(右)です。右の像は金剛杵を左手に持ち、右手はお腹の辺りにあります。左の像は右手を上げ左手は腰の辺りにもってきています。頭髪も顔も衣服も丁寧に彫られています。全身に色が塗られています。こちらももともと薬師堂にあったものかどうか不明だそうです。
(4)祖師野薬師堂『木札』
この祖師野薬師堂には円空研究にとって大切な資料が残されています。それが『木札』です。
表上部 | 表下部 | 裏 |
この木札は「対硯堂主」(奈良の僧侶)が文政9年(1836)3月吉日に書かれたものです。裏には施主の名が記されているようです。霊告薬師をおつげやくしと読むようで仏壇にひらがなで書かれた木札がありました。薬師ですから病がいつ治るというお告げをなさるのでしょうか。脇侍として日天・月天、眷属として十二神将を圓空が彫刻したことが明らかにされています。
文政9年は円空没後すでに百数十年であり、『近世畸人伝』の記述から36年後のことです。円空自筆のものとか同時代のものなら資料的価値がさらに高いのですが、円空に関する資料が少ない中で、この木札の価値は高いのです。さて、どのような事が書かれているのかと言いますと…。(句読点を入れてみます)
「圓空上人ノ来由ヲ尋ルニ、当国竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ、幼歳ヨリ仏道修行ノ志深ク、蛍雪ノ功ヲ積ミテ、終ニ妙法ノ淵底ヲ究メ、名利ノ塵埃ヲ離テ山野ヲ栖トシ、常ニ國々ヲ経回シ、数体ノ仏像ヲ鉈作リシテ、普ク衆生済度ヲ求メ玉フ。或ハ海底ニ入テ枝珊瑚ヲ採渇テ、鳳闕ニ奉ツル。叡感不斜。方一町ノ梵地ヲ寄附シ玉フ。上人其地ニ一字ヲ建立シ玉ヘリト云フ。 要約しますとこのようなことでしょうか。
@生まれは竹ヶ鼻
A幼い頃から仏道修行をして妙法の淵を究めた
B塵埃(人の多い場所)を離れて山野をすみかとした
Cいつも廻国して鉈で仏像を作り衆生済度を求めた
D海底で枝珊瑚を採り天皇(鳳闕)に奉ったところ一町(100m四方)を賜った
E上人は其の地に一宇を建立されたと云うことだ
さて、この真偽の問題です。@の竹ヶ鼻生誕説についてです。
「竹が鼻」の名が出てくる江戸時代の文書は3つ。
●その1「近世畸人伝」(京都の国学者伴蒿蹊著・1790))に〈僧円空附俊乗〉に「僧円空は美濃国竹が鼻といふ所の人也」と書かれています。
●その2「円空上人画像・跋」(館柳湾筆・1800)に「円空上人美濃国竹鼻邨人…」とあります。
その1もその2も千光寺で伝えられていた伝承をもとにしていると思われるものです。
●その3「圓空彫刻霊告薬師…」(下呂市金山町祖師野薬師堂木札・1826)に「圓空上人ノ来由尋ルニ当國竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ」と書かれています。
この「木札」の記載は、「近世畸人伝」(京都の国学者伴蒿蹊著・1790)を参考にして書かれた可能性があります。しかし後の記述が異なることから、竹ヶ鼻だけを引用するのは不自然であり、独自の伝承があったと思われます。
しかし、竹ヶ鼻生誕説の方は重視されますが、中観音堂付近説の方や美並説の方は重視されないことになります。
Aについてはその証拠がありません。BCについては異論はないでしょう。
DとEはどうかな?というところでしょうか。他にこういう伝承や記載がないのです。このお堂の権威を高めるために創作されたものかな思います。ただ本尊が円空仏であることは確かですので円空仏が契機で建てられたかもしれません。
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