円空さんを訪ねる旅(42)
長間薬師寺から竹鼻へ
(岐阜県羽島市)

円空大祭(中観音堂)講演会

 円空大祭(2014・8・18)が羽島市中観音堂で行われると知り、出かけました。小島梯次先生が「円空仏の像内納入品」について講演されるというので興味を持ちました。
 京都から米原まで新快速。その後新幹線で岐阜羽島。名鉄で新羽島から羽島市役所前。そして羽島コミュニティバスで中区までというルートでした。7時半頃に自宅を出発し10時半ごろに観音堂に着きました。
 前回は岐阜羽島からタクシーに乗って距離の割にメーターが上がる速度がすごいのにビックリしました。名鉄で、新羽島から二つ目の駅が羽島市役所前、その次が竹鼻です。この竹鼻という地名にも興味が湧き、帰りに寄ってみることにしました。
 私は観音堂境内に露店が出ている祭りを想像していましたが、全く違ってセレモニーが行われていました。
 観音堂に近づいていきますと、セレモニー真っ最中で、来賓の挨拶・紹介が聞こえてきました。衆院議員、参院議員、市会議長、市会議員やその秘書の挨拶が続きました。どうしようかな、これは場違いなところへ来てしまったぞと正直なところ戸惑いました。観音堂の中でセレモニーは行われているようで、外のテントの中で地元の方たち20名あまりとともに座らせてもらいました。セレモニーが終了して、資料館の下の集会場で講演会が行われました。
 講演会の内容については最後に書くことにします。
 講演会の後、すぐ小島先生が「よく来られましたね。壇上から見つけてビックリしました」と来てくださり恐縮しました。そして中観音堂の加藤奨さんにも紹介して下さいました。食事が用意されていて私にも配られました。ありがたく頂戴したのですが、よかったのでしょうか。それから中観音堂の諸像を拝ませてもらい資料館も見学させていただきました。そこで、奈良県天川村のご出身で現在香芝市で「円空彫りサークル」をしておられる方お二人とお会いしました。その時、「エーッ」と驚く話を聞いたのですが、もう少し事情がはっきりしてから書いてみようと思います。
 私がこの後長間薬師寺へ行こうと思っていると申しましたら小島先生が長間薬師寺に電話を入れて下さり庵主さんもおられて拝ませていただくことが出来ました。前に薬師寺から中観音堂まで歩いたことがありましたので、今日はその逆コースです。

長間薬師寺

 朝、コミュニティバスに乗っていて分かったのですが、名鉄羽島市役所前駅から市街地を抜けて最初のバス停が長間で、その次のバス停が中区です。長間バス停から薬師寺へは少し距離があります。
 中観音堂から歩いて15分ぐらい、約1kmで長間観音堂に着きました。その道筋には現代の円空彫りが並べられ、長間薬師寺ののぼりや翌日に行われる施餓鬼を知らせる張り紙がありました。前回来たときにはなかった太陽光パネル設置集積所がありました。
 長間薬師寺については前回行ったときに作成したページを参考にしてください。

長間薬師寺諸像

 前回来たときは庵主さんが不在で、近くの方が鍵を開けてくださいました。今回は小島先生のおかげで、庵主さんともお話をさせていただきました。
 これが長間薬師寺の須弥壇です。薬師三尊と阿弥陀如来は厨子内におられます。大変丁寧な彫りで、穏やかな笑みをたたえておられます。護法神が二体お厨子前におられます。おそらく個人宅にあったのではないかと言われている観音像二体は確かにそのようで、厨子内にありました。

薬師三尊

月光菩薩 薬師如来 日光菩薩
 薬師如来は、左手には薬壷を持っておられます。足元は磐座の上に臼座がありその上の蓮座があり、その上に立っておられます。日光・月光菩薩像は肩幅の割りに顔が大きく、バランス的にはやや違和感があります。長い裳懸座の下に蓮座がありさらに磐座。これは寛文期の像の特色。しかしながら、三尊の足元はお仏壇に隠れていて確認できませんでした。穏やかでゆったりした慈悲深いお顔をしておられます。

薬師如来(阿弥陀如来)

 裳懸座が長いこと、耳たぶが肩にまで垂れていること、表面を滑らかに整えていること、衣文を線刻で表現していることが特徴です。長間薬師寺は昭和22年現在地より400m程南東にあった薬師堂と近在にあった慈光庵という寺が合併して現在地に移転してきたそうです。その慈光庵の本尊だったのがこの薬師如来(阿弥陀如来)だったそうで、今は脇本尊として祀られています。お寺では薬師如来と表示しておられました。小島先生は阿弥陀如来と書いておられます。薬壺を持っておられません。

護法神像(金剛神像)

 お寺の表示は護法神像。お寺はライトのあて方も工夫しておられました。笑っているようで、苦悩の表情のようで、凝視しているようで、下向きのようで、そうでもないようで、角度によって何れにも見える。いかにも円空らしい像です。

薬師如来・観音像

 左の小像をお寺は薬師如来像だと表示しておられました。こういう小さい像を円空は民家に残しています。この像はお顔に損傷があります。
 右の体を曲げたような像は25.5cmある。これは下半身なのか座なのか判断がつきません。頭に化仏をのせておられます。顔の造作を線で表しています。

竹鼻というところ

 長間からコミュニティバスで羽島市役所前駅へ戻りました。まだ時間があるので、円空の生誕地候補の一つである竹鼻(竹ヶ鼻)ってどんな所なのだろうと歩いてみることにしました。名鉄羽島市役所前の次の駅が「竹鼻」でした。まず、「竹鼻」駅へ行こうと思いました。
 駅前に竹鼻の観光マップがありました。上のようなマップです。左上が現在地の羽島市役所前駅。そして右下が竹鼻駅。
 下を流れるのが逆川。この名前記憶があります。右から二つめの通りは円空通り。左から二つめの通りには佐吉大仏。あれ私と同じ苗字で字が違う方のお宅は地図に載るくらいの趣のある古民家。まん中が商店街。右には竹鼻まつり(各町内に山車がある)の八剣神社があります。この地図、右が北で上が西です。
 羽島は7万人弱の人口で、農業とアパレル産業が盛んだそうです。もともと竹鼻城があり城下町で、長良川、木曽川に挟まれた輪中地帯で、今は名神高速道のICや岐阜県内唯一の新刊線駅「岐阜羽島」のある交通の要所でもあります。
   
 名鉄「竹鼻駅」降りたら「出張なんでも鑑定団」(テレビ東京製作)が羽島で行われ、その出場者を求めるという張り紙発見。この番組よく見ます。羽島市が主催するようです。こういうやり方であの番組はやっていたのかと思ってまじまじとポスター見ました。
 この番組で円空仏が出たことがありました。確か百万円単位の値が付いていたと記憶してます。羽島ですから、ひょっとしたら新発見のものが出るかも知れないとちょっと期待してしまいました。
 まん中の写真の川が逆川です。逆川という名は「円空ー羽島市の円空仏」(鈴木正太郎著・羽島市円空上人顕彰委員会発行・昭和51)に円空の伝承と共に出てきます。先々代の森浄光尼がお堂の縁起として語られたと内容とのことです。。紹介しますと…・
「在郷中の円空上人が、年老いた乞食を見て気の毒に思い薬師如来像をつくって与えられた。乞食は、毎日その仏を背負って喜捨に回っていたが、いつかその姿が見えなくなった。その頃、逆川の真菰の繁る川端に、毎夜火の玉が出るという噂が広まった。村役の人々が、丈夫な青年を集めてその付近を調べさせると、真菰の中に乞食が死んで居り、そのかたわらに薬師如来像があった。火の玉の正体はこの像であった。村人は驚いて、直ちにその付近を開拓してお堂を建て、薬師の像を祀った」
 この話に出てくる薬師堂は、長間薬師寺の前身の薬師堂のようである。前に書いた現在地から南東400mにあったというお堂で、中観音堂も、その薬師堂も、現在の長間薬師寺もかつての名古屋街道沿いにあります。
 中観音堂のセレモニー中、どなたかがご挨拶で、羽島が産んだ尊敬する人物として二人名前を挙げられました。一人が円空であることは分かったのですが、もう一人が分かりませんでいた。しかし町歩きをしていて分かりました。「仏の佐吉」と呼ばれた江戸時代の方のようでした。その方がお造りになった大仏が右の写真です。ご子孫が無料で公開され拝観できるようにしておられました。丈六の立派な金銅仏です。そのお堂にいろいろな資料があり、見せていただきました。私が佐吉さんについて理解したことを書きます。
 「仏の佐吉」さんは昔の修身の教科書に取りあげられた方で、その像が地元の小学校に設置されています。円空も取りあげられている「近世畸人伝」にも取りあげられた人物です。いろいろなエピソードが書いてありました。山賊を改心させたお話。商売で客に金額や数量を任せ人々を信用していた話。人々のために道標を建てた話。
 私は名鉄「竹鼻駅」付近が竹鼻なのだろうと思っていましたが、「羽島市役所前駅」付近も竹鼻町でした。先程のマップにある観光案内してあるところは竹鼻なのです。要するに岐阜羽島市の中心街はみな竹鼻なのだと言うことが歩いてみて分かりました。古い酒屋さんがあり、豪商のお屋敷がある商店街の通りがありました。きっと竹鼻まつりの時は山車もあるその辺りの人出が多いのだろうなと想像しました。しかし一昔前の商店街で、シャッターが下りていたり、私など昭和生まれの人間には懐かしいお店が並んでいました。きっと大駐車場を持つ郊外型の商業施設が、こういう商店街から客をさらってしまったのだろうなと想像しました。
 円空が生まれた頃、そして足繁くこの辺りを巡錫してころの竹鼻はどんな所だったのでしょうか。
 私は今回羽島市へ来て、竹鼻と長間や中が近いことに驚きました。

円空大祭講演「円空仏の像内納入品」

 円空大祭(2014・8・18)で小島梯次先生が「円空仏の像内納入品」について講演されると知り、これはおもしろそうだと参加したと最初に書きました。私が何をおもしろいと思ったかは少し説明が必要かと思います。最後にそのことにふれようと思います。

 円空の生誕地をめぐっては、有力な説は3つ。
1,岐阜羽島市中観音堂付近
2,郡上八幡市美並町
3,岐阜羽島市竹(ヶ)鼻


 円空が自筆でその出生地を書き残しているものがあります。それは群馬県富岡市一ノ宮・貫前神社旧蔵(現はにわ博物館蔵)の「大般若経断簡」に「壬申年生美濃國圓空」と書いています。これで円空の生年が「壬申年(寛永9年・1632)」だということと「美濃国」出身だということが分かりますが、美濃のどこかは分からないのです。

 美並説については説明が長くなりますので又の機会にします。

 先に竹鼻説から説明します
 「竹が鼻」の名が出てくる江戸時代の文書は3つ。
●その1「近世畸人伝」(京都の国学者伴蒿蹊著・1790))に〈僧円空附俊乗〉に「僧円空は美濃国竹が鼻といふ所の人也」と書かれています。
●その2「円空上人画像・跋」(館柳湾筆・1800)に「円空上人美濃国竹鼻邨人…」とあります。
 その1もその2も千光寺で伝えられていた伝承をもとにしていると思われるものです。
●その3「圓空彫刻霊告薬師…」(下呂市金山町祖師野薬師堂木札・1826)に「圓空上人ノ来由尋ルニ当國竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ」と書かれています。

 これがその1を参考にして書かれた可能性があります。しかし後の記述が異なることから、竹ヶ鼻だけを引用するのは不自然であり、独自の伝承があったと思われます。
 
 次に中観音堂付近説これは直接中観音堂付近を名指しした文書はありません。西美濃安八郡中村が二つの書に書かれているのです。この中観音堂のある場所は現羽島市上中町中(旧中島郡中)です。安八郡中と中島郡中は同じ「中村」で長良川を挟んで対岸なのだそうで、後に書く二つの書の著者は、取り違えたのであろうというのが根拠になっています。
●その1「金鱗九十九塵」((桑山好之著・1830〜1844)に「生国は西美濃安八郡の住人加藤与左衛門といえる人の孫なりしとそ」と書かれています。
●その2「淨海雑記」(荒子観音寺18世全精法印著・1844)に「…圓空上人姓ハ藤原氏ハ加藤西濃安八郡中村之産也…天保十五年庚申夏五月…」と西濃安八郡中村出生説が書かれています。
 
取り違えの論拠を「円空 微笑みの謎」(長谷川公茂著・2012・新人物往来社)で見てみましょう。
@「安八郡中村」には「円空仏もなく、それらしい痕跡は皆無」である
A「中島郡中」には、円空の出生にまつわる伝承がある
B円空が「母の三十三回忌に造顕して祀ったという、十一面観音(222cm)像など17体の円空仏を祀る観音堂がある。

C円空の残した和歌(わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん」から円空出家の原因は母との死別と思われる。木曽川と長良川に挟まれたこの地域は大洪水で度々被害を受けた。円空の生まれた寛永9年(1636)以降では、寛永15年(1638)に西濃に洪水があった。その時円空7歳。この時母親を亡くし、出家を決意したのではないか。中観音堂十一面観音は、推定寛文11年(1672)で、この年は母親の33回忌に当たる。伝説通り、母の供養のために祀ったのであろう。
D十一面観音には像内納入品がある。先年(平成21)NHKが「円空」を放送するためレントゲン写真を撮影したところ中に入っているのは鏡だと専門家は判断した。円空の和歌の中に30数首鏡を詠んでいる。「あさことに鏡の箱にかけ見えて是はふた世の忘れ形見に」円空は母の形見の鏡を十一面観音の体内に納入したことが判明した。
 長々しい説明になりました。竹鼻説には文書の裏付けがあります。しかし、その文書も円空が生まれて150年以上経過した時に書かれたものが一番新しいというものです。これはその信憑性に?を抱かせます。
 中観音堂付近説は文書の裏付けがないところが弱点です。又、状況証拠から仮説を幾重にも重ねて結論づけていることも問題です。「安八郡」と「中島郡」を取り違えた、母親は洪水で死亡した、円空の出家の原因は母の死、十一面観音の像内納入物は母の形見の鏡である、これらは直接的な裏付けがないものです。
 竹鼻説は飛騨千光寺での伝承が基になっています。中観音堂付近説(安八郡中村説)は尾張荒子観音寺の伝承が基です。どちらの寺にも何度も円空は訪問しています。そして多くの円空仏が残されており、当時の住職が円空を高く評価し様々に語り合ったであろうことが予想されますので、誕生地について語った可能性はあるでしょう。
 竹鼻説をとっておられる小島先生が、中観音堂の円空大祭で「円空仏の像内納入品」についてお話になると言うことは、十一面観音の納入品が母の形見の鏡なのかについての判断を示すということになります。そして、私か先ほど書いた中観音堂付近説の推論のどこまでを認め、何に疑問を持っておられるかをはっきり示すことになるのです。おそらく中観音堂を御守りになってきた方々は、小島説を肯定することは心情的に難しいと思われます。
 私がぜひ聞きたいと思った理由は「それでもどういう話をされるか」と思ったということです。

小島講演の概要

@中観音堂の十一面観音の御利益と材について(印から官材であること・形状から建築用材であることが判明)
A像内納入品は供養のため
B像内納入品のある円空仏について
1,像内納入品のある円空仏は現在14体(全5400体中)。そのうち中身が確かめられているのは6体。中観音堂に3体ある。
2,円空が納入物を入れたのは寛文9年(1669・38歳)から(延宝2年(1674・43歳)までの5年間。鉈薬師の阿弥陀像・日光菩薩から三重県志摩市三蔵寺観音菩薩や岐阜県関市松見寺峯児大権現あたりまで。岐阜県羽島市で最近個人蔵の釈迦如来像(寛文10年頃の作)が発見された。
3,像内納入品のある円空仏とその中身
・仏舎利石は6例とも、金剛界五仏種子(梵字・種子)は5例ある。
・仏舎利石…舎利(釈迦の骨)の代わりに入れる(中観音堂阿弥陀如来像と羽島個人蔵釈迦如来は5個 不動明王像は9個)
個数は供養する人の人数を表しているのではないか。 
・金剛界五仏種子(ウン阿如来・キリーク阿弥陀如来・バン金剛界大日如来・タラーク宝生如来・アク不空成就如来)
種子の数は供養する人数を表しているようだ
・小観音像(真っ黒に塗られていた…栃尾観音堂観音菩薩像・栃尾の像内には金剛界五仏種字も舎利石もあった)
・書き付け1(年号や作之と読める文字…栃尾観音堂観音菩薩像)
・書き付け2(奉転読大般若経祈所背不可●●●教五眼●放●●菩薩…志摩三蔵寺観音菩薩)この書き付けは仏舎利石を包んでいた。
4,延宝2年以後納入品を入れなくなったのは
・願主がいなくなったためか、・円空が必要を感じなくなったためか。
C中観音堂十一面観音堂の像内納入品について
  参考資料1「平成21・5NHKの撮ったレントゲン写真
  参考資料2「各種レントゲン写真」(NHKに写ったものが何かを調べるため「真鍮銅鏡・鉄球・翠石・虎目石・ガラス玉」をレントゲン撮影したもの
1,この2つの資料を比較した結論として「私も大きい8cmは鏡だと思うが、あとの小さい5個ある2.3cmや2cmのものは何か、鏡とは言えない」
2,これが鏡だとしても母の形見だとは言えない。鏡を納入した理由として和歌が引用されるが円空の鏡の歌は三十数種ありいろいろな解釈が出来る可能性がある。小島さんはここは慎重に断定は避け、こんな推論を出来るのではないかとおっしゃって、4つの円空作の和歌を出された。円空は、その4の和歌にある眉黛の女性と伊勢二見浦で逢瀬を楽しんでいる。記念の鏡をもらっているともとれる。十一面観音に己の煩悩を封じこめるためにその女性のくれた鏡を納入したという可能性もある。
その1 あさことに鏡の箱にかけ見えて是はふた世の忘れ形見に
その2 うちおほふ君の記念は旅の宿二見浦を明て社見れ
その3 かた見とてかがみのはこはもろともにふた見の浦を明日こそ見ん
その4 眉黛か浮世の中の花なれや浦山敷が眼にかかりつつ
3,何れにしても、レントゲン写真では判断できない。十一面観音も開けてみないことには解らない。以前地元の「秋葉三尺坊」の埋め込みを外し、納入品を調べる許可を得たことがあった。しかし「像を傷つけないで」という条件が付いた。調べたら100万円費用がかかることがわかり断念した。信仰上の問題もあり難しいことだが、生きている間にできればという願いを持っている。
 質疑応答の時間がとられました。一番最初に挙手されたのは長谷川公茂先生でした。
 最後の鏡にまつわる和歌の解釈は、以前にもそういう解釈があったことを紹介され、その方が間違っていたことを謝罪されたと話されました。小島先生は「当時円空が極初期像を中山寺に残していたことは知られていなかった。しかしそれが発見された現在なら、中観音堂の像内鏡を二見浦との関係で論じることは可能だ」と反論されました。私はその経緯を知らないので、こういうことかなと想像しました。伊勢志摩への巡錫の時期が羽島での円空の造仏時期より後だということでその方は自説の誤りをお認めになったのではないかと言うことです。しかし極初期像が伊勢市内で発見されたことで、二見浦が先で、中観音堂が後だということになると、この推論は成立するということになるということではないでしょうか。
 長谷川先生は「その説を論じた方の名誉のために指摘した」とおっしゃいました。
 その後、加藤さんが、自分は中観音堂でこういう説明をしていると、かなりの時間を使って長谷川先生が主張し、梅原猛氏が追認された円空中観音堂付近生誕説を述べられました。羽島市円空上人顕彰委員会としては小島先生の説や推論は受け入れがたいものだったのでしょう。
 私もこの和歌の読解に挑戦してみようと思います。
 まず、その1 あさことに鏡の箱にかけ見えて是はふた世の忘れ形見に です。
 漢字に直せるところを直してみます。「朝毎に鏡の箱に影見えて是はふた世(夜)の忘れ形見に」ではないでしょうか。
 これを母を詠んだ歌だとするとどういう解釈になるでしょうか。
「毎朝母の形見の鏡が入っている箱を見ていると母の面影が目に浮かんでくる。これは母のいるあの世と私のいるこの世をつなぐ母の忘れ形見としたい」円空はお母さんの鏡の入った箱をずっと持ち歩いていたことになります。
 しかし、この歌を二見の宿で出会った眉黛の女性のことを歌っていると読むとこうなるのではないでしょうか。
「今日も昨日も朝毎に、鏡で化粧しているあなたの影が箱に映っている。これは二夜(ふたよ)を共にした私たちの形見にもしたい思い出である」とよほどご執心だった女性への思いを詠んだ歌になる。
 他の歌はどうもお商売の女性とのことを歌っているように私には詠めます。二見浦、私は小学校の時修学旅行で行きました。円空の時代に遊郭があったのかどうか知らないのですが、どうも母親のことではないような気がします。
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