円空さんを訪ねる旅(32)

津島千体地蔵堂
(津島市天王通り3丁目・名鉄津島線津島駅下車徒歩10分

(1)結局会えなかった

 円空さんの千体仏がなかったら、津島という場所へ私が行くことはなかったでしょう。
 何度も書くことになりますが、円空仏が一番多く発見されているのは岐阜県ではなくて愛知県だというのは意外な気がします。しかし地図をよく見ると美濃も尾張も濃尾平野なのだなと妙に納得しました。揖斐川・長良川・木曽川という大きな川のあっちとこっちで隔たってはいたでしょうが、美濃と尾張は一体のものという感性が昔からあったのではないでしょうか。織田信長や豊臣秀吉を例に挙げるまでもなく、それは江戸時代にもあって、私が想像する以上に円空さんは違和感なく自在に移動したように思います。
 「津島市は濃尾平野の西部、名古屋市の西方約16kmに位置し、昭和22年3月、県下9番目の市として誕生しました。津島神社の門前町として、また交通・経済の要衝である湊町として、近世・中世を通じて繁栄してきました。市内には長い歴史と文化が大切に受け継がれ、500年以上も前から続く「尾張津島天王祭」や、国の重要文化財である「堀田家住宅」を始めとする多くの文化財や古い町並みなど、歴史的・文化的遺産に出会うことができます」(津島市のHPより)
 名鉄津島駅を降りると、津島神社まで天王通りという2車線道路がまっすぐ通っています。津島神社の門前町として栄えたらしく商店街が続いていました。しかし日本の古くからある商店街が軒並み以前の繁栄した様子を留めるだけの存在になってきていることをこの商店街にも感じました。
 私が訪ねたのは2010・7・24(土)のことです。暑い日でした。連日猛暑で38度を超える日が続いていました。天王通ですれ違った見知らぬ方が、「暑いですね。たまりませんね」と声をかけてこられました。よほど私がけだるく歩いていたのでしょう。
 
天王通りの駅と津島神社の中間あたりにある千体地蔵堂の前についたのですが、何も飾りもないし地蔵盆の雰囲気なんてしません。あれ?です。仕方がないので、中をのぞき込んだのですが、しっかり閉じられた厨子が見えて、その横に円空とは思えない木彫りの仏さんが祀られていました。私の知っている写真の千体仏ではありませんでした。まだあれ?なぜ?と前に回ったり後ろに回ったり、道路の反対側からお堂の写真を撮ったりしました。そのうちにどなたか事情の分かる方が通行されないかなと思ったのですが、だれも通られませんでした。
 私は勘違いしてこの日に津島を訪れたのです。HPで津島千体地蔵堂を検索した中に7月24日に地蔵堂が開扉されるという情報が書き込まれているものがありました。今もあります。しかしながらそれは旧暦の地蔵盆のことで、実際は8月24日なのです。私は、愛知では地蔵盆を7月にするのか…と思いながらこの日訪ねたのです。もっとしっかり調べたらよかったのに悔しい思いをしました。
 私のHP掲示板に「守口の人」さんが09年8月25日に次のような書き込みをされていました。「津島地蔵堂は御開帳が地蔵盆の日とGWの数日しか開かれないのでこの日に合わせて行きました。朝10時半頃に行くと供物や盆提灯の準備のさなか見物させてもらいました。本の写真などで見たことあるのにやはり生の本尊の地蔵座像を囲む千体仏の数に圧倒されました。またその脇に立つ護法神と善財童子や韋駄天像も良かったです。管理されている家の奥さんに千体仏の位置が発見当時と違う(ボンドで引っ付けたので元に戻せないので困ってる)とか我が家に円空さんが泊まられ世話をしたなどのエピソード話も聞かせてもらいました」

 こういう親切な情報をいただいていたにもかかわらず、すかたんな日に行ったものです。私が勘違いしたもう一つの理由は津島神社の天王祭のクライマックスが2010年は7月24日と25日であったことがあります。津島神社の天王祭を調べたら7月の第4土曜日の「宵祭」とその翌日の「朝祭」がクライマックスだったのです。それでてっきり地蔵堂もそれにあわせて地蔵盆をされ開扉されるのかなと勝手な判断をしたのでした。

(2)津島神社と天王祭

 しかたがありません。新幹線乗ってここまで来たのですから津島の町をゆっくり見て回ることにしました。町のことを紹介する元銀行の建物があり、そこでDVDで祭りの様子を見ました。二艘の船に山車が乗っているような感じで、提灯が花笠状に灯りを点す美しい祭りだなと思いました。日本三大舟祭り(他は大阪天神祭・厳島神社祭)だそうで500年の歴史を持つ祭りだそうだ。
 津島神社はガラーンとしていました。きっと今夜と明日にかけての祭りの前の静けさなのだろうと思いました。もっといっぱい露店が出て人が行き来しているののを想像していましたので少し当てはずれでした。しかしこのあと行った船が浮かべてある池の周辺(御旅所)にはたくさんの露店が準備していました。津島神社は織田家の氏神でもあったようで、社紋は京都八坂神社と同じ「木瓜」(もっこう)。素戔嗚尊を祀るのも八坂神社と同じでした。ボランティアの方が説明してくださいました。「蘇民将来子孫也」の話や氏子がきゅうりを食べない話はここでも語られていました。

(3)津島の千体地蔵顛末記(佐藤真)を読む

 「円空研究3…特集尾張・三河」に佐藤真さんという方が「津島千体地蔵顛末記」という一文を書いておられる。その一部を梅原猛さんも「歓喜する円空」で引用されておられる。
 たいへん興味あることが書かれている。佐藤さんはこの地蔵堂から100米も離れていない場所に幼少期から住んでおられたようで、この土地についても詳しいようだ。昭和38年(1963)9月22日の毎日新聞夕刊に「津島で発見した円空仏」という一文を書かれたらしく、この地蔵堂に円空千体仏他3体があることを世に知らしめた人なのである。正確には「円空研究3」で確かめてほしいが、私が興味を持ったことを書いてみることにする。
@佐藤さんは発見前に方々の円空仏を拝観していた
A発見したのは8月末の昼近くであった。(新聞記事の出た年でしょうか?はっきり書いていません)
B昭和4年に天王通りが10mのまっすぐな通りになった。それまでは細い曲がりくねった露地のような曲角にあったのを現在の場所に移した。
C佐藤さんの隣の町内だったがお供え物や提灯が溢れ、鉦や太鼓を打ち鳴らす地蔵盆が羨ましかった。(戦前のことのようです)
D戦後お堂はそのまま残ったが、次第にみなの意識から遠ざかり以前のような盛大な地蔵盆ではなくなっていった。
E昭和34年伊勢湾台風で水没は免れたが、屋根瓦が飛ばされ扉が壊され、みじめな姿になって数年間そのまま放置されていた。
F縁日以外扉を開けることができなかったお堂は扉が壊れていたのでいつでも開けられたので佐藤さんも覗いてみる気になって発見できた。
G地蔵堂の辺りは「千体屋敷」があってお上の命の雑役をいつでもする定住者でない人々が住んでいた。
H地蔵は現世利益と死んだ人間の救済をする仏であるからこうした場所に地蔵尊が祀られるのは当然で「それらの人々の冥福を祈って千体地蔵が祀られた」と古老の一人は話してくれた。
I「その老人は円空が造った仏だとはいいませんでしたが、私は円空が津島神社へお参りにきて此処を通りかかり、千体屋敷の人々のために彫りきざみ祀ったと思いたいのです」(佐藤さんの推論)
J(発見当時の写真が掲載されている)発見当時千体仏の右側三分の一は膠が効かなくなっていたようでおりかさなって落ちていた。
K本尊の裳懸座中央の六地蔵(?)の一体が欠けていた。
L本尊の周りに数十段の雛壇が設けられ、本尊を囲むようにすきまなく5〜7cmの小仏が千体付けられ、高さは70cmであった。
M日に日に脱落するので町内の人が佐藤さんにも相談されたが専門的な知識がなく手だてがなかった。
N岐阜大学教授で当時円空研究では第一人者であった土屋忠義氏が修復されることになった。
O土屋氏は一旦全部の小仏を外して埃を歯ブラシで払い落として、工作用のセメダインで付けた。
P「こんなことで良いのかな」と疑念を抱いたが黙って拝見していた。
Q小像は以前の場所とちがった場所に付けられた。特に前の五体は衣服が違うのだが、六地蔵の意味がなくなってしまった。
R革製の後背は明らかに後補であったので除かれた。
Sせめて発見された今日の姿に、できるかぎり忠実に復元すべきではなかったかと佐藤さんは考えている。この修復は昭和42年の夏の終わりの頃のことであった。

(4)梅原猛さんは「遊女のために」

 梅原さんは「歓喜する円空」の中で津島の地蔵菩薩にふれてこのように書いておられる。
 「地蔵菩薩は、この世で救われない名もない衆生を救う仏である。この地蔵堂のあたりにはかって遊郭があり、地蔵堂は苦しみながら死んでいった遊女のために建てられたという伝承がある。いずれにしてもこの千体仏は、龍泉寺や荒子観音寺のように寺の奥に秘められる仏ではなく、多くの人の拝む仏として作られたものである」
 佐藤氏の「千体屋敷供養説」なのか、梅原さんの「遊女供養説」なのか円空は何も書き残していないようです。共通しているのは、円空が「辛く悲しい境遇にいた人々」のために造仏したということでしょうか。

2011・1・8(土)作成

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