円空さんを訪ねる旅(12)

洞戸高賀神社と円空記念館
(岐阜県関市洞戸高賀1212・рO581−58−2814)

  洞戸村が関市に合併されたのは、例の平成の大合併の時。以前の円空記念館は、武儀郡洞戸村奥洞戸と言う地名でした。
 そこに高賀神社があるというのですが、
この洞戸高賀神社が円空さんとの関係で注目をされるのは、いくつかの理由があります。
 @円空が高賀信仰と深くつながっていた修験道僧であること
 A最晩年の円空仏の傑作三十数体があること(十一面観音・善女龍神・善財童子・虚空蔵菩薩・狛犬など)
 B円空最後の彫像と言われている「歓喜天」(釜且入定也と刻銘)があること
 C円空が使用した「硯」「錫杖」が現存すること
 D円空の和歌集(千五百余首)があること
  などがあり、円空さんを訪ねる旅をしている私としては、ぜひとも訪ねてみた場所です。
 名神高速道路から東海北陸道経由関ICで降りました。しかし美濃ICの方が近かったようです。関市だというので迷ったのですが、ナビの案内通りにしておけばよかったなとあとで思いました。自宅を8時前に出て、11時前に高賀神社に到着しました。自宅出発時は曇天だったのですが、関インターあたりから雨がふりだしました。今日は2008年5月5日。高賀神社は予想通りの佇まいでした。山を背景にして、大きな木に囲まれた場所にあるだろうなと思っていたからです。美並の星宮神社も同じような感じの場所ですが、こちらの方が山の中という雰囲気です。
 高賀神社の中に円空記念館が建てられていました。

妖怪退治伝説と高賀神社信仰

 霊亀年間(715〜717)都に夜な夜な怪しげな光が出て、この地へ向かっていたため、高賀山の麓に神壇を飾ったところ光が出現しなくなった。これが、高賀山本神宮の始まり。
 承平3年(933)には牛に似た妖怪が住みつき、村人に被害を加えたため、天皇の命を受けた藤原高光が退治し高賀山麓に神々を祀った。天暦年間(947〜956)にも妖怪が出没したため、同じく高光が退治し、高賀神社、那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並町)、滝神社(美濃町)、金峰神社(美濃町)六社が祀られた。
 近衛天皇の時(1142〜1155)頭は猿、体は虎、尾は蛇という怪獣が現れたとされ、「さるとらへび伝説」として伝えられている。
 美並町の粥川の鰻が高光の道案内をしたと伝えられ、美並のこの地区の人は現在も鰻を殺さないそうで、ここに生息する鰻は天然記念物に指定されている。
 高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵菩薩信仰が導入され「高賀山修験」が成立したと言われている。鎌倉時代以降から明治時代の神仏分離までは、神道の神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたとされ、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神自然崇拝の神としてではなく、高賀山麓一帯の農耕に必要な水や雨を司る神の山として尊ぶその信仰がこの地に成立した。(高賀神社の説明板より)

高賀へ三度訪れた円空

 「高賀の収蔵庫には、数多くの円空仏や和歌集、筆蹟などがあり、それは円空最晩年の最高傑作と目されている。円空は遊行僧であり、修験僧でもあることから、高賀山信仰の一つの拠点でもある本村(特に高賀)へは少なくとも三度訪れている。最初は寛文十一年(1671)円空四十才のとき、二度目は貞享元年(1684)53才のとき、三度目は元禄五年(1692)61才である。円空が中年から晩年にかけて三度も訪れたのは、山岳信仰のメッカとして栄えた往事の余韻がよほど濃厚に残っていたからに違いない。千日行をしたといわれた高賀山頂へは何度登ったことか。円空が生涯の悲願とした十二万体の仏像造顕は高賀山蓮華峯寺で達せられたと考えられる仏像も高賀にある。〔『円空の世界』(洞戸村役場産業課発行1995年7月)の中にあった『洞戸村史』より〕

神仏習合と神仏分離

 遊行僧である円空がなぜ神像を彫るのか、高賀神社と縁をもつのか、これを理解するには修験道、本地垂迹、神仏習合についての理解が必要です。
 梅原猛氏「歓喜する円空」の中で次のように指摘しておられます。
 「この神仏習合は役行者によって始まるが、泰澄の白山信仰によって一層深まり、行基の八幡信仰によって国家の宗教になり、空海の真言密教によってほぼ完全に仏教にとり入れられた。」「平安時代の半ば以降、この神仏習合の思想にもとづいて、醍醐寺を中心とする当山派と称する修験道が生まれた。一方、最澄の始めた天台宗も円仁(794〜864)・円珍(814〜891)によって密教化し、三井寺と聖護院を中心とする本山派と称する修験道を生む。修験道は山伏とも呼ばれる。」
 「修験道は、中世すなわち鎌倉・室町時代に全盛を極めるが、江戸時代に檀家制度が作られ、僧の移動が禁止されると衰え、そして明治初年の廃仏毀釈・神仏分離の政策によってほとんど死に瀕した。明治維新によって職を失ったのは武士のみではなく、山伏もほとんどすべて日本から姿を消したのである。今の日本人はこの廃仏毀釈・神仏分離の思想的影響を深く受けている。」
 大変、よく分かる分析です。そして、円空が関係を持った寺や神社が、役行者、泰澄、行基とつながることの意味が理解できます。とりわけ泰澄、行基は仏像(木像)を彫る…という点においても円空とのつながりがあります。

円空記念館

 洞戸村時代にこの円空記念館が造られました。左の写真が外観です。右は館内の様子です。中心部分に高賀神社蔵であった円空さんが展示されていて、その周囲(廊下部分)に写真パネルで全国各地の円空仏が地方毎に紹介してあります。洞戸小学校児童の千体仏も展示してありました。

(1)円空使用の硯と錫杖

 周囲の展示物の中で注目されるのは、円空の硯、錫杖、そして寛文11年(1671)銘のある不動明王像でした。不動さんは、その年に円空が来村したことを示しています。そしてこの不動さん(個人蔵)は洞戸で初めて彫った像だそうです。錫杖と硯も個人蔵だそうです。硯の裏に梵字と「峯児」と彫られています。高賀山に「峰稚児神社」があるそうです。そして錫杖は、途中で折れています。なぜそれが円空の持ち物だったかと分かるのかと私は半信半疑で見ていました。こういう物を見る時すぐ疑ってみる癖が私には身に付いています。しかしながら、錫杖に龍が彫ってあり、確かに円空が善女竜王を彫る時のあの龍であると私も思いました。
 それにしても、なぜ全国を遊行する円空が必需品である錫杖や硯をここに残しているのかとまた思いました。記念に残すはずがないだろうし、お礼なら仏像を残すでしょうに。どういう経緯で個人蔵になっているのか分かりませんが、最後に訪れた元禄5年(1692)61才に円空には心に期すことがあったのでしょう。これで、全国を巡錫するのは終わるという決意を硯と錫杖を残すということで表したのかも知れません。
 あとで説明する「歓喜天」以後、円空が仏を彫ることはなかったようですから、洞戸で打ち止めの決意を示した証拠の品なのかなと思いました。
 高賀神社蔵の円空仏他仏教関係のものは明治の神仏分離令以後すぐ近くの蓮華峯寺(れんげぶじ)に移されていたようです。

(2)円空記念館で購入

 下の写真は私が記念館で購入したりいただいたものです。
 「ほらど村の円空」(1500円)は大変よくできている資料集です。1994年洞戸村・洞戸教育委員会発行で、後藤英夫氏の写真で、船戸公子氏の文です。
 「円空の世界」(350円)は1995年に洞戸村役場産業課の発行です。これには円空さんにまつわる民話「円空さんの杓子」が記録されていました。
 この二冊を購入したら、記念館の方が、絵葉書を3枚下さいました。円空記念館を説明する資料が充実しているのはありがたいことです。

(3)「釜且入定也」の歓喜天

  まず、最初に展示してあったのが、「歓喜天」(13.2cm)です。この「歓喜天」の台座に「釜且」裏に「定也」と刻書されています。裏は以前は「入定也」と「入」の字の部分の木があったようです。その写真もありますからかなり最近腐食して剥落したようです。そして梵字が像そのものに書かれています。正直なところ私はこれをどう見れば象の抱擁に見えるのかが分かりませんでした。
 この文字の解釈です。釜は6斗4升という分量の単位を表しており、64才でかりそめに入定する覚悟を表しているというのが、長谷川公茂氏の見解で、その発見以来これがおおよそ公式見解になっているようで、洞戸村のパンフと本もそれを踏襲していますし、梅原氏もそのようです。
 ただ、五来重氏は違ったようです。「またここには奇妙な形の歓喜天があり、二頭の雌雄象の抱擁する台座に「釜且」「入定也」の刻銘がある。まことに意味深長な文字であるが…」と具体的な解釈はしておられない。
 そのあと、「円空歌集に「尊形(かり)うつす花賀(が)とそ念ふ 歓喜(よろこび)の 法の泉も 湧(わ)きて出(いず)らん」とあるのも歓喜天を詠んだもので、「尊形」にわざわざ「かり」と仮名をつけ、歓喜の法の泉を湧出さすなど、円空も案外隅に置けない一面を歌にあらわしている。円空仏と尼寺の関係もたしかに多いようで、きびしい苦行性、隠遁性の反面、聖の世俗性が顔をのぞかせる。」「聖であれば尼寺へ通う特権も持っていても、不思議ではなかったのである。」
と続けられているところを見ると、円空は性的な関係を尼僧とも持っていたようであると考えておられたようであるし、性的な関係を示唆する和歌も残していて、世間で言われるような禁欲的な生活をしている大宗教家であり且つ大芸術家と崇めることに対して警鐘を鳴らしておられたようです。
 「釜且入定也」…これを男色を匂わせているという意味の解釈かなと私は読みましたが、私が間違って読んでいるのでしょうか。歓喜天に刻印されているだけにそのような解釈なのかなとも思いますが…。
 長谷川氏の解釈の方がよほど哲学的でアカデミックで前述の硯や錫杖とつなげると、3年後に迎える64才での入定を予見していると解釈する方がおさまりがいいのですが、本当のことろはどうなのでしょうか。
 台座に文字を刻印された円空仏が他にあるのでしょうか。私は知らないのですが、もし他に類例がないとなると、よほど意味のあることを書いていると思いたいものです。それが男色を謳歌する内容では寂しいかぎりだと私も思うのですが。しかし釜が64を表しているとは初耳でした。

(4)円空最晩年の傑作仏

一木作り三尊
左…善財童子174.6cm
中…十一面観音221.2cm
右…善女竜王175.6cm
虚空蔵菩薩
149.6cm
狛犬
左…95cm
右…98.65cm
 何ともひょろ長い三尊です。この三尊形式は円空独特の三尊で、他にはありません。水を司る十一面観音、白山信仰の影響を受けていた円空が辿り着いた三尊のようです。この三尊は一木で造像されています。合わせると一木になる写真があって、ほんのわずかしか彫られていないように見えます。善財童子は円空自身、善女竜王を母に見立て十一面観音に抱かれていると見る見方もあるようです。 虚空蔵菩薩信仰は、鎌倉時代後期から高賀神社に取り入れられたようで「高賀修験道」の主神です。円空のこの虚空蔵菩薩は微笑仏の最高傑作だ!とパンフに書かれていました。私は高山郷土資料館にある思惟菩薩像や岐阜市の円空美術館の普賢菩薩像の表情に似ているなと思いながら見ました。笑っているように見えるのは、鼻から下を彫り込んでいて頬が引きつっているように見えるからです。 私が、洞戸にある円空さんの中で一番最初に記憶に残ったのがこの狛犬でした。円空仏の中で、この狛犬の体に使われている雲形紋様が表れるのは尾張鉈薬師堂十二神将などがあります。この模様は円空が北海道のアイヌ民族との出会いと関係があるのでしょうか。一木作り三尊の十一面観音の鱗状の模様も時々出てくるものです。円空の狛犬の中で最高傑作であることは確かでしょう。大きさにやや違いがあります。この二体を真ん中で合わせると、一本の木になります。きっと真っ二つにならなかったのでしょう。実物を見て、かなり大きなものだなと思いました。

(5)三尺の大龍ですか?円空さん

 この他にも多くの円空仏がありました。観音、仁王、不動、毘沙門、日光、月光など菩薩。そして愛宕山、狛犬、牛頭天王などが残されています。
 私がおもしろいと思ったのは、懸仏(円空自筆裏書)でした。
 円空が、元禄5年4月11日に大般若経を読踊して雨乞いをしたら霊神が龍となって天に昇り一時大雨が降ったというのです。その「大龍形三尺余在」と書かれているのですが、三尺って1m程のことでしょう?。「えらい小ちゃい龍やなあ!それは蛇の間違いと違うか?」と私は笑いながらツッコミを入れたのですが、ご存知の方教えてもらえませんか。私の読みが間違ってますかね。これは円空が自分の験力を書き残したものだと思うのですが、それにしても「大龍」にしてはなさけないと私は思うのです。同じ風呂敷拡げるなら天にも届くような大きな龍にしないとあかんと私は思いました。
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