円空さんを訪ねる旅(35)
2012・4・1(月)撮影
2012・5・11(金)作成
菰野町明福寺薬師如来・阿弥陀如来像
(三重県三重郡菰野町)
菰野町…どの辺りなのか見当がつきませんが、どうも四日市とその西方にある湯の山温泉の中間辺りのようです。 円空さんとの関係で言えば、菰野町にあることはそれほど意味はないようです。というのはこの両面仏はもと伊勢神宮の神宮寺であった常明寺(伊勢市)の持仏だったそうで、明治初年の廃仏毀釈の際に常明寺も廃寺となり、この像も廃棄されようとしたのだそうだ。その時、この寺の住職の弟だった方が、これを譲り受け、生家である明福寺へ運ばれたためにここにあるのだそうである。 |
(1)阿弥陀薬師両面仏
(160cm)
明福寺は浄土真宗大谷派の寺です。真宗では六字名号(南無阿弥陀仏と書かれた掛け軸)や宗祖親鸞の像や軸を大切にされます。仏像があったとしても阿弥陀如来です。円空さんの両面仏は、一面は阿弥陀如来でもう一面は薬師如来。私は浄土真宗のお寺ですからきっと阿弥陀如来が正面に向けてあるのだろうと思っていましたら違って、薬師如来がこちらを向いておられるました。住職の話では、どこかへ出品されてお帰りになったときに向きを逆にされるのだそうで、今は薬師さんの番なのだそうです。
この像は2009年の「円空・木喰展」でお目にかかっております。その時にも思ったのですが、これは伊勢志摩三蔵寺聖観音像や五智薬師堂の薬師三尊像とよく似ています。同じ時期に作られたものに間違いないと思われます。ということは、延宝2年(1674)年片田や立神で大般若経修復を行った時期です。大きな顔で、細かい彫りは省略してダイナミックに仕上げています。現世利益の薬師如来と来世を頼む阿弥陀如来。
この薬師如来の薬壺が大きくて両手で持たずに左手に持っておられます。右手は施無為印(手を上げて手の平を前に向けた印相で、怖がらなくても安心しなさいという意味の印相)。
阿弥陀如来の方は、説法印です。阿弥陀さんと言えば平等院の阿弥陀如来像のように定印か、三千院阿弥陀三尊中尊の来迎印をしておられるものが多いと思うのですが、この像は珍しい説法印です。説法印というのは両手を胸前まで挙げて、両手の親指ともう一本で○を作り、他の指は伸ばすというものです。円空さんのこの像では親指と人差し指で○を作っています。九品往生の思想で言えば、「上品中生」の印相ということになります。
両面仏を円空さんは他では残しておられないようです。(岐阜市の円空博物館にはありましたが…)
しかしながら、一尊多機能像(一像で二尊以上の機能を持つ像)という観点から見ると、円空は何体か彫っていて、その最初の例だと小島さんはお考えになっているようです。
(2)伊勢市常明寺
常明寺は伊勢詣りで有名なお伊勢さん外宮近くにあった天台宗の寺。常明寺があった場所は現在倭町と言われるていますが、江戸時代は常明寺門前町と言われていました。外宮神官の度会氏の氏寺であり、伊勢神宮の神宮寺でした。そしてその門前町はすぐ近くの古市と並ぶ遊郭のあった場所です。常明寺は「聖」と「俗」の混在する場所にあった寺ということになります。寛永6年(1629)には、この町に遷宮時の古材で大鳥居が作られたという記録もあるようです。神仏習合があたりまえだった時代に、神宮周辺に相当数の寺があったのですが、明治の廃仏毀釈の嵐の中で消えてしまったお寺です。
(3)山口誓子の句碑
「円空仏 外に出て来て 枯銀杏」 これは山口誓子が詠んだ句である。 昭和36年9月に御在所岳観月会に出席した山口誓子は、両面仏と対面し、その感想を「菰野円空・志摩円空」(『真珠』昭和37年10月に書いているらしい。このお寺の住職と誓子はもともと懇意だったらしい。お寺で伊勢新聞(平成16年10月17日)のコピーをいただいたらそのように書かれていた。現住職はこの句があるので、その銀杏を伐ることができないと私たちを笑わせておられた。そして、左の写真がその句碑である。 |
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