布目ダム周辺石仏巡り

今回巡らせていただいた石仏です。
京都からの道の途中にある石仏(1)柳生あたや地蔵
布目ダムの東岸の石仏(2)牛ヶ峰共同墓地六地蔵→(3)牛ヶ峰大日如来座像線刻磨崖仏→(4)のど地蔵(大字桃香野字野堂)→(5)土塚→(6)布目ダム水没免れ地蔵
布目ダム南岸と西岸の石仏(7)大橋首切り地蔵→(8)大橋阿弥陀磨崖仏→(9)烏ヶ淵阿弥陀地蔵磨崖仏→(10)桐山磨崖仏
そして大橋から南に向かい布目川沿いの石仏(11)的野不動磨崖仏→(12)常照院跡(八幡社)阿弥陀如来立像→(13)布目川西岸地蔵磨崖仏→(14)布目川東岸阿弥陀磨崖仏
以上の方々と対面してきました。
 大和高原石仏巡りの第2弾。今日は布目ダム周辺を巡ってみようと思います。主に山添村の石仏たちです。一番のメインは牛ヶ峰大日如来線刻磨崖仏。そして的野の不動磨崖仏。
 2007・5・27(日)7時半京都市伏見区の自宅をビッグスクーターで出発。24号から京奈和自動車道を南へ。山田川で下りる。木津の町を抜けて24号を北へ。泉大橋を渡り木津川沿いの163号(伊賀街道・笠置街道)を東へ。笠置で右折南へ。柳生へ向かう。

(1)柳生あたや地蔵

 笠置から柳生への入口におられます。この「あたや地蔵」というのは「阿対」とう字だそうです。何でもこの辺りに「阿対寺」というお寺があったそうでそこからの命名です。
 右の阿弥陀如来は148cmで鎌倉後期の作風。伊賀上野の中ノ瀬磨崖仏と似ています。ぽっちゃりした阿弥陀さんで頭や着衣に着色した跡があります。流行病に御利益があるそうです。
 左の地蔵菩薩は69cm。室町時代の作だそうです。このお地蔵さんは子どものない方がお豆腐を備えると子どもを授けてくださるそうです。念願成就の暁には千個の数珠を作りお礼参りをするそうです。「源祐」の銘があります。

布目ダム東岸石仏巡り

(2)牛ヶ峰共同墓地六地蔵

 柳生から月ヶ瀬方面へ。途中で布目ダムへ入る道25号へ。この道は笠置街道で、最終的には室生へ通じます。きっと古くからの道なのでしょう。
 布目ダムの東側を行くと岩屋枡形石600mの案内のある場所に出ます。
 この前に牛ヶ峰共同墓地があります。この墓地は布目ダムに沈んだ集落牛ヶ峰6軒のために作られたものだという説明が印されていました。昭和50年代の話です。墓地に戦没者の墓が6基ありました。ということは、この集落のどの家からも戦死者があったということになるのでしょうか。
 この布目ダムは説明によると大阪の衛星都市化した奈良市の人口増加に伴い、水道水確保のために作られたとか。6軒の家庭は、この大義名分のために先祖が営々と歴史を刻んできたこの土地を離れる決意をされたとか。
 この墓地に六地蔵磨崖仏と地蔵磨崖仏がありました。

(3)牛ヶ峰大日如来座像線刻磨崖仏

 牛ヶ峰共同墓地の前から山を登ります。600m。1m幅ほどのコンクリート階段がほとんどです。そして下りになったところにトタン屋根のお堂があり、そして今日一番見たかった金剛界大日如来線刻磨崖仏があります。像高2m12cm、室町初期の作。高さ6m幅13m奥行き6mも巨石に彫られています。その下に洞窟(岩屋)があり護摩壇があります。ここは昔岩屋寺と言う名であったようです。弘法大師像、地蔵石仏、不動明王像などがあり、屋根瓦などもありました。
 ここから少し登ると有名な枡形岩があります。切り立った巨岩に枡形の石室が設けられ、ここに大日如来を彫ったノミと真言高僧の名を連ねた月輪が納めてあったそうです。それに応永十五年(1408)の墨書銘があったことから、この大日如来座像もそのころの作であろうと言われています。

(4)のど地蔵(大字桃香野字野堂弥勒菩薩立像)

 牛ヶ峰から南へ。のど地蔵さんをお捜ししつつ。こののど地蔵さんなかなかお会いできませんでした。腰越というところであっちへいったりこっちへいったり。3人の方にお話を聞いて、最後には軽トラックに先導していただいてやっと対面することができました。
 結論を言いますと、腰越橋を左に曲がります。右へ行くと腰越の集落です。山の中へ入ること300m余りかな。茶畑の中におられるのですが、何の案内もありません。私はこの道を行き過ぎて家のある場所で親切な方が軽トラックで先導してくださって辿り着きました。感動ものでありました。
 この石仏には月ヶ瀬村の案内説明板が横にありました。それによりますと、月ヶ瀬村指定文化財です。書かれていた通り写しておきます。「ここは大字桃香野字野堂で、昔から「のど地蔵」と呼ばれる。側面に「當来導師弥勒仏建長七年(1255)」の刻銘がある。優れた衣紋表現に快慶の作風が見られ、有名な伊行末系統の石工作と思われる。」(月ヶ瀬村教育委員会・月ヶ瀬村文化財保護委員会)
 私はのどの所へ手を持っていっておられるから「のど地蔵」なのかなとか「のど」に御利益がある方なのかなと思ったのですが、「野堂」という地名から「のどう地蔵」→「のど地蔵」になったのではないかと、これを書いていてやっと気づきました。というのも「字」を「宇」と間違って読み「宇野堂」だと思っていたものですから。

(5)土塚→(6)布目ダム水没免れ地蔵 

 私は、布目ダムがどういうダムなのか全く知らずにこの地を訪れたのですが、この東岸の石仏巡りをしている内に、ダムに沈んだ集落とそこに住んでおられた人々とその歴史を感じざるを得ませんでした。
 左の「土塚」の説明です。山添村指定史跡「天神社遷幸の地」…「大字北野小字ウチカタビロの水田の中に2m×2.5m高さ70cmの土塚があり、何体かの石仏が祀られ、北野天神社の祭礼旧五社巡りのときここで神拝されていた。布目ダム建設により水没することとなったため、この地に移転して、保存するものである。なお移転する前の場所は、発掘調査の結果縄文時代早期の集落であることが確認された。」(山添村)
 ちょっとびっくりです。この山の中に縄文時代早期の集落があったこと、そしてその集落跡を「土塚」という形で守ってきていた人々。「神」と「仏」の存在をかりて、先住の人々の遺跡を守ってきた人々の知恵。そして水没してしまったウチカタビロという名の集落。ウチカタビロってどんな字なのでしょう。何となくアイヌ語みたいで北海道の地名みたいです。縄文時代と結びつけたくなります。
 右の写真は何の説明もない磨崖仏です。おそらく水没する磨崖仏を岩ごと切りとって置かれたのでしょう。地蔵なのか阿弥陀なのかよく分かりませんでした。少し説明を書く方が親切なのになあと思いながら写真を撮りました。同じような地蔵磨崖仏がもう一体牛ヶ峰共同墓地にもありました。

布目ダム南岸と西岸の石仏

 布目川が流れ込んでいる場所が布目ダムの南岸で「大橋」というバス停のあるところです。この大橋に何体かの石仏があります。

(7)大橋首切り地蔵

 このお地蔵さん「首切り地蔵」という物騒なお名前です。正確には「首折れ地蔵」です。では山添村の説明です。
 山添村指定文化財「首切り地蔵」峰寺区…「江戸時代の作で像高58cm。往来の安全を祈願して造られたもので、首部の折損で「首切り地蔵」の名前で親しまれている。元は峰寺大橋の岩山の側に祀られていたが、布目ダムの建設に伴い、現在の場所に移された。」(山添村)
 隣の宝筐印塔も気になりますがこの説明はありませんでした。

(8)大橋阿弥陀磨崖仏

 布目川にかかる大橋を西へ渡ったところにある阿弥陀磨崖仏です。案内説明板が設置してありました。
 山添村指定文化財 阿弥陀磨崖仏 文和4年(1355) 桐山区
「鎌倉(南北朝)時代の作で、像高66cmの磨崖仏である。文和四年□月□日の銘がある。古道(檜峠越え奈良道)の通行安全を祈った往事の庶民信仰によって設けられたと考えられ、この場所が中世の要所であったことがしのばれる。(山添村)
 残念ながら、お顔がはっきり分からない状態になっています。

(9)烏ヶ淵阿弥陀地蔵磨崖仏

 大橋阿弥陀磨崖仏から西岸を北へ4〜500m。桐山の公民館がある場所の右手に烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏があります。その説明板から。
 山添村指定文化財 烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏 桐山区
 「阿弥陀像と地蔵像を淵の中の巨岩に彫った磨崖仏で、他に類例がなく、寛政の年号と法名を切りつけている。二尊とも像高は87cmである。烏ヶ淵の堰を築造した先人の供養と度重なる水害を逃れるため切りつけたと思われる。なお、布目ダムの建設による水没を免れるため、巨岩を切断して移築し、ここに復元した。移転前の状態を維持するよう、池を設けて安置している。」(山添村)
 

(10)桐山磨崖仏

 桐山の公民館、神社やお寺のある交差点を左へ曲がります。テニスコートを左手に見ながら山道を登っていきます。500mあまり。ビニルハウスの手前左手に磨崖仏が見えます。しかしながら最初発見できず、この前を二往復しました。全く何の案内もありませんから気を付けてください。バイクに乗っているから気づかなかったのかも知れませんが。結局ハウスで仕事をしておられる方に「桐山磨崖仏」の場所を聞いてやっと分かりました。
 ここを行き過ぎてしばらくすると、神社なのかお寺なのかよく分からない建物に出会います。ここに平安時代の木造仏が多数あると書いてありました。これにも興味が湧いたのですが、見られそうもないので失礼しました。
 この磨崖仏は永禄九年(1566)のものだそうで、右写真のような地蔵さんと阿弥陀さんの双石仏の他お地蔵さんなど十体ほど彫られています。
 西岸にはこの他に石仏はないようです。桐山の集落を越えたところにトンネルがあります。そこから北へ、ダム事務所まで「自動二輪・原付バイク終日通行禁止」です。暴走族が暴れ回った結果、このような通行禁止になったのでしょうか。私が持っているバイク用のツーリングマップには、この道はオススメコースになっているのです。「ダムを横に見ながら走る快適道」と書いてあります。車はOKのようです。こんな通行禁止のある場所もあるのですね。私は初めての経験です。
 帰りも、行き同様東岸を走ることにしました。 

布目川沿いの石仏

桐山から大橋へ戻り、南下。布目川沿いに的野の集落を目指して走ります。さて、ここに今日のもう一つのお目当ての的野不動磨崖仏がおられます。

(11)的野不動磨崖仏

 的野の集落はすぐでした。旧道と新道がありました。旧道を走り、また新道を合流する所に不動さんはおられました。この不動さんはまことに小さい方で、特に姿形が立派だとか、威厳があるとかではないのです。愛くるしいという感じがする不動さんなのです。しかしなぜこの不動さんを拝見したかったかと申しますと、そのおられる場所のシチュエーションが最高なのです。写真になりやすい場所におられる石仏なのです。
 まず、不動さんが彫ってある岩にシダや苔が生えています。そしてその岩の向こう側の景色に味があります。川があり、田んぼが見えてそして的野の集落が見えるのです。私の腕前でその魅力が十分お伝えできるかどうか疑問ですが、見てもらいましょう。
 なお、この不動さんは南北朝時代のものであろうとのことである。

(12)常照院跡(八幡神社)阿弥陀如来立像

 この不動さんのおられる場所の直ぐ近くが「的野」のバス停のある場所で、道路を挟んで東に八幡社があります。そしてそこはまた常照院跡であり、公民館のある場所でもあります。ここに阿弥陀立像笠石仏があります。
山添村指定文化財 阿弥陀如来立像 建長五年(1253) 八幡神社
「鎌倉時代の作で『建長五年癸丑十月一日造立」の銘があり、有銘石仏では県下でももっとも古いものの一つである。材質が風化しやすい花崗岩のため、表面はやや風化しているが、作風もすぐれ像自体は充実した立像感にあふれている。」(山添村)

(13)布目川西岸地蔵磨崖仏

 この地蔵磨崖仏も何回か写真を見たのですが、古い山道で路傍の石仏、しかも目鼻立ちのはっきりした美しい地蔵石仏だなという印象でした。
 実際に出会った感想は、、えつ?こんな場所にあるの?と思いました。私は峠の土道におられると思っていたのです。そして二つ目の感想はほこりっぽい感じがしました。水をかけて洗ってあげたいという思いました。
 右左正面からゆっくり拝見させていただきました。下の説明板の山添村の評価はどうも他の石仏に比べると、低いようです。平面的?どう平面的なのでしょうか?これだけしっかり残っている立体的な表情のお地蔵さんは少ないと私は思いますが。
山添村指定文化財 地蔵菩薩立像 正安三年(1301) 的野区
「的野川北岸の岩石に切り付けられた像高90cmの磨崖仏で「正安三年三月十日信賢信順」の銘あり。造像銘から鎌倉時代の石仏に相違ないがやや平面的な感がある。だれかの顔に似ていると思われる表情には、写実的な鎌倉時代の特色が見られ、当地における石仏を考究する貴重な資料である。(山添村)
(14)布目川東岸阿弥陀磨崖仏
 地蔵磨崖仏の南すぐ。灯籠がある場所から川の対岸を見ると、おられましたおられました。阿弥陀如来磨崖仏です。何と足の長いというか八頭身というかスタイルのよい阿弥陀さんです。ただ、距離がありすぎてどういうお顔なのかはっきり分かりません。何となくほほえんでおられるようには思いますけど。これも鎌倉時代らしいのですが詳しいことを私は知りません。この石仏の説明板はありませんでした。
 ここで、今日の予定は終了です。実はここで午後1時前でした。まだ時間的には余裕があるので神野山周辺の「ほうらく地蔵」さんへ向かいました。ところがこれが見つかりません。今回はご縁がないようです。あきらめて来た道を帰ることにしました。家に着いたら三時過ぎでした。
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