円空さんを訪ねる旅(24)

立神薬師堂から更に南へ、片田を目ざしました。
片田へ行く目的は二つ。
その@
三蔵寺にある聖観音像
そのA
志摩の国漁業協同組合片田支所にある大般若経六百巻。

 ところで、私たち京都市の教員にとって、この片田というところは案外なじみのある場所なのです。京都市の野外教育施設「みさきの家」というのが片田にあります。私が教師になって10年目ぐらいに開設しました。かれこれ28年前のことです。私はこの野外教育施設へ8回子どもたちを連れて行ってます。さらにその前に下見に行っていますから、この辺りは17回(うち一回は施設研修の参加)行っていることになります。
 「みさきの家」での活動は自然とのふれあいがテーマですから、志摩半島や英虞湾の海とのふれあいの生活を計画するわけです。
 たとえば、麦崎、宮崎浜へ磯観察に出かけたり、大野浜へ造形遊びに行ったり、登茂山へハイキングしたりします。
 また、施設内で浦山のクイズラリーをしたり、飯ごう炊飯したり、キャンプファイヤーを楽しんだり、肝試しをしたりなどなど二泊三日を過ごすわけです。
 行き始めの頃は、交通の便が悪く、行きは、近鉄で鵜方まで行き、鵜方から三重交通のバスで片田まで行って、帰りは船越まで歩き(これが遠かった!)ここから英虞湾を賢島まで船で帰り、水族館を見学して帰るという行程でした。途中から深谷水道にある野外施設の船着き場まで船が来るようになって、賢島まで近鉄に乗り、その後は船に乗る、帰りもそのコースの逆ということになりました。
 このみさきの家の活動そのものは子どもたちにとっては楽しいものだろうと思います。
 子どもが閉口するのは食事です。五食食べます。地元の業者が作った給食が運ばれるのですが、評判がよくありません。お弁当の容器に入っています。冷たいとか口に合わないとか文句たらたら状態で、ほとんどの子が「まずい!」と言います。自分たちで作るカレーやすきやきは何とか喜んで食べるのです。指導する教師も「おいしくない」のですから子どもの言うことも無理ないと思いながら、それでも「しっかり食べる」ように指導します。
 海どころですからおいしいものがあるだろうというのはどうも当たってないようだと私は思っています。だいたい刺身好きの子とか、新鮮な魚好きの子どもというのは少ないと思いますし、そういうものが給食には出ません。

片田三蔵寺
(三重県志摩市志摩町片田)

 これだけよく行っているのに、この近くに円空さんがあることを全く知りませんでした。聞いたこともありませんでした。
 私の行きたいと思っている三蔵寺と志摩漁協片田支所ともに大野浜を越えて、麦崎灯台へ行く街中にあるようです。京都市の野外施設を通過して、大野浜へ出ました。ありました、片田稲荷です。これが麦崎へ行く時のランドマークのお稲荷さんです。
 車を走らせていると、漁協の看板が見えました。停まってみると「片田真珠漁業協同組合」と書いてあります。「真珠」とありますが当たって砕けろで事務所に飛び込みましたが、外れでした。立神でも真珠の漁協がありましたが、漁業協同組合と言っても色々あるようです。このあと、私は片田支所を探すのですがもう一つ「片田定置網漁協」というのもありました。でも、その真珠の事務所で三蔵寺と志摩漁協片田支所の場所を教えてもらいました。
 私が飛び込んだ真珠漁協からしばらく行った場所に郵便局がありました。少し広く駐車スペースがとってありましたので、そこに車を置いて捜すことにしました。麦崎の案内があったのでそちらに向かいましたがダメでした。引き返してもう一度郵便局の前の八百屋さんに教えてもらいました。道が三本あって、迷いました。車は無理な道でした。
 狭い道を何度か曲がっていくと奥にお堂がありました。その前の説明板に書いてあったことです。
宝珠山三蔵寺(片田) 真言宗 醍醐寺 三宝院末
(1)本尊
      聖観世音 脇侍仏 阿弥如来 勢至菩薩
(2)沿革
     三蔵寺世代系譜によると、次のように書いてある。
      仁安二年(1167年)二月二十一日草創。脇田雄良阿閑梨 矢納村(和具村三十一軒)
      片田村二十二軒、村民ともに大願心起こして建立。
      本堂 柿葺 正面四間半 奥行五間
      坊舎 柿葺 正面三間半 奥行 四間
      寺領 六十六石
      畑 四町六反  新開発地
      畑 三反六畝歩余  本尊寄付地
      田 二町六反余 切間新開地
      承久三年(1221年)親島(大島)に日天八王子、子島に準堤観世音をまつる。

      暦応二年 坊舎修復 大師堂建立
      応永十八年(1412)当寺を片田大里郷に移転する。
      伽藍坊舎建立

(3)由緒
  志摩町第一の古寺で真言密教の祈祷寺として平安時代後期、この地方に僅かの人口しかなかった時に建立され、唯一の寺としてその昔寺格も高く、代々高僧が住職につき栄えた寺であった。古記録の語っているようにその地方の政治的な支配もしていたようである。その後各村に神社、寺院が建立され、信仰もそれぞれに分派するに及んで檀家を持たないこの寺は衰徴していった。
(四)寺宝
    聖観世音菩薩    古記録には二尺八寸(約84cm)弘仁六年(815年)沙門空海作、と記されている。
    薬師如来像      元正銘あり 室町時代のもの推定される。
    三蔵寺世代系譜   仁安二年(1167)から寛文九年(1669)までの世代系譜である。詳細に書かれており、この地方の歴史を遡る上にまたとない好資料である。

   円空作観世音像 江戸時代の名僧円空の作で、一木造。156センチ、円空像としては大像である。 
 円空さんはこのお堂の左側奥におられました。相当大きな像です。暗くてよく見えませんが、目を凝らせば何とか見えます。網戸の向こう側におられます。

三蔵寺聖観音像(165cm)

 この聖観音像の高さがまちまちです。先ほどの説明板は156cmでした。162.2cmというのもあるのですが、円空展図録165cmを書いておくことにします。
 蓮を持っておられる姿なのですが、花束でも持っているような感じです。お顔は大変穏やかでとにかく大きい。歌舞伎役者にしたら似合いそうなぐらい大きい。したがって全体としてのバランスが悪い。
 この観音様は背面頭部に刳り貫きがあるらしい。納入品が入っていて仏舎利に見立てた石が紙に包まれて入っていたらしい。円空さんの中でそのような仏は十二体今までに見つかっているとか。
 この三蔵寺に円空さんがもう一体あるようです。先ほどの円空展図録に「大黒天12.5cm」が紹介されています。もともと個人蔵だったようですが近年三蔵寺に移されていたようです。打ち出の小槌と大きな袋の像です。私は2005年の円空展でこの三蔵寺の二体と出会っているようなのですが、全く記憶にありません。ついでにこの時に、片田漁協の大般若経六百巻も見ているようです。しかしながらその記憶も定かでありません。問題意識を持って見てませんから覚えていないのです。あの時私は、自分はどの円空さんがお気に入りかという視点でしか見ていませんでしたから。

片田漁協の大般若経六百巻

 片田の大般若経修復のために円空さんが逗留したのは先の三蔵寺。時は延宝二年三月のこと。この六百巻に五十四枚の絵を添えました。ここに描かれている絵が棟方志功描くものとそっくりなのです。
 この大般若経を三蔵寺が衰えた明治時代に手放したようです。それを片田漁協が買い戻したために今片田漁協が保管しているのです。この大般若経修復のあと、立神薬師堂の修復をします。この立神の大般若経には130枚の絵が描かれています。この二つの大般若経の絵の比較がその後の円空の思想と芸術を解き明かす上で意味があるようです。
 立神の方が省略が進んでいるというのです。
 三蔵寺から先ほど車を停めた郵便局まで戻って、さあ、志摩漁協片田支所へ行こうとしたら、あれ?片田支所の看板のある建物が目の前にあります(上の写真左)。先ほどの「真珠」漁協の方は、バイパスの方にあるようにおっしゃってたものですからあれ?と思ったのです。真珠漁協の方は円空さんの大般若経のこともご存知で、「はたして見せくれるかどうか、どこにあるのかはわからんけど」とおっしゃってました。
 私の目の前の建物はどうも使われていないようで、人の気配がありません。どうしようもないので、先ほど教えてもらったバイパスの方の漁協を訪ねることにしました。
 そのバイパス沿いの漁協というのがさっぱり見つからず素通りして和具の辺りまで行ってしまい引き返しました。結局あてずっぽで集落らしいものを目ざして行ったら、「片田定置網漁協」の建物に辿り着きました。そこで聞いたら、その向かいが志摩漁協片田支所の事務所でした。(上の写真右)そこは漁港の水揚げ場であり、魚市場の開かれている場所でした。そこへ「円空さんは…」と言いに行くわけですからさすがに私も場違いの所へ飛び込んでるなあと思いました。せっかくここまで来たのだからと思いながら尋ねました。
「個人には見せていない。年に一回金剛寺で読経の会をするが、その時に見られるかどうか」ということでした。
 この場所に円空さんが修復した大般若経があるとも思われません。先ほどの右上写真の建物の中にあるのかなあと思いながら片田支所を後にしました。漁協と言っても色々漁協があるのだと初めて知りました。それぞれに立派な事務所を構えておられて2名ぐらいの方がおられました。円空さんを訪ねる旅が漁協を訪ねる旅になりました。
 学術研究のためとかマスコミの取材とかなら、見せてもらえるかもしれません。残念ながら「ただ好きで円空さんを訪ねる旅をしてます」では、会いに行っても会えないことが多いということです。私の円空さんを訪ねる旅は「ふつうの円空ファンが円空さんに会いたいと思った時にどこではどのような形で会えるのか」の紹介という意味では意味があるかと思います。

志摩と円空

 志摩地方には、延宝2年(1674)43歳前後の像が17体遺されているそうです。
 なぜその年だと分かるかというと、3つの年号の入ったものを円空さんが残しているからです。
@志摩市志摩町片田志摩の国漁業協同組合蔵「大般若経」600巻を修復し、その中に54枚の添を描いており、571巻に「延宝貳年寅之三月吉日」の日付かある。
A志摩市阿児町立神・薬師堂の「大般若経」600巻を修復。ここでは130枚の絵を添え、付属文書に「延宝貳甲寅暦自六月上旬同至八月上旬」と書いている。
B志摩市阿児町立神少林寺の観音について書かれた棟札に「延宝貳歳次甲寅夏」
 この3点から志摩で円空が活動したのは延宝2年を中心にした時期であろうということになるのです。
 そして、この時期に円空の信仰と芸術に一大転機が訪れたというのがおおよその通説になっているようです。
 大峯山で苦しい修行をした円空は、仏教に対する確信と自分自身に対する自信を深め志摩へ向かったようです。志摩地方で大般若経の修復を経験した円空は弥勒信仰と法を護ることにさらに確信を深めたようです。芸術的にも大きな変化をしたようです。
 そのことを先の「円空展図録」ではこのように書かれています。「
注目されることは、志摩で彫られた像は、例えば阿児町立神・少林寺の護法神は抽象性が際立つ像であり、志摩町磯部町上五知・薬師堂の薬師三尊に強い面の構成が見られることである。円空は、志摩で『円空様式』を確立したといえる。
 そこまで大きな意味のある志摩地方の円空さんです。

2008・12・24(水)撮影
2009・1・12(月)作成

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