円空さんを訪ねる旅(41)
奈良法隆寺の大日如来
(奈良県生駒郡斑鳩町)
平成26年度法隆寺秘宝展が法隆寺大法蔵殿で平成26年(2014)3月20日〜6月30日まで開催された。毎年法隆寺秘宝展は開催されるのだが今年のテーマが「室町時代から近世へ」である。
今年円空作「金剛界大日如来座像」が出展されているという情報をいただき2014・4・2(水)出かけた。サクラが満開で見事であった。
(1)平成26年度法隆寺秘宝展ー室町時代から近世へー
法隆寺は大きく西院伽藍と大法蔵院と東院伽藍に分けられる。 西院伽藍は法隆寺式伽藍配置と呼ばれる国宝建物群である。中門から回廊(柱がエンタシス)の四角い囲いが大講堂(平安時代)へと伸びる。その中に左に五重塔、右に金堂がある。このエリアの建物の仏像も壁画もほとんどが飛鳥時代を代表するものである。 大法蔵院は夢違観音、玉虫厨子、橘夫人厨子などなどの法隆寺1400年の宝物を展示している建物であり、ここに平成10年に百済観音堂が加わった。 円空仏が公開されている大法蔵殿は西院伽藍から東へ聖霊院の前を通り網封蔵をこえたところにある。東大門のすぐ近くである。中倉と南蔵を使って秘宝展が開催されていた。大法蔵院や大法蔵殿はコンクリートの建築である。 東大門を出て法隆寺の子院の前を通って行くと東院伽藍に着く。八角円堂の夢殿がある。ここには、岡倉天心とフェノロサが開封したと言われる聖徳太子等身像救世観音像がある。ぐるっと回り込んでいくと中宮寺とつながっている。中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像は京都広隆寺の弥勒菩薩像と並ぶ美しい弥勒である。 私は今まで法隆寺に何回か出かけているが、ここに書いたことで満足してきた。しかし今回西院伽藍の西にある西円堂と東大門から出てすぐのところにある子院宗源寺にも足を運んで写真を撮ってきた。どうも円空はこの二つの場所と関係がありそうだと聞いたからである。 |
(2)秘宝展で思った円空と法隆寺の関係
なぜ円空は法隆寺で血脈をの疑問
秘宝展は9つのテーマで構成されていた。 @密教の仏 A太子信仰(T) B太子信仰(U) C室町時代の宝物から D神仏習合の世界 E江戸時代の障壁画 F室町時代の画巻より G室町時代の密教法具 H西円堂の薬師信仰 |
円空仏は@密教の仏の中に位置づけられていた。それにしても他の展示物を拝見させていただきながら円空とのつながりがありそうなものが多数あることが分かった。私は今まで円空と飛鳥時代の法隆寺を結びつけて考えてきたのであるが、円空がわざわざ法隆寺へ足を運んだのはこの秘宝展に見られる近世の法隆寺だったのだなと気づかされた。
法隆寺は昭和25年から聖徳宗であるが、それまでは興福寺や薬師寺と同じ法相宗であった。しかし法相宗になるのは明治時代である。
法隆寺は平安時代以降真言密教との関係が深かった。円空は法隆寺での修行後背銘の種字が変化する。円空の法隆寺での修行を物語っているのではなかろうか。私は円空が法隆寺で真言密教を学んだということをもっと強調してもいいように思う。
太子信仰の中心的な寺での修行後、岐阜羽島中観音堂には聖徳太子像を残している。円空が聖徳太子を特別な存在として意識していたのであろう。神仏習合も円空の思想に影響を与えたと思われる。雨宝童子、秋葉権現、蔵王権現、弁財天、大黒天、三宝荒神など円空仏と重なる像が展示してあった。
江戸時代の障壁画は元禄時代に江戸で法隆寺が大修理の費用を捻出するために勧進したときの記念の品であった。ちょうど円空が法隆寺を訪ねた頃、法隆寺は経済的に困窮し手だてをうつ必要に迫られていた時代だったのである。
西円堂は行基建立と伝えられる八角円堂である。建物は鎌倉時代であり、本尊は国宝で我が国最大の乾漆像の薬師如来座像(奈良時代)。十二神将は小ぶりだが重文。この西円堂の薬師信仰は法隆寺の信仰の中でも民衆と結びついた独自性をもっていたようである。円空は庶民のための造仏をする聖であった。円空は西円堂に集う修験の僧侶の一人として学んだのではないかと思った。
(3)密教と法隆寺
「法隆寺における密教」についての解説が展示会場にあった。それをはしょりながらここに書いてみる。 「法隆寺では密教が太子信仰と融合して大いに発展することとなるが、その契機としては、法隆寺別当に密教僧と見られる寛延律師が延喜年中(901〜923)に補任し、「醍醐寺や仁和寺の僧(いずれも真言宗の寺)が補任した」ことが記されていた。また「太子信仰の中心的殿堂聖霊院にも空智、覚印の名」が見えること。花山龍池の祈雨の修法を行した隆詮、その弟子で聖皇曼荼羅を建長7年(1255)に完成させた聖護院の円永房顕真と当寺における密教の流行がうかがえる」 「このように法隆寺における真言密教は平安時代鎌倉時代を経て定着し、その後も法隆寺の仏像や絵画、そして多くの密教法具を伝えており、その繁栄ぶりを物語っている。 |
要するに法隆寺は平安時代以降真言宗や天台宗の教えをを教学に取り入れていたということであり、聖護院や醍醐寺の名が出てくると言うことは修験との関係を示唆していると言えよう。円空が引き込まれる要素が法隆寺にあったと言える。こういう情報を円空がどこで仕入れたのかは不明だが、法隆寺が飛鳥や奈良時代から室町時代の諸仏の宝庫であったことも円空には魅力的であったことであろう。法隆寺での学びが後の円空の活動に大いに役立ったであろうことは想像に難くない。
(4)円空作大日如来像
大日如来像 円空作 江戸時代 木像 頭に五智宝冠をいただき、微笑を浮かべながら胸前で智拳印を結び岩座上の蓮台に座す金剛界の大日如来で、桧もしくは榧一材から彫刻されたいわゆる円空仏である。円空は寛永9年(1632)に美濃(岐阜県)に生まれ伊吹山で修験修行を行った後、遊行僧となって全国を行脚し十二万体の仏像をつくる大願を志したことで知られる。円空の作品の多くは鉈をもって大胆に力強く彫刻された簡潔な表現を特徴としている。しかし本像の場合その作風が見られるのは岩座だけで本体は極めて丁寧に仕上げられている。 |
(5)法隆寺の大日如来像について
これは以前私が三重県白川町浜城観音堂を紹介したときに書いたものである。参考のためもう一度書いておこうと思う
私は津市白山町に大日如来像、伊勢市中山寺に虚空蔵菩薩像、津市下弁財町真教寺の十一面観音立像が残されていることと法隆寺に大日如来像があることをつなげて考えられないかと考えています。法隆寺をお建てになった聖徳太子の本地仏が虚空蔵菩薩であること、、伊勢神宮祭神の天照大神の本地仏が大日如来であることがどうもカギなのではないかと思っています。そして十一面観音は泰澄につながる白山神社の本地仏であり、虚空蔵菩薩は高賀修験道の主神ということから考えると円空の寄って立つ位置と初期像とが合うように思われます。
私はこのバスツアーで「なぜ円空さんは他の寺院ではなく法隆寺で修行し血脈を受けたのか」を小島さんに質問しました。よくわかりませんが、ここに書いたことが関係あるように思います。
もう一つどうしても知りたいことは江戸時代円空が生きていた頃の法隆寺の有り様です。そのころどのような教学が論じられ、どのような教えを説いて宗教活動が行われていたのか。円空さんのような修験道の人たちが入って学ぶ場所があったのかどうか、また、自由に仏像は拝めたのかどうかも知りたいところです。
そういうことを考える上でも「円空と木喰 信者」さんの書いてくださったことは参考になろうかと思います。
法隆寺大日如来像について |
円空と木喰 信者 |
投稿日:2012年 3月 7日(水)21時54分57秒 |
先生とウエムラ様の論議を傾注して拝読しました。法隆寺の円空作大日如来像は「藤ノ木古墳の直近の宝積寺大日堂」で祀られていました。その論拠は「宝積寺譲り状」によります。場所の特定は「崇峻天皇御廟図」によります。この事は、法隆寺秘宝展(平成2年8月)の図録を見ていて気付きました。 ぼちぼちいきます。其のなれそめは昭和51年4月に「法隆寺で円空仏発見」と円空学会に法隆寺執事高田良信師が発見報告をされました「私が止住しています法隆寺山内宗源寺本堂の一隅に素人作と思われる大日如来像が・・・」の論文を頭の片隅に円空仏探訪旅行に先立って図録を見ていると、宗源寺過去帳には『元禄12年(1699)に宗源寺を創建した』の解説文にビックリしました。円空が、元禄8年に入定して死後4年後に創建された宗源寺に円空仏の大日如来像が祀られているのを我が目を疑いました。 図録のページを丹念にめくると宝積寺譲り状文書には、宝永2年(1705)に大工棟梁仲間が管理していた大日講衆の安田八太夫によって宝積寺のすべてが譲られて宗源寺の所有になったとの事で円空が遷化して10年後でした。 円空が一級品の材木をどうして入手出来るのか絶えず研究会の会場で話題になったりしますが、彫像した円空仏には稀にホゾ穴の開いた建築古材なども見受けられたりします。円空さんは大日堂を管理している大工さんとの係わりから材木を受け取り大日如来像を造顕し自ら開眼供養して奉納したのであると思います。 寛文11年7月(1671)頃から宝永2年(1705)の約34年間まで、藤ノ木古墳直近の宝積寺大日堂で円空仏の大日如来像が祀られていたのでしょうね。藤ノ木古墳附近も法隆寺の領域なるのでしょうか小生には分かりませんが、現在は小さな大日堂の石碑が在るのみです。 法隆寺で円空が法相中宗血脈をうけた巡尭春塘が何処の塔頭?に居たのか不明ですが、解明できますれば円空が法隆寺で修行しました有様が推定できるのではと思いますので宜しくご指導下さい。 |
(6)法隆寺で聞いた話
私は、法隆寺の西院伽藍及び東院伽藍の諸仏と円空が結びつかない。そこで何人かの職員の方に聞いてみた。
「特別展で公開されている円空さんの大日如来像はどこにあったものですか?」と。
するとみな一応に「よく分からない」とおっしゃり「私たちは職員なので詳しいことは寺務所で聞いてほしい」とおっしゃいました。
しかし「さあ〜?」と言いながらおもしろいことをおっしゃる方がおられました。
「倉庫ですわ。もう古い仏像や道具がいっぱい入ってる倉があるんですわ。その中にいつもはあると思います。もともとどこにあったかは知りませんわ」
「西円堂と違いますか?あそこはここ(西堂)とちょっと違いますから」
みなさんは西円堂というお堂が法隆寺にあることをご存知でしょうか。私は何回か法隆寺に足を運んでいるのですが、西円堂は知りませんでした。私が知っているのは西院伽藍と東院伽藍なのです。そこで西円堂に行ってみることにしました。
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- 薬師信仰、密教との関係、修験者との交流を感じさせる行事がここで行われていることが分かります。しかも行基が創建にかかわったとなるとますます西円堂と円空が関係がありそうに思えます。しかし西円堂と円空を直接的に結びつけるものはないようです。
(7)寺務所で聞きました
寺務所へ行ってみることにしました。さすがに法隆寺、寺務所も立派な建物でした。気後れしながら受付の女性に質問してみました。すぐに僧侶姿の方と交代されました。
質問したのは「あの大日如来はどこで発見されたのですか」でした。
「円空の足跡を示すものは公開中の大日如来以外法隆寺にはありません。だから何も分からないのです」
「私は宗源寺で見つかったと聞いている。宗源寺は当時高田良信管長がお住ま いしておられ、奥様が「円空作ではないか」と気づかれ、その後円空学会の方に 確かめられ円空の仏像だと確かめられた」
とのことでした。
もう一つ聞いてみました。
「円空作の十一面観音が三重県にあって、ここの百済観音や西院伽藍の諸像の影響を受けているのではないかというのが定説なのだが、江戸時代円空という修験僧が西院伽藍の諸像を自由に見ることが果たしてできたのかどうか」
「私もそれは前から疑問に思っている。天皇の使者でさえ、金堂の前の敷物からしか拝めなかったのに、金堂を自由に見て回ることが考えにくいと思う」
「円空仏と法隆寺の飛鳥仏とを比べて衣文がはねるように表現されているところは似ているように思う」
とのことでした。
(8)宗源寺
宗源寺のある場所を教えていただき寺務所を辞した。宗源寺は西院伽藍かた東院伽藍へ行くときに通った道の途中にある塔頭である。「僧が住んでいますから拝観できませんよ」とおっしゃた。そこまでは私も思っていなかった。
(9)法隆寺の思い出
それにしてもと昔のことを思い出してみる。
1993年日本における世界文化遺産第1号に認定された世界最古の木造建築法隆寺。この寺は聖徳太子の寺である。聖徳太子との関係で言えば大阪の四天王寺、明日香の橘寺などもあるが、法隆寺は別格だと思う。この寺の凄さをどう表現したらいいのか視点が多すぎて困る。
法隆寺を最初に訪れたのは今から48年前高校生の時であった。法隆寺はまだまだ開放的で解放感のある寺であった。拝観料は500円(現在は1000円)。当時500円の拝観料を徴収しておられたのは珍しかった。京都奈良の他の寺の拝観料は100〜300円であった。しかし法隆寺の500円は決して高いとは思わなかった。私は見たいと思っていた諸像を間近で見ることが出来、法隆寺の凄さを体感できたと思った。
あの頃金堂の中へ入れた。今のようにプラスチック板に遮られて何が何やら分からない状態で目をこらす必要はなかった。もっと間近に釈迦三尊像も四天王も邪気も薬師如来も阿弥陀如来も復元された壁画の天女も拝観できた。五重塔内の塑像も手に取れるのではないかと思うような近さにあった。釈迦の涅槃像の前で号泣する弟子たちの表情が焼き付いた。
今どうだろう。世界文化遺産になり大切にされてどんどん諸像が遠くなっていくように思うのは私だけだろうか。
国鉄奈良線に乗って奈良駅まで行き、その後関西本線に乗り換え法隆寺へ向かった。行きも帰りもひどく時間がかかって遠いなあと思った。貨物が追いこしていく、離合するのに駅で待つの連続で退屈してしまった。近鉄に乗って奈良まではよく行っていたので国鉄の不便さをつくづく思い知った。奈良線は永く「複線電化」が沿線住民悲願であった。今も単線であるが便利は随分よくなった。法隆寺は奈良市内から離れていてどうしてもJRでしか行けなかったのである。
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