円空さんを訪ねる旅(34)

2012・4・1(日)撮影
2012・5・6(日)作成

津市真教寺閻魔堂十一面観音立像
(三重県津市下弁財町津興2389・TEL:059-225-8105)

 2012年4月1日に行われた中日新聞社主催のツアー2カ所目は、津市下弁財町にある真教寺閻魔堂でした。 ここに円空作十一面観音立像がおられます。真教寺閻魔堂のある場所は、旧伊勢街道沿いです。真教寺は弁財町の南の端で、津城下の町はずれだったようです。 江戸時代前期少し南に八幡町がありましたが、伊勢参宮街道沿いのことであり次第に人家が建ち並ぶようになってつながり、貞享2年(1686)阿漕町が成立したそうです。 
 真教寺は今も残る古い町並みの北端にあり、ここから南、街道沿いには街道筋の景観を今に伝える建物群があります。寛永9年(1632)八幡宮が建立され、八幡町にも茶店が軒を並べるようになったそうです。
 町が変貌している時期に円空さんはこの辺りを訪れていたことになります。
 
 
 
 (1)真教寺閻魔堂の諸像の作像時期
 真教寺で由来記をいただきました。それには
「当山は天台宗総本山延暦寺の末寺です。慶長19年(1607)藤堂高次公の建立で江戸時代宿場の入り口で行き来した、旅人たちの姿を見守ってきたご本尊がエンマ大王なのでいつしか当寺をエンマ堂と云うようになった。又、孝子阿漕平次の由来寺であります。」
とありました。
 真教寺には閻魔大王像・但生神像・暗黒童子像の三体の他、葬頭河婆像他地獄の様を表した彫刻が多数ありました。この頭部胎内に墨書があり、京都七条仏所二人(作左エ門、伝内)が天和2年(1682)作像したことが明らかになっています。津市の文化財指定を受けています。閻魔大王像・但生神像・暗黒童子像の三体を主神にして、むかって左に同じく平安時代の阿弥陀如来像があり、左に円空作の十一面観音立像があります。
 諸像の中で一番古いのが阿弥陀如来像です。円空の十一面観音は遅くとも寛文11年(1671)頃であろうと思われますから、その後10数年後に閻魔大王他2体が作像されたことになります。

(2)「阿漕の平次」伝説

 バスガイドさんが「阿漕の平次」のことをお話しされていました。阿漕という地名と平次という人物についてでした。
 「アコギ」と言えば言えば今は「アコースティックギター」を思い浮かべますが、しばらく前は時代劇などでよく出てきたものでした。「阿漕(あこぎ)な商売」とか「阿漕なやつじゃなあ」という言い方でした。意味は「同じことのたびかさなること。転じて、際限なくむさぼること。またあつかましいこと。しつこいこと。」(広辞苑)
 この阿漕という地名は「阿漕ヶ浦」の略だそうです。古今集に謡われる歌枕であり、謡曲・浄瑠璃に取り上げられており、能に「阿漕」があり人形浄瑠璃に「田村麿鈴鹿合戦」があるそうです。
 古今集の歌は「逢ふことを 阿漕の島に 引く網の たびかさなれば 人も知りなむ」です。歌意は「いくら隠そうとしても、こういくたびも逢っていれば、伊勢神宮の供する神饌の漁場である阿漕の浦で網をしかけて捕まり、簀巻きにされて海に沈められ殺された漁師同様、二人の中もすぐにばれてしまいますよ」というところでしょうか。
 阿漕の平次というのは、密漁を繰り返して捕まり殺されたと言われている漁師の名です。能「阿漕」で平次は海に沈められ地獄で苦しむ様が描かれるそうです。その平次を「真教寺由来記」では「又、孝子阿漕平次の由来寺であります。」と「孝子=親孝行な子ども」と紹介しています。「あこぎ」の意味と「孝子」との間にはえらいギャップがあります。
 それで今現在民話としてどのように伝わっているかというのを調べたらと次のページが出てきました。(
阿漕(あこぎ)の平次)
 この中に描かれる平次は確かに「孝子」です。ここからは私の想像です。阿漕に住んでいる方々からすれば、自分の住んでいる土地が悪い人間の比喩的表現で使われ続けることは、許しがたいことではないでしょうか。また大抵は捕まった漁師にも言い分があるものですし、事情もあったに違いないでしょう。そこで、病気の母親のためにという話になったのではないでしょうか。能や浄瑠璃で繰り返し使われる「阿漕」という地名と「平次」という人物、そしてその土地に住む自分たちの弔いのために、この閻魔堂が必要だったのではないでしょうか。藤堂高次にとっては、津城下の町外れという立地に「閻魔堂」が必要だったのかもしれません。境界の意味でです。
 閻魔像より10数年前に彫られた円空の十一面観音が当初からここにあったのかどうかが気になるところです。ツアー参加者のお一人が、「もともとはここにはなくて、米屋さんが真教寺に持ち込まれた」とおっしゃていましたが、真偽はどうなのでしょうか。

(3)十一面観音立像(236.3cm)

 三重県指定有形文化財
彫刻・木造  十一面観音立像 一躯   江戸時代 平成13年3月27日指定
 この十一面観音は 江戸時代の僧侶円空(1632〜1695)の作品である。この像は肩幅が狭く撫肩で、全体の印象は法隆寺の百済観音に似ていて、飛鳥時代の影響を受けた円空初期の力作である。円空の彫り方は、丸木をいくつかに割り、その割った面を巧みに生かした鉈はつりと呼ばれる製法である。台座から化仏までを一本の檜で作られたこの像は、採色もなく鉈堀りのままの素木で、円空独自の彫法が十分に発揮されている。 
 この十一面観音を初めて拝ませていただいたのは、「円空・木喰展」(2009・美術館「えき」KYOTO)ででした。
 円空さんの十一面観音は五十二体あるらしいのですが(円空研究7・佐藤武)その中で、真教寺のものに比較的よく似ているのは、岐阜羽島市上中町中観音堂のものではないでしょうか。似ている点は、@左手に水瓶を持っている。(この写真では蓮の花が入っていますが博物館ではありませんでした)そして右手は世願印(手のひらを相手に向ける。相手に何かを与える仕草を模している)だということです。A円空仏の中では大きい部類に属し両方とも2mを超える大きな像であること。B台座が同じ踏分の蓮華座であることの3点です。
 上記3点が共通する十一面観音が東北地方にあります。写真でしか見たことがありませんが、秋田男鹿市船川港五社堂の十一面観音(170cm)や青森の恐山円通寺と下北郡佐井村長福寺のものは等身大ですが同じ形式だといえます。この3体はふっくらした面相であり、体格もよく、とても幸せそうな笑顔に私は見えます。真教寺のものより中観音堂のものに似ています。
 踏み分け蓮華座形式の像は北海道東北巡錫前後の時期に、円空が大きな像を作像するときに取り入れた方法ではないでしょうか。その後の像にもあるのかどうか、私は知らないのですが。
 真教寺の像に話を戻します。体型は撫肩で、大変スリムなためか女性的な印象を与えます。伊吹山太平観音堂の十一面観音像のようにお腹がぼてっと出ていて、肩幅がほとんどないというようなバランスの悪さはありません。やや右膝を前に出し、体重を左足にかけているようなポーズをしています。やや面長な顔立ちに小さい鼻や口は上品な女性を連想させます。切れ長の目ですが、そのつり上がり方が気になります。好みの問題ですが、これは円空極初期像によく出てくる目です。
 小島さんは「両手首から天衣を垂らした形態は、数多い円空の十一面観音と異なっており、様式的には一体だけ独立した像である」(「円空の作品と生涯」P.180『円空・木喰展』2009)と書いておられます。
 この像は、津市の設置した案内パネルにもあったように法隆寺の百済観音に似ているというのがどうも定説のようです。円空が法隆寺で飛鳥仏と出会い、その影響を受けたことを証明している像であるということのようです。
 「円空研究7」で佐藤武という方が次のように作品解説をしておられます。
「円空は法隆寺から故郷羽島への帰り道に三重県津市弁財町の真教寺(閻魔堂)に235cmの十一面観音をのこしている。真教寺は比叡山延暦寺の直轄地にあり、円空と天台宗の結びつきを示している。ここの十一面観音は飛鳥仏を連想させる軽やかな肩からの衣文や下半身の規則正しい鱗状の衣文は法隆寺修業時代の影響をあきらかにのこしている」
 百済観音と似ていますか?この十一面観音。
 確かに天衣(てんね)を垂らしたところは似ていますが、百済観音の天衣は先が手前にはねていて、優雅です。装飾性が意識された様式美があります。円空のは地面にめり込んでいて何だこれは?です。
 水瓶を左手に持っているところは同じです。しかし、決定的に違うのは手の表情です。百済観音の左手です。水瓶を親指と人差し指中指の三本で下向けに持ち、その指の繊細な動きに表情があります。右手は今は何も持っておられませんが指のそり方が一本一本違います。円空はそんな手の表現はしません。私が感じる造形的な魅力を円空は感じていなかったのだなと思います。
 小顔で八頭身だということが共通点としてあげられるのには同意します
 私はもともと百済観音が魅力的な仏さんだと思ってきませんでした。あの不思議な頭と体のバランスに違和感を感じます。色を失い肌が荒れたような印象の顔面及び無機質なその表情をなぜ和辻哲郎たち識者たちが誉めるのか分かりません。最近講談社の「原寸大日本の仏像」(2008)を見ていたら、復元想像図がカラーで掲載されていました。これを見た今も私の評価はそれほど変わりません。
 百済観音は謎の多い仏像です。奈良時代の「法隆寺資財帳」にその記載がなく平安鎌倉時代の記録にもありません。元禄11年(1698)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」とあるのがどうも像高からして百済観音らしいと考えられるように近年の研究で分かってきたようです。百済観音という名も明治時代以降に朝鮮伝来という言い伝えから大正期に定着したようです。
 さて、ここで問題なのは円空との関係です。円空が法隆寺で修業した時代にもしこの像を見ていたとしたら、円空は「虚空蔵菩薩」だと認識していたと言うことです。虚空蔵菩薩は聖徳太子の本地仏です。そして後年何度も訪れる洞戸高賀神社の「高賀修験道」の主神は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩信仰は鎌倉時代後期から高賀神社に取り入れられたようです。円空が虚空蔵菩薩との縁で法隆寺を訪ね、その時に飛鳥仏の中でも「百済観音=虚空蔵菩薩」に惹きつけられた可能性はあると思います。
 踏み分け蓮華座の像ですが、飛鳥仏の中にあります。今は東京国立博物館の法隆寺関係の収蔵品の四十八体仏の中に中尊台座に山田殿と記された阿弥陀如来三尊像が確かに踏み分け蓮華座です。また、ついでですが、青森下北郡恐山円通寺の半跏像の左足の蓮華座も法隆寺の金銅仏の中に基になったと思われる像があります。円空が法隆寺の諸像から学んでいたであろうことは間違いなさそうです。そしてそれは北海道巡錫をする前であろうということです。伊勢に極初期像がある理由は、円空の本拠地である美濃から法隆寺へ行く途中伊勢に立ち寄ったことと、伊勢神宮参拝が目的だったのではないかと想像しています。
 円空は法隆寺や大峰山へ行くとき、近江そして京都から奈良というルートはとらず、伊勢から初瀬街道を通るなどのルートを辿ったようです。こう考えると、京都や近江そして奈良市内に円空の痕跡が見えない理由が了解できます。

(4)作像は寛文5年頃か、寛文11年頃か

 作像年は銘文がないため不明です。初期像であることに異論はないようです。問題は北海道巡錫前かどうかです。
 本人が弥勒寺に残している「法相中宗血脈佛中」の年号は寛文11年7月15日(円空40才)です。この血脈には釈迦にはじまり円空に至る師弟の関係が書かれています。そしてこの血脈を円空に与えたのが巡堯春□という人です。この人が法隆寺の記録に出てこないことが謎の一つになっています。ですから、真教寺のこの像は血脈をもらったその年に法隆寺からの帰りにここ真教寺に立ち寄り造像したのではないかということになっています。参考までに寛文11年の3月円空は美濃加茂にいたことが棟札から明らかだそうです。
 この血脈中に「子(円空)多年求望之追而鹿相(法隆寺)之血脈書写与之」とその経緯を記した文字が記されています。要するに円空が長い間法隆寺の血脈をほしがっていたので書き写して与えることにしたという意味です。ということは、円空は寛文11年以前から法隆寺で修行していたことになります。青森にいたのが寛文6年1月。北海道にいたのは同年。三重に極初期像が(寛文5年頃)発見されたことを考えると、この像も北海道へ行く前に作られた可能性があります。小島さんは「北海道へ渡る前のモニュメント的な像ではないか」とおっしゃいました。ということは極初期像であるということになります。私は魅力的な説だなとお聞きしました。

(5)法隆寺の大日如来像について

 今回のバスツアーのきっかけを作ってくださった「円空と木喰 信者」さんが掲示板にお書き下さったことをここに転載します。
  私は津市白山町に大日如来像、伊勢市中山寺に虚空蔵菩薩像、津市下弁財町真教寺の十一面観音立像が残されていることと法隆寺に大日如来像があることをつなげて考えられないかと考えています。法隆寺をお建てになった聖徳太子の本地仏が虚空蔵菩薩であること、、伊勢神宮祭神の天照大神の本地仏が大日如来であることがどうもカギなのではないかと思っています。そして十一面観音は泰澄につながる白山神社の本地仏であり、虚空蔵菩薩は高賀修験道の主神ということから考えると円空の寄って立つ位置と初期像とが合うように思われます。
 私はこのバスツアーで「なぜ円空さんは他の寺院ではなく法隆寺で修行し血脈を受けたのか」を小島さんに質問しました。よくわかりませんが、ここに書いたことが関係あるように思います。
 もう一つどうしても知りたいことは江戸時代円空が生きていた頃の法隆寺の有り様です。そのころどのような教学が論じられ、どのような教えを説いて宗教活動が行われていたのか。円空さんのような修験道の人たちが入って学ぶ場所があったのかどうか、また、自由に仏像は拝めたのかどうかも知りたいところです。
 そういうことを考える上でも「円空と木喰 信者」さんの書いてくださったことは参考になろうかと思います。
法隆寺大日如来像について 
             円空と木喰 信者
投稿日:2012年 3月 7日(水)21時54分57秒
 先生とウエムラ様の論議を傾注して拝読しました。法隆寺の円空作大日如来像は「藤ノ木古墳の直近の宝積寺大日堂」で祀られていました。その論拠は「宝積寺譲り状」によります。場所の特定は「崇峻天皇御廟図」によります。この事は、法隆寺秘宝展(平成2年8月)の図録を見ていて気付きました。
 ぼちぼちいきます。其のなれそめは昭和51年4月に「法隆寺で円空仏発見」と円空学会に法隆寺執事高田良信師が発見報告をされました「私が止住しています法隆寺山内宗源寺本堂の一隅に素人作と思われる大日如来像が・・・」の論文を頭の片隅に円空仏探訪旅行に先立って図録を見ていると、宗源寺過去帳には『元禄12年(1699)に宗源寺を創建した』の解説文にビックリしました。円空が、元禄8年に入定して死後4年後に創建された宗源寺に円空仏の大日如来像が祀られているのを我が目を疑いました。
 図録のページを丹念にめくると宝積寺譲り状文書には、宝永2年(1705)に大工棟梁仲間が管理していた大日講衆の安田八太夫によって宝積寺のすべてが譲られて宗源寺の所有になったとの事で円空が遷化して10年後でした。
 円空が一級品の材木をどうして入手出来るのか絶えず研究会の会場で話題になったりしますが、彫像した円空仏には稀にホゾ穴の開いた建築古材なども見受けられたりします。円空さんは大日堂を管理している大工さんとの係わりから材木を受け取り大日如来像を造顕し自ら開眼供養して奉納したのであると思います。
 寛文11年7月(1671)頃から宝永2年(1705)の約34年間まで、藤ノ木古墳直近の宝積寺大日堂で円空仏の大日如来像が祀られていたのでしょうね。藤ノ木古墳附近も法隆寺の領域なるのでしょうか小生には分かりませんが、現在は小さな大日堂の石碑が在るのみです。
 法隆寺で円空が法相中宗血脈をうけた巡尭春塘が何処の塔頭?に居たのか不明ですが、解明できますれば円空が法隆寺で修行しました有様が推定できるのではと思いますので宜しくご指導下さい。
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