円空さんを訪ねる旅(15)
天川村栃尾観音堂
(奈良県吉野郡天川村大字栃尾)
インターネットで検索したら、電話番号がрO747−63−0999と出ていました。ナビで検索したら、天川村の総合案内所でした。まあ、いいや当たらずとも遠からずであろうとタカをくくって行くことにしました。和歌山の「めっけもん広場」(那賀郡打田町・粉河寺や根来寺の近く)から行きました。橋本から五条へ入り、国道168を南下して十津川村を目ざし、大塔村坂本から天川村へ入るつもりだったのですが、途中でナビは一筋北の勢川宗川野線(49)を案内したようで、309号へ出て、新川合トンネルから天川村総合案内所へ到着しました。途中の道が山道で離合困難な場所が多く心細い思いをしました。
天川村に円空さんがおられるというのはつい最近知ったことです。
「円空を旅する」(産経新聞ニュースサービス・2005・冨野治彦)は、編年体で円空ゆかりの場所を追っている本です。この本で、天川村栃尾観音堂にある円空仏を強く意識しました。その第2章は「大峯山修行」です。ちなみに第一章は「みちのくへ」、第三章は「弥勒の浄土へ」です。つまり、大峯山へ円空が訪ねたことの持つ意味は重要で、円空の思想や信仰を知る上で大きな意味を持っているということだと思われます。
1663年美濃美並村で仏像を彫り始めた円空は、突然1666年東北北海道の旅へ出かけます。そして1669年美濃へ戻り、1669年、名古屋鉈薬師で造仏活動をした後、美濃の関、郡上市で活動します。その後、1671年彼は突然奈良法隆寺で「法相中宗血脈」を受けます。彼が近畿へ足を運んだ最初のことではないでしょうか。なぜ法隆寺なのか…私はぜひ法隆寺の大日如来座像を拝観したいと願っていますが、叶う夢なのかどうかと思っています。
奈良県に円空仏は19体あります。法隆寺に智拳印を結んだ大日如来座像(79cm)1体、松尾寺に役行者像。
そして何と天川村には16体あるのだそうです。天河大弁財天社の大黒天像、大峯山寺の阿弥陀如来像そして、この栃尾観音堂に4体だそうです。私の分かることはそれだけです。その中で、公開されているのはどうもここ栃尾観音堂だけのようなのでぜひ拝観したいものだと出かけたというわけです。
天川村は、観光案内所でいただいたパンフレットを読ませていただいていると、観光客招致に熱心なようです。
そのパンフで初めて知ったのですが、この村には、修験道のメッカで世界遺産に指定されている大峯山、大峯奥駆道があります。その大峯山への登山基地である洞川(どろがわ)温泉街があります。日本名水百選「ごろごろ水」や、鍾乳洞もあるようです。渓谷美を誇り、登山を楽しんだり、川遊びやつりを楽しんだりできるなかなか魅力的なところです。歴史的には後醍醐天皇以来の南朝とのつながりが深く、御所も天川村に置かれたようです。
円空がこの栃尾観音堂で造仏活動をしたのは、もちろん大峯山(山上ヶ岳)で修行するために訪問したのがきっかけでしょう。彼が天川村と大峯山で修行したのは、1673年(寛文13年・延宝元年)が1回目で栃尾観音堂の諸像はこの時に刻まれました。二度目は、1675年(延宝3年)で、大峯山で役行者像を彫ったようです。一回目と二回目の間の1674年(延宝2年)円空は、三重県志摩半島伊勢神宮を歩いて仏像を残しています。仏像だけでなく、大般若経を修復した際に絵画も残しているのです。この時期円空の中で何かが生まれ新しい境地に到達したようです。それもこれも大峯山での冬ごもりの修行が関係していると思われます。
栃尾観音堂の四体の円空仏の中で一番の注目は、上の写真の護法神です。円空が初めて護法神を刻んだのがこれなのです。円空は生涯に相当数の護法神を彫っています。なぜ護法神を彫る必要を円空が思ったのかに私は興味があります。「法」を円空がどのように理解していたのかが問題になりますが、仏の教え、真理という風に理解したらいいのではないでしょうか。私は「法」というと、聖徳太子が十七条の憲法の中で「三宝を敬え」と言った「仏・法・僧」の一つを思い出します。
円空が、護法神や金剛神を作るのは、例えば薬師如来が仕事をしたいと思ってもそれを妨げる邪悪な力が働くと考えていたのではないかと思います。薬師如来や十一面観音など神仏の力は確かであるが、その仏へ願いが届くまでに問題があると考えたのではないかと思いました。自分が護法神になるという決意を示したかったのか、自分の中にも護法神を住まわせる必要を感じたのか、興味は尽きません。
大弁財天女立像(85.7cm) | 聖観音菩薩像(137cm) | 金剛童子立像(84.3cm) | 護法神像(49.7cm) |
観音堂の四仏は、このように並んでおられました。聖観音像の脇侍として弁財天と金剛童子を配したのか、それとも偶然こういう三尊形式になったのか。
聖観音菩薩像の胎内から胎内仏、硬玉の仏舎利、そして「金剛界五仏」の梵字と「寛文」「年」「作之」らしい文字が読める雁皮紙の紙片が見つかったそうです。彼の一回目の大峯山修験が寛文13年だったというのは、どうもこの紙片から明らかになったようです。
大変穏やかな表情をした三体です。笑みをたたえておられます。杉の木目が表情に変化をもたらしています。
2008・7・12(土)撮影
2008・7・19(土)作成
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