円空さんを訪ねる旅(40)
美濃市の円空さん
(岐阜県美濃市:来昌寺・善応寺・願念寺・萬久寺・洲原神社))
2013・12・1(日)中日文化センターの「美濃市うだつの上がる円空仏に会う旅」によせてもらいました。講師はいつものように小島梯次円空学会理事長。
今回の紀行講座でお邪魔したのは、美濃市にある来昌寺・善応寺・願念寺・萬久寺・洲原神社などでした。昼食後、うだつの上がる町並み見学もできました。
私の勝手なイメージですが、円空仏は賑やかな人より場所ではなくて、ひっそりと村の外れにあるお堂にあると思っています。
萬久寺・洲原神社はうだつの上がる町並みから少し外れた場所にありましたが、他の3つのお寺は、まさに伝統的建造物群保存地区内及びそのすぐ近くにありました。
いつものようにバスの中でレクチャーがあり、資料が配られました。私はこの資料いつも楽しみにしています。前回の上宝町の時は、桂峯寺十一面観音(六所権現)や今上皇帝像の背面文字が大きく写されている赤外線写真があって、随分楽しませていただきました。
今回は、「荒神」についての資料が充実していました。荒神と言えば有名なのは、美並町にある八面荒神や江南市音楽寺の二頭身のものなど。はっきり荒神(背銘などで)認められているのは現在9体(平成23・1・8現在)だそうです。今回の資料の中にあらたに今まで最初の「護法神」と言われてきた天川村栃尾観音堂の荒神が加わっていました。
(1)来昌寺の聖観音(美濃市吉川町34.0cm)
お寺の門の右に播隆の「南無阿弥陀仏」の碑がありました。播隆ゆかりの寺でもあるようです。
奥様が応対してくださいました。気さくな方で「信用してますから、どうぞご自由にご覧下さい」とおっしゃって下さいました。最後に「おおきに」とおっしゃったので「あれ?」と思って、「関西の方ですか」と聞きましたら「京都から嫁に来ました」とのことでした。
優しいお顔の観音様です。撫で肩です。横から見ると随分薄いのです。最近木喰さんのことを調べていたら、木喰は丸彫りで、円空は浮き彫りのような彫り方だと書かれていたのを見ました。そういえばそうかもしれません。延宝3.4年頃(1675年か1676年)の作ではないかという説明でした。
背面は荒々しい鑿跡です。いっしょに参加しておられた前田さんから後日背面の写真を送っていたいただいたのを見ると、像の中央に文字が書かれているようです。梵字(真言か種字)が書かれているように思います。
(2)善応寺の誕生仏と観音
(美濃市吉川町)
善応寺はこの鐘楼が印象に残るお寺でした。鐘楼の向こうが本堂で、お隣が幼稚園のようです。 曹洞宗だったように記憶しているのですが、違っているかもしれません。 ご住職が作務衣姿でお話し下さいました。「若い頃、誕生仏を見たが、虫に食われていて手もとれていてそんな値打ちのあるものだとは思わなかった」とおっしゃっていました。 禅宗のお寺はご本尊がお釈迦さまというところが多いように思います。円空は意識してこの寺に誕生仏を残したのでしょうか。それとも新しい転機を感じて誕生仏だったのでしょうか。 観音像は民家からの寄進だそうで、小島さんの説明では、蓮座と磐座が切られているとのことでした。新発見の円空仏だそうです。 |
この誕生仏は29.0cm。背銘に梵字が確かに書かれています。
観音は、9.8cm。衣を長く伸ばしてこれは裳懸座ではないでしょうか。小島先生は、蓮座と磐座が切られているとおっしゃったのですが、私は裳懸座が切られたのではないかと思うのです。長い裳懸座だったとすると、これは円空が北海道・東北から帰ってきてすぐの寛文9年・10年頃の造像ということにならないでしょうか。「円空研究別刊A・特集(編年円空仏)」を見ながら考えているのですが、類似の円空仏は作品番号22(もともと美並にあった白山三尊像)ではないでしょうか。お顔は聖観音に裳懸座は阿弥陀如来像に似ていると思います。背中には左上から右下へ斜めの曲線3本が入っていることもそれを裏付けると考えたのですが、どうでしょうか。となると、この像はどこから寄進されたのか分からないのですが、北海道から帰ってきえすぐで鉈薬師の諸像より前の作ではないでしょうか。今回のツアーで美濃市と美並町はすぐ近くなのだと知ったのですが、それならその可能性が高いと思った次第です。
(3)願念寺の木っ端仏
(美濃市鍛治屋町43.5cm))
願念寺は浄土真宗のイチョウや紅葉、それに梅もどきが美しいお寺でした。うだつの上がる伝統的建造物群の町並みの中にある寺です。昼食を終えて、町並み探索後、この寺の前で集合しました。 門前に「親鸞聖人御旧跡」の石碑がありました。 私は木っ端仏と言えば荒子観音の千面菩薩や龍泉寺の千体仏のような小さいものだと思っていたのですが、小島先生は、ここの像は板切れを使った木っ端仏だとおっしゃいました。違いがよく分からないまま聞きそびれました。残念。私は観音さんだと思ったのですがどうでしょうか。 ご住職が寺の歴史などお話し下さいました。火事に遭われたりなかなか大変だったようです。 |
(4)萬久寺の菩薩像
(美濃市保木脇)
この日拝観させていただいた円空さんの中で最大の像です。(99.0cm)本堂の右に薬師堂があり、この菩薩像は薬師如来として信仰を集めておられるようでした。 その薬師堂の暗い中で拝観していましたら、ご住職が帰ってこられて、外に出してもよいとおっしゃってくださいました。お経をあげられて、魂を抜かれて動かしてもよい状態にされた後、本堂の陽の当たる場所で、ゆっくり拝ませていただきました。 私は初め三重県志摩の三蔵寺や上五知薬師堂あるいは伊勢神宮近くにあったという明福寺の両面仏に似ているなと思いました。暗いところでは荒々しい感じがしたのです。しかし陽のあたる場所で拝見すると、柔和な顔をしておられることが分かりました。 萬久寺のすぐ裏を長良川鉄道が通っていて、鉄道の通る大きな音がしてびっくりしました。 |
右手に筒状の細長いもの(おそらく教典)を持ち、左手に宝珠を持っておられます。
宝珠を薬壺だと判断して、今まで薬師如来として信仰されてきたものと思われます。儀軌で教典を持つのは、文殊菩薩だそうですが、文殊菩薩は剣と教典をもっておられるので当てはまりません。観音様かなとも思うのですが決め手がありません。胸元をはだけ袴のようなものをはいておられるようです。足には沓のようなものを履いておられます。
この像の材は大きく曲がっています。円空さんはその材の特長を生かしながら下半身を少し曲げたようにしてポーズをとらせています。木の特性を生かす円空の計算された造作です。
背銘はあるようです。私が撮った右の写真にも墨書のようなものが見えます。
お出ましいただいた像をお納めする時、私は薬師堂にいました。その時、このお像の背後に棟札があることに気づきました。何か大切なことが書かれているのではないかと思い写真に撮りました。裏表に文字が書かれいます。元禄時代にこの薬師堂が建てられ、天保15年に改築したのではないかと思われます。ということは、元禄期に円空さんの薬師さんを本尊にして祀ってこられたということが分かるのではないでしょうか。それが造像後すぐのことなのか、しばらくしてからのことなのかは分かりませんが。参考までに載せておきます。
(5)洲原神社
(美濃市須原)
洲原神社の前を長良川が流れており、社殿、拝殿、楼門も長良川に向かって開いています。その長良川には神社の前に大きな島のような岩(神の岩)がありました。歴史のある厳かな空気が漂う佇まいです。境内は紅葉が、まだ美しさを保っていました。楼門はお寺の門のようで、神仏習合の名残かなと思いながらくぐらせていただきました。
洲原神社御由緒
洲原神社社務所発行の「お洲原まいりのしおり」に「洲原神社御由緒略記(正一位洲原白山)」がありますのでそれから引用します。
御祭神は伊邪那美命(御東殿)伊邪那岐命(御本殿)大穴牟遅命(御西殿)。
御由緒には、『洲原神社は、今より約千三百年前、元正天皇の御代養老元年(717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行のうていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲冑を添えて下し賜う。養老五年五月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。当社古来『正一位洲原白山』とも称(たたえ)え奉り、洵に御由緒深い大社であります」とあります。
泰澄・行基と白山信仰
この項は、梅原猛著『歓喜する円空』を参考に書いてみます。梅原氏のこの著の第一章は「泰澄・行基の伝統のもとに」であり、白山信仰の泰澄と民衆済度に勤めた行基は何れも木像を刻んだこと、神仏習合の考えがあったことなどから円空はその系譜にあるとお考えです。
泰澄(682〜767)は『続日本紀』には出てこないので実在を疑う人もあるとのことです。しかし各地にその伝承が残り、平安時代に神興が筆記したという『泰澄和尚傳記』(957)が残っており、この写本があちこちにあり、実在したであろうと推定されている方です。
行基(668〜749)は養老元年(717)に僧尼令違反の罪で迫害・弾圧を受け731年までそれが続きます。しかし行基の活動が認められ、738年に「行基大徳」という号が送られ、740年からは大仏建立に力を貸すことになり、745年に『大僧正』の号を贈られました。
私が西国三十三カ所巡りをしたとき、第12番札所岩間寺(滋賀県)の開基は泰澄であることを知りました。その時にこんな事を書いています。
『この寺の開基は泰澄。泰澄が自作の桂の木の千手観音を安置したのがこの寺の始まりと伝えられています。泰澄は白山信仰をもとに役行者から始まる神仏習合という日本的宗教観確立の上で大きな役割をした僧です。泰澄は修験の道をすすめた人物でもありますから法力で不思議な現象を起こす力があったと伝えられています。本尊は秘仏の15cmの金銅仏だそうです。泰澄がその法力で雷を戒めたというので「雷よけ観音」と呼ばれているそうです。また衆生の苦を救うために毎晩136の地獄を駆けめぐり「汗かき観音」とも呼ばれているのだそうです』
この『泰澄和尚傳記』に行基が泰澄に教えを請うてきたという記述があるそうです。行基は57歳、泰澄は44歳。
行基は泰澄に「仏がどのように神として現れるのか」を問うたら泰澄は「白山の主峰・御前峰はイザナミノミコトで、その本地仏は十一面観音、北の大汝峰はオオナムチノミコトで、その本地仏は阿弥陀仏、南の別山はキクリヒメノミコトで、その本地仏は聖観音であると説明したであろう」と梅原氏は想像しておられます。そして木像仏を彫ることも行基が泰澄から学んだとのお考えです。泰澄と行基の面会は行基が行基集団を率いて弾圧迫害を受けながらも民衆のために道場や寺院を建て、橋を架けたり、ため池を掘ったり、困窮者のために布施屋を作ったりという活動を展開していた時期ということになるのですが。
洲原神社そして西神頭家と円空
白山信仰の創始者であり修験道を進めた泰澄を円空は尊敬していたであろうことは想像できます。由緒書に「この山(鶴来山)を神山、御山(おやま)奥の院とも敬称し、昔は修験道場でしたが」とありますから、美並に近い白山信仰の洲原神社で円空が修験僧として修行した可能性は高いかもしれません。しかしこの神社に円空仏はないのです。それでは円空さんと洲原神社との間にはどんな関係があるのでしょうか。
「円空が最初に像を作り始めたのは研究者の多くが認めるように寛文3年(1663)岐阜県郡上市美並町においてであることは間違いない。そして円空をして神像仏像を作らせたのは通説のように西神頭家の安永ではなく、その弟の安高である」「泰澄は養老五年(721)に美濃洲原を訪れ、そこに神社を建立して弟の三神安定を神主とした」「洲原神社の初代神主である三神安定には子どもがなかったため、泰澄および安定の長兄・安方の孫にあたる安直を養子に迎えて安直の子孫が継ぎ、後に西神頭、東神頭、勝原神頭を名乗る三神頭家に別れて西神頭家を筆頭神主として、三家の人が郡上郡内のすべての神主を務めた」(梅原猛著『歓喜する円空』より)
円空に最初に像を彫ることを進めたのは安永なのか安高なのかは論争になるところですが、西神頭家が円空のよき理解者であり庇護者であったことは確かなようです。
その西神頭家が洲原神社、泰澄と関係があるということのようです。
「美並村史」資料編に「洲原白山並安定由緒」「西神頭家由緒」「三神氏=西神頭家系図」(二点)「十一面観音式礼拝文」そして「美並村史」上巻に「泰澄和尚伝」があるそうです。(『〔修験僧〕円空 研究成果と課題』(池田勇次著 惜水社 2007)より)
その著作から引用します。
「郡上市美並町下田・西神頭家文書の「三神氏=西神頭家系図」には、「三神氏安角には三人の男子があり、長男安方、二男法澄、三男安定とある。二男法澄は後の泰澄であり、三男安定が洲原神社神主の元祖となっている」「次に同家蔵「洲原白山並安定由緒」によると「当家元祖三神氏安定は、越前国足羽郡麻生津の里三神氏安角の三男也(後略)」とあり系図と同様泰澄の弟となっている。「また、同家蔵の「泰澄大師伝記」も「安角三男安成也」同様と記述されている」とあります。
これで、西神頭家は泰澄の血筋をひく家系だと結論づけてもいいのでしょうが、美並村と西神頭家が洲原神社の資料を閲覧できるよう申し込まれたようですが、断られたそうです。一方「泰澄和尚傳記」には「三男安定也」の記述があるものとないものがあるようです。
そこで、美並村史編集委員会はこの件を「「三男安定也」は課題として残した」そうです。
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