南田原・福住石仏巡り
大和高原石仏巡り第3弾。今日特に楽しみなのは、切りつけ地蔵さんと受け取り地蔵さん。
今日お会いした石仏のみなさまです。
南田原の石仏@田原建長の地蔵石仏→A南田原磨崖仏(切りつけ地蔵)六地蔵・阿弥陀如来・弥勒仏)
上山田の石仏B上山田クサ地蔵
福住の石仏C笠石仏→D氷室神社→E十王→F永照寺不動→G七曲峠石龕地蔵(受け取り地蔵)→H別所双仏石(泥かけ地蔵)
どの方も印象深い方々でありました。
南田原の石仏
(1)建長の地蔵石仏
奈良市高畑町奈良教育大学のすぐ南の道(奈良名張線・80)を東へ、奈良奥山ドライブウェー南口を過ぎ、ダムを過ぎて、前回笠間峠石仏巡りの帰りに抜けてきた矢田原町も過ぎ、田原横田の交差点を右折します。
しばらく行くと、今道路工事中。南田原の集落を左手に見て白砂川という川に沿って走ると、小さい石橋の前におられました。像高73cm、建長年間(1249〜56)の銘がある…とものの本にあるのですが、私は読めませんでした。石仏のうえの突起は昔笠が乗っていた跡でしょうか。顔はまったく分かりません。姿の美しいお地蔵さまです。
(2)南田原磨崖仏(切りつけ地蔵)六地蔵・阿弥陀如来・弥勒仏)
建長の地蔵石仏から200mほどで、今日のメインの一つである、南田原磨崖仏に到着します。しっかり囲みが作ってありその中におられました。
それにしても、なぜ「切りつけ地蔵」なのでしょうか?右の弥勒菩薩は確かに切りつけたように岩に割れ目のようなものがみられますが。それとも岩を彫ることを切りつけると言うのでしょうか。
奈良市指定文化財
南田原磨崖仏
平成2年4月11日指定
阿弥陀如来像 像高170cm 鎌倉時代
弥勒菩薩像 像高168cm 鎌倉時代
六地蔵菩薩像 像高27.5cm 室町時代
「花崗岩の壁面中央に阿弥陀如来、むかって右に弥勒菩薩、左に六地蔵を刻んでいる。阿弥陀如来は、丸彫りに近い立体感のある豊かな表現が見られ、刻銘から、元徳3年(1331)に東大寺の宗詮(そうせん)が願主となり伊行恒(いのゆきつね)がつくったことがわかる。当時大和を中心に活躍した伊派の石工にる勇作として貴重である。他の像は追刻されたもので、六地蔵菩薩に大永3年(1523)の銘がある。
平成17年3月
奈良市教育委員会
上山田の石仏
B上山田クサ地蔵
本当にたまたまこのお地蔵さまにお会いしました。南田原から次は「塔の森十三石塔」へ行きたいと思っていました。この石塔は奈良時代のものだそうで日吉神社裏から山道を行くのだそうです。確かに日吉神社への道は分かったのですが、しばらくバイクで登っていくとどんどん道が細くなってきて、これは引き返せないかも知れないと思い、あきらめることにしました。それで元の大きな道を進むことにしました。
そして山の中から出てきた集落が上山田でした。そこに何カ所か「クサ地蔵」という案内があり、確かに地蔵磨崖仏さんがおられました。
その説明板がありました。
「クサ地蔵
クサ(皮膚病)ができるとお地蔵さんの同じ箇所に泥をつけて祈ると、お地蔵さんが治してくださったと伝えられています。当時の生活習慣を知る上で貴重な資料です。」(天理市観光協会)
観光協会さん、これはよく分からないです。当時っていつですか?しっかり残っている立派な磨崖地蔵さんですからもうちょっと丁寧な案内をぜひお願いします。
しかし「クサ」という言葉久しぶりに声に出しておりました。私が子どもの頃は「くさっぱち」の子がいました。清潔でないために、頭にたくさん吹き出ものができて、困ったものです。私も幼稚園頃にできて、外に出してもらえず窓から外を見ていたのを思い出します。隣のおじさんがアオダイショウの皮を持ってきてくれました。その皮を張ればよく効くと言うことでした。それが効いたのかどうか、しばらくして私のくさっぱちは治りました。
福住の石仏
上山田の集落だと分かりましたので、ここでしっかり地図を確認しました。天理に向かって進みましたら、福住に出ました。そして、なつかしい下入田笠石仏さんと再会です。
C笠石仏
この笠石仏は、総高160cmの笠石仏で、像高94cmの阿弥陀立像が彫られています。応長元年(1311)鎌倉時代末の年号を持っています。以前はこの近くを流れる小川の流れに埋まるようにあった仏らしいですが、今は道路の一角に場所を確保してあります。
D氷室神社
福住は天理市です。笠石仏からしばらく歩くと氷室神社があります。ご存知の通り氷室というのは天皇のための冷蔵庫です。冬の間に切り出した氷を夏に献上するための倉庫と考えたらいいようです。今も社殿の奥に氷室跡があるそうです。
この近くに復元された氷室がありました。その説明に興味を持ちました。長屋王邸宅跡発掘の際に出てきた木簡の中に、都祁村の氷室のことが出てきたそうです。長屋王はかき氷(?)を夏に食べていたようです。右の写真が復元された氷室です。
E十王と如意輪観音
氷室神社から北へしばらく行きますと、十王石仏が道の左手にあります。その横に小さいお堂があり、中に如意輪観音(1859)と弘法大師像が祀られていました。十王は上に3体、中と下に4体ずつです。ん?それでは十一王ではありませんか。よく見ますと一番上の真ん中におられるのは、どうも阿弥陀座像のようです。私はこういう十王像は初めてなので見入りました。
F永照寺不動
いよいよ本日のメイン七曲峠受け取り地蔵さんへの道を捜します。前回は見つけられず通り過ぎてしまいました。今回もしっかり通り過ぎました。そして後から紹介する「泥かけ地蔵」さんを見つけました。しかし泥かけ地蔵さんの直ぐ手前(南)の道を西(左)へ向かえば七曲峠へ行くはずです。それらしい道をバイクで走ったら、ありました。「七曲峠ハイキングコース」の案内。それで、しばらくバイクで走っていったら、やっぱり道が細くなったので引き返して、少し広くなっている場所にバイクを置きました。そしてよく見ると、よく御陵にあるような立派な掲示板があります。明治時代の掲示板です。
ここに何が書かれているかと言いますと、定(さだめ)とあって、勝手に木々を伐採してはいけないとか、ごみを捨てるなとか書かれていました。昔もいたのですね、不法投棄をする人たちが。この掲示板の向こうに見えているのが、永照寺です。永照寺の山門代わりの樹齢800年の婆羅門杉が見事です。永照寺の本尊は秘仏で十一面観音だそうです。まずこの婆羅門杉に生命力をもらい、この観音にお願いをして祈願護符を受け、もう一度杉に手を当てると大願成就するそうです。私は大した願いもないので何も祈りませんでしたが。
婆羅門杉の石段の前に石龕があり、中に不動石仏がおられました。
G七曲峠石龕地蔵(受け取り地蔵)
永照寺前の道を西へ歩きます。20〜30分は覚悟していたのですが、ほんの5分ほどで七曲峠に着きました。福住側は七曲がりではないようです。5月の連休中のTVニュースで七曲峠が再開通したと流れていました。七曲峠(伊勢街道)と書いてありました。奈良市帯解方面から大和都祁村への道だったようで、昭和の初め頃までは使われていたようです。
そしておられました。切石の石龕の中に、受け取り地蔵さんです。そしてその周辺に多数のお地蔵さん群。
しかし、何か変です。お地蔵さんの眉が落書きされている!油性マジックを使って乱暴に描かれています。なんともなさけないことです。シンナーか何かを使ったら消えるのでしょうけど、このお地蔵さんを管理しておられるのはどなたなのでしょうか?何とかしてあげたいものです。
このお地蔵さんは「建長5年(1253)銘を持つ大和の地蔵石仏の中でも屈指のもの」(「関西石仏めぐり」清水俊明)という評価の高いお地蔵さんで、148cmという大きな方です。中に不動さんもおられました。
この石龕地蔵さんの右には六地蔵さんともう一体お地蔵さんがおられます。それが下左の写真。左にも多数おられて、右の写真はその中の二体で、いずれも室町時代の地蔵さんだそうです。
H別所双仏石(泥かけ地蔵)
七曲峠をもと来た道を下って、別所の泥かけ地蔵さんへ。この前の道を左折するとゴルフ場、さらにさらに東、奥へ行くと、南田原(長谷町)の塔も森十三石塔へ行けるようなのですが、バイクで行ってにっちもさっちのいかなくなったら困りますので行かないことにしました。
さて、泥かけ地蔵さんというのは、像高88cmの双石仏で、阿弥陀如来と地蔵菩薩が箱形石龕の中に彫られています。頭の大きい仏さんで、南北朝末期明徳元年(1390)mの年号があります。子宝祈願に御利益のある方だそうです。男の子がほしい人は、右の阿弥陀如来に、女の子がほしい人は左地蔵菩薩に泥をかけるのだそうです。
大和はさすがに古い仏でしかも優れた石仏たちの宝庫です。足を伸ばしてみます。