円空さんを訪ねる旅(39)
奥飛騨上宝町桂峯寺
(岐阜県高山市上宝町長倉)

 桂峯寺の十一面観音・善女竜王・今上皇帝像の三尊は、円空を語るときに欠かせない有名な三尊像です。この三尊そのものが魅力的な像であることもあるのですが、その背面に書かれている文字が円空研究にとっては大切な資料なのです。特に今上皇帝像背面の文字を巡って色々な見解があります。円空は果たして生涯に十二万体の仏像を彫ったのかどうか、それが論争になっているのです。それをまとめるつもりでこのページを作ってみようと思います。
 この三尊像、もとから桂峯寺にあったのではなく、金木戸の観音堂にあったものでした。昭和44年に県の文化財に指定されその後金木戸部落は全戸移住しました。金木戸は双六谷白山神社を祀る六戸の小部落のため、旦那寺である長倉の桂峯寺に観音堂の三尊像は安置されることになりました。(「円空研究4・飛騨特集より)。現在金木戸集落への道はゲートが設けられており、道であったところにも木が植えられているため金木戸へは行ける状態にないようです。又、熊が出没して危険だそうです。桂峯寺の住職の話では、観音堂の本尊としてあったのではなく、お堂の背面に隠れるような形で安置されていたとおっしゃっていました。
 もともと桂峯寺にあったのは韋駄天像です。
 2013年1月12日~4月7日まで東京国立博物館で「飛騨の円空展」でこの三尊像を見せていただいたのですが、印象としては案外小さいなと言うことでした。そして肝心の背面の文字は全く読めるような状態ではなく、何か書かれているなぐらいにしか私には思えませんでした。
 桂峯寺は奥飛騨温泉郷へ向かう自動車道から山手に入ったところにありました。なかなか趣のある門構えの立派なお寺です。

Ⅰ,桂峯寺韋駄天像(27,7cm)

   肩幅の広い、岩座の上にしっかり足を踏ん張って立つ韋駄天です。甲冑を頭に着け合掌しています。指もしっかり彫っています。
 下半身の衣服の模様がさざ波のような筋彫りしています。
 上体の衣服の彫りも簡略化していますが、なかなか見事です。
 顔はキリリと締まった中々の男前で、やや伏し目がちな威厳のある韋駄天像です。 

  
 

Ⅱ,桂峯寺三尊像(十一面観音・善女竜王・今上皇帝)

 円空の三尊像の中で薬師三尊や不動三尊などは他の仏師の作るものとと変わらないようですが、その他は自由に三尊を創っているようです。
 この三尊は他に類例のない三尊です。十一面観音(六所権現・六面観音)を主尊に大きく造り、脇侍として今上皇帝(天皇)と善女竜王を配しています。これ、戦前なら天皇を脇侍にしたことが問題になったかもしれません。
 まず十一面観音(名称の是非は後述)は、金木戸が笠ヶ岳や双六岳への登山道の途中であった可能性が高いことが関係あるのではないでしょうか。円空は霊山登拝を誓願とした修験僧ですから、この頂上六仏を冠する観音像は、「其地神ヲ供養スルノミ」と『飛州志』に書かれているとおり、飛騨の霊山である山々を供養するために造像されたと思われます。
 善女竜王は、雨をもたらす仏であり、双六谷は美しい渓谷だそうですからこの地にふさわしいでしょう。
 問題は今上皇帝像です。円空は現人神としての天皇に報告する意図でこの像を加えたのかなと思ったりしています。
 この三尊の入っておられる厨子は金木戸のものをそのまま持ってこられたとのことです。
 
 桂峯寺の「圓冥堂」という部屋に円空さんはおられました。
 一度洗ったのかなと思いました。随分色が白っぽいと思ったのです。それに角が磨り減っているような印象を受けました。風雨にさらされるような状態で金木戸にあったのでしょうか。

(1)十一面観音(六所権現・六面観音)
(96.5cm)

 穏やかなお顔をしておられる像です。円空の微笑仏とよく言われますが、必ずしも円空仏すべてが微笑仏というわけではありません。この菩薩像は円空の微笑仏の中でも代表的なものであることは間違いありません。合掌した両手と衣服の表現が他の円空仏とは少し違います。手の下を三角形に彫り窪めて彫っています。これも他に類例があるのかどうか、私は珍しいなと思います。
  背銘解説
2013年東博で行われた「飛騨の円空展図録。作品解説は浅見龍介(東京国立博物館東洋館室長)。赤外線写真をもとに書かれています。
「頂上六仏 元禄三年 冂
乗鞍嶽 保多迦嶽 (於)御嶽
伊応嶽 錫杖嶽 四五六嶽
利乃六嶽 本地處■権現」
『[修験僧]円空』(池田勇次著・惜水社・2007)に紹介してある背銘文の文字です。
棚橋「奇僧円空」(1974)の読み
「頂上六仏造立
(バイ) 乗鞍岳 (アク)保多迦(穂高) (キリーク)槍御岳 (タラーク) 伊応岳 (ウーン) 錫杖岳 (バン)四五六岳
      金剛地乃六処■ ■権現■■」

丸山尚一「円空風土記」(昭和49年)の読み
乗鞍岳・保多迦(穂高)岳・伊応(硫黄)岳・錫杖岳・四五六岳・■■■(笠ヶ岳)
上田豊蔵
「上宝と円空」(平成3年刊)
乗鞍岳・保多迦(穂高)岳・伊応(硫黄)岳・笠ヶ岳

③私の読み 
 赤外線写真をA4サイズに拡大したものを見ながら、私も読んでみました。旧字あり、円空の癖あり、残念ですが、私はほとんど読めません。私がかろうじて読んだのが以下の文字です。
何文字もあるが読めない  
元禄はかろうじて読める
(乗鞍岳は不明) 保多迦岳 ■■嶽■■
(種字) イ平應
嶽 (種字) 錫杖嶽 (種字) ニニ五六嶽 ■■
■利乃六■ 本地嶽■権現 
(もう2文字あるかもしれない)
 今より鮮明であったと思われる時代に読まれた棚橋氏、丸山氏、上田氏と、赤外線写真という利器を使って解読された最新の浅見氏の読みです。
 後頭部に最勝を表す種字「ウ」が書かれていると小島梯次氏は解説されました。その下肩付近に他の真言が書かれていて、両手を合わせた下辺りからの下半身及び蓮座と磐座の背面に上で問題にした山々の名などが書かれています。
 私には肝心の「頂上六仏」がどこに書かれているのか読めません。しかし棚橋氏も浅見氏も確認しておられるようなので、書いてあるものとして考察したいと思います。

①頂上六仏とはどこの山々を指すのか?
 私にも読めるものと、4人の方の大半が挙げておられる山を列挙してみます。乗鞍岳 保多迦嶽(穂高岳)  伊応嶽(焼岳) 錫杖嶽(錫杖岳) 四五六嶽(双六岳)です。この五山は間違いないと思われます。では、後の一つはどこになるのでしょうか。
 浅見氏は(於)御嶽大嶽(オオタケと読んで笠ヶ岳だろうと推測しておられます。
 播隆の著した「迦多賀嶽再興記」(文政6年・1823)「元禄年中円空上人登頂大日如来ヲ勧請シ奉リ阿観百日密行之霊跡トカヤ」とあり本覚寺住職椿宗の著した「大ヶ嶽之記」(文政8年・1825)にも「次デ元禄年間円空上人当郡五嶽練行之時、就中大ヶ嶽ハ阿観百日密行満願之霊跡也、即チ手ヲ大日如来ヲ彫刻シテ安置セラレタリ」とありますから、円空が笠ヶ岳を金木戸で六仏の中に入れた可能性は私も極めて高いと思います。
 又、私には確認できない乗鞍岳についてです。一重ヶ根禅通寺に乗鞍権現像があり、「飛州誌」巻4「騎鞍権現」の項に「魔所と呼ばれて人の行くことが出来なかった場所があったが、円空が山中にこもって仏像を造り、池に沈めたところ池のほとりまで行くことが出来るようになった」という伝説があることを浅見氏は六仏の中に入れる傍証として挙げておられます。
 池田氏はもっと丁寧に乗鞍岳が円空にとって大変重要な霊山で「実際に登」っているとお考えのようです。「乗鞍大権現」と書かれている円空仏は禅通寺の他にもあり、「乗鞍岳は水分(みくまり)の神であり、頂上剣ヶ峰を本宮とし、山麓に里宮を祀ること五十に及ぶのである」「こうした神社に円空仏が多く祀られていることは周知のところであり、円空は「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、其地神ヲ供養スルノミ」(飛州誌)と語っているように、そこにある地神を供養している」と書いておられます

 双六谷の金木戸や奥飛騨一重ヶ根、平湯からの距離でいうと、近い山は双六岳(2860m)、笠ヶ岳(2898m)、槍ヶ岳(3180m)、錫杖岳(2168m)、穂高岳(3130m)、焼岳(2455m)あたりかなと思います。現在の硫黄岳(2554m)は双六岳のさらに東の樅沢岳(2755m)のさらに東にありますから、焼岳を昔は硫黄岳と言っていたなら現在焼岳と呼んでいるのが硫黄岳なのかなと思いました。槍ヶ岳がなぜ入らないのかが不思議です。
 総合的に考えて、
頂上六仏の峯は「乗鞍岳・穂高岳・笠ヶ岳・焼岳・錫杖岳・双六岳」と考えていいのではないでしょうか。
 果たして円空はこの6つの山々に登頂していたのかどうかですが、それは不明です。明治時代の日本アルプスの開拓者小島烏水(1875~1948)は「円空は槍や穂高へは登っていない」と書いておられるそうです。(池田氏の前掲載書より)明治時代にそれより200年以上前には登っていないだろうという判断の意味は大きいと思います。それ以外の4つの山は登っていた可能性は高いのではないでしょうか。円空は霊山に登り『地神を供養する』ことを北海道巡錫時から誓願の中の一つにしていたと思われるからです。

②種字に意味はないのか?
 確かに六つの峯の名の前に種字が見えます。私には読めないので、池田氏が紹介しておられる棚橋一晃氏の読みを書いておきます。
(バイ=薬師如来) 乗鞍岳 (アク=不空成就如来)保多迦(穂高) (キリーク=阿弥陀如来)槍御岳 (タラーク=宝生如来) 伊応岳 (ウーン=阿閦如来) 錫杖岳 (バン=金剛界大日如来)四五六岳
 これは五智如来+薬師如来の六仏になります。これを池田氏は「『頂上六峯』とは金剛界六所権現という円空独特の諸尊を祀った山々であろう」と結論づけておられます。他にも丸山氏の六仏解説もあるのですが省略します。要するに円空独自の六仏であるという点では一致しています。

■利乃六■ 本地嶽■権現(さらに2文字か)とは?
 私がこう読んだ文字群の意味が分かりません。「■利乃六■」の前の■の旁は人の下にユと書かれているように見えます。仝のようにも見えます。後ろの■を『嶽」と読むのはどうかなと私は思っています。
 私が「本地嶽■権現」と読んでいるところを浅見氏は
「本地處■権現」と読んでおられます。■は私には種字のようにも見えます。何れにしてもこの文言の意味が不明です。
 私は「本地仏に擬せられるこの六つの山々は権現そのものであり、それを私円空は形にした」というような意味なのかなと想像しました。この像に『本地』と読める字があることを今まで問題にされなかったのは何故なのかなと思っています。それは茨城県笠間市笠間の月崇寺にある観音像裏の「「御木地土作大明神」と関係するのではないかと私は考えているからです。円空研究上の大論争の一つにこの像のこの部分がヒントにならないか思うのですが考えが及びません。

④これは十一面観音でよいのか?
 数は足りないが十一面観音でよいのではないかと言う説が多いのでどの本にも桂峯寺の十一面観音としてあるように思うのですが、異説もあるようです。
 まず、池田勇次氏の説…「『六所権現』とでもした方がよさそうであり」(前掲書)と書いておられます。
 次に浅見龍介氏は、「円空が最初から十一面でなく六面とする意図があったことが明らかなので「六面観音」と称すべきだろう。」(前掲書)と書いておられます。
 六面観音などというものがあるはずがありません。しかし金木戸は双六谷の一番奥の集落で、おそらく笠ヶ岳や双六岳へはここから登ったのではないかと思われる場所であることを考えると特別な六面菩薩像を造ろうと意図したとは十分考えられると思います。権現という文字も見えますから池田氏の「六所権現」という命名も中々的を射ていると思います。
⑤もう一面は欠損しているのか?
 現在、頭上仏は前面に四面あり、頭の後ろに一面あります。池田氏は「この立像は頂上五仏で本面と合わせて六仏である」と書いておられます。浅見氏は「頂上六仏は、頭上面の数と一致する(一面欠失)」ともともと頭上に六面あったと思っておられます。
 私は小島梯次氏が頭部のレプリカを持ってきておられたのを写真に撮らせていただきました。
 これは背面頭部の一体なのですが、右側に欠けたような痕跡が見られます。確かにもう一体頭上に彫られていた可能性があるなと思いました。
 

(2)今上皇帝
(69.5cm)

 さて、いよいよ今上皇帝像です。神像で表された像ですが、上品で優しいお顔をしておられます。円空が神像を彫るときの巾子冠を被った像です。円空に関する書物の中でこの像の背面文字について言及していないものはおそらくないだろうと思います。では、その読み方について考えていきたいと思います。
諸先輩方の背面文字解釈
①長谷川公茂氏(2012『円空微笑みの謎』)
「元禄三年九月廿六日当国万仏十マ仏作已」
「この文字の意味は、当国とは飛騨の国で、万仏とは一万体、十マ仏作已(おわる)は、全国で十万体作り已(おわる)を意味する」

②池田勇次氏(2003『円空の原像』)
(梵字は省略した)
  元禄三念庚午九月廿六日
今上皇帝  当国万仏
          十マ仏作已

「当時の今上皇帝は東山天皇であり、当国万仏とは日本で一万体ということになろう。従って円空はこの像によって、一万体の誓願を果たしたと書いたのである。十マ仏作已の十マは、万と書かずに片仮名のマにしているのは、マは部とも読めることから十部であり、あらゆるとか全てとか多数の意味になる。従ってこの一行は、あらゆる仏像、すべての仏像を彫り終わったという意味になろう」
③浅見龍介氏(2013「飛騨の円空展」図録作品解説)
元禄三庚午九月廿六日/今上皇帝  当国万仏/■■仏作已
 上記お二人が「十マ」と読んでおられるところをあえて不明にしておられる。それは「ここに二文字書かれているとすると、この銘文の他の文字と比べてかなり小さい字になる。また下方の「マ」やこざと偏の省略形より画数があるように見える」と疑問を呈しておられる。
 上記二つの見解を載せて独自の解釈はしておられないが、生涯十二万体彫れた可能性もあると言及しておられるとところを見ると、通説である長谷川氏の説に賛同しておられるようでもある。
④池之端甚衛氏(共著「円空心のありか」(2008)
 結論的には池田氏の説と同じですが、大変興味を持って読みました。その論考で初めて知ったことを書いておきます。
1,今上皇帝という呼び方は家光の時代寛永寺の祈祷願文に前例としてあること。
2,今上皇帝=東山天皇は綱吉の肝いりで『大嘗祭』を復活した天皇で、それに使われる「笏」は飛騨一ノ宮水無神社のご神体である位山に自生する樹齢三百年の「イチイ」の巨木から作られる。円空の和歌に、「位ふ山 雲の上人 結ぶらん 玉の御木、手にもふれつつ」がある。自分と東山天皇が自分も触れたイチイの木で結ばれるという感慨に浸ったと思われる。
3,「飛州志」にも何例もあるように飛騨のことを書くときは「本土」と書かれ、稀に「本州」が出てくるだけで「当国」とは書かない。
4,円空が「万」「萬」を宛字で「マ」と書く例は他に見えない。
5,円空が「部」を宛字で書く例は「夕アの願い」(夕べの願い)の例のように「部」を省画した「ア」としており、「十部仏」の「部」を「ブ」と読んでほしいので「マ」とした。

⑤小島梯次氏(2009「円空木喰展」図録作品解説より)
 通説に対して池之端甚衛氏の反論の概要を書いておられる。
①この背銘文を飛騨国で一万体、全国で十万体と読まれたのは棚橋一晃氏(「円空」(『飛騨春秋』1971年)で、それが今日通説のように流布している。(この通説の背景には荒子観音寺に残る「浄海雑記」に円空は生涯十二万体の仏像を刻んだという記述があることが一つの根拠になっている)
②池之端氏の結論は「東山天皇のこの国で一万体の仏像を彫り、十部仏つまり全ての仏、あらゆる仏の心を作り終わった」と読むべきだとされている。
③小島氏の主張
・当国は江戸時代の場合、「日本国」ではなく「美濃」とか「尾張」各地方を指すと考えるのが自然ではないか。
・「マ」については納得のいく解釈を示しえないので今後の研究課題としたい。
・『万佛』は棚橋、池之端両氏同様「一万体」と限定しなくてもよい。多数の神仏像を彫ったことを示している。

 私は最近「円空巡礼」(1986新潮社阿とんぼの本 後藤英夫・長谷川公茂・三山進著)を手に入れた。その中で三山進氏は円空の造像数について「その数が万を超えていたであろうことは十分想像できる。だが、円空が自分の作品の数すべてを覚えていたとは、私には思えない」「万は“あらゆる”とか“無限”とかの意で使ったのではないだろうか」“当国はもちろん、いろんな土地でおびただしい像を造った、という思いがこうした銘文になったのかもしれないのである。実数と解する説に疑念を拭いきれない」と書いておられた。小島氏の意見は三山氏の意見に近い。
⑥梅原猛氏(2006『歓喜する円空』)
 「円空は飛騨の国だけで一万体の仏像を作ったという。今残っているのは数千体であるが、円空は本当に十万体の仏像を作ったのかもしれない」とあっさり書いておられます。それほどの興味を持たれなかったようです。
⑦伊藤治雄氏(2010『円空の隠し文』)
 伊藤氏のこの本は今までの円空研究の常識と言われているものを揺さぶっている。池田勇次氏も円空とキリスト教の関係について論じてこられたが、伊藤氏はキリスト教との関係を確信しておられる。詳しくは本を読んでいただくしかないが、興味津々で読ませていただきました。
 さて、今問題にしている背銘についても新解釈を提起しておられるので紹介します。伊藤氏は赤外線写真を拡大して検討した結果以下のように読めると提起しておられます。

「當国万佛 千面佛作已」
 確かに今まで十と読まれていた字にノがあり『千』のようです。「マ」のように見える字も「面」だと言われると墨跡があるように見えます。私は今小島梯次氏が資料としてくださったその部分をA4に拡大した赤外線写真(長谷川公茂氏撮影らしい)を見ているが、伊藤氏の読み方が正しいように思えます。千面と言えば荒子観音の千面菩薩を思い出します。そのことについても伊藤氏独自の見解があるのですが、ここでは省略します。
⑧私も読んでみたのですが…
元禄三庚午九月廿六日(実際はっきり読めるのは「三」と「九月」で他はそう言えば程度です)
今上皇帝    當國万佛(この行ははっきり読めます。國が大きくて万佛は小さい)
  
■■佛作已
(前の■は十の縦棒の起筆部分が色が濃いので千にも見える。後ろの■…「マ」はマにしては縦棒が垂直に近いのが気になる。浅見氏が言う不明の二文字が小さいのは確かに気になる。
■私の考え
①万とすぐその前に書きながら、わざわざ「マ」と略字にしたという解釈には無理があると思います。
②今上皇帝という呼び名が気になっていたのですが、池之端氏の説明は説得力がありました。
③確かに江戸時代の「国」は「国家老」「国替え」などの言葉にもあるように常識的には地方ごとの国だと思いますが、ここは、今上皇帝に上奏していると考えると「当国」は日本と考える方が妥当だと思います。
④千面佛なのか十部佛なのか判断はつきかねますが、私は多くの種類の仏を作り終えたと上奏していると考えます。
⑤いくら円空仏が粗略に扱われて損失したとしても現在発見されている五千数百体と十二万体の間の隔たりは大きすぎると思います。生涯一万体を超える造像をしたと言う方が実像に近いのではないでしょうか。出来れば十二万体彫っていて欲しいとは思いますが。
 

(3)善女竜王
(69.0cm)

 この像の背面にも文字があるのですが、どうも特別な意味のある文字が書かれていないようです。
 最勝を表す「ウ」は三尊共にあり、この善女竜王像にもあります。最勝を表す「ウ」が書かれるのは、延宝7年(1679)以後白山神託を受けてから即身成仏した円空の自信を表現しています。
 おそらく円空が背面によく書くと言われている「大日三種真言」が書かれているのかなと思うのですが、分かりません。
 この像ご覧のように富士山のような尖った頭の上に龍が乗っています。
 宝珠を胸前に持っています。
 この像も人気のある像で、被写体として魅力がある円空さんだと思います。
 顔の彫りはシンプルで、鼻の下をやや深く彫り、口を彫っていますが、目や眉は簡単に一本線で凹凸を最小限にしています。大きく幅のある像は割と丁寧に顔の表現をすると私は思っていたのですが、この善女竜王はそうでもないようです。
 円空が龍などを頭に載せた造像の中にはそれがアンバランスで真横から見ると不自然なものもありますがこれはかろうじて持ちこたえているなと思います。
 又、上田豊蔵氏は[円空が金木戸滞在中、笠ヶ岳への登山を願っていたが、連日雨のために川の水が増水して登ることが出来ず、善女竜王造(69.1cm)を刻んで祈願したところ、雨も止み川の水も減ったので無事登ることが出来たという言い伝えがある」という伝承を書き記しておられるとのことです。

 
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