円空さんを訪ねる旅(9)
岐阜羽島駅へ
岐阜羽島へは2回目だ。かんぽの宿「羽島」へ泊まりに来たことがあった。その時に置かれていたパンフが「羽島市・円空」というもので、なかなかよくできていた。それで、ぜひ紹介されている場所へ行こうと思った。しかしよく見ると、円空資料館のある中観音堂は月曜日休館とあった。また何時か機会があればと思っていたが、そんな機会は来るはずもなく、今日になった。今日は2008年4月20日(日)午前7時半に京都市伏見区の自宅を出発、新幹線岐阜羽島駅へは、午後9時過ぎに到着していた。新幹線岐阜羽島駅…この駅ができた時大野伴睦の政治駅として騒がれた。田んぼの真ん中にポツリと駅があって、その前に大きな大野伴睦の銅像が建っていて、いったい誰が利用するのかと言われたものだ。
駅前では、大野伴睦の銅像ではなく、「円空生誕の地」と護法神のモニュメントが出迎えてくれた。伴睦氏の銅像は一番目立つ場所ではなかった。
岐阜羽島長間薬師寺
(岐阜県羽島市上中町長間)
勝手の分からない町に降りたった。路線バスはなさそうだ。仕方がない、タクシーで中観音堂へ行くことにした。案内では駅からタクシーで10分足らずらしい。しかしながら、田舎のタクシーはすごい勢いでメーターが上がっていく。そんなに乗ってないぞーと思っているうちに一気に1000円を超えた。タクシーの中で「長間薬師寺は、中観音堂から遠いのか?」と訪ねると、「長間薬師寺の方が駅から近い」とのこと。そして歩ける距離に中観音堂もあるというので、先に長間薬師寺へ行くことにした。タクシー料金は1300円台になっていた。タクシーから降りたら、薬師寺前に昔懐かしい白い割烹着のご婦人が立っておられて、話しかけてこられた。
「予約をしていますか」
「いいえ」
「どこから?」
「京都からです」
「遠いところから、お見えになったけど、今、庵主さんは留守です」
「えー!拝ませていただけないのですか?」
「私が鍵を預かっているのであけてあげましょう」
このご婦人、お近くに住んでおられる方のようで、すぐに鍵を持って来て下さった。庵主さんは、よくお留守になさるような話しぶりであった。そして私の行った日は集落で葬儀があるようで、このご婦人は、そのお仕事をするために集会場へ来られたようであった。その時にたまたま私の姿を見つけて声をかけて下さったのだ。私は運がよかった。鍵を開けられたら、すごい音で非常事態を知らせるベルが鳴り響いた。私は、本堂前に立っていたのだが、ビックリした。数秒後近くの方4〜5人が駆け付けられた。得体の知れない初めて見る私を見て、「こいつか?」という顔をしておられる。先ほどのご婦人が説明して下さったので私は捕まることなく中へ入ることができた。
円空さんは、このような厳戒態勢の中で守られている。
本堂へ上がる階段に「撮影厳禁」の文字。早々に撮影はあきらめた。そして、中へ入れていただいてゆっくり拝観させていただいたのだが、円空さんはかためて一つの仏壇に納められていた。スペースが狭いもので、大変窮屈そうであった。前のガラス戸を開けることができそうなのだが、開け方が分からないとのこと。目を凝らして見続けた。残念だが、このお祀りの仕方では、円空さんの魅力は半減どころの話ではない。防犯上の都合でこのようなことになっているのであろうが、もう少し何とかならないものかと残念であった。
長間薬師堂の円空さんたち
長間薬師堂には九体の円空さんがおられる。(*像名は羽島市のパンフによる)
@薬師如来像(93.3cm・ヒノキ)
A脇侍座像(75.9cm・ヒノキ)
B脇侍座像(75.3cm・ヒノキ)
C薬師座像(73.0cm・ヒノキ)…阿弥陀如来(「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)
D護法神像(50.9cm・ヒノキ)…金剛童子(「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)
E護法神像(46.5cm・ヒノキ)…金剛童子(「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)
F護法神像(34.2cm・サクラ)
G観音像(25.5cm・イチイ)
H薬師座像(7.2cm・ヒノキ)
@AB薬師如来像と脇侍座像二体 | C薬師座像(阿弥陀如来) | DFE護法神像 | E護法神像 |
薬師三尊といえば、薬師如来に脇侍は日光・月光菩薩。円空さんも多くの薬師三尊像を作っておられるが、ここのはそうではないようだ。そして、もう一つ珍しいことは両手をはっきり彫り、左手に薬壺を持っておられるというお姿である。円空さんの薬師さんは胸前で衣の下に手を隠して薬壺を持つと決まっていると思ったのだが、そうではないようだ。
この長間薬師寺の薬師如来像と脇侍二体、そして座像は、丁寧に彫られており、円空仏の中でも初期(寛文期)のもののようである。それに比べると、護法神は、円空さんの充実期(延宝期)の抽象的で面で表現するという特徴が見える。残りの観音像と薬師座像は近在の民家からの寄進であろうということである。
同じ場所にあるからと言って同じ時期に作られたとは言えない。このあとに紹介する中観音堂の諸像も創作時期は一筋縄でいかないのと同じように。『円空ー羽島市の円空仏ー』(鈴木正太郎・1976)では、護法神は延宝4年、その他は寛文期の造顕だという。一方(「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)で小島氏は「延宝元年から2年にかけての時期と推定している」と一時期の造顕説である。
「長間薬師寺は、現在地より400m程南東(名古屋街道沿い)に建っていた薬師堂と近在の慈光庵とが合併して昭和22年に現在地に移転したということである。そして、薬師堂の薬師三尊を本尊として、慈光庵の阿弥陀如来を脇本尊としたという。恐らくは現在薬師寺に祀られている@〜C体の円空仏がそれに該当すると思われる」「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)より
『円空ー羽島市の円空仏ー』(鈴木正太郎・1976)によると、長間薬師寺は、尼寺で、村から特別な援助を受けることがないそうだ。そのため代々の尼僧たちは遠くまで托鉢に出たり、在家の葬儀や法要の招きに応じたり、花まつりや薬師講を催したりしたという。私が訪ねた時、庵主さんがおられなかったのも、このことに関係がありそうなことを先のご婦人がおっしゃっていた。
昭和40年ぐらいから円空ブームが来たと言っても観光客がワンサと押し掛けてそれだけで経済的に成り立つかと言えば、そういうわけにもいくまい。円空さんのおかげで、岐阜羽島市はそれを観光の目玉にしようとされている意図が見えるが、果たしてどのくらい集客力があるものやら。このあと中観音堂を訪れた後、帰り道を歩いたら、名鉄の廃線跡が中、長間と続いていた。平成13年に廃線になったようだ。道を歩いていたら、コミュニティバスが一時間に2本ぐらい羽島市内を巡回しているのに出会った。私が見た限り正午前の土曜日であったが、乗客は見えなかった。羽島市のかけ声のわりには、交通が不便で行きにくいのだ。中観音堂でお守りをされていた方が、「『かんぽの宿羽島』のお客さんはよく来られる」とおっしゃっていたが、裏を返せば、他の客は少ないと言うことだろう。
私は、ここで、『円空ー羽島市の円空仏ー』(鈴木正太郎・1976)という小冊子と「円空仏えはがき」(長谷川光茂撮影)を購入した。
先のご婦人のご自宅にも円空さんがおられるそうで、先代は、訪ねてこられた方に円空さんを撫でさせてあげておられたそうである。「私たちは、忙しくてできていませんが…」と恐縮されておられた。私が、「円空さんは『まつばり子(私生児)』だったという話はこの辺りでは伝わっているのですか」とうかがったら、「はい。お母さんを洪水でなくされて…」というお話をされた。この話は羽島では常識になっているようだ。
小島梯次氏の小冊子「羽島市の円空仏」(小島梯次・1998年『行動と文化』21号)にこんな記述があった。
「長間薬師寺のすぐ近くの春日井敬一氏宅には薬師如来(10.3cm)と尊名不詳の座像(7.4cm)の二体が祀られている。民家によく見る小像であり、延宝初期の頃の様式を思わせるが、小像の作像期は判別しがたい。春日井氏宅は、ご主人のお考えが「円空さまは、どなたにも触れていただくのが本来のお姿」とうことでいつでも気軽に対面させて頂けるのが素晴らしい。一度は団体で拝観にお伺いした時、ご主人は五月展の方で用があるから、「ご自由にどうぞ」といわれてそのまま出掛けられてしまって驚かされたこともある。円空仏は最近は貴重な像と言うことになってしまい、盗難の恐れには充分に備えればならないことはいうまでもないことだが、権威づけをしてしまって秘仏の如く拝観者を全く寄せつけないのは、円空の本意ではないだろう」と。
そうか、私のために鍵を開けてくださった白い割烹着のご婦人は、このお宅の方だったのかと帰ってから気づいたことであった。親切なよい方に見つけていただいたものだと感謝している。そして、中観音堂への道を教えていただいて、私は長間薬師寺をあとにした。
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