都祁の里から滝倉石仏巡り

瀧倉神社弥勒仏(鎌倉後期)
 2007・6・17(日)大和高原石仏巡りの第4弾に出発!多分これでおしまいです。
 三谷の寝地蔵さんが呼んでおられるようで気になっていたのです。「もうぼちぼち梅雨やで。今日しかないやろ。」と。
 それでは!と意を決して7:45自宅を出発。今日も愛車のビッグスクーターです。24号を泉大橋手前で左折163号を笠置へ。笠置橋を右へ柳生へ。さらに369号を南下。水間を超え名阪国道(25号)針インター手前で都祁の里へ向かいます。

(1)観音寺十三重石塔

 新義真言宗長谷寺の末寺。この本堂はなかなか味のある建物。昔は茅葺きだったようですが、今は瓦葺き。
 境内に十三重石塔があります。
「花崗岩製、総高十五尺(4.9m)初重軸部に座像の四方仏半肉彫があり、基礎に次の銘がある。
 正平七年(1352)壬辰三月十五日
 造立之大工 行長
 行長は南北朝時代伊派の石工として最後の人で有名である。各重屋根は勾配ゆるく十三重でも狭長は感じはなく、相輪は水烟付きのよい造りである。」

(2)水分神社狛犬

 観音寺から国道25号をくぐって道を進むと友田の集落。そこから水分(みくまり)神社のこんもりした森が見えます。本殿の左右に古風な狛犬(阿吽像)がある。引き締まった胴体で頭部が小さい。これは古式で鎌倉末期の作だそうです。本殿は室町中期のもので重文。

(3)来迎寺宝塔と五輪塔

 水分神社を南へ行くと来迎寺という集落に着く。地名にもなっているこの寺は、土地の豪族多田氏の菩提寺として中世に栄えたらしい。この道は前に行った笠間街道へ続く。来迎寺は無住らしく、本堂は朽ち果てかけているという印象である。本堂裏に延慶三年(1310)銘の宝塔(重文・鎌倉)と南北朝時代の銘文を刻む多数の五輪塔がある。お寺の説明板を読んでいたら、行基が創建したことや善導大師像(重文)があることなどが書かれていた。

(4)歓楽寺三体地蔵石仏

 来迎寺の集落からさらに東へ向かうと南之庄の集落がある。その手前広域農道を右へ入り最初の道を山側へ入り登っていくと歓楽寺がある。私が行った時、ちょうど、私が見たいと思っている三体地蔵石仏の覆屋を三人の方が修理しておられた。中央のお地蔵さんが一番しっかりお顔が残っておられる。 元享二年(1322)銘をもつお地蔵さんで都祁村最古の石仏。

(5)興善寺室町の石仏たち

 南之荘の次は南白石という集落になる。そこに融通念仏宗興善寺がある。このお寺の前は国道369号で、針インターから室生への道である。興善寺本堂裏にいくつかの石造仏が見られ、阿弥陀石仏は像高84cm天文二十一年(1552)の銘を持つ。
 これで、都祁の里の石仏巡りはお終いなのですが、ここからもと来た道を引き返し、来迎寺の集落の西にある並松から、藺生(ゆう)の青龍寺へ向かい、さらに今日の一番のお目当てである藺生峠にある寝地蔵を目ざすことにします。

(6)青龍寺

 藺生(ゆう)…こういう漢字を初めて見ました。青龍寺は前の道から見える茅葺きの本堂が何とも味がある。入り口付近に何体かの石仏がおられた。
 ここで、寝地蔵さんの場所を教えていただいた。昔はこのお寺の前の道を山へ進んだら行けたらしい。しかし、今は少し道を戻り、三叉路を左折し、また次の三叉路を左折していけばよいらしい。リサイクルセンターをいくつか通り過ぎて「寝地蔵」の看板発見!50mで寝地蔵さんのおられる場所に着いた。

(7)三谷の寝地蔵

 見事にスパッと岩が切れ下へ落ちています。自然にこうなったのかな?
 岩の左端に地蔵さんが彫られていました。彫られてから二十六年間の間に岩が割れ、お地蔵さんは転げてしまった。それでお地蔵さんと阿弥陀さんが追刻された、とまあこういう事情で下の写真のような状態になったことのようです。
ということは、このお地蔵さまは少なくとも672年間寝たままだということになります。
この寝地蔵さんの説明板がありましたのでそのまま写しておきます。
『寝地蔵』…花崗岩磨崖仏
■地名 小字 下(しも)の佛
■時代 鎌倉後期 延慶(えんぎょう)二年(1309)
■造俗名 「願主藺生庄住人祐禅浄覚坊延慶二年巳酉六月二十四日造」
■信仰 大昔から「三谷のネンドさん」という愛称で親しまれてきた。特に腰痛に霊験あらたかだったので、近在の人々の信仰を集め、今もお参りする人々がたえない。
■参考 寝地蔵の右にいつの時代からかもう一体のお地蔵さんが立っておられる。「建武二年乙亥十月二十四日云々」とある。
○…割れ残った磨崖に建武の頃阿弥陀如来が追刻されたらしい。建武二年(1335)後醍醐天皇時代
■伝説 昔大男有り。寝地蔵を起こそうとしたが駄目だった。最近までその力男の足跡が右手の田一枚に大きなわらじの形として残っていたが、今は杉が植林されている。
三谷村 寝地蔵奉賛会
 最後に寝地蔵さんに起きていただこうかと考えました。切れた部分をつないで起きていただいたらこんな感じになりました。これをあと30度ほど右へ傾けたらいい感じになりそうなんですけど。

(8)瀧倉神社弥勒石仏

 寝地蔵さんのおられるのは、桜井市三谷というところなのですが、このお地蔵さんが造像された方は藺生の方のようです。寝地蔵さんから三谷の集落への道があったのですが、地道でバイクで行けるのかどうか?でしたから、大回りして広域農道へもどり笠荒神へ向かって南下することにしました。
 笠荒神への道の途中に滝倉という集落がありそこに石仏があるのです。滝倉へ出るまでに三谷(山野草の村と表示)へ入る案内があり、「寝地蔵2.5km」の表示もありましたから、「はあ、ここへ出てくるのだな」と思いながら通過しました。滝倉の集落へは「瀧倉神社」の案内に沿って走りました。瀧倉神社への分岐にお地蔵さんがおられました。
 瀧倉神社はつい最近本殿が建て替えられたようです。お城の上に立っているような立派な石垣の上に鎮座しておられました。この神社、長谷寺の奥の院扱いのお寺のようで、今昔物語などにも登場するのだそうです。神仏混合の神社ですから、立派な鐘があったりします。長谷寺へ参っただけでは御利益を受けられない、瀧倉へも参らなければいけないという信仰もあったようで、平安時代の高貴な方は、ここで女の子を男の子に代えてもらったとか、そんなお話が書いてありました。私は地理関係を把握せずにこの地を訪ねていますので、長谷寺とこの瀧倉神社がどのくらいの距離なのか知らずこれを書いていますが、案外近いのかも知れません。
 この神社の参道に「権現桜」というのがありました。
 さて、瀧倉神社の弥勒石仏です。私ちょうど光のぐらいがピッタリの時にお会いできたようです。山の中ですからよっぽど木漏れ日がうまい角度で入ってくれないと陰影はつかないのですが、ほんの数分、光が当たってくれてそのお顔がはっきりメリハリ付いた状態になりました。この弥勒仏は鎌倉後期の作とか。
 胸の辺りで折れているのは残念ですが。左手を上げ右手を垂れておられます。高さ約1mの壺型光背の中に半肉彫りされている姿はなかなかのものです。

(9)瀧谷西法寺地蔵石仏

 瀧谷神社への道途中に西法寺という寺があります。しかし気を付けてないときっと分からないと思います。私は瀧谷神社からしばらく行ったら、附近の地図が板に書かれているのを見て分かりましたが、ラッキーでした。大きなお屋敷とビニールハウスの間の道の向こうに何やら階段が見えるな、あれかな?という感じです。この西法寺の階段途中右手に六地蔵さん、左手に地蔵さんが立っておられます。
 清水俊明著「大和の石仏」より引用します。「高さ1.8mの壺型光背を作り、蓮華座に立ち錫杖をもつ地蔵を厚肉彫りしたもの。面長の顔の表情には力強い充実感があって、胸飾りも丁寧に刻み、鎌倉中期の堅実な作風。もと三谷の奥にあって、上の地蔵と呼ばれていた石仏」だそうです。
 そうか、寝地蔵さんが「下の佛」で、この方が「上の佛」でしたか。
 口元に微笑みをたたえたようなお顔と言い錫杖の立派さ宝珠を持つ左手の表現と言いなかなかの男前です。
 よだれかけが邪魔でしたので、外させていただこうとチャレンジしたのですが、何とも固いカタ結びで、仕方なくマフラー風にしました。
 この方の案内がないのは、ちょっと残念でした。
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