笠間街道石仏巡り

向淵石薬師(飯降磨崖仏)ー向淵穴薬師(三体地蔵)ー染田穴薬師算ー小原つちんど阿弥陀三尊と笠塔婆ー上笠間阿弥陀磨崖仏ー下笠間阿弥陀磨崖仏(滝川磨崖仏)ー毛原長久寺ー毛原廃寺南大門跡六体地蔵 そしておまけ下入田笠石仏
毛原廃寺南大門跡六体地蔵石仏

(1)大和高原?笠間街道?

 私が石仏巡りでお世話になっている本に「関西石仏めぐり」「大和の石仏」がある。両方の本の著者は清水俊明という方である。この方は「京都の石仏」「近江の石仏」「大阪の石仏」という本も出しておられる。これらの本はいずれも創元社と言うところから出ている。一番最近に出たのが「関西の石仏めぐり」でこれが1997年であるからもう10年経っている。
 大和高原という名で呼ばれている高原がある。奈良市、天理市、桜井市の東で月ヶ瀬村、山添村、都祁村、宇陀市室生区辺りらしい。名阪国道(国道25号)がちょうど真ん中を通っているようだ。私にはなじみのないところである。先の「関西石仏めぐり」「大和の石仏」という本には、この辺りにある石仏が紹介されているのだが、今までそれほど興味がなかった。行き方も分からないということが大きい理由だった。
 笠間街道というのは、万葉の昔からの古道で、大和と伊勢を結ぶ道だったらしい。ここに鎌倉後期の石仏が点在しているという。そして何より興味があるのは、向淵(むこうじ)にある奈良時代前期の磨崖仏である。
(2)電車?それともスクーター?
 2007年5月4日、晴れ。大型スクーターに乗って8時過ぎに出発した。
 国道24号を南下。京奈和自動車道(バイクは450+100円)を木津まで行ってさらに24号を南へ。郡山インター手前を東へ帯解寺前を抜けて、国道169号へ入り天理から名阪国道(国道25号)で針インターを目指す。国道25号は自然渋滞状態で天理から福住までがノロノロ状態であった。
 針インターで下り、国道369を南へ。「外の橋」という三叉路を「室生口大野」方面へ向かう。向渕はその途中にあるはずだ。「無口」という交差点があった。ここを北へ向かうと笠間街道を北東へ山添から伊賀へむかう道になる。
 向渕はすぐだった。さて、この向渕で見たい石仏は2つ。それほどメジャーな観光スポットでもないから案内はないだろうと思ってたら、附近の案内板が道にあった。それにしたがって捜すことにした。到着は9時半。自宅から1時間半で着いたことになる。
 実は電車とバスで行こうか、バイクで行こうか迷った。
 もし電車なら、近鉄「名張」下車「(笠間街道を北東から南西へ)でバスに乗るか、「室生口大野」下車(笠間街道南西から北東へ)バスか。何れにしてもおそらくバスの便が悪いだろうし、移動に相当時間がかかりそうだったのでバイクにした。先の本は、名張からバスを推奨している。たぶん帰りに「室生口大野」へ出た方が便利だからだろう。南から北上して最後に「毛原」という集落で「名張行き」や「室生口大野行き」のバスがなかったら最悪だからだろう。

(3)向淵(むこうじ)の磨崖仏 飯降(いぶり)石薬師

 今日、一番見たかったのがこの磨崖仏だった。結論を言うとその場所には到着したが、見ることはできなかった。
 369号から東へ飯降の集落の細い道をクネクネと奥深く入って(飯降石薬師の案内が1回だけあった)、その突き当たりとおぼしき附近で訪ねたら、すぐ近くにお堂が見えた。
 後ろに岩壁が見える。そして前にお堂が設けられている。よく見ると岩壁に庇が見える。おそらく前のお堂は後から作られたのであろう。
 まず、お堂の格子から中を覗かせてもらった。磨崖仏がある正面には、青いカーテンがかけられているではないか。えー!と思わず声が出てしまった。話にならない。ひょっとしたらと思って右や左に隙間があるのではないかと回ってみたが、徒労であった。お堂と磨崖仏の間はコンクリートで固められていた。
 これを楽しみに来たのに…残念。 
 あんまり悔しいので、書くのをやめようかと思ったが、やっぱりこの磨崖仏の価値についてふれておこうと思う。
 先の清水俊明さんの本では写真が不鮮明だが、小学館「石仏」(久野健1975)にはカラーと白黒計3枚の写真が掲載されている。
 相当剥落している。軟質な石英安山岩に彫られたことも原因らしいが、口伝によるとこの石薬師は七日七夜燃えたらしい。岩壁が燃えるはずもないので、この辺りにあった寺院が燃えたのであろう。おそらくこの磨崖仏も火災にあい風雨にさらされて荒廃したと思われる。
 幅1.7m、高さ1.3mの区画枠内に、中央二尊の如来像、両脇に観音像、その周囲に菩薩天部を十数体、斜め向きに彫ってあるらしい。
 中央二尊は、倚子座に座している。衣文や椅子の形式など白鳳時代の香りを伝える貴重な磨崖仏である。左上にある天部像は顔が残っていて、その面相は当麻寺の四天王に近いという。
 奈良時代白鳳天平時代の石仏磨崖仏は数が少ない。そしてそれ以前の石仏磨崖仏は発見されていない。@奈良県桜井市「石位寺の三尊石仏」A兵庫県加西市北条町石龕仏「古法華の石仏」B兵庫県加西市繁昌町「五尊石仏」それに続くのがこの「飯降磨崖石仏」である。そして8世紀に入って「滝寺磨崖仏」が続くのである。
 なぜ、都から離れた場所にこの時代の石仏・磨崖仏が残っているのか…久野健氏の意見である。
 「7世紀の遺品は、多くは単独像で、おそらく石位寺の三尊石仏のように、堂内に木造や金銅仏と同様に安置され礼拝されていたものであろう。しかし、8世紀にはいり、山林修行という思想が出てくるにつれ、石仏は、やや人里はなれた静寂の地が選ばれるようになった。飯降、宇智川および滝寺の磨崖仏などがそれである。これらは当時の知識(信仰を同じくする集団…後の講中のようなもの)たちにより造像された仏像と思われるが、いずれも人里離れた小高い丘や川べり等が選ばれている。」

(4)向淵三体地蔵(穴薬師石仏)

 飯降石薬師から国道369号へ戻り、道を北へ向かい西側すぐに案内板がある。農道を下りていくとお堂がある。その中におられた。
 石龕の中に隅がカットされた石に三体のお地蔵さんが彫られている。なぜこれが薬師と呼ばれたのであろうか。そういえば先の飯降の磨崖仏も穴薬師であった。薬師が好きなのだろうか。向淵の人々は。
 お堂の横に説明板があった。そのまま写しておく。
『穴薬師石仏…建長六年(1254年造立) この地蔵菩薩は流紋岩質熔結凝灰からなる一石三尊の立像仏である。石仏は約2mの八角形の石棺の蓋石を利用して、壺型に彫り込み厚肉彫りで、慎重152cm立像と左右に同じ形式で、身長90cmの立像を彫ったもので、鎌倉中期のほこらの地蔵石仏として貴重な遺物である。又、次のような刻名がされている。
 建長六年二月三十日 大施主定岡氏下司 宗岡守定 高橋正末 沙弥善定

(5)染田穴薬師算(ざん)

 無口から笠間街道を伊勢の方にむかう。染田という集落に穴薬師算という石仏が集めてある場所があった。
 その説明板を写すことにする。
 『穴薬師算(ざん)…この石仏群は、室町初期のころ、薬師如来の十二神将、七仏薬師に因んで祀られたもので、染田明神と共に文化的価値が高く、特に目、鼻、口、婦人病に、ご利益があると言われています。古くから毎年九月七日に無病息災のための会式が、近所の善男善女によって催されています。』
 「関西石仏めぐり」には雑然と重なっている地蔵たちの写真が載せられているが、現在は整然と並んでいる。像高70cmの地蔵2体を中心に小地蔵や阿弥陀如来立像が数体、そしてその後ろによく見ないと分からないが、十王像が見える。頭に閻魔さんがかぶるような宝冠を被っている。しかしなんでまた算数の算がついているのであろうか?この石仏が集まっている場所の近くに「中世文学…の里」という立て看板があった。これは何をさしているのだろうか?染田天神社は、南北朝時代に土豪多田順実が天神講の行事として連歌会を催した神社らしいからそのことかもしれない。

(6)小原つちんどの阿弥陀三尊石仏と笠塔婆

 染田からさらに伊勢へむかうと、小原という集落に着く。その東の入口附近に「つちんど」と呼ばれている場所がある。場所が全く分からなかったので集落に入り、道で草刈りをしておられる方に聞いたら、「酒屋さんを左に折れて右へ行きすぐを左だ」と教えてくださった。ここは「辻堂」がなまって「つちんど」になったらしい。もともと辻堂と十三重塔があったからだ。現在は墓地で、墓地の中に阿弥陀三尊石仏と笠塔婆がある。
 この阿弥陀三尊仏の中央阿弥陀如来像に銘文があり、祐盛と言う人が永仁六年(1298)六月十六日「為過去」造立したと書かれている。過去のために建てるというのは懺悔の意味があるのだろうか。
 そして、同じく祐盛さんの母親が亡くなられたので、その翌年永仁七年(1299)五月「為慈母往生浄刹」に笠塔婆が作られた。何れにしてもその造立の事情が詳しく分かる石造物である。そして当時の信仰のありようがうかがい知れる。
 「関西石仏めぐり」や「大和の石仏」の写真はこの三尊仏の前に大きな木が生えているが、現在は上の写真のようにすっきり祀られている。
 中尊阿弥陀仏の笠石もそのへんに転がっていたようだが、今は復活している。
 阿弥陀・勢至・観音お三方とも細身で優しいお顔をしておられる。

(7)上笠間阿弥陀磨崖仏

 小原を出て上笠間の集落へ入る手前、道が細くなっているところにおられた。案内板で見つけることができた。街道横すぐを笠間川が流れており、その川へ下りていくように階段が作られていて、下りてすぐ右に曲がると磨崖仏が見えた。残念ながら薄暗く、しかも苔むして摩滅しておりお顔が判然としない。像高1.6m来迎印を結んでおられ、天文3年(1534)の年号がある。
 設置板の説明です。
阿弥陀如来立像にいついて…この阿弥陀三尊は、3m余りの花崗岩に刻まれ、向かって右には梵寺孔(サ)観世音菩薩が、左には(サク)勢至菩薩が刻まれ、口碑として滝之尾長者一夜の作と伝えられています。碑文より浄土宗の信者と思われます。石仏が出来た当時の室町時代中期から、明治初期までの、約四百年間多くの旅人は道中の安全を祈願してお伊勢詣りをしたと伝えられています。今も病気平癒・進学就職・交通安全を祈願し、霊験あらたかな仏様として崇拝されています。昭和60年七月 上笠間区

(8)下笠間阿弥陀磨崖仏(滝川磨崖仏)

 上笠間の集落を抜け、さらに進むと下笠間の集落に着く。私は上笠間で道を間違って集落に入ってしまい笠間小学校の方へ行ってしまった。途中で気づいて戻ったが、歩いていたらとんでもないロスになるところであった。
 下笠間の集落は田植え真っ最中であった。私がバイクを止めて本を見ていたら、親切な方が「どこへいくの?」と声をかけてくださった。「滝山磨崖仏へ行きたい」というと、教えてくださった。
 滝川磨崖仏もこの道沿いにあり、笠間川を渡って向こう岸の岩壁あった。大きな岩ではじめどこにあるのか分からなかった。目が慣れてきてやっとそれらしいものが見えた。
 「大和の石仏」「関西石仏めぐり」両方にある写真はかなり鮮明に阿弥陀来迎像を写していて、「顔の表情も像容も美しい。頭光背は放射状に刻まれ、高い岩壁から見下ろす姿は印象的。鎌倉後期永仁2年(1294)の刻銘がある」と書かれていた。
 説明板が国道沿いに設置されていた。
 磨崖阿弥陀石仏…この石仏は阿弥陀立像を半肉彫に刻み、線刻で後光を表面に表した磨崖阿弥陀石仏で鎌倉時代永仁二年五月一日(1294年)に造立されたものである。磨崖阿弥陀石仏は(この下の橋を渡り正面杉木立の中) 室生村

(9)毛原廃寺南大門跡六体地蔵と毛原長久寺

 毛原…そこに奈良時代毛原寺というお寺があって、相当大規模なものであったそうで伽藍配置を整えたものであったようだ。毛原神社前のバス停にその説明図があった。
 今日の笠間街道石仏巡りの終点は、ここ毛原である。

 この六体地蔵さんを「関西の石仏めぐり」では江戸時代と書かれていた。お地蔵さんの前に傘や竹を包んで梵字かお経のようなものを書いた紙にくるんだものが数本置かれていた。意味があるのだろうが分からなかった。
この六体地蔵前に山添村の説明板があった。
山添村指定文化財(平成二年八月六日指定)
毛原廃寺跡六体地蔵
毛原区
花崗岩の自然石に横長の枠をしずめ、高さ31cmの浮き彫りにした六体地蔵の磨崖仏である。年代は室町後期と推定され、その優れた技法は余人の周知するところである。 
山添村
 山添村指定名勝長久寺というお寺がすぐ近くにあった。
 この寺の説明にこのようにあった。「この寺の創建年代は明らかでないが、おそらく天平の昔、東大寺建立に関連して豪華な伽藍を誇ったであろう「毛原寺」の荒廃後に建てられたもので、古くから東大寺戒壇院の末となっていた」
 毛原寺というお寺は後に真言宗になったようで弘法大師と大きな文字が刻まれていた。
 本堂裏山に新四国八十八カ所巡りの石仏があった。明治時代に造られたようだ。かわいいというか素朴というかそんな印象のある仏たちである。墓地に石楠花が咲いていた。

おまけ(10)福住道下入田笠石仏

 ビッグスクーターの威力だろう。これだけ回って12時には全部回れた。とりあえず針インターへ戻って、昼食を摂りながらこのあとの作戦を考えることにした。
 大和高原には他にも魅力的な石仏たちがおられる。近くと言えば、福住インターから北上すれば、七廻峠地蔵・泥かけ地蔵・切りつけ地蔵・建長地蔵などと出会えて、奈良市内へ抜けられそうだ。
 ようし!といさんで午後の部を開始した。
 名阪国道福住インターで下りて、186号を北上した。
 すぐ笠石仏が見つかった。こういう時はすごくうれしい。この石仏が呼んでくださったような気分になる。ご縁があったのだなとうれしくなる。
 この笠石仏は、総高160cmの笠石仏で、像高94cmの阿弥陀立像が彫られている。応長元年(1311)鎌倉時代末の年号を持つ。以前はこの近くを流れる小川の流れに埋まるようにあった仏らしいが、今は道路の一角に場所を確保してある。 
 しかしながら、その後がいけなかった。この直ぐ後にあるはずの七廻峠への道が分からず通り過ぎ、泥かけ地蔵が見つけられず、いつのまにやら道を取り違えて、どんどん山の中へ入り、矢田原町というところへ出てしまった。まあ今回は、ご縁がなかったと言うことであろう。
 この道がどこへつながるのか分からないまま奈良市内の表示に従って走ったら、高円山ドライブウエーへ出て、白毫寺そして奈良教育大の南へ出てきた。そこからは分かるので、帰路に就くことにした。案外早く帰り着くことができた。
 翌日5月5日のTVで、七廻峠が奈良市内から開通してハイキングコースができたというニュースをしていた。
 次回福住道を行く時は、どこから行くことにしようか。
 それにしても、清水俊明さんのコース設定を実際に歩いたわけではないのだが、歩いたらかなり時間を要するのではないだろうか。車で行ったら道が細く迷惑なだけで駐車する場所が確保できないし、捜しながらの旅は難しいように思う。
 ビッグスクーター使って石仏めぐりが今の私には合っておるようだ。
柳生街道石仏巡り(滝坂道) 柳生街道2(柳生・円成寺) 阪原来迎阿弥陀磨崖仏 春日原生林洞の仏頭石
奈良坂般若寺と石仏 大和の頭塔石仏 長岳寺奥の院不動石仏 山の辺の道長岳寺の石仏
白毫寺石仏の道 壺阪寺香高山五百羅漢 山の辺の道金屋の石仏 大野寺弥勒大磨崖仏
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