円空さんを訪ねる旅(36)
2013・4・21(日)撮影
2013・8・9(金作成
天川村の円空仏
(奈良県吉野郡天川村坪内)
もっと早くにこのページを作るつもりでいたのに今日になってしまいました。
中日文化センター主催の小島梯次講師と行く「大峰山麓天川村へ円空仏に会う旅」(2013・4・21)に参加しました。私が中日文化センターのツアーに参加するのは2回目です。
私は主に3点を楽しみに参加しました。
その@栃尾観音堂護法神は荒神か?小島先生の意見をうかがう
そのA天河弁財天社の大黒天を拝観する
そのB天川村の小仏を拝観する
その@栃尾観音堂護法神は荒神か?小島先生の意見をうかがうというのにはこんないきさつがあったのです。
前回のツアーが終わった後、小島先生が私を喫茶店へ誘ってくださいました。4人(前田さん・小島さん・水谷さん・小宮山)で喫茶店へ行ったのですが、その時の会話の中で、ちょっとびっくりする話を聞いたのです。それは三重の円空研究者水谷さんがおっしゃった次の発言でした。
「栃尾の護法神はもともと三尊といっしょにあったのではなく、観音堂近くのある方の家の竈にあったもので、今はいっしょに三尊あるがもともと出所の違うものだ」
「それは大変なことだ」
と私と小島先生はびっくりしたのです。
なぜなら、あの護法神は竈に祀られてきたとなると荒神の可能性が高くなるということです。天川村栃尾観音堂の護法神こそ、最初に円空が彫った護法神だという定説がひっくりかえるのです。そしてもう一つの疑問は、なぜ今までそれが明らかにならなかったのかです。最初に栃尾観音堂へ調査に入られた方はきっとそういう伝承を聞かれただろうにと思ったわけです。それがなぜ今になってひっくり返るような証言が出たのかです。円空研究では、仮説が定説のようになったために仮説が昔からの伝承のように語られることがあるようです。今回の場合はなぜなのかが知りたいところです。
なお、栃尾観音堂については「円空さんを訪ねる旅(15)天川村栃尾観音堂」で先に紹介しておりますので、その続編と言うことでこのページを見ていただければと思います。
(1)天河大弁財天社大黒天
今回のツアーで楽しみにしていたこの大黒天は残念ながら拝観できませんでした。そのかわりツアーに参加しておられた前田さんが、ご自宅に持っておられる大黒天のレプリカを持ってきて下さっていました。前田さんはネットオークションで購入したとおっしゃっていました。何でもご自宅に二体お持ちだとか。以前、岐阜羽島の中観音堂で全国各地の有名な円空仏のレプリカが一堂に会しているのを見たことがありますが、おそらくそれと同じものだと思われます。京都の制作会社のものだそうで、そのレプリカは信用がおけるものだそうです。そんな話もおもしろく拝聴いたしました。
(2)天川個人像の円空小仏
昼食をとった料理旅館の二階の座卓の上に地元個人蔵の四体の小仏が並びました。下の四体でした。一番右の地蔵菩薩像は円空が補修したもののようです。確かに足や岩座や蓮座は円空のもののようです。上体は全く違います。
小仏は十一面観音像は丁寧な彫りで状態がいいようですが、他の二体は虫食い状態であったり、相当ほこりを被っていたようであったりでした。観音像は小仏ながらいいお顔をしておられます。不動明王像も愛くるしい子どものようなお顔なのではないかと想像します。
とにかく、左2体は10cmに満たないぐらいでよく分からないのです。手に取ればよく分かるのでしょうけど、そういうわけにもいきませんでした。多くのカメラを構えた方々の中で、ちょっと離れた場所からカメラ構えて、撮るのに一生懸命でよく見ない間に終わりました。なお、下の写真のうち十一面観音は前田邦臣さんがお送り下さったものを了解を頂いて使わせていただきました。前田さんはご自身のブログ「天狼星のブログ」に熱心に円空さんを追う旅を続けておられます。
不動明王像 | 観音像 | 十一面観音像 | 地蔵菩薩像(修復) |
(3)栃尾観音堂
円空がこの栃尾観音堂で造仏活動をしたのは、もちろん大峯山(山上ヶ岳)で修行するために訪問したのがきっかけでしょう。彼が天川村と大峯山で修行したのは、1673年(寛文13年・延宝元年)が1回目で栃尾観音堂の諸像はこの時に刻まれました。二度目は、1675年(延宝3年)で、大峯山で役行者像を彫ったようです。一回目と二回目の間の1674年(延宝2年)円空は、三重県志摩半島伊勢神宮を歩いて仏像を残しています。仏像だけでなく、大般若経を修復した際に絵画も残しているのです。この時期円空の中で何かが生まれ新しい境地に到達したようです。それもこれも大峯山での冬ごもりの修行が関係していると思われます。
私たちが訪れたこの日、栃尾観音堂では、あつものの桜が満開で、お祭りが行われる日でした。ちょうど私たちが訪れた時間に集落の方々が観音堂の前にお集まりになって、餅やお菓子やカップ麺などがまかれて、大歓声の中でそれを戴くというイベントが行われました。ツアー客である私たちも寄せていただきました。
円空さんのおられる観音堂の扉は開かれていましたし、その前にあるガラス戸も開け放たれていて直に拝観することが出来ました。しかし何しろ大勢のツアーですし、すぐに祭りが始まるということもあって、好き勝手に気に入るまで写真を撮るというようなことはできませんでした。
大弁財天女像(88.7cm) | 観音像(207cm) | 金剛童子像(84.3cm) |
◇像内納入品について
像名ですが、左の大弁財天女像と右の金剛童子像は背面に円空がその名を彫り込んでいますので間違いありません。おそらく材は杉だと思いますが、その木目がよく出ていて、模様のような役目をしています。弁財天の頭には化仏が彫られていて、宇賀弁財天ではありません。中尊が他の二体に比して倍以上の大きさです。こういう三尊形式は他に類例がないようでバランスも悪く、私はひょっとしたら、当初から三尊形式だったのだろうかと思いました。
ツアー参加者はバスの中で小島先生のレクチャーを受けました。今日の見所についてでした。その中で、小島先生が強調されていたのは@『像内納入品について』とA『護法神について』の2点であったと思います。
まず、栃尾観音堂の観音像は背中に像内納入品があることから、円空仏における像内納入品についてお話しされました。栃尾の観音の像内には仏舎利(小石)と、黒く塗られた5.7cmの観音像と、金剛界五仏種子と「寛文」「之作」と読める紙片が納入されていたということでした。このことから円空がこの仏を彫った年代と大峰山へ修行に来ていた時代が推定できることになるのです。
小島先生は円空仏における像内納入品について続けて13例を挙げて詳しくお話しされました。
特に力が入ったのは岐阜羽島中観音堂の十一面観音像の像内納入品のレントゲン写真から、3面の鏡が写っているとして、これは母親を供養するために円空が納めたものであるという説についてでした。
私も最近「円空微笑みの謎」(新人物往来社・長谷川公茂著)を読んで次の様な説が書かれているのを見ました。P,51です。NHKBSの番組「円空」制作過程で中観音堂十一面観音のレントゲン写真を撮ったところ「直径8cm程の真円の物体が映し出された」「その道の専門家は「鏡」であろうと断定した」そして円空の和歌「あさことに 鏡の箱に かけ見えて 是はふた世の 忘れ形見に」を例に挙げながら、「円空は母の形見の「鏡」を三十三回忌の供養として誕生の地、羽島市上中町中に観音堂(別名卯宝寺)を建てこの十一面観音像を造顕し、その体内に大切な形見の「鏡」を納入していたことがほぼ判明したと考えられる」と断じておられました。
確かこの納入品は決して取り出してはならないと言われてきたものです。「背面に四角にくりぬいたあとがあり、その中に円空上人の使った鉈が入っているという。しかし、これを見た者は目がつぶれるといわれていてまだ見た者はいない」と言う伝説のある品だと言われてきたものです。
小島先生はそのレントゲン写真を資料に付け加えておられました。その写真には8cmと2.3cmと2cmの何か円形のものが3つ写っています。その他にも何かが写っているのですが不明です。さて、これが鏡かどうか?です。小島先生は円空が像内に残した納入品には仏舎利を意味する小石や梵字が書かれたものが多いことなどから、供養を意味する鏡納入には否定的でした。しかも8cmの円形のものも鏡にしては小さいこと、さらに他の二つの丸いものはそれなら、何だというのかまさかそんな小さい鏡は考えられないという見解でした。
その時のNHKの番組をバスの中で見せようという予定だったようですが、機械が不具合で見られませんでした。私は見ていなかっただけに残念でした。
◇護法神か荒神か
栃尾観音堂の四体(正確には五体)の円空仏の中で一番の注目は、上の写真の護法神です。円空が初めて護法神を刻んだのがこれなのです。円空は生涯に相当数の護法神を彫っています。なぜ護法神を彫る必要を円空が思ったのかに私は興味があります。「法」を円空がどのように理解していたのかが問題になりますが、仏の教え、真理という風に理解したらいいのではないでしょうか。私は「法」というと、聖徳太子が十七条の憲法の中で「三宝を敬え」と言った「仏・法・僧」の一つを思い出します。 円空が、護法神や金剛神を作るのは、例えば薬師如来が仕事をしたいと思ってもそれを妨げる邪悪な力が働くと考えていたのではないかと思います。薬師如来や十一面観音など神仏の力は確かであるが、その仏へ願いが届くまでに問題があると考えたのではないかと思いました。自分が護法神になるという決意を示したかったのか、自分の中にも護法神を住まわせる必要を感じたのか、興味は尽きません。 |
上の文章は私が2008年に書いたものです。円空が「護法神」という他の仏師が彫らない守護神を彫ったのはなぜなのか?この神は仏敵退散を願う目的で彫られ命名されたのでしょう。大峰山修行後、円空の中で何かが変わり、その仏像も変化します。その象徴的な彫像が、この栃尾観音堂の護法神であると私は思ってきたのです。
最初に書いたように、もしこの護法神が竈の神『荒神』なら少し意味合いが違うのです。私は栃尾観音堂の三尊を守るために護法神が配されたのだと思ってきました。この三尊が創り出す世界のことは私には想像できませんが、円空の中では必然性があって、護法神が必要だと考えたと思ったのです。
ところが、民家の竈におられたのなら、円空が「竈の神・荒神」として彫ったのであり、栃尾の三尊とは関係がないことになります。
小島先生の「護法神」についての見解は以下のようなものでした。
護法神と荒神の例を挙げて「護法神」と言うのは、そういう特別な姿形をしたり役割が特化しているような神があるという意味ではなく、普通名詞として円空は使っていたのではないかというのです。そうなると円空は「法」を護る役割をする神々はみな「護法神」だと呼んだということになります。自らは迷えるものを教え導くことや仏の功徳を施すことはないが、「法」を護ることを使命とするものを「護法神」と呼び、自らの役割も又そこにこそあると考えたのかもしれません。
小島先生もこれは荒神と呼ぶ方がいいと思われているようでした。私は裏面にある文字が解読できないのですが、そこから分かることはないのかなと思っておりました。
栃尾観音堂は明治時代に!?
栃尾観音堂前で行われた「餅まき」が終わったとき、小島先生から観音堂横にある山道を登ってみませんかとお誘いを受けました。三重からご参加になっていた修験道と円空を研究されている水谷さんが、確かめたい場所があるとおっしゃるので、私も同道させてもらいました。歩いて5分も経たない場所に、目的の場所はありました。
ご覧のような場所です。そこは注連縄が張られた場所で、洞穴だった場所(私には現在は閉じているように見えました)だというのです。この場所に現在栃尾観音堂にある三体の円空仏は祀られていたというのです。そして聖地として集落では大切に護ってきたとおっしゃいました。
これも吃驚仰天の話です。円空さんはよく洞穴で仏さんを彫っておられたと言う話があります。北海道でも美並でもあります。「天川村お前もか!」と思いました。「円空窟」がここにもあったことになります。
山道を降りながら、地元の案内役をして下さっている方は、こんなことをおっしゃいました。
「観音堂は明治20年頃(私の記憶が間違ってるかもしれません)に地元のもので建てました。その時に洞穴にあった三体の仏さんを出して、観音堂に祀ったのです」
エーッ!それも初めて聞く話です。
洞窟内に江戸時代200年近く祀られていたら、あのような美しい状態で保存できるだろうか、いや洞窟内だから秘仏として扱われ、だれもその姿を見ることなく保管されたためにあのような損傷ない状態で今もあるのかもしれない。これはよく分かりません。しかし今、地元の方に伝わっている話は、このようなものです。
まとめますと、もともと洞穴の中で作られた円空仏三体は、その洞穴の中で長い間保管された。明治時代になって、観音堂が造られて、洞穴から遷され、現在のような形で拝むようになった。その時か、その後かは不明だが、現在護法神と呼ばれている荒神が民家から持ち込まれ、現在のような三尊(四体)と荒神(護法神)他円空仏ではない仏を祀るお堂となった。
こういうことが何にも書かれていなくて、今になって出てくるのが私には不思議な感じがします。たぶん、天川村村史をひもといたり、郷土史家の方々を訪ねたら、何が真実なのか見えてきそうに思うのですが。いや、分からないことがまだまだあるのだなと思った次第です。
洞川龍泉寺訪問
天川村にある洞川は温泉が湧く場所で、大峰山への登り口にあたります。昔から修験道(大峰信仰)の登山基地として栄えてきた歴史を持っています。大峰山を開かれた役行者には「前鬼」と「後鬼」という高弟がいましたが、ここは「後鬼」の子孫の里といわれてきたそうです。その里にあるのが現在真言宗醍醐寺派大本山「龍泉寺」。何でもこの寺に円空仏が相当数あったらしいのです。しかし火災のために今は一体もないとのこと。この寺には八大龍王堂とか水行場とか不動明王像とか、前鬼後鬼を従えた役行者像とか如何にも円空さんと関係の深そうな建物や像がありました。
天河大弁財天社へ行けなかった代わりに、ここで護摩供養をしていただけることになりました。私たち一行は護摩壇の廻りで供養の間お祈りをしました。護摩供養は初めての経験でした。「東北大震災被災者供養」を願っての護摩供養でした。
実は7月中頃に中日文化センターの担当者の方から、このツアー参加者へ集合写真が送られてきました。その中に、龍泉寺の護摩供養の写真があるのですが、その炎が確かに不動明王に見えるのです。どなたがお撮りになったのか知りませんが不思議です。炎は確かに色々な形に見えます。京都で毎年火祭りをする某宗教団体は「龍が立ち上った」と宣伝しているのを見たことがありますが、私もしっかりカメラ構えて不思議な状態になる一瞬を撮ればよかったかなと思いました。偶然は時に芸術的であり宗教的なものなのだなと思った次第です。
この後、帰途についたわけですが、私は洞川温泉に入りたかったなあと思っておりました。この日中日センタービル前(名古屋市)7:30集合でしたから、私は5時過ぎに家を出ました。帰りもう一度名古屋へ戻ると時間がかかります。それで、近鉄の吉野線下市口でバスを途中下車して帰れば、かなり早く帰れそうなので、私だけ降ろしていただくことになりました。
小島先生は私の「円空さんを訪ねる旅」を読んで下さっているようで、私が「そう言えば、岐阜市内に円空仏があるというのは聞いたことがない。円空さんは岐阜市内へは足を運ばなかったのだろうか」と「円空さんを訪ねる旅11円空美術館」と書いたことを覚えて下さっていました。「岐阜市の円空仏」という資料をいただきました。それによると岐阜市内には39の円空仏があるとのことでした。近々小島先生の本が出版されるそうで、その中に私が書いたものの引用をしたいというお話もうかがいました。ありがたいことです。
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